フロムの『正気の社会』(かんたん版)

哲学/思想 社会/政治

精神の健康とは

当時、精神の健康(メンタルヘルス)についての定義は、概ね二つの極に分かれていました。
ひとつは、社会適応を基準に考えるものであり、社会に上手く適応している社会適合者は精神的に健康で、不適応状態にある人は不健康で精神的病を発症するという観点。
もうひとつは、生物学的な欲求充足を基準に考えるものであり、自然の欲求を充足されている人は精神的に健康で、欲求が充足されない状態にある人は不健康で精神的病を発症するという観点。
前者は、人間を先天的な本性のない社会状況の機械的産物として見ています。
どんな社会的状況であっても人間はかなりの程度適応可能で、アウシュビッツ強制収容所のような異様な極限状態でも、加害者・被害者共に普通に生活していたという事実からも推察されます。
後者は、人間を先天的な本性(動物的本性)に従う動物として見ており、むしろ社会化(社会へ適応すること)こそが病の原因であると考えます。

現代において、精神的に健康な人とは、欧米社会的な経済活動において望ましい態度(継続力、信頼性、協調性、意志力、柔軟性など)を示す人間、つまり社会組織の優良な成員を理想とするものです。
もう一方では、文明社会への適応こそが精神的不健康をもたらすと考え、自由に動物的欲求を発散することのできる自然状態(幸福な野蛮人)に帰ることこそが精神の健康を実現すると考えます。
ここで述べられる「自然の欲求」とは、「社会によって抑圧された生物的欲求」と同義であり、衣食住など経済社会の恩恵によって原始人以上に満たされている生物的欲求(お腹いっぱい食べて暖かい布団で寝る)を指すものではありません。
倫理によって抑圧される性衝動、法によって禁止される暴力性、教育によって抑え込まれる奔放な行動や感情などです。
喩えるなら、アルプスの自然と共に生きていた自然児ハイジが、都会に出て、ロッテンマイヤー女史の社会化教育を受け、精神的病に陥るような感じです。

双方、説得力のある定義ですが、人間は「機械」でも「動物」でもなく、あくまで「人間」です。
(動物的本性ではなく)人間の本性に基づく欲求が充たされる時に、人間の精神は健康になり、充たされない時に病む、という観点が必要です。
人間の狂気は、単に生物的欲求が充たされないストレスから生ずるのではなく、人間的欲求が充たされない状態から生じると考えなければ、現実と符合しません。
人は狂気に陥らないために人間的(精神的)欲求を満たさねばならないのです。

人間特有の欲求

人間の本性に基づく人間特有の欲求として、以下のようなものが挙げられます。

「愛(絆)の欲求」

人間は、理性を手に入れたことによって、世界の不条理や己の無力さや生と死の儚さなどに気付いてしまいます。
この孤独と虚無の牢獄を脱し正気でいるために、人は自然に抱かれていた原始的絆とは代わる新しい人間的結びつきを作ろうとします。
仲間との絆なしに、虚無と孤独に対抗することは出来ません。
他者と結びつきたいといういう必然的な欲求が、いわゆる「愛(絆)」の欲求であり、人は愛なしに正気を保つことは困難です。

「創造の欲求」

人間は、理性によって、自分の被造性(受動性)を自覚してしまいます。
所詮、神(自然)に作られ、ただ運命(人間の立場から見て”偶然”)に翻弄される存在です。
人は何の理由も分らぬまま世界に投げ出され(誕生)、何の同意もなく世界から退場させられます(死)。
人は、この被造性(受動性)を克服し、創造性(能動性)を獲得したいという欲求が生じます。
己が能動的な創造主となり、子を作り、物を作り、音楽を作り、思想を作り、友を作り、そのような様々な創造的活動によって、主体性と自由を回復し、創造の欲求を満たします。

