フロムの『正気の社会』(4)第六章~第八章

哲学/思想 社会/政治

(3)のつづき

※第六章では、一九世紀および二十世紀の学者や思想家による現代資本主義社会の診断(批判的分析)が引用中心に紹介され、第七章では、その問題に対する解答としての「偶像崇拝的権威主義(ファシズム、ナチズム、スターリニズム)」「超資本主義」「社会主義」について簡単な解説がなされます。
[第六章の内容はこれまでのフロムの考察と似たもの(補強するもの)であり、第七章の内容は一般教養的なものであるため、割愛]
これらを踏まえた上で、第八章では、フロム自身の解答が提示されます。

第八章、正気への道

一節、一般的考察

彼ら(第六章)の批判に共通していることは、人間が中心的な位置を失い、経済的目的のための道具にされ、自己や仲間や自然から疎外され、具体的な関係性を失い、人間は意味ある人生を送れなくなってしまったということです。
私(フロム)はこれと同じ考えを、心理学的な疎外の概念によって説明しました(第五章)。
人間は受容的、市場的構えに退行し、生産的でなくなり、自己感覚を失い、他者の承認に依存し、常に強迫的同調と不安を抱え、エネルギーの大部分をこの不安を埋め合わるため、あるいは隠すために費やしています。
“知能”は優れていて、人類や文明を壊滅状態に追い込むほどの技術を持ちながら、それを扱う”理性”は退化しており、社会は非常に危険な状態にあります。

彼らの批判(診断)は一致していても、その発症の原因は一致しません。
政治的要因、経済的要因(マルクス)、精神的要因(ブルクハルト)、心理的要因(フロイト)など、様々ですが、いずれも自身の専門分野以外の要因は考慮されていません。
これは同じ現象を異なった側面から観たものであり、理論分析において重要なことは、これら種々の側面がどのように相互関連、相互作用しているかを理解することです。
発症の原因に当て嵌まることは、当然、治療(原因治療-原因の改善-)にも当て嵌まります。
種々の原因領域を同時に変化させることによって、治療は達成されるのであり、ひとつの領域のみに努力を集中し他の領域を無視すれば、病を根治することはできません。
精神的健康(正気)は、政治的要因、経済的要因、精神的要因、心理的要因などの関係性を踏まえた同時的変化によって達成されます。

この原因の相互性の問題は、人類の進歩における障壁となっています。
例えば、キリスト教は、社会の変化は無視して精神の変化の重要性を説きますが、大多数の人間は社会の変化が無ければ変わることが困難なため、精神の変化も実現することはありません。
同様に、啓蒙主義は経済構造を無視して理性による人間の平等や同胞愛を説きましたが、経済構造の改善なしに人間は平等や同胞愛を実現することは出来ません。
マルクス主義は、人間の内面的変化の必要性を無視して社会経済的変化による良い社会を目指しましたが、個人の変化なき社会の変化は良い方向へ向くことはありません。
人類史における様々な改革運動は、ひとつの領域を強調し他領域を排除したため、最終的に失敗に終わりました。
人間は全体的な存在であり、思考も感情も実践も分かちがたく結びついています。
感情的に自由でなければ思考の自由は困難であり、実践的な自由(経済的自由や社会関係の自由)がなければ感情的に自由であることは困難です。
ひとつの面での急速な進歩は、むしろ他の面での停滞を隠す覆いになってしまいます。
社会にせよ人間にせよ、全体として統合された進歩の一歩は、一面に偏った百歩よりも、より広範で持続的な進歩をもたらします。
人類の進歩が数千年にわたり躓き続けたのは、”孤立した進歩”の結果です。

表面的な対症療法で取り繕うだけで病気を徐々に悪化させる浅く緩い改革に比べ、根本原因にメスを入れる急進的な改革は、問題解決の可能性を持つように思われています。
しかし、多くの場合観察と忍耐と継続的努力を必要とする前進において、暴力的に一気に解決しようとする急進主義は非現実的なものとなり、緩い改革と同様に結果的には病気を悪化させることになります。
ボルシェヴィキの急進がスターリニズムを、ドイツの社会民主党右派の急進がヒトラーを生み出したように。
改革の真の基準は、そのスピードではなく、それが現実的に、つまり本当に前進しているかどうかであり、真の急進主義とは、地道に原因を解決していく亀のような歩みだということです。

