フロムの『正気の社会』(通常版)

哲学/思想 社会/政治

はじめに

本書は名著『自由からの逃走』の続編であり、エーリック・フロム第二の主著です。
マルクスの疎外論を基に現代資本主義の病理を暴き出す内容であるため、時代に合わず、日本では長い間再販されることなく、埋もれた名著となっていました。
一周回ってようやく時代に合ってきた感があり、いま読み返すべき名著としてその概要を紹介します。

私たちは正気か

現代資本主義社会に生きる私たちは、自分たちを正気(健全)であると信じています。
しかし、もし社会や文化そのものが病的なものであったとしたら、それに適応している私たちは、自身の病に気付くことができるでしょうか?
精神疾患に関わる様々な統計データから、社会的文化的に発展しているはずの欧米(資本主義社会)の人々の精神状態が最も酷いことが分かり、懐疑的にならざるを得ません。

健全な(=正気の)社会とは

現代において精神的健康(正気)の主な基準は、社会に対する個人の適応状態(適応=正気、不適応=病気)にあります。
この考えの基礎には、人間は生来的な特性を持たない環境因の従順な人形であるという価値観が隠れています。
そのため、たとえばナチス政権下のドイツのように数千万の人々が精神的に異常な行動をしていても、正気であると判断され、問題とされないことがあります。
その反面、人間に生来的に備わる特性を絶対化し、環境因(社会や文化)を考慮しない立場もあります。

この二つの立場は両極端で、現実を正しく捉えていません。
人間は、自然物をその生来的性質(本質)にそった範囲で変様することができるように、人間の生来的性質(本質)に従う潜在的可能性を発展的に変様させていくことができ、それを進歩や成長と捉えています。
ある特定の文化において現れる特定の人間像は、人間の生来的な潜在的可能性を、社会秩序の拘束によって限定(特定)したものにすぎません。

人間は優れた社会・文化的条件を形成することによって、潜在的な能力を発揮することができますし、その反対の場合は阻害されます。
人間の精神的健康(正気)の基準は、ある特定の社会に個人が適応しているかどうかではなく、このような潜在力を発展させ成熟できているか、あるいは阻害され発展に失敗しているか、という一般的問題にあります。

病的な社会を護るシステム

社会や文化が、人間の本質を阻害する欠陥をもちながらも、人々が病気とならずに生活できるようなシステムを備えている場合、精神的病からくる症状を抑え込むこと(つまり病気に気付かせないこと)ができます。
例えば、社会が提供する様々な麻薬的娯楽装置(酒、大麻、ギャンブル、性産業、ゲーム、映画など)がなければ、多くの人々は神経症的な不安状態に陥るでしょう。
社会が提供する治療システムが効かない人々(誠実で感受性が高い人が多い)もおり、彼らは、文化の麻薬を受け入れることができず、かといって流れに逆らって生きられるほど強くもない場合、大きな苦悩が生じます。

いかに問題のある社会であっても、人々の症状を抑えこむシステムさえあれば、社会は上手く機能し続けるように見えます。
確かに人間は動物とは比較にならないほどの順応性を持っています(そのため人間に共通の生来的性質-本質-が無いと勘違いされる)。
しかし、人間的性質を無視した非人間的な扱いは、いずれ人々の反発を生じさせ、社会は破滅的な結末にいたることを、歴史は証明しています。
それは、社会を作る支配者層に対して直接向かう破壊もあれば、自分自身の破壊(社会的無気力無関心状態による社会全体の機能低下~停止)によって破滅をもたらすものもあれば、よりよい社会を目指すための創造的破壊(革命)であったり、様々です。

「正気の社会」とは、人間の本質的欲求と一致する社会のことです。
それを知るには、人間の本質とは何か、その本質から生じる欲求とは何か、いかなる社会が人間の本質的欲求を実現し阻害するのかを考察しなければなりません。

世界における人間の状況

動物は自然の一部として自然と調和し、自然に生かされている受動的な存在です。
しかし、高い発達段階にある動物ほどこの調和が不完全で、本能によって規定された行動様式をある程度変化させることができます。
人間はこれが極端に進み、調和の域を超え、自ら能動的に生きなければならない不安定な存在となります。
自然の調和の世界(エデンの園)を追われた無力な人間は、思考(知能ではなく理性)や反省(自己意識)などの人間特有の機能によって、自ら調和の世界を実現し、自ら生きるしかありません。
人間は、本能の固定した確実性(調和)を離れ、不確実な自由(不安と孤独)の中で生きはじめると共に”人間”と成り、死とともに自然の調和へと還ります。
動物は、生理的・本能的欲求が満たされれば、それで満足しますが、精神(理性や心や自己意識など)を持ってしまった人間は、それだけでは幸福になれません。
人間固有の諸欲求を分析しなければ、人間の精神的健康(正気)や幸福を理解することは出来ないのです。

人間固有の欲求

人間誰もが、人間固有の欲求を充足し、精神的健康(正気)を得ようと努力します。
それは同時に失われた調和の再構築であり、幸福であろうとすることです。
この人生の課題に対する解決の方法が、諸欲求に合致しているほど正気をもたらし、合致しないほど神経症のような精神的不健康状態をもたらします。
どの社会においても、それぞれ独自の体系的な解決方法(典型が宗教)をもち、社会の成員はある程度それを拠り所にします。
個人が社会より良い解決法を持っていることもあれば悪い解決法を持つこともあり、その逆もまた然りです。
以下、人間に特有の四つの欲求、「愛の欲求」「超越(創造)の欲求」「アイデンティティーの欲求」「生の指針の欲求」を示します。

人間的欲求その一、「愛」

人間は、自然との結びつきを失うと同時に、人間特有の性質である自己意識によってその孤独を自覚し、理性や想像力によって己の無力さや生と死の儚さに気付いてしまいます。
この孤独と虚無の牢獄を脱し正気でいるために、人は自然とは代わる新しい人間的結びつきを作ろうとします。
仲間との絆なしに、虚無と孤独に対抗することは出来ません。
他者と結びつきたいといういう必然的な欲求が、いわゆる「愛」の欲求であり、人は愛なしに正気を保つことは困難です。
重要なのは愛の対象(友、恋人、親、子、神など)ではなく、愛の質(いかに愛するか)です。

ここでいう「愛」とは、わたしとあなたの互いの自由(主体性)と自己同一性(私という個性)を確保しながら、結びつきを成立させることを指し、支配(サド)-服従(マゾ)関係のような依存的つながりではありません
愛は一人前+一人前の協力的絆であり、依存は主体性と自己同一性を確保していない半人前が、他者を利用することによって一人前になろうとする補填的絆。
依存的関係は、問題を本質的に解決するものではなく、彼らは結び付きながらも孤独を感じています。
心の奥に常に無力さを抱え、怯えの裏返しとしての敵意をもっているため、愛する相手が離れそうになると攻撃の対象(ストーカー化)となります。
結び付きの感覚が十分に生じないため、支配と服従を求める欲求はどんどん強くなり、結果的に過剰でいびつな関係となり、最終的には崩壊してしまいます。

依存的愛の根にあるのは他者への愛ではなく、自己のために相手を利用する自己愛(ナルシシズム)です。
成長段階で生じるナルシシズムは自然で、必要不可欠なものです(未熟であるがゆえに自分に全幅の愛を向け自己を守る必要がある)。
そして、大人になるにつれ、経験的にナルシシズムを基にした愛が常に破局に終わることを知った時、はじめて愛の本質が理解され、一人前同士の愛へとシフトします。
成人になった後に現れる二次的ナルシシズムは、病的なものとなります。
彼(大人になれない大人)の中には、自己の思考、感情、欲求以外存在せず、外界は常に主観で捻じ曲げられた幻想となり、客観的世界との接触を失い、自己という箱庭世界に自分を幽閉し、極端になると狂気へ行き着きます。

人間的欲求その二、「超越(創造)」

人は何の理由も分らぬまま世界に投げ出され、何の同意もなく世界から退場させられます(誕生と死)。
人間は動物と異なり、理性によって、運命(人間の立場から見て”偶然”)に翻弄される受動的な被造物としての自己の地位を自覚してしまうため、この被造性を克服し乗り越えようという衝動(超越)に駆られます。
神や自然ではなく、己が能動的な創造主となり、子を作り、物を作り、音楽を作り、思想を作り、友を作ります。
そういう創造的活動によって、主体性と自由を回復し、超越の欲求を満たします。

しかし、超越の欲求を満たすもう一つの方法があります。
自ら創造できないなら、反対に自ら破壊してしまうことによって、被造性を超越することです。
人間に超越の欲求がある限り、創造するか破壊するか、愛するか憎むかの選択に迫られます。
人間の歴史における巨大な破壊への意志(例、戦争)は、創造への意志と同様、人間の本質に根差すものです。
創造(愛)と破壊(憎)は、異なる欲求ではなく、同じ超越の欲求の異なる解決法にすぎません。
創造による欲求充足は、人々に幸福をもたらし、破壊による欲求充足は、人々に苦しみをもたらします。
前者の方法(創造)に挫折した者は、必然的に後者の方法(破壊)によって超越の欲求を満たそうとします。

