第一章、権威と不服従
自律と統制
社会は個人の安全や自由などの保障と引き換えに、人々に統制を求めます。
しかし、権威に頼る統制では、様々な問題が起こってきます。
強制的な統制の前に、そもそもなぜ人々は非行や犯罪等の逸脱行動、社会的に無責任な行動に走るかを考える必要があります。
無責任な行為の「動機」を生じさせる社会的要因を探らねばなりません。
動機には、自己による自律と他者による統制の二区分があります。
自律とは、自己の自由で自発的な行動であり、興味と没頭を伴い、本当の自分を感じられるものです。
統制とは、強制的な隷属、自己から疎外された状態であり、偽りの自己感や無意味感を伴います。
例えば、PTAの仕事は重要だという信念から勤める人は自律的であり、周囲の圧力によって嫌々勤める人は他者に行動を統制された他律的な人です。
統制的自己(服従、反抗)
統制的(他律的)な行動には、本質的には同じでありながらも外見的には相反する二つの型「服従」と「反抗」があります。
「服従」は、他者の期待や意図が実現されるように行動する直接的に統制的なもの。
「反抗」は、反対に、他者の期待や意図が実現されないように行動する間接的に統制的なもの。
服従と反抗は同じも(統制)の別様態(正と負)の現われであり、常に正負が反転する可能性を秘めています。
おとなしく服従的な子供が、急に手の付けられない反抗的な子に転ずるように、不安定なものです。
自律的自己
自律的な自己とは、心の諸機能が自己の中心に統合され、各行動の調整プロセスがその中心に従ってなされている時です(いわゆる主体性)。
これをとらえるには、自分が意志的な行動を起こす際の心理的な核であるこの偽りなき内的な自己(意志主体)と、外的に現れる現象としての自分の違いを明瞭に分ける必要があります。
外的現れとしてはその人から発せられた意志的な行動に見えても、実はその人本来の内的自己ではなく、他者の統制をとりこんだ他律的、統制的な偽りの自己により発せられたものであることがよくあります。
例えば、外的現れとしては自立しているように見えながら、内的には他者に囚われた人がよくいます。
「自立」に見えていたものが、実は統制(他者)への囚われと、その反動的な表現である「反抗」であったりします。
それは自立ではなく、反抗期のような単なる孤立です。
それとは逆に、外的現れとしては他者に従属しながら、内的には自律的な人もいます。
行動の動因を外見だけから判断するのは不可能であり、その内にある動機付けのあり方を見なければ把握できません。
社会という自律統制関係
社会は上下の関係(管理による人間の秩序化)によって成立します。
上の者は下の者に動機付けを与える役割を持ち、社会の価値や慣習の伝達を請け負います(親と子、教師と生徒、上司と部下など)。
人は多様な社会役割のもとに、様々な権威との社会的関係の中に生きています。
どんな親密で対等な関係(恋人や親友など)にもこれは生じ、自律性の問題は、すべての人間関係に埋め込まれています。
外発的動機づけと内発的動機づけ
多くの場合、動機づけは本人の外から与えられるものと考えられていますが、実質的な効果は正反対の結果となっています。
外発的動機づけの手段や圧力(ストレス)や、外的権威の統制を内在化した服従には、強い反抗衝動や様々な否定的行動が伴い、非常に非効率的です。
反対に、個人の内からの内発的動機づけによる場合、創造性、持続性、責任感、精神的健康において優れ、生産的に機能します。
上の者(管理者)が下の者を、社会的に善い方向へ動機づけねばならない場合、単なる上から下への統制では効果的でありません。
どうすれば他者(下の者)が自分自身を内から動機づけ行動する条件を生み出せるかが問題なのです。
本書のねらい
社会における動機づけにおいて、権威者の指示や教育や行為は決定的に重要です。
この際の、動機づけと発達の影響関係を考察していきます。
自律と統制の葛藤が生じさせる自己を見失った疎外状況が、社会的反抗や逸脱行動を生じさせます。
本書の狙いは、動機づけ研究によって、この疎外をもたらす社会においても、人々に責任ある行動を促し、自分を制御し、建設的な視点から対人関係を組み立てることを目指し、有効な社会方針を立てることです。
第二章、報酬と疎外
報酬による外からの動機づけ
曲芸のイルカのように、動物は報酬と罰の外的な動機づけによって行動を統制できます。
しかし、餌をくれる飼育係がいなくなれば動物は芸をしなくなります。
報酬は行動の出現率を高めますが、あくまでも報酬が得られる可能性の範囲内においてです。
権威者は自分がいなくても、下位の者に行動を持続して欲しいのであり、問題は自分の意志によって行動を維持させる方法です。
内発的動機づけ
動物には報酬を求めない自発的な行動というものがあります。
その活動自体が報酬であるようなもの、例えば「遊戯」です。
サルの檻に、機械仕掛けの箱を入れておくと熱心にそれで遊ぶのと同様に、人間にも自発的で自分の意志に則った行動があります。
これを心理学者のハーロウは「内発的動機づけ」と呼びます。
「内発的動機づけ」とは、活動それ自体が目的であるような行為、活動そのものに内在する報酬のために行うものです。
例えば、絵を描くことの目的は絵の完成ではなく、人間の本質的な状態(馬が駆け、魚が跳ねるような面目躍如とした)に到達することです。