「アイデンティティーの欲求」

理性によって、自己反省的に自分を見ることができるようになった時、「わたしとはいったい何者なのか」というアイデンティティーの問いが生じてきます。
封建社会のように出自により階級、宗派、職業などが固定されており、生まれた時点でアイデンティティーがある程度付与される場合は大きな問題とはなりませんが、個人の自由を重視する社会においては、アイデンティティーを自分で獲得していかなければならなくなります。
個人自らが主体となり力を担うものとして活躍することにより、「わたし」の感覚を得るほかありません。
勿論、この個人主義に拠るアイデンティティーの感覚の獲得が可能なのは、個人的能力に長けた者や環境的に有利な条件で社会参加できる特権的な者に限られます。
そのため、大多数の人々のアイデンティティーは、「地位・肩書き(ステータス)」などの記号を獲得し自身を装飾すること、あるいは”同調”による他人の承認をもって、代替的にアイデンティティーの欲求を充足することになります

「生の指針の欲求」

理性を持った人間はカオス(混沌)を嫌い、世界の中で自分自身の精神的な位置と方向性を定めることを必要とします。
この生の指針の欲求は、乳幼児期の身体的方向付け(歩いたり触ったりしながら物理的な世界と物と自分の位置を理解していく)過程と似ています。
人間は世界の内で多くの不可解な現象に包囲されているため、理性によってそれらを自分の思考の範囲で扱えるような文脈に置き、理解し、その発展によって方向性(生の指針)の体系を作っていきます。
この体系が客観的でなく、幻想的なものであっても、生の指針を求める欲求は満たされます。
つまり、世界をカオスではない、何らかの安定した”世界観”を得、それを行動の指針にしたいという欲求が生じます。
人類にとって、宗教の発生は必然であり、近代以降、科学が宗教に取って代わり、現代の欧米では多くの人が資本主義的価値体系を生の指針として生きています。

社会と人間の関係

精神の健康は、人間がいかに社会に適応するかという面とは逆の面、社会が人間の本性的欲求にいかに適応しているかという面も考慮し、定義付けねばなりません。
個人の健康の多くが社会構造に依存しています。
人間の本性的な欲求に合わせて、社会がいかに調整されているかという問題であり、健全な社会(正気の社会)とは、人間が理性を発達させ、創造的に働き、仲間を愛し、主体性とアイデンティティの感覚を与え、ポジティブな生の指針をもたせることによって、人々を精神的に健康に導くものです。
不健全な社会はこれとは逆に、敵意と相互不信を生み、仲間を搾取する道具に変え、破壊的に働き、非理性的妄想に駆り立て、アイデンティティの感覚を奪い、人間を自動機械のようにし、ネガティブな生の指針をもたせ、人々を精神的病に追い込むものです。

ある特定の社会的条件が、ある特定の社会的性格(その社会における平均的・基礎的な人間の性格)を生じさせます。
社会の成員は、その社会のシステムに合致するよう、それぞれの地位や所属集団に応じた役割に従った行動をしなければなりません。
「社会的性格」は、社会システムの要求するパターンに従う行動を無意識的に志向せざるをえないよう働きかける内的機関です。
社会の維持発展のために、成員の動因とエネルギーを形成し導くことが、「社会的性格」の機能なのです。
この「社会的性格」が人間の本性的欲求と合致する精神的に健康なものか、合致しない不健康なものかが、その社会の成員の一般的なメンタルヘルスを決定します。

現代資本主義社会における社会的性格

現代資本主義社会の成員の社会的性格の基盤となっているのが「疎外」です。
そしてこの「疎外」は、当に人間の精神を病へと追い込む元凶とも言えるものです。
人間のエネルギーは、本性的欲求を充たす為ではなく、疎外された欲求を充たすためだけに利用され、精神の健康を得ることができなくなります。

「疎外」とは、人間が自分自身を部外者として体験する病的な経験様式です。
人間自身の産物(行為やその成果物)が、人間に支配されるのではなく、異質な力となり、自身を超え出て敵対する」状態のことをさします。
これは旧約聖書で「偶像崇拝」と呼ばれたものと同じ構造をしています。
人間が作った単なる人形が、立場を反転し、逆に人間を服従させる偶像に成るのが偶像崇拝の原理です。
例えば、人間の便利な道具として作ったはずの人工知能が、自立的存在として人間に敵対し、逆に人間を奴隷にしたり滅ぼしたりする力になるような場合を「疎外」と言います。
現代資本主義社会における疎外の媒介(偶像)となるものが「資本」です。
人間の本性的な(健康な)人生は、資本によって反転させられ、疎外された(病的な)人生を送ることを余儀なくされます。
人間が人工知能の奴隷と成るSFディストピア映画のように、人間が資本の奴隷と成るディストピアに猛進するのが現代資本主義社会です。