人間的欲求その三、「アイデンティティー」

母と一体化し自他の区別を必要としない幼児や、個人化が生じていない原始的氏族や、個人化を許さない封建制度(産まれた瞬間、その人の本質や役割が決定されている社会)などにおいては、自己同一性(アイデンティティー)の問題は生じません。
しかし、個人の成長や社会の進歩によって、このような「与えられる自己同一性」を失い、自立した個人として生きなければならない状況に至った時、「わたしとはいったい何者なのか」というアイデンティティー(自己同一性)の問いが生じてきます。

この場合、個人が主体となり、力を担うものとして活躍することにより、「わたし」の感覚を得るほかなくなります。
しかし、この個人主義によるアイデンティティーの感覚の獲得が可能なのは、個人的能力に長けた者や環境的に有利な条件で参加できる特権的な者に限られ、自分の力を発揮できない大部分の人々は置き去りにされることになります。
そのため、大多数の人々の個人のアイデンティティーは、出自、階級、宗派、職業などの「地位・肩書き(ステータス)」をその代用品として利用することになります。
「ステータス」は歴史のある国においては強い効果をもちますが、アメリカのような文化的に浅いあるいは混交したような場所では効果が薄くなるため、代わりに人々は「同調」の内にアイデンティティーの感覚を得ようとします。
他人と同じであり、群れの仲間であると認められている限りにおいて、「わたし」を感じることができるのです。
アイデンティティーの感覚を得たいという欲求は、非常に強いものであり、たとえステータスや同調などによる疑似的なアイデンティティーの感覚であったとしても、人は己の命や自由や愛を犠牲にしてでも、それを手に入れるよう駆り立てられます。

人間的欲求その四、「生の指針」

理性を持つ人間はカオス(混沌)を嫌い、世界の中で自分自身の精神的な位置と方向性を定めることを必要とします。
この欲求(生の指針)は、乳幼児期の身体的方向付け(歩いたり触ったりしながら物理的な世界と物と自分の位置を理解していく)過程と似ています。
人間は世界の内で多くの不可解な現象に包囲されているため、理性によってそれらを自分の思考の範囲で扱えるような文脈に置き、理解し、その発展によって方向性の体系を作っていきます。
この体系が客観的でなく、幻想的なものであっても、生の指針を求める欲求は満たされます。

生の指針を獲得しようとする欲求は二段階に分かれます。
第一は、客観的現実であろうが主観的幻想であろうが関係なく、何らかの生の指針の枠組みを持つことで、正気を保とうとする段階です。
第二は、理性によって現実と接触し、世界を客観的に把握することで、第一段階の枠組みをより合理的で安定したものにする段階です。
その人の生の指針を壊すことは、その人を混沌の底なし沼に落とすことを意味するため、人は全力で自分の行動の合理性(活きる指針の正当性)を擁護しようとします。

歴史的に世界中で様々な宗教が発生したのは、生の指針の枠組に対する強い欲求が、人間の本質として在ることを証示しています。

諸欲求は全体的に充たす必要がある

人間は、狂気を避け正気を保つために、人間的諸欲求の充足を様々な方法で試みます。
その方法が不完全なものであったり、矛盾したものであったり、他の欲求を犠牲にするようなものである場合、諸欲求全体の充足は叶わず、人は神経症に陥ります。
例えば、愛の欲求を充たすため依存的絆はアイデンティティーの欲求を犠牲にするものであり、超越の欲求を充たすための破壊は愛の欲求を犠牲にするものです。
{あり、アイデンティティーの欲求を充たすためのステータスや同調は等の欲求と矛盾するものであり、生の指針の欲求を充たすための幻想は不完全で脆いものです。}

精神の健康を正確に捉える

現在、精神的に健康な人とは、欧米社会的な経済活動において望ましい態度(継続力、貢献力、信頼性、忍耐力、協力性、意志、決断力、柔軟性、独立性、寛容性など)を示す人間、つまり社会組織の善良な成員を理想とするものです。
その反面、このような態度は人間の原始性を抑圧するのものであり、文明社会への適応こそが精神的不健康をもたらすと考える人々もいます。
彼らにとって、精神的に健康な人とは、自由に性衝動や攻撃衝動など動物的欲求を発散することのできる原始人(幸福な野蛮人)であり、自然に帰ることこそが人間の幸福を実現すると考えます。

しかし、これらは人間の一面しか見ないで、両極端(社会的機械および自然的動物)に捉える偏った見解です。
人間を機械的および動物的に捉えるだけでは不完全であり、”人間的”に捉えなければ、人間の問題は解決しません。
精神の健康(メンタルヘルス)は、先述の人間特有の諸欲求を満たさなければ実現しません。
人は死なないために生物的欲求を満たす必要があるのと同様、人は狂気に陥らないために人間的(精神的)欲求を満たさねばなりません。
基本的な人間的欲求が充たされないと狂気が生じますが、仮に充たされとしても、人間の本質から外れた歪んだ方法であれば心が病み神経症が生じます。

精神の健康は、個人の社会に対する適応という面とは逆の面、つまり社会が人間の本質的欲求にどのように適応しているかという面も考慮し、定義付けねばなりません。
個人の健康の多くが社会構造に依存しています。
人間の本質的な欲求に合わせて、社会がいかに調整されているかという問題です。
健全な社会(正気の社会)とは、人間が仲間を愛し、創造的に働き、理性と客観性を発達させ、主体性とアイデンティティの感覚を与え、ポジティブな生の指針をもたせることによって、人々を精神的に健康にするものです。
不健全な社会は、敵意と相互不信を生み、仲間を搾取する道具に変え、破壊的に働き、妄想に駆り立て、アイデンティティの感覚を奪い、人間を自動機械のようにし、ネガティブな生の指針をもたせ、人々を精神的病に追い込むものです。

社会を維持する社会的性格

ある特定の社会的条件が、ある特定の社会的性格を生じさせ、その社会的性格が精神的に健康なものか不健康なものかが、社会の成員の一般的なメンタルヘルスを決定します。
社会的性格とは、特定の社会的状況下で生ずる平均的な人間の性格で、単なる”統計”ではなく”機能”から理解されるのもです。

いかなる社会も、諸々の客観的条件(資源・技術・気候・人口・地理・伝統など)の要求を満たすよう構造化されています。
社会の成員は、この社会構造に合致するよう、それぞれの地位や所属集団に応じた役割に従い行動しなければなりません。
「社会的性格」は、社会構造の要求するパターンに従う行動を無意識的に志向せざるをえないよう働きかけるものです。
社会の維持発展のために、成員の動因とエネルギーを形成し、導くことが、「社会的性格」の機能です。
現代の高度な産業社会において社会の歯車を回すためには、成員の労力を総動員する必要があります。
個人の勤労意欲や外的強制だけでは不十分であり、無尽蔵に成員の力を引き出せる「社会的性格」という内的衝動が用いられます。
社会的性格の内容は主に家族と学校教育という社会の代理的な機関によって、子供に伝達され、社会人は、自分のエネルギーのほとんどを仕事に費やし、規律や秩序や時間を厳守するよう訓練された人間として、形成されます。
人間は、生存だけでなく、正気を保つことも課題とするので、「社会的性格」は、社会の物的条件と精神的条件の相互作用によって決定されます。
文化的なものは、経済構造という基礎に規定される二次的派生物などではありません。

以下、資本主義社会の特徴とそこから生じる社会的性格を示します。

17世紀-18世紀資本主義の特徴

17世紀以降、西洋で支配的になった経済システムは資本主義であり、そ基本的特性は以下のようなものです。
・法的に自由を保証された人間が契約に基づき、労働市場で資本の所有者に労働力を売るという、資本家と労働者の存在。
・社会的生産物の交換とその価格を統制するメカニズムとしての市場の存在。
・各経済主体が自己利益の追求を目的に行動すると同時に、その競争的行動によって全体の利益は最大化され、万人はその恩恵に与るという理念の存在。

17世紀と18世紀の資本主義においては、まだ中世文化の考え方が残っており、過度な値下げや宣伝によって他店から客を奪ったり、業界自体を衰退させるような方法で個人の利益を最大化したりするような貪欲な行動は、禁じられていました。
また、新しい機械の導入による生産性の向上は、人間を駆逐する有害なものと敵視されていました。
伝統的な考え方の基礎にあるのは、「社会と経済は人間のために存在するのであり、人間が社会と経済のために存在しているのではない」という理念です。
経済発展も、人間を傷付けるのであれば、健全ではないと考えられていたのです。
ここには、社会の調和の維持を重視する伝統主義の理想が反映されています。

19世紀資本主義の特徴

19世紀には、伝統主義的態度は急速に衰退し、人間は経済の尺度ではなくなってきます。
資本家が利潤追求のために労働力を最大限搾り取り、無数の人々が餓死ラインぎりぎりにあったとしても、それは自然の法、社会の法に基く必然と信じられ、道徳的に正しいことであると考えらました。
経済的弱肉強食の法が支配し、資本家と労働者の間に連帯感はなく、同業者との間には競争的敵対が生じ、他者はすべて搾取すべき存在となります。
各人が伝統的制限を取り払い、自由に自己の利益の最大化を目指すことによって、経済が発展し、ひいては全員の幸福に貢献するという資本主義の原則が先鋭化します。

人々は、目に見える伝統的権威による束縛からは自由になりましたが、今度は目に見えない経済法則の奴隷になります。
伝統的社会において富の分配は、特権階級の権力によって意図的な計画と表立った力により為されていましたが、現代においては、市場による自己調整型の分配メカニズムを受け入れざるを得なくなります。
ある程度社会的地位が安定している伝統的(封建的)秩序とは異なり、資本主義においては個人の自由な競争が基本になり、前例のない社会的流動性が生じ、誰もが最高の地位を求めて奮闘することになります。
人生の最重要事は全国民参加の競争に勝つこととなり、人間の連帯という社会的、道徳的ルールは崩壊します。

