デシの『人を伸ばす力』(1)権威と報酬

第一章、権威と不服従

社会は自分たちの生活に支障をきたす人々の無責任な行動や逸脱行動に統制を求めます。
しかし、権威に頼る統制では多くの場合、期待した成果は得られませんでした。
そこでまず、非難や統制ではなく、なぜ彼らが無責任な行動に走るかを考える必要がありまする。
暴力、放埒、借金、非行、ネグレクト、等々。
無責任を生む動機に焦点を当て、その動機を作る社会的要因を探ります。

動機を考える際に、自己による自律性と他者による統制の区別が重要になります。
自律とは自由で自発的な行動であり、興味と没頭、本当の自分を感じられるものです。
統制とは、強制的な隷属、自己から疎外された疎外状態であり、偽りの自己感や無意味感を伴います。
行動が自律的でないということは、他者に統制されているということであり、これらは対概念となっています。
例えば、PTAの仕事は重要だという信念から勤める人は自律的であり、周囲の人によく見られたいから勤める人は他者に行動を統制された人です。

統制的な行動には、外見的に相反する二つの型があります(本質的にはおなじものですが)。
「服従」、他者の期待や意図が実現されるように行動する従属的なもの。
「反抗」、他者の期待や意図が実現されないように行動する反抗的なもの。
服従と反抗は同時に共存するコインの両面のようなもので常にひっくり返る可能性を秘めています。
服従的な子供は、親を尊敬しながらもどこかで反抗心も持っており、それは安定的なものではありません。

偽りのない自分であるためには、自分に基づく主体性と自律性によって行動する必要があります。
それは、心の様々な側面が自己の中心に統合され、諸行動の調整プロセスが自己の統合によってなされている時です。
もし、自己が意思による統合の中心でない場合は、たとえ外見的に行動がその人から発せられたとしても、その人自身の自己(自由意志)からではないことも起こります。
要するに自己の意思ではなく、他者の統制をとりこんだ他律的な偽りの自分(統制的)です。
自律と統制の関係性や葛藤が生じさせる反抗や逸脱行動、自己を見失った疎外状況の現われとして問題行動が生じます。

ここで言う「自己」とは、意思に基づく偽りない自分が行動を起こす際の心理的な核です。
内的な自己(意志主体)と外的に現れる現象としての自分の違いを明瞭に分ける必要があります。
そうしなければ、現実の複雑な問題を解き明かすことに混乱が生じます。
例えば、外的には自立と称する孤独にありながら、内的にはどうしようもなく他者に囚われた人間がいます。
これは外的現象としては自立して見えますが、内的には他者依存による統制とそれへの反抗に縛られています。
それとは逆に、外的には他者に従属しながら、内的には自律した人もいます。
行動の動因を外見だけから判断するのは不可能であり、その根にある動機付けのあり方を見なければなりません。

社会というものは上下の関係(管理による人間の秩序化)によって成立します。
上にいる者は下にいるものに動機付けを与える役割を持ち、それによって社会の価値や慣習の伝達をも請け負います(親と子、教師と生徒、上司と部下など)。
人は多様な役割のもとに、様々な権威との関係のただなかにいきています。
どんな親密で対等な関係(恋人や親友など)にもこれは生じ、自律性の問題は、すべての人間関係に埋め込まれています。
自律的で偽りない自己であるためには、これらの関係性と位置を明瞭に把握する必要があります。

多くの人々は、動機づけは本人の外から与えられるものと考えています。
例えば、選手にやる気を出させる名コーチ、ご褒美と罰によって子供の行動を導く親や教師。
しかし、その効果は現実にはその反対となっています。
外からではなく、内からの自分による動機付けの方が、創造性、持続性、責任感、精神的健康において優れた効果を持ちます。
逆に、外的動機づけの手段やプレッシャー、あるいは外的権威の統制を内在化した服従には、強い反抗衝動や様々な否定的結果が伴い、非常に非効率です。

では、効果的な動機づけが下位の者の内から生じなければならないとすれば、上位の者はどうすればよいのでしょうか。
これは、どうやって他者を動機づけるかということではありません(それは統制です)。
どうすれば他者が自分自身を動機づける条件を生み出せるか、です。
社会における他者への動機づけにおいて、権威者の指示や教育や行為が決定的に重要であることは言うまでもありません。
これら社会的な力が、実際どのように動機づけと発達に影響するかを本書において考察します。
人間は生涯、自己決定の問題に直面し続け、社会的な責任というものもこれ(意志決定主体)を基本として判断されます。