疎外の具体例1、生産者

資本の回転(投資による増大)によって雪だるま式に巨大化していく生産システムの中で、「労働者」は経営機構の調子に合わせるいち歯車となり、居場所・動作・時間などすべてが規定通りに管理されます。
労働者は自由な思考や行動の権利を剥奪され、主体性、自己価値感、創造性、好奇心などを失い、その人固有の人生は否定され、反復的で無意味な労働をなす機械となります。
その避けられない結果として、労働に対する逃避行動、無気力・無関心、破壊行動、精神的退行などが生じます。
18世紀西欧において自営業者と被雇用者の割合は9:1でしたが、現代ではその比率が反転(1:9)し、ほどんどの人々が自らが商品(労働力商品)となり雇用主に自分を販売する(雇ってもらう)賃金労働に従事しています。

労働者の上にいる「管理者」は、さらに上にある人間でない巨大な経済システムの奴隷となっており、自由である訳ではありません。
市場、競争相手(企業)、消費者、政府、労組、株主などの顔をうかがいながら行動している(させられている)にすぎません。
組織が巨大で分業が極端になるほど、管理者は感情を殺し、労働者を数字や物として扱わざるを得なくなり、管理者の”官僚化(役人化)”が生じます。

管理者の上にいる企業の「オーナー(所有者)」である資本家も、疎外された状況にあります。
企業が大きくなると、所有と経営が分離され、価値の変動する紙切れ一枚(株)がそれをつなげるものとなり、また、所有が持ち株として分散されるため、オーナーは企業に対し具体的・直接的関係を持ちにくくなります。
所有に付随していた精神的な価値が切り離され、仕事およびその成果(所有物)に対する直接的な満足が得られなくなり、財産が自己の人格の延長であるという感覚が失われます。
富の価値は自分の努力から離れた力(企業を直接指揮する人間、気まぐれな市場、他の株主の行動など)に依存することになり、富は非常に流動的で不安定なものとなります。
富の所有は抽象的な象徴となり、所有権に対する直接的な責任・権力・実質に触れることは出来ず、所有は泡のように儚いものとなります。

疎外の具体例2、消費者

消費者も、生産者同様に疎外状況にあります。
あらゆるものと交換可能な一般的交換物である金銭(マネー)は神的な力を持ち、人間は金銭さえあればどんなものでも手に入れることができるようになります。
本来、物を獲得・利用する際、その獲得物と質的に見合った努力や能力が必要ですが、金銭はこの獲得と利用のつながりを分離し、人間を疎外状態に置きます。
私は金銭によって何の絵心もなく上手く描くための修業もせず、美しい絵画を獲得することができ、その場で破り捨てることさえできます(所有が自己と切り離されているため所有物に対する愛着がない)。

人間の行動や要求は、その人の持つ能力ではなく、金銭によって規定されることになります。
例えば、資本主義社会における勉学の(現実的)適性とは、本人の”頭の良さ”ではなく”良い教育を得ることのできる経済的環境(金銭)”であり、また、金銭がなければ学びたいという要求そのものが生じ難くなります。
金銭は、無力な想像を現実にし、現実をたんなる無力な空想へと転化させます。
貨幣は事物の個性を転倒し、有能を無能に、無能を有能に、誠実を不誠実に、不誠実を誠実に、愛を憎に、憎を愛に、徳を悪徳に、悪徳を徳に、下僕を主人に、主人を下僕に、愚鈍を分別に、分別を愚鈍に転化させるのです。
貨幣を媒介とし、世界は転倒され、すべての自然的および人間的な性質が混同され取り替えられます。
男性的魅力が無くともお金で女性を奪うことができ、足が遅くともお金で三頭立ての馬車を買い勝ることができ、勇敢でなくとも強面の用心棒を買い勝つことができ、金銭は無能な人間を有能な人間へ、有能な人間を無能な人間へと転化します。