活動そのものに没頭した心理状態であり、何か別の目的(賞賛やお金や賞など)に到達することとは無関係です。
多くの場合、幼児は、目的のための手段としてではなく、この内発的な動機、純粋な好奇心から行動し、学びます。
報酬によって失われる内発的動機づけ
しかし、この内発的動機づけというものには脆さがあり、学校教育で主に使用される報酬、評価、規則、管理という外発的動機づけのシステムが、それを壊してしまいます。
むしろ既存の権威は、動機づけを与えようとしながら、反対に子供から学習意欲を奪っているのです。
過去には、外的報酬を与えられれば、それだけ人間の内的動機も上がると考えられていましたが、実際は落ちていきます。
実験
もともと報酬なしで自発的に取り組んでいる活動に対して、外的な報酬が与えた時、その内発的動機による行動はどう変化するのかを、実験により観察します。
1.面白く飽きのこないパズルを用意します。
2.被験者を二つのグループに分け、一方にはパズルを解くと外的な報酬(お金)を与え、もう一方には何も報酬を与えません。
3.パズルを解く時間の終わると、報酬グループに約束の報酬を与え、隠れて被験者の行動を観察します。
その結果、報酬を与えられたグループは、時間が終了し報酬を与えてくれる人間が退出した時点で、そのパスルをしなくなる率が非常に高いということが分かりました。
反対に、報酬を与えられないグループは、終わりの時間が過ぎても、熱心にパズルを楽しみます。
報酬グループも最初はパスルを純粋に楽しむのですが、報酬を与えられたとたん、さも報酬が目的であったかのようにパズルの楽しさを忘れ、パズルは報酬のための単なる手段であると感じ始めるのです。
常識と違い、報酬が内発的動機づけを低下させるというこの結果は、他の実験によっても確証されました。
報酬の弊害
確かに報酬(特にお金)というものは強力な動機づけを与えます。
しかし、それと同時に元来持っていた内発的動機づけというものを低下させ、人間行動に様々な悪影響を及ぼします。
報酬は自由で主体的な行為を、統制的な隷属行為に変えてしまい、遊びを仕事に変え、いわばチェスの指し手がチェスのコマ自体になってしまうのです。
報酬に依存しはじめると、すべての活動は目的ではなく手段という性質を帯びるようになり、いわゆる疎外という心理状態を生み出します。
報酬によって、人は多くの活動(カネにならないもの)に対する興味を失い、報酬を得るその活動そのものに対しても、当初持っていた熱意や興奮を失っていきます。
人は報酬というものに支配される時、自分の内部との接触を絶ってしまいます。
金によって動機づけられるという事は、金が独裁者のように人間を統制するということです。
人は本当の自己から疎外され、内発的動機づけと縁を切り、人間の本質の実現(面目躍如とした活動と活力)を放棄し、報酬のために自分で自分をムチ打つことでしか行動できない存在へと堕ちてゆきます。
第三章、自律を求めて
心を害する統制から健康的な統制へ
人間の身体に生理的欲求があるように、心にも生得的な心理的欲求というものがあります。
それが自律性の感覚であり、自己が行為のコントロール源であるという体験への欲求です。
生理的欲求が満たされないと身体的健康を害するように、心理的欲求の阻害も精神的不健康を生じさせます。
では、この欲求を阻害する統制の形態には、報酬の他にどのようなものがあるのでしょうか。
よく利用されるのが「脅し」です。
これは直接的な罰ではなく、罰を避けたいという気持ちを利用して人を動機づけるものです。
例えば、勉強しなきゃテレビを見せない、ノルマを達成しなければ解雇、などです。
脅しの他には、期限の設定、監視、評価、競争、などです。
これらのものは日常のいたるところにあり、あたかも私の生活そのものがチェスのコマのような境遇です。
だからといって、社会秩序を放棄し、何の統制もない原始的な自由の生活に戻ることもできませんし、必要でもありません。
あくまでも、人の精神を壊すことのない組織のあり方や人の動かし方を模索することです。
内発性を高める選択の機会
その前にまず、内発的動機づけを高める要因はなんであるかを検討しておきます。
実験の結果分かったことは、統制の圧力は内発的動機づけの感覚を低下させるのに対し、自由な行為選択の機会を与えられれば、内発的動機づけの感覚は高まるということです。
例えば、パズルを解くに際し、そのルールや条件を自分達で自由に決定させたグループの方が、動機づけが高まります。
課題を遂行するにあたって、ある程度の自由裁量が許されれば、その活動により熱心に取り組み、楽しみます。
選択の機会を提供することは、人間の自律性を支える主要な条件です。
他者を管理、教育する立場にある人はこのことを踏まえ、検討する必要があります。
意味のある選択が自発性を生み、自ら考え選択決定することによって、自分の行為を根拠づけ自己に統合し、納得して活動することができます。
それは、先ほど挙げた自由意志の感覚の欲求が満たされるということです。
私という人間は道具や手段ではなく、一人の人間として扱われていると感じるのです。
自分に権限を感じ(いわゆる自信)、責任感が芽生えます。