資本主義社会における経済活動の最重要目的は、生業のためでも、社会的有用性のためでも、仕事に対する満足の為でもなく、投資的な利益の増大化となります。
所得が労力とサービスから切り離される資本主義においては、労力やサービスを収入と交換するという人間の本質的な機能が失われ、労働することなく莫大な富を所有することや、抽象的に金を扱うことを可能にします。
働くことなしに、資本の回転や他人の労働によって、指数関数的に利益の増大をはかることができるようになったのです。
所得が仕事から切り離されることによって、個人の労力や仕事内容とそれに対する金銭的対価とのバランスが崩壊し、所得の分配は道徳の範囲を逸脱するほどの格差をもたらします。
それは、物的・経済的な不均衡以上に、道徳的・心理的な悪影響をもたらします。
人間の努力と技能が所得に結び付かないため、仕事自体に対するモチベーションの低下を生じさせる反面、個人の職能に限らず市場の機会をつかむことにより誰でも富豪になれる可能性があるという期待が、底なしの欲望を生じさせることになります。

封建社会の君主は、臣民から金・物・サービスを搾取する神聖な権利を持っていましたが、同時に臣民を保護し最低限の生活水準を保証する義務を伝統的な慣習として負っており、搾取も一定の制限をもっていました。
しかし、資本主義の搾取においては、資本家にとって労働者はたんなる商品にすぎず、いかに安く買い高く売る(つまり可能な限り低賃金で高い生産性を上げさせる)かの手段(労働力商品)でしかありません。
資本家に互恵性や義務の感覚はなく、賃金を払う(労働力商品を買う)だけの関係です。
労働者が飢餓に瀕していても、それは彼らの能力が劣っていた結果生じた自然の摂理(生存競争の敗残者)にすぎず、彼らを助ける義務も責任もありません。
搾取はもはや個人的なものではなく、市場法則に基づく匿名のものとなったのです。

現在の生きた活力である労働を雇用しているのは、死んだ過去の資本です。
資本の回転による拡大(過去の資本を投資し未来において増大させる)が資本主義の本質であり、人間はその回転のための手段にすぎなくなります。
もはや資本は労働よりも高位にあり、生命の表現である労働は価値を失います。
必然的に資本を持った人間は資本を持たない人間より高位にあり、命令する立場となります。
いかに人間力、活力、創造力(資本のような物的生産力ではなく、非物質の創造的生産力)などの人間的価値を持っていようが、資本を持たない者は、資本回転の為のただの歯車にすぎません。
資本家と労働者の対立は、貧富の差をめぐる闘争などという単純なものではなく、人間的価値をめぐる世界観の対立です。
私たちは、旧制度的奴隷を止めましたが、操り人形になり、暴力的な公然の権威から、適応を強制する匿名の権威に引き渡され、個人として権威との葛藤を経験しなくなると同時に、自己の個性や信念や主体の感覚を失っています。

20世紀資本主義の特徴

・大量生産、大量消費

急速な技術の発展に伴い、人間の労働は機械によって置き換えられていきます。
さらに機械の知能による自動化によって、生産工程に革新的な変化をもたらしています。
生産様式の技術的変化は資本の集中によって引き起こされるため、大企業が重要な位置を占めることになり、市場における資産の大半を彼らが支配することになり、自営業者の数は著しく減少します。
企業の集中に伴い、経営と所有の分離もさらに進んでいきます。
一部の例外を除き、会社の規模が大きくなるほど、経営陣が所有する株式の割合は小さくなります。
現代の資本主義は、大量生産、大量消費の原理に基づき、19世紀の貯蓄と倹約志向とは正反対に、借金をしてでも消費に回るよう誘導されます。
これにより労働者階級も、一世紀前には考えられなかったレベルの消費が可能になっています。
生産の奇跡は同時に消費の奇跡でもあり、お金さえあれば誰でも何でも買うことができるようになりました。
封建制においては想像もできないくらい、階級をまたぎ皆が同じようなものを消費し、楽しみ、似たようなライフスタイルをもっています。

・合理的搾取

[命令や搾取は不合理な権威(神授や世襲など生まれの運によって決定される権威)によるものでは無くなり、あくまで自由・平等な主体の契約によって生じる合理的な、労働やサービスの提供(売買)にすぎなくなります。
権威ある者は合理的に権威になったのであり、搾取される者は合理的に被搾取者に成ったのです(いわゆる自己責任論)。
勿論、合理的な権威も市場の原理(匿名の権威)に隷属する者にすぎず、自由である訳ではありません。
資本主義において、何が正しく何が間違っているかを決定するのは市です。

・万物の抽象(数量)化

現代の経済活動は、すべてを数量化し、経済的過程を貸借対照表のように数字で網羅的に把握可能なものとして、商売を進めます。
顧客も被雇用者も株主も、抽象的な数字に還元され、それに基づき、経済的決断が為されます。
品物とサービスだけでの交換は無くなり、人間の労働や価値は、すべて抽象的代替表現である「金銭の数量」を媒介することになります。
サービス、物、人、そして自分自身を含め、すべてのものが抽象化され、多様な質的側面は考慮されず、無数にある性質の内のただ一つの性質である「数量的な側面」のみが重視されることになります。
例えば、「100万円の時計」と言う時、その機能性や美しさなどの具体的な諸性質は捨象され、ひとつ抽象、経済的性質のみに還元されます。
よりも低いものとされるのです。
世界で最も美しい花であっても、それが野生の無料の花であれば、高額なバラの花より美しさを感じることができない、という具体と抽象の逆転現象(使用価値と交換価値の主従の逆転)が生じます。
ガートルード・スタインの名句「バラはバラでありバラでありバラである」は、こういう抽象的体験への抗議です。

現代資本主義に生きる人間は、もはや売買する間だけでなく、常態的に抽象的関わりにおいて対象と接することになります。
自動車は、常に売却する時の価値を考えながら購入・使用され、災害時には現地の人間の苦しみよりも被害額が強調されて報道されます。
人間も年収額や職業などの抽象的ステータスが前面に出て、その人のかけがえのない個性や心などの人間的性質は背景に追いやられます。
知識も信頼も愛も、すべて人格市場における交換価値をもつ数量化された”人的資産”としてとらえられます。

・疎外

抽象化が進むとともに、人間は具体的関係付けを持てず、軸となる中心も定位置も持たない、漂う塵のような存在となっています。
人間は抽象概念に拘束され、見ることができ触れることができる具体的人間的な次元の枠組みを扱う余裕は残されていません。
科学もビジネスも政治も、具体的・人間的に意味のある基礎やバランスを完全に失い、具体的現実においては虫を殺すことすらできない者がミサイルのボタン一つで抽象的数字である何万人もの人間を平気で殺せるような時代になっています。
もはや私たちは具体的現実に依拠したモラルを持つことができず、空想小節のような何でもありの制限なき行動に走ります。
SF小説や悪夢のような異常な事態が、数年後には現実化してしまっているのです。

抽象化は、哲学的にいう「疎外」の現象を導きます。
「疎外」とは、人間が自分自身を部外者として体験する経験様式です。
「人間自身の行為が、人間に支配されるのではなく、異質な力となり、自身を超え出て敵対する(マルクス)」状態のことをさします。
これは旧約聖書の預言者が「偶像崇拝」と呼んだものと同じ構造をしています。
人間は自分の才能と努力と生命を偶像に注ぎ込み作った後、偶像となった物は、彼(創造者・主人)の努力の産物としてではなく、彼から離れた自立的存在として彼に敵対し、彼を服従させるもの(転倒した主人)となります。
人間は自己の内にある一部の性質を投影したもの(偶像)にひれ伏し、その他の性質の無限の可能性を否定します。

神経症的人間とは疎外された人間であり、自分が自分にとって他人となります。
自分以外のものに駆り立てられ、自身が自身では制御不能の操り人形のようになります。
常に背後で働く力に歪められた自己を体験し、完全に疎外され経験の中心である自己を全的に失っていまう場合は、狂気となります。

現代社会における「疎外」は、人間の仕事、消費する物、国家、仲間、自分自身との関係など、ほぼすべての領域で見られます。
人間は、壮大な人工物の世界(機械と人間を管理するソーシャルマシン-社会機構-)を創造しました。
そして、いまやこの創造物は創造主(人間)を超え、反対に人間を支配するゴーレムとなり、人間は己を無力な隷属者であると感じています。
人間は自分自身の所有権を失い、創造物に自分自身を所有されています。
以下、各社会役割(労働者、管理者、オーナー、消費者)における疎外、および仲間、自己、現実、人生からの疎外を順に見ていきます。

「労働者」は、経営の調子に合わせる経済的原子となり、居場所・動作・時間などすべてが規定通りに管理されます。
自由な思考や行動の権利が剥奪されるに従い、主体性、自己統制、創造性、好奇心などを失い、その人固有の人生は否定され、反復的で無思慮な労働だけが残ります。
その避けられない結果として、労働者の逃避行動、無気力無関心、破壊行動、精神的退行などが生じます。