人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提したまえ、そうすれば君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、等々というように交換することができる。もし君が芸術を享楽したいと思うなら、君は芸術的教養のある人間であらねばならない。もし君が他の人間たちのうえに影響を及ぼそうと思うなら、君は他の人間たちのうえにほとんうに刺激的促進的にはたらきかけるような人間であらねばならない。君の、人間にたいするそして自然にたいする関係は、いずれも、君の現実的な個性的な生の或る特定な、君の意志の対象に照応するような表出であらねばならない。もし君が愛して、しかも返しの愛をよびおこさないとすれば、すなわち、もし君の愛することが愛することとして返しの愛を生みださないとすれば、もし君が愛しつつある人間としての君の生の表出によって君自身を、愛されたる人間にするのでないとすれば、君の愛は無力であり、一つの不幸である。(マルクス著、藤野渉訳『経済学・哲学手稿』大月書店)

また、消費者は、獲得の面だけでなく利用の面から言っても疎外状況にあります。
もはや私たちは、ただ持たんがために、利用しないものを持って満足しています。
壊れるのを恐れ使わない高価な食器や、碌に乗りもしない高級自動車、一生開かれることのなく本棚を飾る文学全集、見せびらかしのための大型テレビ・・・。
人々が味と栄養を除外した精白パンを好んで食べる時、それは味と栄養という本来のパンとしての利用ではなく、実物との接触を失った「白さ」の中にある”新鮮さ”と”高貴さ”という情報の幻想を食べているのです。
現代社会において、消費されるものの多くは、実用ではなく、広告キャンペーンによって作り出された虚構を消費するためのものです。
本来、消費行為は、有意義で人間的で生産的な経験であるはずです。
具体的に知覚し、感じ、判断する人間としての私が関与していなければなりません。
しかし、現代の消費は、それとは正反対に、人工的に刺激された幻想の満足であり、自己や具体性から疎外された幻想の行動なのです。
現実的で具体的な形で対象を消費することができなくなると、必然的に深い満足を得ることができなくなり、人は絶えず何かを欲しがり、ますます消費を求めるようになります。
本来、より良いものをより多く消費したいという欲求は、人間により幸福な生を与えることを目的とするもので、消費は幸福という目的のための手段にすぎません。
しかし、今は消費そのものものが目的となり、欲求は際限なく増大し、ますます努力する必要が生じます。
人は、より良くより新しくより多くのものを購入したい、消費したいという強迫的な欲求に支配され、もはや対象を具体的に楽しむことは関係が無くなっています。
買う事の楽しみに比べれば、使う事の楽しみは二次的なものなのです。
販売者は消費者に新たな欲求と快楽を喚起し、新たな依存関係を構築し、消費者を経済的破滅に導こうとします(つまりむしり取る)。
所有物への愛着はもはやなく、人は買ったものの”新しさ”を愛し、少しでも古くなったものは躊躇なく捨てます。

“モノ消費”に対するいわゆる“コト消費”も同様です。
私たちは市場によって巧みに操られた興味を受動的に持つだけであり、私が余暇に何かをしたいと思う時、それは事前にそう条件づけられているものにすぎません。
広告(洗脳)によって流行の服を自分の意志で買わされるように、スポーツや読書やパーティーや登山などの流行のコト消費を買わされるのです。
自発的な興味による行動であれば、読書や登山や社交などを通して、私の内に何かが起こり、その経験の前後で私は変わります。
しかし、受動的に与えられた消費としてのコト消費は、単なる暇つぶしであり、私を変化させる経験値を与えず、生産的でもありません。

疎外の具体例3、人間関係

人間関係はもはや具体的な人間としての触れ合いではなく、抽象的記号としての関係性となり、人間は人間にとって商品のようなものとなります。
強い人間的感情はなくなり、穏やかな親密さや誠実さが優位となりますが、それは経済的合理性(利益になるかどうか)によってはかられた眼差しによるものであり、むしろその現代人のフレンドリーな態度の根には距離と無関心があります。
人間は社会的な存在であり、独りではなく助け合い、仲間と共にありたいという強い欲求を持っています(先の述べた愛-絆-の欲求)。
「個人の利己的競争的利益追求によって社会全体が成長し、皆がその恩恵に与る」という資本主義の法則下では、人々は利他的関係を優位に置くことは出来ず、他者に対する親切や親愛や慈善は、二次的なものとならざるをえません。
そうなると、仲間(絆)を求める欲求は、実現不可能な具体的個人的領域から、抽象的全体的領域に移し、疎外的に充足せざるを得ません。
今でいうネトウヨやパヨクや新興宗教などの全体的あるいは抽象的絆が、具体的個人的現実において仲間を作ることのできない哀しい現代人にとっての代替的な愛(絆)の対象となってきます。