逆に、何の納得もなくやらされる行為、理由や意味が他者の中にある行為は、自己を不在にし、疎外された行為の徒労の中で、人は疲弊し無責任になっていきます。
勿論、選択の機会が与えられても、本人が判断のための十分な情報を持っていなければ、自律性の感覚どころかそれに負担を感じるだけです。
不安の中で安易な決定をし、多くの誤りをおかすことになります。
十分な説明もなしに他者に選択の機会を与えても、意味がないのです。
統制と内発的動機づけの友好な関係
報酬の効果というものは、それを与えられる人がその報酬の意味をどのように解釈するかという心理的意味づけによって大きく変わります。
おおむね人は報酬を統制や心理的圧迫と解釈します。
しかし、ある特定の適切な条件下であれば、報酬を自分の貢献に対しての客観的な評価や純粋な感謝の証として解釈し、内発的動機づけを低下させません。
報酬を与える人の意図や態度が重要なのです。
自分の思惑を他者に押し付け、他者を統制しようという意図と態度で報酬を用いる者の行為は、必然的に受け手に統制という解釈を与え、内発的動機づけを低下させます。
報酬を与える側の本心というものは、報酬を与える際の態度や言葉を通して現れ、受け手に伝わります。
実験の結果、統制色の強い方法で報酬を与えられると、被験者は心理的な圧迫を感じると同時に、課題への興味を失い、内発的動機づけを低下させました。
それに対し、統制色のない態度で報酬を与えられた被験者は、興味や動機付けの低下は少ししか見られませんでした。
この実験結果は、マイナスの効果を最小限に抑えるような報酬の与え方もあるということを示します。
統制の意図が少なければ、それだけ有害な効果も減るということです。
自律性の尊重と統制の統合
報酬、強要、脅し、監視、競争、評価、これら統制の手段は社会を成立させるために必要なものです。
問題は自律性の尊重と行動の制限をどのように関係付ければ折り合いがつくかということです。
他者の自律性を支えるという事は、他者の視点、他者の立場で考えた上で、その人の好奇心や自発性や責任感を、積極的に励ましていくことです。
例えば「○○するな」と言うのではなく、「○○する気持ちはよく分かる、でもそれをしたら××になってしまうから駄目なんだ」というように、子供の自律性(立場)を尊重しつつ、きちんと制限の意味を語ることで納得され、それが自己に統合されます。
実験の結果、この方法による効果は絶大なものでした。
統制の与え方次第
制限を与える立場にいる人間は、その対人関係のあり方ひとつで、人の経験を生かしも殺しもします。
制限は社会的責任を育む上で必要なものです。
相手を統制のコマとして扱うではなく、制限される側の立場に立ち、その主体性を確認することによって関係を築く事で、自律性を損なわず責任を持たせることができます。
第四章、動機づけがもたらすもの
「外発的動機づけ」がもたらすもの
報酬という外的なものが目的となるため、当の行為そのものが非常に皮相的な活動になります。
成果のためなら手段は選ばず、内実などどうでもよいという発想です。
ただ机に向かって勉強するふりをするだけの子供、努力による成績ではなく同僚を陥れたり上司に媚びたりすることによって昇進する社員、消費者心理につけ込んだ広告とマーケティングで粗悪な商品を売る企業、等々。
「内発的動機づけ」がもたらすもの
目的がその行為自体に内在し、充実したものとなります。
目的が内在するということは、私と目的との間隙をなくし、必然的に無時間的な没頭というものを生み出します。
ワクワクするような気持ちで満たされ、集中が持続し、心理学で言ういわゆる「フロー」状態として体験されます。
実験
これらの動機づけの違いが具体的にどのような差として表れるのか、教育の現場において実験を行いました。
まず、二つに分けた被験者のグループにある学習をさせます。
一方には後でテストをすると告げ、もう一方には後で学習した内容を別の人に教えて貰うと告げます。
前者は統制されていると感じる他律的な文脈で、後者は後に自分が活用するという自律的な文脈での学びです。
結果、テストを告げられた方よりも、テストを告げられなかった方(彼らは学習後にテストをされることを知らない)が学習内容をよく理解していました。
テストを告げられた方は機械的な暗記においては上回っていましたが、その記憶内容は数日で忘却し、一週間後の再テストにおいては下回りました。
結論として、テストの点数などの評価を目的として学んだ場合、一時的な量では上回っても、十分な情報処理がなされず、本質的な理解に欠いているということです。
本質につながれていない表面的な知識は当然容易に流れ去り、最終的には劣った成績を残すことになります。
外発的動機づけの問題点
多くの実験の結果、内発的動機の方が優れた成果を生み、行為者自身の思考力、創造性、活動力、興味、集中力等が発揮され、社会にも個人にも有益なものがもたらされるのは間違いありません。
報酬や統制によって成果の上がる文脈というのは、非常に限られた範囲内の特殊な事例であり、それを一般化することには問題があります。
また、外発的な動機づけを利用する場合、二つの点に留意する必要がある。
まず、報酬を使い出したら、もう後戻りはできないということです。
