アリストテレスの『友愛論』(1)

人生/一般 哲学/思想

※本項は『ニコマコス倫理学』第八巻、第九巻の「友愛論」を単独で扱ったものです。そのままでも読めますが、一巻から読んでおくと、より理解が深まります。

<第八巻、愛について>

第一章、愛の必要性

「愛」はアレテー(徳、卓越性、器量)の一種で、人生において重要なものです。
[ここで言う「愛」は、友人、恋人、親子、師弟、同胞など、幅広い対象に向けられるもので、男女間のLOVEのような限定的なものを指しているのではありません。また、「友」とは愛する他者、共にある他者のことであり、単なる友達のことではありません。]
たとえ富や名誉や権力や、その他すべての善いものを所有していたとしても、愛する者なしの孤独な生など虚しいだけです。
幸福を分かち合う友もなく、不幸において助け合う友もなく、心通い合う協調もなく、最も美しいもの(愛のこと)に与る機会もない生に、一体どれだけの価値があるというのでしょうか。

第二章、愛の条件

愛するためには「愛されるもの」が必要な訳ですが、愛されるものとは、1.善いもの、2.快いもの、3.有用なもの、のいずれかです。
ただ、有用性は手段(目的のために役に立つもの)であり、目指すところは善と快に集約されます。

通常、魂のない無生物を愛するとは言いません。
無生物は愛し返すことができないからであり、そもそも愛の関係を結ぶことができません。
[例えば、「大地を愛する」という言葉は、擬人化された比喩表現にすぎません。]
愛するものの善を願い、かつ相手も同じ願いを私に向ける時、愛の関係が生じます。
一方通行的に願うだけでは、ただ「好意を抱いている」だけであり、相互(応報)的に好意が成立している時、はじめて「愛」と言われます。
そして、この好意は相互に気付かれている必要があります。
[例えば、よくあるラブコメのように、最終回まで互いの気持ち-相思相愛-が気付かれていない場合、互いがそれに気付いた瞬間に、好意は愛に変わります)。]

まとめると、愛の条件とは、善・快・有用の三つの理由によって、互いが好意を抱き、互いの善を願い、それが互いに気付かれている、状態です。

第三章、愛の三形態

愛する理由が異なるなら(善・快・有用)、それに従い、愛の形も変わってきます。
快あるいは有用であるがゆえに愛し合う人々は、相手そのものを愛しているのではなく、相手が自分にとって快かったり有用であるから愛しているのです。
例えば、ある心優しい男性を愛する時、その男性が優しい人(優しさのアレテーを持つ人)だから愛するのではなく、自分にとってそれが利益になるから(例、言うこと聞いてくれる)愛している場合などです。

この場合、相手の本質を愛しているのではなく、付帯的で二次的なものを愛しているだけです。
本質ではなく、付帯的なものは、当然変化しやすいため、この愛も刹那的なものとなり、相手がその利益を提供しなくなると、愛は簡単に解消されます。
「金の切れ目が縁の切れ目」と言う時、愛されていたのは相手そのものではなく、相手に付帯していたカネが愛されていたということです。

若い人たちの場合は、有用性より快楽という情念的なものを理由に愛し合うことが多いため、起伏や移り変わりが激しく、愛しやすく冷めやすい傾向にあります。
歳を取って現実的になるほど、快楽より有用性を理由に愛し合うことが多くなりますが、有用なものは時と場合に応じて変化するものであるため、情念とは別種の移ろいやすさがあります。

これに対して、有用性でも快楽でもなく、善において愛し合うもの同士の愛は、完全性を備えたものとなります。
相手の本質であるアレテーに基づく、善き人々同士の愛は、付帯的なもの特有の移ろいやすさがなく、なかば永続的なものとなります(先にも述べたように、アレテーはそう簡単に崩れることがない)。
【解説】
イメージしにくいですが、相手の人格(本性、本質)そのものへの尊敬を伴うような愛の形です。
例えば、好きなタイプを訊かれて、可愛いとか、お金持ちとか、面白いとか、趣味が合うとか、言う人に交じって、性格と答える人がたまにいます。
しかし、この性格が好きと言う人も、多くの場合それは私に対し有用性や快を与えてくれる性格のことを言っているだけです。
「性格」からさらに一歩進んで「人格」と答える時、アリストテレスの言う、善のアレテーに基づく愛に近いものとなります。
【解説おわり】