これは他者との関係だけでなく自己との関係においても言えます。
もはや自分は自分を市場で販売される商品のように経験し、扱います。
市場で自分自身をうまく売り込むことが最大の目標となり、自己の感覚や自己の存在価値は、考えたり愛したりする自発的主体ではなく、社会経済的役割における地位(抽象的記号、ステータス)から生ずるものとなります。
私は私の本質を、出身大学、企業名、資格、年収などの抽象的記号の集積として経験しており、人生における使命は、私という資本を有利に投資し、さらなる利益と地位を得ることにあります。
それら様々な社会的記号に加え、礼儀正しさ、親切さ、快活さなどの人間的性質も「個性の詰め合わせ」という資産に変換され、パーソナリティー市場での高値を約束します。
人間の価値は、人間とは無関係の要因、人格市場の気まぐれによって変動する価値に依存する不安定なものとなり、人は常に他人の目(市場の評価、需要)に応える自分を作ることに躍起になります。
いかに人間的に素晴らしいパーソナリティーを持っていたとても、それが市場価値を持たないなら無意味なものとされる為、自らそれを捨て、市場で高く売れる個性を身に付け、本来の自分から疎外された商品としての自分(市場的人格)と成るのです。
「自己感覚」は、私の経験・思考・感情・決定・判断・行動などの主体的経験から生じますが、これらから疎外され、私という人格が市場のニーズに応える商品となる時、物に自己がないように、物となった私は自己の感覚を持てなくなります。
つまり自分自身が唯一無二の存在であるという感覚を失うことになり、その代替として、自分が社会に適合した模範的な型として見られること、自分を売れ行きの良い優秀な商品だと見られる経験によって、自己の感覚と存在価値を疑似的に得ようとするのです。

疎外の具体例4、人生

私たちの人生自体が絶えざる「交換(今ある資本をより大きな資本と交換する活動)」となり、生活の全過程が、資本投資のように経験されることになります。
私たちは、スーパーで肉を買うにせよ、劇場でコンサートを観るにせよ、講義を聴くにせよ、デートをするにせよ、常にその対象や経験を金銭的に定量化し、自分の支払った金額以上の価値があるか(つまり投資に成功したか)どうかを、気にかけています(いわゆるコスパ)。
時間も金銭に還元されるため(タイムイズマネー)、友人との会話のようにお金を使わない経験も投資だと考えられ、払った時間に値するものかどうかを値踏みします(いわゆるタイパ)。
自己の資産(時間、労力、容姿、健康、感情、人格など、金銭的に定量化されたあらゆるもの)の有利な投資であるかどうかの損益計算式によって、行動の根拠が正当化され、決定されます。
例えば、散歩は「楽しみ」ではなく、「健康という資産への投資」として動機付けられます。
私は何をいつどこで為し、誰と付き合い、どこに住み、どの洋服を選び、いかなる性格や感情を優先するかなどのあらゆる選択を、投資の観点から決定し、もはや自分の人生とはかけ離れたひとつの人生ゲーム(最終的に最も資産の多いプレイヤーが勝利するスゴロク)という虚構の中で生きることになります。
ひとつひとつの行動において心の中で帳簿をつけ、投資利益の大きい方が価値あるものとして選択され、人生全体がビジネスに似たものとなります。

このような疎外された人生を送る時、必然的に「人生は生きるに値するか(生きる値打ちがあるか)」という問いが、その人の内に起こってくることになります。
ビジネスと同じように、人生にも「成功」と「失敗」という概念(勝ち組・負け組)が生じ、人生の貸借対照表によって、その人の人生の値打ちが計られることになります。
この人生を事業のように捉える生き方は、欧米での自殺の急増の原因の一つになっています。
「私の人生は失敗だった」「人生はもう生きるに値しない(これ以上生きていても仕方ない)」という感情は、損失が利益を上回り、損失を取り戻す見込みが無くなった時に生じる人生の破産宣告であり、企業が倒産するかのように人は自殺するのです。
しかし、人生をビジネスと同一視することは極めてナンセンスであり、それは特異なひとつの生き方にすぎません。