第一に、パズルの実験にあったように、報酬を与えた瞬間から、行為の質が根本的に変わり、その後報酬をなくしたり減らしたりすれば、期待した行動もパフォーマンスも消え去ってしまうということです。
第二に、人はいったん外的目的に関心を向けると、それを獲得するための手っ取り早い方法を選び出すということです。
それは最も短い時間と手間で取り繕った上辺だけの成果や行動を生みます。
例えば、子供に本を読ませようとスタンプカードを作って、図書館で借りた本の冊数に合わせてご褒美をあげれば、子供は本を読まずにただ貸し出しと返却を繰り返すだけです。
第五章、有能感をもって世界と関わる
行動と結果のリンクが動機づけを生む
動機づけられるためには、自身の行動と結果の間のつながり(リンク)の仕組みを知る必要があります。
国家的な経済システムやら会社のような組織レベルや親子のような二者間レベルまで、社会的なすべてのリンクにおいてです。
内発的満足であれ、外発的報酬であれ、人はある特定の結果が自らの行為によって生ずると感じられる仕組みをもたなければ、動機づけられることはありません。
社会的な動機づけのシステム
私有財産制に基づく市場経済のシステムには、この動機づけの仕組みが強力に作用するよう組み込まれています。
この労働と外的報酬のリンクは、良かれ悪かれ人間の心に植えつけられ、人々の動機づけられた行動によって生産性を拡大します。
中央集権的な計画経済が失敗に終わったのは、この人間の心理的な側面(動機づけ)を考慮せず、ただ機械的に労働の疎外を克服するシステムを構築しようとしたからです。
この動機づけの仕組みというものは容易に統制の手段となり、むしろそちらへ流れてしまう危険性の方が大きいと言えます。
本書の目的は、統制的ではないあり方で、その仕組みが稼動するシステムを考察することです。
社会を動かす人達がこれを理解し、自律性を支援するような形で政策決定や企業活動を行うことによって、人々をより健康的で生産的な方向へ向けることができます。
動機づけシステムに乗れる人と乗れない人
社会の本流にある人とは、この社会的な動機づけのシステム(主に外発的な行動随伴性-スキナーの項を参照-)に上手く組み込まれた人達です。
お金の稼ぎ方、ステータスの獲得方法、達成感を得る方法などの技術や機会をとらえる術を身に付けた人です。
しかし、この本流から外れたいわゆる「落ちこぼれ」と言われる人達もかなりおり、彼らはこのシステムの中核にある随伴性を獲得できなかったがために、生産的に動機づけられなかった人です(計画経済における労働者の無気力状態に似ています)。
貧困や差別による教育機会の問題や、社会システムそのものへの反抗などによって、こうした手段へのアクセスを持てなかった人達です。
まず人は、行動と結果のリンクが動機づけを生むことを知り、さらにそれが生活にとって有益であると知り、何よりそれが利用できなければならないのです。
社会的に有効な随伴性のシステムから排除された人々は、安易で不健康なものや反社会的なシステムに乗る可能性が高くなります(麻薬の密売や詐欺等)。
有能感の獲得
仮にこのシステムが適切な形で存在していたとしても、個々人の中に望む結果を自己の活動によって十分達成できるという感覚「有能感」がなければ、生産的な活動はうまく回転しません。
特に内発的動機づけにおける内的な報酬というものは、その行為自体の楽しさと達成の感覚であるため、上手くこなせるという感覚「有能感」が満足に直結します。
前項でも述べたように、人間には本質的な心理的欲求として「自律性」の感覚というものを挙げましたが、それは「有能感」への欲求へとつながっています。
人は達成感や自分の能力を有効に発揮できている感覚を得るためだけにエネルギッシュに活動します。
それは行為と結果のリンクを、自分が上手くコントロールできているという感覚です。
子供たちの行為を内発的に動機づけているものは、周囲の世界との関わりを通したこの「有能感」への欲求です。
有能感のための二条件
有能感が生まれるには、二つの条件が必要です。
一、自分自身の思考によって活動ができること、二、それが最適な難度への挑戦としてあること、です。
出来て当然のことをしても、有能感は感じられません。
努力を必要とする事に対して、自分自身の試行錯誤(思考と行為)によって解決する(結果を生む)時にのみ、有能感は生じます。
これも実験の結果、難しすぎるパズルを与えられ自分の無能さに直面した被験者は動機づけが低下し、適切な難度を設定された被験者は動機づけが高まりました(ワイナーの項を参照)。
大切なのは自分の本質を発揮すること
有能感を感じるためには、別に成績がトップである必要はありません。
自分にとって意味のある挑戦を見つけ、「ベストを尽くす」ことが重要です。
成績がトップ云々というのは、他者の視線(評価)を報酬とした外在的なもので、それは手段と目的が転倒された達成感であり、満足としては二次的なものです。
むしろ相対的な勝ち負けの文脈は統制(強制)の要素が非常に強くなり、行為は駆り立てられるものとなってしまいます。
元来持っていた有能感への欲求は、プレッシャーによって押さえ込まれ、その内発的動機づけは低下していきます。
結果ばかりを気にして、行為が楽しめない上手くできない、というのは、あらゆる行為において生ずる事実です。