第四章、真の愛と条件付きの愛

だからと言って、善に基づく愛は、快も有益も伴わない白けたものになるわけではありません。
善きアレテーを持つ人は、他人に与えられることなく、そもそもその人自身で快さを感じ生きている訳ですが、さらに同志とあることによって、共にあることで快く互いが互いの善を増進し合い益するのです。
それは、個人の都合(有用性)や情念(快楽)という条件付きのものではなく、人間の本性そのものにおいてある無条件のものです。

善に基づく愛は、互いの本性そのものに信頼を持っているので、安心できる関係にあり、くだらない誤解や齟齬によって壊れることはありません。
それに対し、有用性や快楽に基づく愛は、それが本性から離れた芯のない付帯的なものであるがゆえに、心底安心できることがなく、心底信じることのできない、皮相的な関係となってしまいます。

有用性や快楽に基づく愛は、付帯的なものであるがゆえに、人格を問わず誰とでも交わることができますが(例、カネを持っていれば誰でもいい、可愛ければどんな人でもいい)、善に基づく愛はその人の人格、本性が問われるので、限られた者同士でしか結ばれることができません(その代わり永続的である)。

善に基づく愛という一次的なもの(全体的、無条件的)の、部分的な類似(模倣)が、有用性や快楽に基づく愛という二次的なもの(部分的、条件付)なのです。
それは条件付きで善であり、条件付きで快であり、条件付きで益であり、条件付きで同志であり、条件付きの愛、条件付きの友だということです。

第五章、第六章、愛の望むもの

愛し合っている者たちが場所的に離れている場合などは、エネルゲイア(活動)としての愛は止まっていますが、ヘクシス(状態)としての愛は持続しています。
ただ、あまりにも停止している期間が長いと、愛は忘却されていきます。
愛し合う者たちは、価値観を共有し、同じ志をもつため、日々共にいることに喜びを感じ、望みます。
日々を共に過ごさない人たちは、愛し合っているのではなく、ただ好意を抱き合っているだけに見えます。
また、善ではなく、有用性や快楽によって結ばれている人たちの場合は、取り引きを為す商人のように、互いが必要な時のみ共にいることを望みます。

第七章、異なる者同士の愛

親と子の間の愛や、師と弟子の間の愛や、支配者と被支配者の間の愛など、社会的関係の優越性に隔たりがある者同士の愛もあります。
その場合、共に同じものを共有し求め同じ様に愛し合うのではなく、それぞれに相応の(その立場における徳や機能や理由に応じた)ものに基づいた関係による愛となります。
この愛で重視されるのは優越性の釣り合いではなく、相手を愛する力と愛される相手の価値が比例的に釣り合っているということです。
子は親の愛に応えるように子として相応の価値を実現し、親は子の愛に応えるように親として相応の価値ある人間であらねば成立しません。

第八章、愛するということ

大衆は多くの場合、功名心や承認欲求のため、「愛すること」ではなく、「愛されること」を欲します。
だから、おべっかのような見せかけの愛を使う格下の人間に取り巻かれることを喜ぶのです。
確かに、愛されることは尊敬(名誉)を受けることに似ているため、目的となりやすいものです。
しかし、先にも述べたように(一巻)、名誉は何らかの手段であり、真の目的ではなく、付帯的なものにしかなりません。
名誉が権力を約束するものであったり、名誉が自分の言動の正しさを証明するものであったり、名誉が自分の価値を信じるための評価票であったりするわけです。

これに対し、本来の愛とは、付帯的ではなく、それ自体で求められるものです。
また、愛においては、むしろ、愛されることより、愛することにその本質があります。
子の見返りを求めぬ母の愛などに、それはよく顕れています。
見返りを求める愛とは、有用性や快楽に基づいた条件付きの愛です。
愛することはアレテー(徳、器量、卓越性)としての活動(エネルゲイア)においてであり、愛されることは状態(ヘクシス)においてです。
活動が状態より本質的なものであることは先に述べました(一巻八章)。