「管理者(manager)」は、人間でない巨大な経済システムの奴隷となっています。
市場、競争相手(企業)、消費者、政府、労組、株主などの顔をうかがいながら行動している(させられている)にすぎません。
組織が巨大で分業が極端になるほど、管理者は感情を殺し、労働者を数字や物として扱わざるを得なくなり、管理者の”官僚化(役人化)”が生じます。
集団の成員個々人に有機的で自発的な協力関係が存在しないため、集団の維持に官僚的管理者は必須です。
官僚化した組織、つまり疎外のシステム無しに巨大な組織を支えることはできません。

企業の「オーナー(所有者)」である資本家も、疎外された状況にあります。
企業が大きくなると、所有と経営が分離され、価値の変動する紙切れ一枚(株)がそれをつなげるものとなり、また、所有が持ち株として分散されるため、オーナーは企業に対し具体的・直接的関係を持つことはありません。
所有に付随していた精神的な価値が切り離され、仕事およびその成果に対する直接的な満足が得られなくなり、財産が自己の人格の延長であるという感覚が失われます。
富の価値は自分の努力から離れた力(企業を直接指揮する人間、気まぐれな市場、他の株主の行動など)に依存することになり、富は非常に流動的で不安定なものとなります。
富自体の価値(使用価値)に基づく利用が不可能になり、所有に対する直接的な責任・権力・支配力を持つことは出来ず、富は単なる交換価値の象徴となります。
市場での販売を通してのみ価値を持ち使用が可能になります(つまり交換価値を所有しているだけであり、使用価値においてではない)。
富の所有は象徴となり、所有権に対する直接的な責任・権力・実質に触れることは出来ず、所有物(企業)に対する支配力を持つことができません。

「消費者」も、様々な面で疎外状況にあります。
金銭は極めて抽象的(一般的)なものとなり、金銭さえあればどんなものでも手に入れることができるようになります。
本来、物を獲得・利用する際、その獲得物と質的に見合った努力や能力が必要ですが、金銭(抽象化)この獲得と利用のつながりを分離し疎外状態に置きます。
私は金銭によって何の絵心もなく美しい絵画を獲得することができ、その場で破り捨てることもできます。
金銭さえあれば、あらゆるものを手に入れることができ、それを好きなように処す権利を与えられます。
人間の行動や要求は、その人の持つ能力ではなく、金銭によって規定されることになります。
例えば、資本主義社会における勉学の(現実的)適性とは、本人の”頭の良さ”ではなく”良い教育を得ることのできる金銭”であり、また、金銭がなければ学びたいという要求そのものが生じ難くなります。
金銭は、無力な想像を現実にし、現実をたんなる無力な空想へと転化させます。
貨幣は事物の個性を転倒し、誠実を不誠実に、不誠実を誠実に、愛を憎に、憎を愛に、徳を悪徳に、悪徳を徳に、下僕を主人に、主人を下僕に、愚鈍を分別に、分別を愚鈍に転化させるのです。
貨幣を媒介とし、世界は転倒され、すべての自然的および人間的な性質が混同され取り替えられます。
男性的魅力が無くともお金で女性を奪うことができ、足が遅くともお金で三頭立ての馬車を買い勝ることができ、勇敢でなくとも強面の用心棒を買い勝つことができ、金銭は無能な人間を有能な人間へ、有能な人間を無能な人間へと転化します。

人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提したまえ、そうすれば君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、等々というように交換することができる。もし君が芸術を享楽したいと思うなら、君は芸術的教養のある人間であらねばならない。もし君が他の人間たちのうえに影響を及ぼそうと思うなら、君は他の人間たちのうえにほとんうに刺激的促進的にはたらきかけるような人間であらねばならない。君の、人間にたいするそして自然にたいする関係は、いずれも、君の現実的な個性的な生の或る特定な、君の意志の対象に照応するような表出であらねばならない。もし君が愛して、しかも返しの愛をよびおこさないとすれば、すなわち、もし君の愛することが愛することとして返しの愛を生みださないとすれば、もし君が愛しつつある人間としての君の生の表出によって君自身を、愛されたる人間にするのでないとすれば、君の愛は無力であり、一つの不幸である。(マルクス著、藤野渉訳『経済学・哲学手稿』大月書店)

また、消費者は、獲得の面だけでなく利用の面から言っても疎外状況にあります。
もはや私たちは、ただ持たんがために、利用しないものを持って満足しています。
壊れるのを恐れ使わない高価な食器や、碌に乗りもしない高級自動車、一生開かれることのなく本棚を飾る文学全集、見せびらかしのための大型テレビ・・・。
人々が味と栄養を除外した精白パンを好んで食べる時、それは味と栄養という本来のパンとしての利用ではなく、実物との接触を失った「白さ」の中にある”新鮮さ”と”高貴さ”という幻想を食べているのです。
現代社会において、消費されるものの多くは、実用ではなく、広告キャンペーンによって作り出された虚構を消費するためのものです。
本来、消費行為は、有意義で人間的で生産的な経験であるはずです。
具体的に知覚し、感じ、判断する人間としての私が関与していなければなりません。
しかし、現代の消費は、それとは正反対に、人工的に刺激された幻想の満足であり、自己や具体性から疎外された幻想の行動なのです。
現実的で具体的な形で対象を消費することができなくなると、必然的に深い満足を得ることができなくなり、人は絶えず何かを欲しがり、ますます消費を求めるようになります。
本来、より良いものをより多く消費したいという欲求は、人間により幸福な生を与えることを目的とするもので、消費は幸福という目的のための手段にすぎません。
しかし、今は消費そのものものが目的となり、欲求は際限なく増大し、ますます努力する必要が生じます。
人は、より良くより新しくより多くのものを購入したい、消費したいという強迫的な欲求に支配され、もはや対象を具体的に楽しむことは関係が無くなっています。
買う事の楽しみに比べれば、使う事の楽しみは二次的なものなのです。
販売者は消費者に新たな欲求と快楽を喚起し、新たな依存関係を構築し、経済的破滅に導こうとします(つまりむしり取る)。
所有物への愛着はもはやなく、人は買ったものの新しさを愛し少しでも古くなったものは躊躇なく捨てます。
“余暇”も同様に抽象化された消費物となります。
市場によって巧みに操られた興味を受動的に持つだけであり、私が余暇に何かをしたいと思う時、それは事前にそう条件づけられているものにすぎません。
広告(洗脳)によって流行の服を自分の意志で買わされるように、スポーツや読書やパーティーや登山などの流行の余暇を買わされるのです。
自発的な興味による行動であれば、読書や登山や社交などを通して、私の内に何かが起こり、その経験の前後で私は変わります。
しかし、受動的に与えられた消費としての余暇は、単なる暇つぶしであり、私を変化させる経験値を与えず、生産的でもありません。

私たちは、「仲間」とも疎外的関係にあります。
人間関係はもはや具体的な人間としての触れ合いではなく、抽象的記号としての関係性であり、万人は万人にとって商品のようなものとなります。
強い感情は少なくなり、穏やかな親密さや誠実さが優位となりますが、それは利益になるかどうかではかられた眼差しによるものであり、むしろその根には距離と無関心があります。
人間は本質的な社会的絆を失い、原子のような個人が利己利益や利用の必要性に応じて結合する分子のような関係性でつながっています。
人間は社会的な存在であり、独りではなく助け合い、仲間と共にありたいという強い欲求を持っています。
「個人の競争的利益追求によって社会全体が成長し、皆がその恩恵に与る」という資本主義の法則下では、人々は利他的関係を優位に置くことは出来ず、他者に対する親切や親愛や慈善は、二次的なものとならざるをえません。
そうなると、仲間を求める欲求は、具体的個人的領域から、抽象的社会的領域に移し、疎外的に充足せざるを得ません(今でいうネトウヨ、ネトサヨ、新興宗教)。

さらに、自己とも疎外的関係にあります。
現代人は、自身を活動的な主体、力の担い手として感じず、市場で販売される商品のように経験します。
市場で自分自身をうまく売り込むことが目標となり、自己の感覚や自己の存在価値は、考えたり愛したりする主体ではなく、社会経済的役割における地位(抽象的記号、ステータス)から生ずるものとなります。
“Who are you?”と問えば、モノは「私はフォードの自動車です」と答えるでしょう。
人間も同様に、私の本質を出身大学、企業名、資格、年収などの抽象的記号の集積として経験しています。
人生における使命は、私という資本を有利に投資し、利益を得ることにあります。
様々な社会的記号に加え、礼儀正しさ、親切さ、快活さなどの人間的性質も「個性の詰め合わせ」という資産に変換され、パーソナリティー市場での高値を約束します。
人間の価値は、人間とは無関係の要因、人格市場の気まぐれによって変動する価値に依存する不安定なものとなり、人は常に他人の目(市場の評価、需要)に応える自分を作ることに躍起になります。
いかに人間的に素晴らしいパーソナリティーを持っていたとても、それが市場価値を持たないなら無意味なものとされる為、自らそれを捨て、市場で高く売れる個性を身に付け、本来の自分から疎外された商品としての自分(市場的人格)と成るのです。
「自己感覚」は、私の経験・思考・感情・決定・判断・行動などの主体的経験から生じますが、これらから疎外され、私の人格が市場のニーズに応える商品となる時、物に自己がないように、物となった私は自己の感覚は持てなくなります。
つまり自分自身が唯一無二の存在であるという感覚を失うことになり、その代替として、自分が社会に適合した模範的な型として見られること、自分を売れ行きの良い優秀な商品だと見られる経験によって、自己の感覚と存在価値を疑似的に得ようとするのです。