自律性を伴う有能感は人間の健康と成長を促進し、これらは非常に豊かな人生経験をもたらします。
もし、自律性を欠いた疎外的な有能感であれば、それは様々なネガティブな効果を生み出し、生産性としてマイナスの結果になることが多くなります。
もし、その両方を欠いて動機づけそのものを失えば、抑うつのような恒常的無気力状態を生じさせることになります。
第六章、発達の内なる力
人の成長とは自己の統合のプロセス
人間は、主体的に世界と関わっていくことにおいて成長します。
内的世界を組織化し、さらにより複雑で大きな統合(調和)へ向かって組織化していこうとする基本的性向があります。
人間的発達とは、生命体がより大きな一貫性を獲得しながら、周囲の世界に対する関係性をより精緻化し洗練する生命の統合プロセスなのです。
自分の存在価値や存在理由への問いは、統合された自己という感覚を欲する衝動の表れであり、統合へ向かうプロセスはその内発的動機づけの現実的な現れです。
人は生涯を通じて、自らの経験とパーソナリティーの発達に対し、一貫性を持たせようとするのです。
心理学において、自我の統合や自己実現と呼ばれるものも類似の概念です。
前章までの考察にあるように、この基本的欲求を阻害するのは、動機づけシステムが上手く機能しない社会的文脈、およびシステムの機能は存在してもそれが統制的であるがために自律性を奪う場合などです。
有能感は個人の認知の問題
さらに考えなければならない要因として、前章で挙げた個人的側面の「有能感」というものが、当人の認知の問題であるということです。
自分が有能であり自律的であるということは、自分自身で認識し心底感じなければ、機能しないのです。
それは客観的なデータではなく、心理的な実感です。
美を求めるあまり拒食症に陥り、骨と皮だけになってもまだ痩せようとする人にとって、体重計の数字という客観的な成果など、自分の有能感を何ら保証しません。
本当の心
「心で感じることなど嘘である」という心理学の立場からすれば、心底感じるなどという事が何を指しているのか分からないかもしれません。
しかし、それは自分自身の行動に感じるある種の「違和感」のようなものから感得することができます。
例えば、本当は義務感や恐怖心からとっている行動に対し、自分を偽り、それが「楽しいからやっている」などと言う(思う)時、自分の中にある種のひっかかりや妙な感じ、内的な緊張の高まりなどの違和感をうすうす感じ取っているはずです。
外見においても、態度がぎこちなさや不自然さとして現れてくるため、鋭い観察者ならそれを外から指摘することも可能です。
逆にいえば、客観的なデータがどうであれ、人が生き生きとして面目躍如とした自分を素直に感じる時、自律的で統合されたプロセスが機能していると、直感的に理解しています。
第七章、社会の一員になるとき
社会化とは何か
社会化とは、社会の成員になるために必要なスキルを身につけることです。
社会化の担い手(親、教師、管理職など)は、下位の者たちが自分の意志によって社会の活動に従事し、将来、援助の手を差し伸べなくとも自立的に活動できるようにすることです。
それらは大抵、動機づけのむずかしい退屈な責務であるのですが、それなしには社会役割を果たしえない重要なものです。
多くの場合、それは「内在化」のプロセス(外的規範を模倣的に取り込むこと)によって記述されます。
受動的で混沌とした状態にある人間に、外的統制によって行動規範をプログラミング(内在化)していく過程です。
社会化の主体は個人である
しかし、これは逆の方向から理解する方が自然です。
「少年に対して内在化が行われた」のではなく、「少年自身によって内在化が行われた」ということです。
外にいる者は子供の内在化を促進したり阻止したりはできますが、あくまで内在化するのは当の本人です。
ある社会の規範や価値を自己の内に統合することで、子供は他者とのつながりを持ち、社会関係性への欲求を満たし、周囲の環境の中に自分の居場所や社会役割を作ろうとします。
この価値や規則の内在化を通した順応過程によって、子供は社会と有能に関係していく方法を身に付けていきます。
社会的価値の内在化の二形態
この内在化においては、二つの形態があります。
「取り入れ(Introjection)」は、何の理解もないまま丸ごと呑み込むことであり、その活動を自律的に実行することが不可能となります。
融通の利かないルールがためのルールであり、統制的なものとなります。
「統合(integration)」は、よく理解した上で最適な形で自己に統合することです。
その活動の原理を理解しているため、自律的にそれをコントロールすることができます。
このような統合によって、重要ではあるが面白くない(内発的に動機づけられていない)活動に対する責任を、自ら受け容れるようになります。
取入れの有害性
有能感や関係性への欲求が内在化を動機づけますが、これに自律への欲求が伴わなければ、ただの「取り込み」で終わってしまいます。
取り込まれた規範や価値は、理由も分からぬ他者のルールであり、「~しなければならない、~すべきだ」という命令(他律)として機能します。
かたくなで義務的で服従的な規則は、硬直性や無気力や反抗を引き起こし、社会化する方される方、共に悪い結果をもたらします。