本書の狙いは動機づけ研究によって、この疎外をもたらす社会において人々に責任ある行動を促し、自分をもっと有効に制御し、建設的な視点から対人関係を組み立てることによって、もっと有効な社会方針を立てることです。

第二章、報酬と疎外

曲芸のイルカのように動物は報酬と罰の動機付けテクニックによって行動を統制できます。
しかし、動物でも餌をくれる飼育係がいなくなれば芸をしなくなります。
報酬というものは行動の出現率を高めるかもしれませんが、あくまでも報酬が得られる可能性の範囲内だけです。
権威者は下位の者に対して、自分がいなくても行動を持続して欲しいわけです。
社会に蔓延する無責任や自己疎外を拡大しないように、自分の意志によって行動を維持させるにはどうすればいいのでしょうか。

動物には報酬を求めない自発的な行動というものがあります。
その活動自体が報酬であるような、例えば遊戯です。
サルの檻に仕掛け箱を入れておくと熱心にそれで遊ぶのと同様に、人間にも自発的で自分の意志に則った行動があります。
これを心理学者のハーロウは「内発的動機づけ」と呼びます。

「内発的動機づ付け」とは、活動それ自体が目的であるような行為の過程、活動そのものに内在する報酬のために行うものです。
例えば、絵を描くことの目的は絵の完成ではなく、人間の本質的な状態(馬が駆け、魚が跳ねるような面目躍如とした)に到達することです。活動そのものに没頭した心理状態であって、何かの目的に到達することは無関係です(目的の設定-例えば風景を描く等-はあくまで絵を描くという行為を起動するスイッチでしかありません)。

多くの場合、幼児は、目的のための手段としてではなく、この内発的な動機、純粋な好奇心から学びます。
しかし、この内発的動機づけというものには脆さがあります。
それを学校教育で主に使用される報酬、評価、規則、管理のシステム(いわば外発的動機づけ)が壊してしまい、子供から学習意欲を奪っている可能性があります。
報酬を与えられれば、それだけ人間の内的な動機も上がると考えられていましたが、実際は落ちていくのが現状です。

そこでひとつの実験を試みました。
もともと報酬なしで自発的に取り組んでいる活動に対して、外的な報酬が与えられた時、その内発的動機による行動はどう変化するのか。

まず、非常に面白く達成感があり飽きのこないパズルを用意します。
被験者は二つのグループに分け、一方にはパズルを解くと外的な報酬(お金)を与え、もう一方には何も報酬を与えません。
パズルを解く時間の終わりのベルが鳴った後、約束の報酬を与え、実験者は部屋を出て、こっそり被験者の行動を観察します。
その結果、報酬を与えられたグループは、与えられないグループと比較して、実験者が退出した時点でそのパスルをしなくなる率が非常に高いというデータがでました。
報酬を約束されたグループも最初はパスルを純粋に楽しむのですが、報酬を与えられたとたん、さも報酬が目的であったかのようにパズルの楽しさを忘れ、パズルは報酬のための単なる手段であると感じ始めます。
常識とは違い、報酬が内発的動機づけを低下させるという結果は、他の実験によっても確証されました。

たしかに報酬(特にお金)というものは強力な動機づけを与えます。
しかし、それと同時に元来持っていた内発的動機づけというものを低下させていき、人間行動に様々な悪影響を及ぼします。
報酬は自由で主体的な行為を、統制的な隷属行為に変えてしまい、遊びを仕事に変え、チェスの指し手がチェスのコマ自体になってしまいます。
報酬に依存しはじめると、すべての活動は手段という性質を帯びるようになり、いわゆる疎外という心理状態を生み出します。
報酬によって人は多くの活動(カネにならない)に対する興味を失い、報酬を得るその活動そのものにも当初持っていた熱意や興奮を失っていきます。
人は報酬というものに支配される時、自分の内部との接触を絶ってしまいます(まさに我を忘れる)。

統制という言葉は、大抵それは強制を意味し、力や脅しという要素をはらんでいます。
当然、力の行使による強制というものは、様々なマイナスの効果を生み出す諸刃の剣です。
金によって動機づけられるという事は、金が独裁者のように人間を統制するということです。
人は疎外され、本当の自己を忘却し、内発的動機づけと縁を切り、人間の本質の実現(面目躍如とした活動と活力)を放棄し、自分で自分をムチ打つことでしか行動できない存在へと堕ちてゆきます。

(2)へつづく