現代人は、現実(自然世界)からも疎外されています。
現代の社会生活は規格化・ルーティン化され、人間存在の根本問題を自覚することを抑圧します。
為すべき多くの仕事をより効率的に処理するための社会秩序、個人的慣習、社会的習慣、既成概念などを構築し、スムーズに社会生活を営むこと、つまり自然の世界の上に人工的な世界を構築することが、文化の特徴です。
しかし、人間は自己の存在の根本的事実と出会い、孤独と切れ切れの個性(抽象化によって捨象されていない混沌かつ豊穣の個性)という悲劇を自覚すると同時に、それを克服するための愛と連帯の高揚を経験することで、はじめて自己を満たすことができます。
もし、人工の世界しか見えなくなり、世界そのもの(自然・現実)との接触を失えば、その人は永久に自己の理解と満足を得ることができなくなります。
芸術と宗教は、ルーティン化された人工世界から存在の根本的現実の世界へと向かわす水先案内人の機能を果たしていたわけですが(例えば、祭事におけるギリシャ悲劇の上演)、現代ではそれ(芸術、宗教)ら自体もルーティン化に取り込まれその力を失っており、ごく限られた原始的で部分的な面でのみ機能しています(例えば、競技スポーツ観戦における代理的な戦闘体験)。
人工世界である日常を突き破るギリシャ悲劇などとは異なり、現代の芸術は慣習(社会)や習慣(個人)の、つまり日常の枠内に留まる皮相的で貧弱なものであり、本質的な問題(人工世界に幽閉される現代人)を解決する力(現実世界との邂逅)はありません。

私たちは、人生からも疎外されています。
経済的な目的のための単なる手段である「交換」それ自体が目的となり、人生全体を覆い尽くしていきます。
所有それ自体が交換を前提としており、人は機会があり次第売る(交換)つもりで買う(所有)のです。
対人関係の領域においても交換が第一の動因となり、人格市場における自分と相手の価値を考慮して、期待できる最大限のものを得ようとする交換に他なりません。
各人は、諸々の交換価値(容姿、性格、学歴、収入、将来性など)が詰め合わせられたひとつの包みです。
自身が自身のパーソナリティー(包み)のセールスマンとなり、少しでも値の高い別の包みと出会い、利益の出る取引を成立させることが交友の目的であり、人格相場の変動に従い、次々と新しいものへと変更されます。
生活の全過程が、資本投資のように経験され、私の生命と私の人格は投資される資本となります。
私たちは、スーパーで肉を買うにせよ、劇場でコンサートを観るにせよ、講義を聴くにせよ、デートをするにせよ、その対象や経験を金銭的に定量化し、自分の支払った金額以上の価値があるか(つまり投資に成功したか)どうか(コスパ)を、常に気にかけています。
時間も金銭に還元されるため、友人との会話のようにお金を使わない経験も投資だと考えられ、払った時間に値するものかどうかを値踏みします(タイパ)。
自己の資産(時間、労力、容姿、健康、感情など、金銭的に定量化されたあらゆるもの)の有利な投資であるかどうかの損益計算式によって、行動の根拠が正当化され、決定されます。
例えば、散歩は「楽しみ」ではなく、「健康という資産への投資」として動機付けられます。
ひとつひとつの行動において心の中で帳簿をつけ、投資利益の大きい方が価値あるものとして選択され、人生全体がビジネスに似たものとなります。
このような構えで生きる時、必然的に「人生は生きるに値するか(生きる値打ちがあるか)」という問いが、その人の内に起こってくることになります。
企業と同じように、人生にも「成功」と「失敗」という概念(勝ち組・負け組)が生じ、人生の貸借対照表によって、その人の人生の値打ちが計られることになります。
この人生を事業のように捉える生き方は、欧米での自殺の急増の原因の一つになっています。
「私の人生は失敗だった」「人生はもう生きるに値しない(これ以上生きていても仕方ない)」という感情は、損失が利益を上回り、損失を取り戻す見込みが無くなった時に生じる人生の破産宣告であり、企業が倒産するかのように人は自殺するのです。
しかし、人生を企業経営と同一視することは極めてナンセンスであり、それは特異なひとつの生き方にすぎません。
人生を定量化し値付けすることなどできず、人生の目的も経済的価値だけに限らず全方向に広がっています。
そもそも、人生を貸借対照表として捉えるなら、人は必ず老いて死ぬため、人生は負け確定のゲームであり、生きるに値するかどうか計算するまでもありません。
その一方で、愛する人との幸せなひと時や、晴れた朝に散歩したり、深呼吸して新鮮な空気の香りを感じる喜びが、人生に含まれるすべての苦しみや努力に値しないとは誰にも言えないでしょう。
人生はかけがえのない贈り物であり、挑戦であり、他のなにものによってもはかることはできないものです。
「人生は生きるに値するか」という問いに関して、賢明な回答などありません。
そもそも、その質問には何の意味も無いからです。

・権威の匿名化

18世紀および19世紀の権威は権威として”明白”であり(王、神、父、教師、法律、道徳など)、誰が命令あるいは禁止しているか、そして権威が何を欲しているかが分かり、それに対し服従するか反抗するか、その結果なにが生じるかも意識的に把えることができました。
しかし、20世紀半ばに権威はその性格を変え、匿名で目に見えない権威となります。
直接的な命令も禁止も、思想的・道徳的要求もされず、それでいて人々は過去の強力な権威主義社会の従僕以上に従順になっています。
匿名の権威の法は、市場の法則同様、見えないものであるため、人々は攻撃することも反抗することもできず、知らず知らずのうちに従うしかないのです。
具体的な権威者はどこにもおらず、世論、常識、市場、利益など形の無いものを通して操作され、本人自ら同調(社会システムへの同調)という声なき命令に従うのです。
親はもはや自らの意志や考えによって子供に命令せず、同調の法則に適合するものを提案(suggest)し、導こうとするだけです。
仕事においても露骨な命令は影を潜め、提案し、言葉で丸め込め、操作し、宣伝し、あたかも本人の意志で適合的な行動を欲しているかのように導きます。

“明白”な権威がある場合、不合理な権威への反抗や良心の命令に対する葛藤を通して、人格や個性や特に自意識が発達します。
人間は、疑い、抗議し、反抗するがゆえに、自分自身を「私」として経験します。
たとえ服従し敗北を感じたとしても、私は自分自身を敗北した者としての「私」を経験します。
しかし、もし私が匿名の権威によって支配され、懐疑や反抗を封じられたなら、私は自己を失い、私は匿名の権威のシステムの一部である人格(個性)なき「誰か”one”」になってしまいます。
匿名の権威(社会システム)が機能するためには、私はそれに適合し周囲と同調しなければならず、他の人と相異したり、突出して「はみ出し」てはなりません。
それでいて、私はシステムの変動に応じて常に変化しなければなりません。
私が問うべきことは、自分の行動が正しいかどうかではなく、周囲の変化に合わせて適応しているかどうか(特異になってないかどうか)だけです。

現代人の、「周囲に受け入れられることへの渇望と受け入れられないことへの不安」は、疎外された人間に特徴的な感情です。
自己を失っており、同調がアイデンティティの代替的充足となっているため、客観的な同調の有無に関わらず、同調への渇望はやむことがありません。
劣等感は他人と異なっているという(同調から外れた)感覚から生まれており、良い方に異なるか悪い方に異なるかは本質的な問題ではありません。
明白な「権威」の概念に取って代わった「(上辺だけの)自由」の裏に、実際は匿名化した権威への隷属と没個性(自由を担う主体としての個性の不在)があります。
自己から疎外された人間は己の虚無の経験を恐れ、同調無しに独りでいることができませんが、その反面、群れの中にいると今度は匿名の権威による適応(同調)への圧力がのしかかっており、心休まる居場所がないのです。

個性の欠如(個性の規格化、同調)と、見境いのない社交性による外向性が推奨され、個性や内向性は努力して治すべきものとされます。
自己の内に問題を抱えてはならず、互いが自己のプライバシーを曝け出し共有し、悪しき孤独を乗り越えねばならないのです(事実上、自己の問題に自己が向き合えなくなる)。
いまや伝統的な道徳や良心は失われ、代わりに、適応し他のものに似ることが有徳、他のものと異なり同調を壊すことが悪徳とされます。
現代の精神医学では、前者(適応)は健康を意味し、後者(不適応)は神経症を意味します。
人は、他者から自己を引き離しプライバシーを確保することに罪悪感を感じ始め、個の確保を子供じみた反抗や神経症的兆候とみなします。
「孤独で利己的な熟考の中ではなく、他の人々と協同することで、人は自分自身を満たすことができる」という、いかにも素晴らしく聞こえる文句の裏に、「自分自身を放棄し、群衆の必要の一部となり、それを好め」という意味が隠れています。

このような疎外された同調を、人は「togetherness(一体感、団結、連帯感、絆)」などと呼び、もてはやします。
内向的で周囲と同調できない者は、神経症的だとされるに留まらず、まるで異端者や罪人のように扱われます。
友情は、個人の好みと個人の魅力に基づいて形成されるのではなく、自の社会的ポジションに基づく周囲との同調関係によって決定されることになります。
その人個人の内容ではなく、社会的外面(同じ考えや同じ洋服や同じ生活スタイル等を持っているかどうか、合わせられるかどうか)で人間関係が決定されるという、疎外的状況にあるのです。
外交的で同調的であることが義務となっている私たちは、人間の本性に基づく幸福から疎外されているため、無意識的に漠然とした不安と自己喪失感と憂鬱を抱えており、妥協的に表面上の幸福を享受しているにすぎません。