特に取り込みに長けた子供は一見非常に適応的で優秀に見えるため、管理者から放置されやすく、大きなストレスや心理的な歪みを抱えていることが見過ごされてしまいます。
かたくなにルールを取り込むのは、効果的な内在化のプロセスに失敗した自分の役割の喪失からくる、補償的なしがみつきです。
また、それとは逆に振れて、価値や規範を全く身につけようとしない場合もあります。
本当の管理の方法、支援
子供は、心の中に統一感を保ち続けながら社会と関わっていく方法を、見つけ出していかねばなりません。
確かな自己を持ち、同時に社会的責任を引き受けられる人間になるかどうかは、彼らを社会化する環境に大きく影響されます。
調査によって分かったことは、自律性を支援し、顧慮する家庭の子供は、適切な内在化をおこなっており、統合の程度も高くありました。
自律性の支援とは、下位の者を自分の満足のために操作するもの(手段)として見るのではなく、支援する価値のある主体的な人間としてとらえ、関わっていくことです。
それは彼らの立場に立ち、彼らの視点から世界を見ることから生まれるものです。
自律は社会との関わりなしに成立しない
自律とは社会の責任を引き受けることによって成立するものであり、社会貢献によって共同体の中で自分の位置を確立することです。
この社会的なつながりへの欲求が、文化や社会的価値を内在化します。
それを基盤として、私独自の創意によって貢献的に社会と関わっていくことが、社会化ということです。
自己中心的で自愛的な人は、自律とは全く逆の人達であり、彼らは無責任で、他人を思いやることがありません。
むしろ自律性と統合の欲求を満足させること(自己の確立)に失敗したからこそ、責任主体としての自己を持てず、無責任に振舞うのです。
それと同様、自由放任は自律性の支援とは真逆のものです。
構造も規範も提供しない無責任な放任において、内在化や自律心が生ずることはありえません。
放任とは統制の別様態
放任とはむしろ統制に似ています。
両者とも管理者は管理される者に対しての理解をもたず、無関心かつ無責任であるのです。
先ほども述べたように、自律性の支援とは、相手の立場に立つことから始まります。
外側から、ある行為の意味を理解するのは不可能です。
相手の立場になって、そのコンテクストにおける行為の意味を考えた時にのみ、理解されます。
子供の反抗が愛情の希求である事もあれば、子供の従順が復讐であることもあります。
多くの管理者が、自分の無責任な放任を自律性の支援と考えてしまっているのが現状です。
また、管理者が仕事のストレス等で、支援のための十分な時間や活力がない時などは、放任的であるか、あるいは誤った病的な責任感を持つことになります。
管理者を取り巻く圧力によって、子供に対して過度に要求的で批判的になります。
子供に対しての要求の理想は上がり、望むような反応を示さない時は怒り狂い怒鳴り殴りつけます。
管理者本人は、この自分の攻撃性を、自律性の支援のための制限だと考え、自分を偽っています。
これら行きつく先は、ネグレクトと虐待です。
管理者自身がそれを自覚し、まずは自分自身が自律的であらねば、他人の自律性を支援することなどできないのです。
第八章、社会の中の自己
失われる本来の自己
統合されない規範「取り込み」が過度になると、人は「~すべき、~あるべき」に縛られて、本当の自己というものが見えなくなってしまいます。
周囲が非自律的(統制的)な人たちであればあるほど、自分を主張しない偽りの自己であることを評価し、受け容れてくれるため、私は常に不安を感じながら他社の思惑を推測し振舞わねばなりません。
事実上、この状態において本来の自己との接触は皆無です。
ここにおいて内発的自己は発達せず、その事実を直視することさえできなくなります。
他者による統制の圧力
統制的な人達は、人間には将来的に他者と関わっていこうとする欲求があることにつけ込み、他者を操作し利己利益の道具にしようとします。
自分の意に沿った時は愛情を注ぎ、意に沿わない時は冷遇する親は、親の愛情を得ようとする子の行動随伴性を巧みに利用するうち、子供は規範をなんら統合しないまま取り込み、延々と親の顔色に合わせて仮面を付け替える自己なき存在となります。
不安と葛藤と抑圧の中で、自律性、好奇心、決断力、活力というものを徐々に失っていき、伸びきったバネのように無表情で無気力な人間になります。
自己自身による統制の圧力
行動随伴的な愛情や敬意を統制の手段として用いていると、やがてその方法まで取り込んでしまい、自分が自分自身を随伴的に評価するようになります。
自分の行為に対して、反省的に賞罰を与える厳格な自分が発生し、外的だけでなく内的にも、自分の価値を感じるには、統制的な規範に従わなければならなくなります。
ここまでくると自分の自律的行動によって有能感を感じることは、極めて難しくなります。
外発的動機づけは外的な事物に価値を見出し、外部や他者に依存するため、当然内的な自律的自己の発達が抑制されます。
自尊感情が、行為の外的な結果に依存する時、人は上辺だけの自己を取り繕い、偽りの自己を形成していきます。
自律的で生産的であるためには、そういうものから距離を置く必要があります。
野球選手の事例
ある優秀な野球選手が、他球団に移籍した時、誰もが彼に期待し、彼もファンに対し大活躍を公言しました。