人生を定量化し値付けすることなどできず、人生の目的も経済的価値だけに限らず全方向に広がっています。
そもそも、人生を貸借対照表として捉えるなら、人は必ず老いて死ぬため、人生は夢幻泡沫の破産確定ゲームであり、生きるに値するかどうか計算するまでもありません。
その一方で、愛する人との幸せなひと時や、晴れた朝に散歩したり、深呼吸して新鮮な空気の香りを感じる喜びが、人生に含まれるすべての苦しみや努力に値しないものとは誰にも言えないでしょう。
人生はかけがえのない贈り物であり、挑戦であり、他のなにものによってもはかることはできない値付け不可能なものです。
「人生は生きるに値するか」などという問い(値踏み)に対して回答などありません。
そもそも、その質問には何の意味も無いからです。

現代人の精神状態

疎外された人間は、自分自身を、自分と他人によって操作されるもの、投資物であると経験しており、自己の意識が欠如しています。
この自己の欠如は深い不安と虚無感を生じさせます。
私が私でない虚無との邂逅は、狂気の境に人を追い込みます。
現代が不安の時代と呼ばれるのは、自己喪失による不安のためです。
私の存在価値は他人の承認に依存し、常に他人の評価に神経をすり減らしています。
他人からの承認は、社会への適合に対する報酬として得られるため、周囲の他者と違うこと(不適合)に劣等感を感じ、逸脱と疑われる自己の感情や思考や行動にいつも自分自身が脅かされています。
しかし、私は自動人形(同調ロボット)ではなく”人間”であろうとする限り、逸脱は必然であり、常に逸脱の脅威に晒されており、病的な適合への努力は休まることがありません。
疎外された人間に安心感や力強さを与えるのは、群れ(周囲)との適合の度合いであり、良心の声(人間の本質から生ずる要求)に基づく行動ではないのです。

疎外の結果、常に罪悪感が付きまとうことになります。
その行為が善かろうが悪かろうが、社会に適合する行動でなければ、私に存在価値を与えてくれる同調という神的命令を背くことになり、私は自分に対しての劣等感と同調という神に対しての罪悪感を持つことになります。
そして、本人には意識され難いもう一つの罪悪感は、良心の声に背いていることから生ずる罪悪感です。
人間は、愛し、考え、疑問を持ち、笑い泣き(感覚し)、創造力と主体性を発揮し、自己の持って生まれたものを十全に開花させるという本質的な願いを持っており、それが良心の呼び声となり、疎外された人間の行動に罪悪感をもたらすのです。
人生という自分に与えられた一度きりのチャンスを、下らない価値観や見えない命令に基づく適応行動のために失ってしまっているという、漠然とした無意識的な罪悪感をもっているのです。
現代人は過去の人々よりもずっと楽しみや安楽のある豊かな世界で生活しながらも、自分の人生が砂のように指の間をすり抜けていくのを感じています。
疎外された人間は、自分であることにも自分でないことにも、生きて(活きて)いることにも生きていないことにも、人であることにも物であることにも、罪悪感を持つという、進退量難の状態にあるのです。

このような疎外の状態は、精神疾患と表裏一体です。
健全な(正気の)人間は、外界との接触と内界(自己の内面)との接触の両極をもち自由に往復することができます。
それに対し狂人は、内界としか接触できず、外の世界を客観的な文脈でとらえることなく主観的な象徴で塗り替え、一般的な感覚や常識を持てない状態にあります。
それとは反対に、疎外された人間は、外界としか接触できず、主観的な文脈を失い、一般常識と完全に同化し、世界や自分をまるで写真のように機械的な客体としてしか捉えることしかできません。
人間の精神の健康(正気)は、認識の内部形式と外部形式の間に生起するものであり、どちらか一方が欠ければ病的状態に陥ります。

おわりに

人間の本性的欲求を充足できない社会は不健康な社会であり、そのような社会で適応生活を強いられる人間も精神的に病むことになります。
私たちの精神の健康(メンタルヘルス)は、個人の治療の努力以上に、社会の治療という努力にかかっているのです。

本頁はかんたん版という性質上、本書の半分程度の内容の、エッセンスのみ抽出したものになっています。
詳細はフロムの『正気の社会』(通常版)をご覧ください。

 

おわり