・理性の機能不全

実用的目的(主に生物学的生存)の達成のために事物を表面的に結合し運用する能力である「知能(intelligence)」 に対し、「理性(reason)」は表面の背後にある本質を認識し”理解”しようとするものです。
理性は生存目的のためにある訳ではありませんが、未来予測(表面の奥の見えない関係付けの網を把握し未来へと延伸する)など生存的効用を二次的に有します。
表面的な事物の印象を受容し操作するだけ(知能のこと)なら自己感覚(sense of self)は必要ありませんが、表面を貫通し本質を把握する理性的思考には必須です。
デカルトは「われ考えるゆえにわれあり」と、私が思考する(理性を持つ)という事実から自己の存在を導出しましたが、逆から言うと、自己を失わない限りにおいて思考(つまり理性)は成立するということです。
疎外されたパーソナリティーに特有の現実感覚の欠如は、ここにも理由があります。
理性の機能不全によて対象の本質(芯)が捉えられない上に、自己の芯も失っており、世界は根なし草のように浮遊する白昼夢のようなものとなります。

現代人は現実主義だと世間一般では考えられていますが、それは妄想であり、実際はその逆です。
例えば、文明全体を破壊してしまうような兵器を弄びながら現実主義を自称する現代の人間は、普通に考えれば、狂気に憑りつかれ現実という名の妄想の中にいる精神病患者です。
現代人は、人工的に作られた偽りの現実の書き割りで本来の現実を覆い隠し、現実から疎外されています。
生と死、幸福と苦しみ、感情と思考などの人間的現実において、驚くほど現実感覚が欠如しています。

また、現代社会は著しく分業化・細分化が進むと同時に、事物のつながりや人間組織の広がりが極端に大きくなり、全体を見通すことが難しくなっています。
つまり、理性の機能である事物の根底を貫く法則や関係性の把握が、困難であるということです。
人間の目が可視光線内の波長しか捉えることができないように、理性にも限界があり、現代社会は全体(根底)を見通し細部を適切に操作できる限界を超えてきています。
具体的、現実的に把握できる範囲を超えると、現実感が薄れ、必然的に非現実的なものになってしまいます。

現代人は表層を操る知能のみが発達し、深層を理解する理性を失っています。
現実の背後にあるもの(意味や本質や関係など)は考えようともせず、刹那的に現実の表層を消費するだけで、未来など知ったことではないという姿勢です。
毎日新聞を読みニュース映像を見、無数の情報を摂取しているにも拘らず、驚くほどその内容や意味を理解しておらず、知識を持った愚鈍ともいえる状態です。
知能検査で理性の能力を計測することは出来ません。
現代人は、ノウハウ(know-how)は持っていても、なぜそうなるのか(know-why,)、何のためか(know-what-for)などの理性に関わる知識はありません。
人工知能はその最たる例であり、それは人間の知能が為すことを高速かつ正確に為すにすぎず、理性の機能を模倣することは出来ません。

倫理的行動は理性に基づく価値判断(善悪の決定)を前提としており、さらに理性は自己を前提にしています(先述)。
自己を失い、理性が機能していないということは、倫理も機能不全に陥るということです。
自己を殺し社会機構に同調することを求められる以上、前提条件(考える我-理性と自己-)を奪われた「倫理」や「良心」を育むことができません。
「倫理」や「良心」は、同調とは正反対の性質を持っており、それは他のすべての人がイエスと言う時に、己一人でもノーと言う勇気を伴うものです。
そして、ノーと言えるためにはその根拠となる理性的価値判断の確実さが必要です。
つまり、人間が機械や機構の手段であることを止め、己を”人間”として経験し、同調に呑まれないだけの自己(=理性)を持つ時にのみ、良心は発動するのです。

・資本主義の宗教化

誰もがそれなしでは生きられない(正気ではいられない)、広い意味での宗教と神は、生の指針と帰依の対象であると先に述べました。
現代の生の指針は資本の増大であり、金や機械が神であり、その理念は能率です。
私たちは、伝統的な宗教が課題としてきた人間存在の根本的な問題に対する意識や関心を失い、人生の意味について問い解答を模索することを放棄しています。
現代人は、人生を上手く投資し、能率的に損することなく過ごすこと以外の目的をもっていません。
いまだ多くの人々は伝統的な神を信じていますが、実質的には無神論者と違いはありません。
伝統的隣人愛を換骨奪胎し、非個人的な市場の公正原理に解釈し直したのと同じように、もはや神は宇宙株式会社の代表取締役と解釈されており、宗教は商品と同じように販売されます。
多くの宗教組織は本質的に現代社会の保守勢力に属し、むしろ人間を非宗教的な体制に合わせるために、宗教を利用しているあり様です。
伝統的な宗教と相容れなかった生の指針が、いまや宗教の名の下にプロモートされているのです。

・仕事の意味の喪失

人間は他人を搾取しない限り、生きるために働く必要があります。
人間(ホモ・ファーベル)は、「生産」という事実によって動物の地位(自然との調和)から独立し、反対に自然を作り変える立場になります。
自然を作り変えることは、同時に自分自身も変化させます。
自然を再創造する過程において、己の力を開発し、技術を高め、個性を発達させます。
美しい大聖堂も、便利な寝椅子も、改良された甘いトウモロコシも、すべては人間の能力の創造的表現です。
本来、仕事は有用性だけでなく、精神的な満足感を与える行動でもあります。
本来、労働と遊び、労働と教養とが分離しておらず、仕事は単なる生計の手段ではなく、本人の自己効力感や自尊心や自己表現をもたらし、生活に活力を与えるものです。
毎日のささやかな労働が有意義なのは、労働がその生産物(作品)と分離していない限りにおいてです。

しかし、近代的な生産様式が始まると、仕事の意味と機能が根本的に変わり、仕事はそれ自体が満足すべき楽しい活動ではなく、義務になり強迫観念となります。
極端な分業システムによって労働と生産物が切り離され、仕事に意味を見出せなくなったと同時に、自由の名の下に伝統的な帰属場所を失った自己にとって、仕事は自己の虚無を埋める経済的成功(ステータス)という疑似救済のための手段となります。
しかし、社会的成功が得られるのは、極一部の人間にすぎず、多くの人間は疑似救済すら与えられない状態にあります。
仕事の主人である能動的人間として、その部分的な代替作業として機械を用いるのではなく、機械という主人の部分的な代替(機械では未だできないあるいは機械より安くつく部分)として、受動的に仕事を為すだけの存在となります。
大多数の労働者にとって、仕事は日銭を手に入れるために、組織や設備のひとつのパーツに成る、不快で無意味で馬鹿らしい作業にすぎません。
産業心理学は、人間の幸福を語りますが、彼らの述べる幸福とは、「労働者は幸福な時によく可動するのであるから、(機械に注油するように)労働者にも幸福や安心を提供しよう」ということです。
現代の多くの精神科医や心理学者は、「人間関係」について語りながら、実態は最も「非人間的関係」を意味し、「幸福」について語りながらそれは自分を失った「完全な規格化(routinization)」を意味します。
つまり、機械として生きるよう疎外された人間が”健康な人間”として推奨されるのです。

疎外された労働は、”完全な怠惰”と”無意識の敵意”という、二つの反応をひき起こします。
仕事そのものに意味が無くなり、主体性や精神的満足感を失い、部分的なルーティンワークとなった倦怠的労働に最適化するよう馴致された人間は、怠惰と受動状態に対する憧れをもつことになります。
さらに深刻なのは、無意識的な敵意です。
多くの人々は、自分の商売と販売している商品の奴隷になっていると感じており、無意識的にそれらを軽蔑し、それを要求する顧客を憎み、競争相手である商売敵、上司、同僚など全方位に対し敵対心を持っています。
そして、何より自分自身を憎んでいます。
薄っぺらな成功以外、何の意味もなく人生を過ごしている自分自身を、心の奥で嫌っているのです。
概ねこれらの敵意は意識によって蓋をされた無意識的なものであり、この抑圧された攻撃性は病的な形で表に出てくることになります。

・民主主義の形骸化

民主主義の原理とは、個々の成員が責任をもって社会に参加し、国民自らが運命を決定するというものです。
全ての国民が制限や特別な資格なく選挙権を有する普通選挙権は、社会を同胞愛と互恵的利益と普遍的信頼の状態に導くと同時に、国民に責任感と積極性と自立した人格を与えるものであると考えられていました。
しかし、幾多の困難を乗り越え実現した理想(普通選挙)は、当初の期待を裏切り、失望させるものでした。
選挙権を得たところで、その権利(政治的意思決定の権利)を本当の意味で行使できなければ、何の力にもならないからです。
現代人のように、自らの意志や信念を持たず、趣味も意見も感覚も、社会の条件付けによって受動的に与えられ自動機械として操作されている人々に、「自らの意志」を行使することはできません。
このような状況では、普通選挙は呪物となります。