しかし、成績は惨憺たるもので、スランプに陥ります。
トンネルは長く続き、あるとき彼は諦めます。
「成績にしがみついて、強打者であるという自分の外的価値を保とうとするのはもういい、ただボールをしっかりとらえることだけに懸命になろう」と。
それを機に成績は好転し、自己の能力をまた発揮することができるようになりました。
元々、内発的に野球そのものに興味を持ち有能感を獲得していった人間が、地位や名声を得るにつれて、その目的が外部の評価や報酬に向き、自己の能力の自然な発動を抑圧したと言えます。
それをある種の開き直りによって捨て去り、本来の面目躍如とした自分を取り戻したのです。
非常に逆説的ですが、結果を出したければ、結果を意識しない(過程に集中する)ということが重要なのです。
ダイエットの事例
「太ったままでいる勇気があれば、やせることができます」とは、あるセラピストの言葉です。
痩せようと強制する統制的自己と、それに抵抗しようとする自己との葛藤を解除することです。
自分自身に圧力をかけ強要し、同時に自分自身で反抗し妨害するというパワーゲームの中で消耗しているうちは、何らの実りも実現されません。
減量に成功したければ、まず距離を置き、取り込まれた規範との闘争から抜け出し、無益な自己嫌悪に苛まれている心を解放した時、はじめて痩せることができるのです。
二つの自尊感情
以上の考察から、自尊感情には二つの類型が存在することが分かります。
真の自尊感情と行動随伴的な自尊感情です。
「真の自尊感情」とは、生来的な人間としての自分という基盤の上に築かれた健全で安定したものです。
内発的動機づけを軸とし、外的制限や規範は自己に統合され、行為や感情を上手く調整できる発達した真の自己から成り立っています。
真の自尊感情には、自由と責任の感覚が伴っています。
統合された規範や外的価値を持つため、正誤を判断する感覚と自己の誤りを認め改善する柔軟性を持ちます。
他者を尊重し、その良さを素直に認め、弱さを受け容れることができます。
「随伴的な自尊感情」とは、基盤となるべき自己を持たず、不安定で、状況に合わせることに神経をすり減らし、心の奥で自分を軽蔑します。
この自尊感情は、外部の結果(状況)の如何に左右される脆く儚い束の間のものであり、堅実な自己の感覚というよりは、誇大した自己イメージです。
他者を手段とみなしがちで、評価や非難の対象とします。
随伴的な自尊感情とは、外的な結果のみを拠り所とする随伴的な自己価値観であり、もし目標に到達(例えば、通信簿で5をとる)できなければ、あなたには何の価値もない、ということです。
人気の作家や学者などは、自尊感情を絶賛し読者にその重要性を説く訳ですが、これら二つの自尊感情の違いを理解していないため、むしろ逆効果に終わる可能性があります。
本当の人間関係
愛においても同様、理想として提示されるものは、大抵どちらかあるいは両者の自律性を欠いた依存関係であり、随伴的な対象として相手を見るものです。
しかし、重要なのは相互に自律性の支援があるかであり、真の自己と真の自己が関わりあう関係です。
自己の感覚を維持しながら、自律的な選択によって、自分と同等にかけがえのない自己を持つ他者と関わる時、真に満ち足りた関係となるのです。
もし、どちらかが自律性を欠けば、統制、義務、不自由、不安、不信、批判、等のネガティブな感覚が前面に出た関係となります。
[アリストテレスの項、フロムの項を参照]
人が誠実に関わり合うことを妨害するものから自己を解放し、純粋にふれ合うことができるくらいに心理的に自由になれるかどうかが、課題なのです。
第九章、病める社会の中で
六つの意欲
おおむね社会の中で生きる人間の生きる意欲(目標)には六つの類型があります。
外発的な意欲として三つ、裕福に成ること、有名に成ること、肉体的に魅力的であること、です。
これらはさらに別の目的の手段となることが特徴です。
例えば、財産が権力や名声を、美貌が財産を生み出すように。
内発的な意欲として三つ、対人関係、社会貢献、個人の成長、です。
別の目的の手段ではない、それ自体が報酬である、有能さ、自律、関係性などに対する生得的な満足を得ようとするものです。
意欲のバランス
これら六つの意欲は誰もが持つものであり、かつその目標となる対象は人生においてどれも必要なものです。
問題は、これらの目標の追及が一辺倒でバランスを失った時に起こります。
調査の結果、三つの外発的意欲の内いずれかが突出して高い時、精神的健康が低くなりました。
例えば、裕福さへの意欲が異常に強い人は、ナルチシズム、不安、抑うつ、社会的義務感の喪失が見られ、他の外発的意欲に関しても、心理的機能の低下が生じました。
これとは反対に、強い内発的意欲に関しては、精神的健康にプラスとなることが認められました。
バイタリティに溢れ、自尊感情が高く、状況に対する友好を感じることができます。
心理的健康と意欲の関係
これは単に意欲や目標が、心理的な健康や不健康を生み出すということではなく、心理的なあり方が必然的に意欲や目標を決定する原因ともなるということです。
精神的に最も健康な人は、三つの内発的意欲に焦点を合わせている人ですが、もちろん彼らも同時に外発的意欲も持っています。