勿論、真の愛が生じるには、等しさ、相似、比例的な釣り合いという、いわば中間的な者同士であることが必要になります(アレテーに基づく同志)。
中間的でないバランスの崩れた者同士の愛は、有用性や快楽に基づく条件付きの愛にならざるを得ません。
反対(両極)の者同士が合一する愛は、自分に欠けているものを相互に交換する、利益提供の結びつきによるものだからです。
例えば、容姿の悪い金持ちと容姿の良い貧乏人が結びつく時、それは金と容姿が交換される条件付きのもの、付帯的な愛にしかなりえません。
逆に言えば、相応しい者同士であれば、何も交換する必要が生じないので、純粋な形で愛が発露するということです。

互いが、愛する人に愛されるにふさわしい人間となること、相応しい等しさと釣り合い(中間性)を実現する努力なしに、本当の愛は生じません。
自らは善き人となるための何の努力もせず、自らが愛する善き人に愛し返してもらおうとすることは、滑稽なことです。

第九章、

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第十章、第十一章、国家体制と愛の類比

国制には三つの形態(王制、貴族制、財産制)があり、されにその堕落形態として三つ(僭主制、寡頭制、民主制)付け加わります。
前者の三つの形態には、愛と正しさが多くあり、後者の三つの堕落形態では、愛と正しさが僅かしかありません。
堕落形態においては、統治する者は統治される者を利益のための単なる手段・道具(モノ)のように見ており、愛も正しさも生じる余地がありません(人は物体を愛そうとも正義をなそうともしません)。

第一の「王制」では、あらゆる善きものを備えた自足した王によって、支配される民は愛され、民のことを考えた政策が為されます。
王は民を愛し、民を配慮し、善がほどこされ、民の幸福が約束されます。
王は自らすでに自足(完全、充足)した徳ある人間であるため、自らに不足を感じておらず、己の利益のために民を利用する必要はありません。
例えるならそれは、善き父による子への愛のようなものです。

第一の堕落形態である「僭主制」では、肩書だけの無能で劣悪な者が王の座に就き、自らの不足を埋め合わせるために国を動かし、己の利益のための手段として民を利用します。
喩えるならそれは、子を奴隷として扱う暴虐的な父です。

第二の「貴族制」では、少数の優秀な支配者たちによって、正しさに基づき国が統治されます。
喩えるなら、男と女が適性に合わせて最適な役割分担をし、家族を上手く統治する夫婦のような関係です。

第二の堕落形態である「寡頭制」では、劣悪な少数の支配者たちによって、国制は私物化され、国家の財は独占され、僭主制と同じように民は貧しき奴隷と化します。
喩えるなら、それぞれの能力や価値に相応しくない不調和な配分がなされ、役割分担の崩壊した劣悪な家庭のようなものです。

第三の「財産制」とその堕落形態である「民主制」には、大きな差はありません。
財産を持つ人はみな平等であり、国政に参加します。
喩えるならそれは、兄弟愛のつながり、兄弟間の平等な共同関係です。

第十二章、

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第十三章、愛における不満は有用性の関係が生む

愛は、対等な者同士の場合は等しさに基づき、対等な立場でない者同士の場合(第七章参照)は比例に基づき、愛の働きを与えあいます。

善およびアレテー(徳、器量)に基づく、本当の愛によって結びつくもの同士の場合、互いが欠如なく充足した者同士であるため見返りを求めず、お互いが自然と与えあう関係となります。
互いが相手によくすることに熱心で、心には見返りではなく恩があるのみです。
そこに愛の授受に関しての争いも不満も生じることはなく、仮に自分の方が与えすぎたとしても、そもそもそれ自体が目的であるため(相手を善くすること)、すでに自分の目的を達成しているわけなので、不満の生じようがありません。

これに対し、有用性に基づく愛の場合、常に不満が生じることになります。
利益交換の関係で結びついているので、当然与えたもの以下のものしか与え返されないならば、相手を非難します。
しかし、それ以上に、利益を追求する人は、自らの相応しさを考慮せず、常に他人より多くのものを欲するものであるため、自分が満足できる状態にあることは少ないのです。
利益のバランスをとることは難しく(的を射るのは難しい)、常に多く与えた方が、相手に対し不満を持っていることになります。

第十四章、

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(2)へつづく