政治理念も政治指導者も、商品の販売と同じような戦略によって売り込まれ、重視されるのは販売(=得票)に結び付く効果であり、提示される内容の合理性や有用性ではありません。
合理的な議論や現実的・批判的な意識を回避し隠蔽するよう、消費者(有権者)の潜在意識や観念連合(連想)に訴えかけ、民意が作為的に作られます。
党の代表も、テレビCМで起用する有名人を選ぶのと同じように、決定されるのです。
現代における政治は、商品市場と本質的に変わらず、政党は大企業と似たような行動をとります。

民主主義の理念においては、民意が先にありその具現化として政治的決定が生ずると思われていましたが、実際は、様々な政治的決定が先にあり、それらが現実的決定力をもつために得票闘争を為すということです。
現代の資本主義同様、消費者(有権者)の自然なニーズに応える供給(社会的決定)が為されるのではなく、供給側の企業(為政者)に都合の良いニーズを戦略的に作り出すことによって購入(投票)させる、という仕組みです。
現代の消費者(有権者)の購入(投票)する多くのものは、本当に必要なものや自分の意志で選んだものではなく、焚きつけられ、駆り立てられ、”買わされた”ものです(本人は自分の意志で買ったと思い込んでいる)。

社会システムの極端な細分化と規模の拡大によって、様々な社会的問題を具低的に捉えることができなくなり、現実感が薄れ、責任感、意欲、問題意識、情報の読解力・判断力は低下し、本来危機的なものであるはずの政治的問題も、雑談程度の情報にしか感じなくなります。
人々は、政治に対し意志(明確な目的を持った責任ある行動を生じさせる効果的な心の在り方)を持つことは少なく(あったとしても上述のプロパガンダによる刷込み)、空想や愚痴や好き嫌いや言い訳程度のものしか持ちません。
人間は、直接的に関わる関心領域(自分事)以外の情報を重要視せず、またそれを有効に活用することもできません。
直接的責任から生ずる自発性がなければ、どれほど完全で正しい情報が豊富にあっても、人は無知であり続けるのです。

国民と政党との関係は、現代の大企業化における株主と企業の関係と似ています。
法的に言えば、何十万もの株主が企業を所有し、その方針を決定し、経営陣を任命する権利を有します。
しかし、実際の所、株主は企業に対して責任は感じておらず、配当金などの利益のみが目的で、大多数の株主は、基本的に経営者の為すこと自体には無関心で黙認しています。
これと同様、ある企業の株を買うように、有権者は投票で政党を選ぶと、選挙後は党と有権者の関係は遠のき、党の内部で決定されることは一般には知らされず、事実上、為政者の為すことは黙認されます。
国民(有権者)は国家の決定を支配していると信じていますが、実際は所有の分散化した個人の株主が大企業と持つ関係程度の影響力にすぎません。
これは政治的決定が有権者の意志(投票)の結果であると言えると同時に無関係でもあるという矛盾した状態であり、国民の意志は疎外された、形だけのものです。
自己が決定の主体であるという錯覚を持ちながら、自己以外の力によって決定がなされているという状況は、国民に深い無力感を与えます。
効果的な行動を禁じられると、生産的な思考も停止します。
何の効果もない己の政治的決定や行動は、ますます国民の政治的思考を減退させていくという悪循環に陥り、国民は主権者であることを止めるのです。

・20世紀の社会的性格

20世紀資本主義において必要とされる社会的性格は、集団内でスムーズに協力できる人間です。
消費への強い欲求を持っており、好みが標準化されており、影響を受けやすく、予想可能な人間です。
伝統的権威や良心を捨て、自由独立でありながら、命令あるいは期待されることを自ら為すことで社会システムに合わせ、変化・順応する人間です。
不合理な伝統的権力によらず支配され、指導者なしに導かれ、社会的機能を忠実に自律的に遂行するロボットのように成るものです。

19世紀資本主義の社会的性格と対比的に示すと、以下のようになります。
【19世紀】搾取的・貯蓄的、個人的・競争的、公然の権威主義、個人の倫理、プライド
【20世紀】受容的・市場的、チーム的・共同的、匿名の権威(世論や市場)主義、集団倫理(適応と承認)、無力感

疎外された人間を健康と診断する現代精神医学

では、このような現代資本主義社会が生じさせる疎外は、精神の健康(メンタルヘルス)に対し、どのような影響を与えるのでしょうか。

精神の健康の定義が社会適応であるなら、疎外された人間であっても社会的機能を果たしていれば「健康」であると言えます。
現在の精神医学の定義に照らせば、私たちは皆、健康であると診断されます。
しかし、健康と病気の定義や区分は、それを定めた人間の基準に沿って作られる文化的産物であり、当然、疎外された精神科医は疎外された人間に基づき健康を定義づける為、人間の本性に基づくヒューマニズム(人間主義)の観点からは病気とみなされるものを健康であるとしてしまいます。
現代精神医学で最も優秀なH.S.サリヴァンも、蔓延する疎外の影響を受け、疎外された人間の社会的性格を健康の基礎としています。
彼は、独自の個人的自己が存在するという考えを「妄想」と述べ、人間は他人の期待に応えるという観点から自分自身を経験するという事実を、人間性として捉えました。
サリヴァンの呈示する人間の基本的欲求は、「安心(安全)の欲求」と「親密(協同)の欲求」であり、世間一般的には妥当なものに思えますが、これらの欲求は人間にとって本質的なものではなく、疎外の産物です。

安心(安全)の欲求

人々は、可能な限り不安を生じさせる問題やリスクや疑念を排除しようとする傾向にあり、現代精神医学も、安心(安全感)を精神的健康に直結するものと見なし、それを支持します。
とにかく「安全」が重視され、あらゆる衝突や障害を取り除き、不安に陥らないよう気を配っています。

しかし、過度な衛生が人の免疫力を弱くし逆に病弱になってしまうのと同じように、不安の完全な排除はむしろ人をより無力にします。
人間の思考は不完全で、多くの誤謬を伴う部分的な真理しか把握することができない不確実なものです。
結果は常に人間の能力外の多くの要因に依存しており、人生は自身のコントロールを超えたアクシデントの連続です。
その人が感覚や感情を持って生きている”人間”である限り、人生において悲しみや不安を避けることはできません。
人間の存在条件がそもそも不安を基礎にしているため、人間が為せる、また為さなければならない第一の課題は、不安に対処する力を養うことであり、安全な無菌室を作ることではありません。
完全な安心とは、意思決定をやめ、責任を負わず、リスクを冒さない、つまり人間主体であることを止める時に成立するものです。
自由な人間は必然的に不安であり、考える人間は必然的に不確実なのです。

人間存在に固有の不安に耐えるために、人は、家族、氏族、国家、階級、職業などのグループに根を張ることによって、安定的な立ち位置とアイデンティティの感覚を確保していました。
しかし、近代化の波はこれら一次的絆を消滅させ、独立的に生きるよう求めます。
現代人は「私は私だ」と真に感じられるまで、自己の独自の存在を発展させることによってアイデンティティの感覚を持つことができ、世界に呑まれるのではなく自ら主体的に世界と結びつく生産的な生き方によって安定的な立ち位置を確保できます。
自己や主体性を失った疎外された人間の場合は、同調することによってこの問題を解決しようとします。
可能な限り仲間と似たもの(多数派)となり、他人から承認を得ることで安心を得、反対に他人と異なるもの(少数派)になることや他人から承認されないことは不安の種となります。
主体が自分ではなく他者の方にある為、終わりのない同調への渇望と、いつ安心が瓦解するか分からない慢性的な不安(不安が生じるかもしれないという不安)を持つことになります。
まるで麻薬中毒者のような承認(他者の意識に認められること)依存を生じさせ、それに反比例して自己の意識は弱くなり、自己信頼(自分自身で自分を認めること)も失われます。
サリヴァンが「安心(安全)の欲求」を人間の基本的欲求だと考えてしまったのは、自己を失った疎外された人間(現代人)が、常態的に不安に晒されているためです。

親密(協同)の欲求

フロイトは愛(性愛)を人間の基本的欲求と考えましたが、サリヴァンは性愛と愛を区別し、愛を親密(intimacy)として捉えた上で基本的欲求としました。
親密とは、互いの価値を認め合い、協同(collaboration)し、他者の欲求と自己の行動を適応させ、相互満足に近付け、ますます互いがこの安全な状況を維持しようとするものです。
サリヴァンにとって愛(親愛)とは、”協同の状況”と定義付けられ、これは彼の生きた時代(疎外と市場的人格)を反映したものです。
共通の利益のために団結し、敵対的な世界に対抗するという”一組の利己主義”です。
共通の目的を求め、双方が明示された相方の欲求(ニーズ)に自分を適応させるものです。
しかし、本来「愛」とは、互いが明示(表現)されない要求を思いやり汲み取り反応することを意味し、サリヴァンにとっての愛が現代特有の特殊なものであることが分かります。
愛が市場的な意味合いを持ち、「相互理解」という名の市場的公平性や相互操作の状態を指すものとなります。
愛は利益や幸福を獲得するための手段、スキルとなるのです。
夫婦生活を円滑にする(目的)ためにパートナーを愛し(手段)、子供を将来犯罪者や神経症者に成らせない(目的)ために愛を注ぐ(手段)のです。
サリヴァンが「親密(協同)の欲求」を人間の基本的欲求だと考えてしまったのは、現代においては愛が本来の深みを失い、人格市場的取引関係の重要な手段と成っているからです。