しかし、富や名声が精神的に不健康な人の行動を支配することはあっても、健康な人の心のバランスを崩すほど占拠することはありません。
外発的な目標に夢中になる人の背景には、自己の希薄さというものがあります。
確固とした基盤がなく、内発的な欲求が満たされない状況にあるとき、人は必然的に表面的なペルソナ(記号的な人格)を作り上げ固執します。
自分の価値は、肩書き、年収、車、服装、外見、などによってのみ示されます。
先述の随伴的な自尊感情、偽りの自己です。
外発的意欲の正体
たえず随伴的な愛情や敬意にさらされてきた人などは、自分の価値をはかる基準として、外的基準にのみに頼ります。
外的基準に依存するという事は、社会的権力に弱くなるということであり、それがどんなに病的な社会であっても望まれる価値を採用することになります。
権力によって誇大に広告された価値やヴィジョンを鵜呑みにし、本来必要もない家や美貌や勲章のために、死に物狂いで働きます。
外発的意欲の先行要因としては統制的で随伴的な環境、内発的意欲の先行要件は自立性の支援です。
要は子供たち(人間)の基本的な欲求(自律性、有能感、関係性)が満たされなかった時、取り入れや随伴的な自尊感情、外発的志向性が生じ、精神的に不健康になるということです。
そもそも金銭欲や名誉欲のように所有するものに対して欲求という概念を使うことは誤りです。
食欲は「食物欲」ではなく性欲は「女欲(男欲)」ではないように、金銭や名誉や外見に対する欲求(というより願望)の裏には、もっと本質的な心理的欲求というものがあることを知らねばなりません。
金銭や名誉や外見が、一体私のどんな心理的欲求を満たしているのか、その奥にあるものを見極めることです。
いわば、それら外発的な欲求は、偽の自己が生み出す偽の欲求だということです。
本当の意欲のありか
外発的価値が内発的価値を上回る時は、その価値が自己に統合されておらず、外的なものに自己が篭絡されているという状況です。
外的価値が統合されていれば、それらは本来的な欲求を満足させるために有意義に使われます。
例えば、恋人との関係性を深めるために必要なデート代は統合された金銭欲ですが、恋人の承認を得るための貢ぎものや自己を売り込むための高級時計を必死で働いて買うお金は、統合されていない金銭欲としてあります。
病むことを強要する現代社会
内発的価値と外発的価値のバランスをとること(自己への統合)を阻害するものとして、親の教育というものをあげましたが、それ以上に物欲信仰や金銭崇拝を煽り続ける社会の経済的側面が、私たちを圧倒しようとします。
これほどまでに外発的価値に偏重する社会においては、欲求の心理的バランスをとることは困難な課題となっています。
それに加えて現代資本主義社会を基礎付けるものとして個人主義というものがあります。
第一章で、外的な独立性が内的な自律性と混同されるということを述べましたが、それと同じように個人主義というものも自律性と混同され、自律性というものが見えにくくなっています。
語義としては共に、主体の自由意志によって選択した目標を追及することですが、本質的に意味が異なります。
「個人主義」とは、言い換えれば利個(利己)主義であり、社会契約的な法・ルールの範囲内で個人が自由に利益追求する権利をもつということです。
この個人主義の反対は集産主義(集団主義)であり、全体の利益や目的のために個人の利益や目的を目指す活動が従属させられる構造です。
これに対し、「自律性」とは、今まで考察したように、自己選択の感覚や自己原因感、自己コントロール感を伴うもので、自分の意思と行為と結果のリンクが明確に把握、統合されている状態です。
この自律性の反対は統制であり、それは他者の意思を私が行為し、その行為の結果もまた他者の意思の実現であるという、自己の自然な活動プロセスが分断された隷属状態にあります。
個人主義と自律性を明確に区別するポイントは「自己認識」であり、自己の内的プロセスに対し反省的に向き合い、それらを掌握しているかどうかが重要になります。
いわば、内的な考えや経験が自己に統合されたパーソナリティーの統一性を持てているかどうかです。
現在われわれを取り巻く問題
資本主義経済がけしかける利益(外的価値)追求の強迫観念によって動かされる現代人は、個人主義的ではあっても自律的ではありません。
個人主義がもたらす問題を、自律性の問題と混同し誤って叩く社会学者や心理学者がよくいますが、自律的であることに何ら問題はありません。
資本主義社会は、個人主義をまるで人間の生得的な権利であるかのように吹聴するわけですが、皮肉なことに、それはまるで宗教や独裁国家の現代版ように、人間は外発的な価値に統制され、マスメディアが広告する象徴に服従する、隷属状態に陥っています。
自律と違って、個人主義が統制と共存しやすいものであるという今までの考察を理解していれば、この見かけの上でのパラドックスは、むしろ必然ともいえます。
何度も言うように、個人主義や外的価値が良い悪いなどという問題ではなく、あくまでもそれらが自己に統合されているかどうかの問題です。
社会のあり方は移り変わり、規範や理想とされる価値は刻々と変化していきます。
しかし、そんな流れの中にあっても、よく統合された自己という基盤を持っていれば、確固とした自分自身をもち心理的に健康であり続けることができるでしょう。
おわり