シラーの遊戯論と美的社会

美の定義

シラーにとって美の定義とは、「現象における自由」です。
現れにおいて自由な姿をしているものが、私たちに美と観じられるということです。
対象である自然(ネイチャー)が自然(ナチュラル)にその自在性を現わすとき、それは自由な戯れ(遊び)のイメージと重なります。

例えば人は、同じ長さで折れ曲がるジグザグの折れ線より、波状の線に美を感じます。
それは折れ線が突発的で強制されたかのような暴力性のイメージを伴う不自然な形態であり(現象における不自由)、反対に波の線の変化には自然で強制されない優美さがあり、それが拘束されない自由な運動にみえるからです(現象における自由)。

仮に私が美しいティーカップを作りたい時、無造作に取手を付けてしまえば、それは実用性と目的性が目立ち、その形態において、拘束された不自由さが現れてしまいます。
だから、取手のデザイン自体が、その役割(実用性や目的性)を忘れてしまうほど自然で自由な形態でなければならないのです。
遊びの定義とは「目的のない自由で自発的な運動」です。
美しい取手とは、外から強制的に与えられた「目的」に従いながらも、その形態において自然に同化し、あたかも目的のない自由な存在の発露であるかのように見えるものです。

行為における美

例えば、誰かが困っている時、義務感によってそれを助けたなら、それは道徳的ではあっても美しい行為ではありません。
自己の内にある道徳律の命令(目的)が、自分の自然な怠惰にたいし、強制的に従わせるものです。
それはカント的な「自由」、いわば理性(目的・義務・理念)によって感性的欲求を抑えつける行為です。
それは厳格で禁欲的な「仕事」のような、感性的苦痛を伴います。

それに対し、誰かが困っている時、とっさに助け、あたかもそれが自然であるかのように振る舞う者の行為は美しくあります。
ここにおいては、理性的義務(しなければならないこと)と感性的欲求(したいこと)が対立せず、自然に連結しています。
先ほどのティーカップの美しい取手のように、目的が自然に内在化して、全体として調和しているということです。
それは清々しい自発的な「遊び」のような、自由の雰囲気を伴うものです。

以上を整理すると、このような類同的な関係になります。

ジグザグ線=機械的な取手=カント的道徳律=理性と感性の対立=仕事(目的的行為)。
波状線=美しい取手=シラー的美的行為=理性と感性の統合=遊戯(無目的的行為)。

対人関係の美

このように、個人の行為の美と同じ様に、複数の人間の対人関係(交際)における美というものも成立します。
シラーはそのイメージとしてイギリスの舞踏(フォークダンス)を挙げます。
それぞれが自由に踊り遊びながらも、全体としてなめらかに衝突なく調和しています。
自己に従い自由に動きながら、同時に社会に従いながら動いています。
感性的欲求と理性的義務、個人の自由と全体の成員としての責任が統合された状態です。
これは後述する「美的社会」のあり方を象徴するものです。

遊戯衝動

近代西欧思想においては、多くの場合、理性(精神)によって感性(自然)を服従させることを目的としましたが、シラーは理性と感性を結合する遊戯を理想として立てます。
これらを人間の基本的な動因として、「理性衝動(形式衝動)」「感性衝動(素材衝動)」、そしてその調和としての「遊戯衝動」に分けます。

この遊戯衝動を生じさせるものが、美的なものとの出会いです。
上で述べたように、美的なものとは理性的なものと感性的なものの統合であり、必然的にそれは受容者に対して、理性衝動と感性衝動の調和した遊戯衝動を促します。
逆から言えば、遊戯衝動は美の感受を目指す「美への衝動」とも言えます。

「人間は遊んでいる時だけ真の人間なのです」というシラーの有名な言葉に集約されているように、遊戯だけが人間のを完全なものとし、理性と感性という二つの天性を同時に発展させることができます。
そのために必要なのが、美と遊ぶということなのです。
理性と感性が戯れ、対立しあうものが手を取りあって踊る、統合された美的な自由の状態をもたらすものと、共にあることです。

美的社会

物(カップの柄)、個人の行為、対人関係の行為、に続くものは、美的社会の考察です。

「感性衝動」にのみ従う社会は、無秩序な野蛮状態、対立する個人の欲望と力同士が争いあう、万人闘争の世界です。
「理性衝動」にのみ従う社会は、秩序ある機械のような世界、個人が法と合理に支配される、理性による専制体制です。
人々は理想や正義や道徳の名の下に、過酷な義務の桎梏を負うことになります。

「遊戯衝動」が中心となった社会では、感性衝動と理性衝動が同時に充たされるため、身体及び物的強制からも、精神及び理念的強制からも解放されます。
ここにおいて各個人は敵対者ではなく、遊戯の相手として相対します。
個性は義務の道具として透明にされることなく、自由に自分のカラーを、全体としては調和(ヴァルール)しながら主張できます。

人間が個性を失うことなく、他者と強調しあえる唯一の可能性が、ここにあります(先述のフォークダンスの例のように)。
感性と理性が、差異と平等が、自由と秩序が、互いに戯れつつ自己を主張し調和するこの社会が、シラーの言う「美的社会」なのです。