幸福の追求

精神の健康(メンタルヘルス)において「幸福」は重要な概念です。
現代資本主義社会において「幸福」は「楽しみ、喜び(pleasure)」と同じような意味合いで捉えられており、具体的には、映画、パーティー、スポーツ、ゲーム、音楽、テレビ、ドライブ、恋愛、ショッピング、長い睡眠、旅行などによって多くの楽しみを享受することです。
「幸福」と「楽しい」を同義にする観点を取るなら、「不幸」とは「悲しみ」を指すことになり、実際、世間一般の人々は悲しみや苦しみのない心の状態を幸福と考えています。
しかし、この幸福の定義は、人間にとって本質的なものではなく、疎外された人間の現実逃避的なものです。

感受性豊かな生きた人間である限り(つまり心が死んでいない限り)、人は人生において多くの悲しみ、苦しみを経験をします。
個人的にも社会的にも、様々な要因によって限界づけられた人間は、自分の理想と短く困難な人生の中で達成できることの間に、必然的なギャップがあることを認識し、悲しみ苦しまねばなりません。
動物のように現在の苦しみや不条理に耐えるだけでなく、人間は、過去の心的外傷的記憶による苦しみや、未来に待ち受ける老いや病いや死などの脅威にも苦しめられます。
苦しみや悲しみを避けるために出来ることは、感受性を持たず、希望や愛を捨て、無反応になり、心を閉ざし、注意や感情を自分からも他人からも逸らすことです。
それは身体は生きているのに心は死んでいる”鬱”状態です。
そうなると、悲しみや苦しみだけでなく、喜びや楽しさも感じることができなくなります。

幸福を悲しみとの対比によって定義づけると、人間の存在条件からして必然的にその幸福は挫折するため、「悲苦⇔喜楽」という対比ではなく、「心が活きた状態⇔死んだ状態(鬱状態)」の対比によって捉える必要があります。
つまり幸福とは、悲苦、喜楽にかかわらず、人間の生きる(活きる)力が発露した状態であると言えます。
病気や貧困の状態にあっても、活きている人は幸福であり、健康や裕福な状態にあっても、活きていない人は不幸である、ということです。
「幸福」は、世界(他者)と自分を生産的に関係付ける際に生じる強い内部活動の状態(生命力)です。
それは、理性によって喜びも悲しみも丸ごと含んだ現実の真相に触れた上で世界と関り、活きた人生を歩もうとする姿勢から生ずるものです。
このような能動的、生産的な態度の内に幸福が宿るのであれば、疎外された人間の受動状態や消費的態度の内に喜楽はあっても、幸福を見出すことは出来ないということです。
幸福とは能動的に充実を経験することであり、誰かに与えられることを待つものではありません。

現代の人々は、それなりの楽しみや喜びを持っていますが、基本的には憂鬱で、楽しみに勤しみながらも内側では退屈しています。
退屈とは、生産力が無いという経験、生きて(活きて)いないという感覚です。
人間は退屈に耐えられない”活きもの”であるため、生産的になり幸福になるという選択肢を取らない限り、できるだけ退屈が露わにならないよう試みます。
それは現代社会が提供する娯楽や快楽を忙しく追い求めることによって、自分自身の虚無の対峙からも潜在的な退屈さからも逃避する方法です。
この方法は、症状を抑え込み(対症療法)、自己の病気(問題)を隠すことは出来ても、原因から治療、解決することは出来ません。
ただ、虚無と退屈が露わにならぬよう必死に時間を潰し、無事一日を終え、胸を撫で下ろすのです。

人間の本性に基づく精神の健康

人間の本質に基づくヒューマニズム的な意味での精神の健康は、以下のような基準を持ちます。
愛する能力、創造する能力、アイデンティティの感覚(受動的絆から自立し自己を自己の力の主体として経験する)、客観性と理性の発達(自己の内側と外界の”現実”を把握する)。
ヒューマニズムにおける人生の目的は、以下のようになります。
目覚めること、真剣に生きること、自己の持つ才能を完全に開花させること、幼児的誇大妄想を捨て限られた自己の本当の力を確信すること、個人の人生は宇宙より重いと同時に一本の草のように軽いというパラドクスを受け容れること、生(life)を愛しながら死を恐怖なしに迎えられること、(本心である限り)自己の考えと気持ちを信じ人生で直面する不確実な困難に耐えること、孤独で居られると同時に他者(人間に限らず命あるもの)と繋がることができること、良心の声に従い且つその声を聞き逃したとしても自己嫌悪に陥らないこと。
精神的に健康な人とは、愛と理性と信念(faith)によって生き、自分の生(life)と仲間の生を尊重する人のことです。

現代人の精神状態と蔓延する罪悪感

疎外された人間は、自分自身を、自分と他人によって操作されるもの、投資物であると経験しており、自己の意識が欠如しています。
この自己の欠如は深い不安と虚無感を生じさせます。
私が私でない虚無との邂逅は、狂気の境に人を追い込みます。
現代が不安の時代と呼ばれるのは、自己喪失による不安のためです。
私の存在価値は他人の承認に依存し、常に他人の評価に神経をすり減らしています。
他人からの承認は、社会への適合に対する報酬として得られるため、周囲の他者と違うこと(不適合)に劣等感を感じ、逸脱と疑われる自己の感情や思考や行動にいつも自分自身が脅かされています。
しかし、私は自動人形(同調ロボット)ではなく人間である限り、逸脱は必然であり、常に逸脱の脅威に晒されており、病的な適合への努力は休まることがありません。
疎外された人間に安心感や力強さを与えるのは、群れ(周囲)との適合の度合いであり、良心の声(人間の本質から生ずる要求)に基づく行動ではないのです。

疎外の結果、罪悪感が蔓延することになります。
現代の人々は、幾百もの日々の事柄に罪悪感を感じています。
一生懸命働かなかった、子供に厳しくしすぎた、親を大切に出来なかった、部下に甘い処置を下した、趣味を楽しんでしまった等、悪い事だけでなく善い事をしても罪悪感をもちます。
なぜなら、その行為が善かろうが悪かろうが、他人と適合する行動でなければ、私に存在価値を与えてくれる同調という神的命令を背くことになり、私は自分に対しての劣等感と神(群れ)に対しての罪悪感を持つことになります。

そして、本人には意識され難いもう一つの原因は、良心の声に背いていることから生ずる罪悪感です。
人間は、愛し、考え、疑問を持ち、笑い泣き(感覚し)、創造力と主体性を発揮し、自己の持って生まれたものを十全に開花させるという本質的な願いを持っており、それが良心の呼び声となり、疎外された人間の行動に罪悪感をもたらすのです。
人生という自分に与えられた一度きりのチャンスを、下らない価値観や見えない命令に基づく適応行動のために失ってしまっているという、漠然とした無意識的な罪悪感をもっているのです。
現代人は過去の人々よりもずっと楽しみや安楽のある良い世界で生活しながらも、自分の人生が砂のように指の間をすり抜けていくのを感じています。
疎外された人間は、自分であることにも自分でないことにも、生きて(活きて)いることにも生きていないことにも、人であることにも物であることにも、罪悪感を持つという、進退量難の状態にあるのです。

狂気と疎外は同じものの両面

疎外された人間には、世界との生産的な関係付けに基づくエネルギーの流れがありません。
幸福に成ろうという営み(楽しみ・快楽の享受)によって、自身の不幸に蓋をし、ますます本当の幸福(人間の本質の実現)から遠ざかるという悪循環に陥っています。
楽しみの為に時間を節約しながら、同時に時間つぶしに一生懸命になります。
私が私の人生の主役だという熱意と経験に依って日々を送ることよりも、失敗や屈辱なく何もない日を終えられたことに安堵します。
信念を持たず、良心の声を聴かず、物事を表面的に操作する知能だけで理性を働かせないため、彼は常に当惑し動揺し不安を抱え、完全な解決策を与えてくれる強い指導者(依存先)を待ち望みます。

このような疎外の光景は、精神疾患のイメージと表裏一体です。
生産的な人間は、外界との接触と内界(自己の内面)との接触の両極をもちます。
狂気は、内界としか接触できず、外の世界を客観的な文脈でとらえることなく主観的な象徴で塗り替え、一般的な感覚や常識を持てない状態にあります。
それに対して疎外された人間は、外界としか接触できず、主観的な文脈を失い、世界や自分を写真のように機械的なものとしてしか捉えることしかできません。
人間の生産性は、認識の内部形式と外部形式の間に生起するものであり、どちらか一方が欠ければ病的状態(統合失調症あるいは疎外)に陥ります。

おわりに

現代社会は、「正気(健全)の社会」ではなく、人々を精神的な病や死に追い込む「不健全な社会」であるということが、ここまで述べられました(本書第一章から第六章)。
では、具体的にどういう政治経済的な政策を執れば正気の社会が実現できるのかということが、第七章、第八章において述べられます。

フロムの基本的な姿勢は、アリストテレス的な中庸です。
新自由主義的な極端な資本主義も、マルクス的な社会主義も否定し、その中庸を狙います。
極論は簡単で誰でも採れますが、両極の良い面も悪い面も知り尽くした上でよい調和(中庸)をはかることは至難の業です。
為政者も有権者も、楽な極論に向かうわけですが、極論は必ず病を生じさせます。
革命とは、極論的で急進的な社会変革によって希望を実現することではなく、地道な亀の歩みによって徐々に改良し実現するものだと、彼は考えています。

 

おわり

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