社会病理は人間(集団)の病理であるため、正気の社会への道(治療)を論ずる前に、個人病理の治療の諸条件を見ておく必要があります。

一、
人間精神の本来的な機能に反する発達が生じた結果、病理的症状が現れます。
フロイトは性的な成長の失敗が病理をもたらすと考えましたが、ヒューマニズムを基礎とする精神分析の枠組みでは、「生産的構え」の発達の失敗(破壊的な誤った方向への発達)が病理を生むと考えます。
意識的であれ無意識的であれ、正常な発達の失敗から生じる苦しみは、それを克服しようとする健康への欲求と努力を生じさせます。
ただ、極端に重症化するとこの欲求は失われます。

二、
この健康への志向を機能させるために必要な最初のステップは、意識から締め出された無意識の苦悩を引き上げ、苦しみを苦しみとして明確に捉えられるようすることです。
フロイトの理論では抑圧された性的な葛藤や苦悩を掬い上げるのに対し、ヒューマニズムの枠組みでは、抑圧された生産性と破壊性との間の葛藤や苦悩(不合理な情熱、孤独感、無力感、愛と生産への餓え)を意識化します。

三、
次のステップは、苦しみの自覚によって明らかにされた、神経症的構造に基づくライフスタイルを変えるということです。
病理的な傾向が再現されないように生活状況を変えるということに留まらず、さらに、自分の価値観、規範、理想の体系を変えることによって、健康と成熟への志向を増進させることになります。

意識から締め出された、人間の本性に基づく諸欲求から生じる葛藤と苦しみを認識し、現実的な状況と価値観を変化させることによって健康へ至るというステップは、社会病理においても同様です。
これまでの章では、人間の欲求と現代の社会構造との葛藤を明らかにすることが目的でしたが、本章ではそれを踏まえた上で社会の変化の可能性を論ずることが目的です。
先ずは精神の健康とは何か、そしていかなる型の社会がそれを促進するか、ということをまとめます。

精神的に健康な人とは、生産的で疎外されていない人であり、愛情を込めて世界と自分を関係付け、理性によって現実を客観的に把握し、自身を独自の個人的な存在として経験しつつ同時に仲間との一体感を感じ、不合理な権威に服従せず良心と理性による合理的な権威に属し、生きている限り成長の過程とし、命(人生)という贈り物を最も貴重な機会であると考えている人です。
このような精神的健康は、決して外部から強制されたり、生来的な性質を犠牲にしたり超克したりして実現する理想などではなく、人間皆が生まれながらに備えている(正気への)欲求を基礎にするものです。
強力な社会構造や環境が、この精神的健康への欲求や努力を抑えつけたり倒錯させたりしているだけです。
砂漠に蒔いた種が成長しないからと言って、その種には成長力がないなどと言うのは馬鹿げています。

では、正気を実現する社会構造とは、どういうものでしょうか?
それは、人間誰もが他人の手段とはならず、自分自身の人間的な力を発揮すること以外の目的で利用されない社会。
経済的政治的活動は人間の成長(目的)に従属する手段であり、あくまで人間が中心である社会。
個人的な利益や威信を高めるために、貪欲、搾取傾向、独占欲、ナルシシズムなどの人間のネガティブな性質が利用されたり推進されることのない社会。
原理・原則を持たす、考えることなく多数に追随し立場を変える日和見主義を非社会的なものとみなし、各々が良心に従って主体的に行動することを基本的な資質とする社会。
個人が社会の問題に関係することが個人の問題にもつながる社会。
人間に管理可能かつ観察可能な範囲内で活動でき、個々人が自由と責任ある参加者となれる社会。
人間の連帯を促進し、メンバーが互いに愛情を持って関わることを許可し、支援する社会。
人々の生産的な活動を促進し、理性の発展を刺激し、人間本性の内的欲求を文化として表現できる社会です。

二節、経済的変革

A.社会主義の問題

前章で三つの解答を考察したように、全体主義は人を狂気と非人間化に導くものであり、超資本主義はその病理をより深めるにすぎず、唯一建設的な解決策に見えた社会主義も結果として失敗に終わりました。
この社会主義の失敗の原因を考察し、正気の社会に導くための社会的経済的再建の目標を示します。

マルクス主義的社会主義によれば、社会主義は、生産と分配の手段の社会化と、集中化された計画経済という二つの前提に基づくものです。
マルクスと初期の社会主義者は、これが達成できれば、疎外からの解放と、同胞愛と正義に基づく階級のない社会が実現すると信じていました。
その変革に必要なのは、労働者階級が武力または投票によって政治的支配を獲得し、産業を管理し、計画経済を導入することでした。

ロシアは経済的な面でこれを遂行し、経済的には機能することを示した一方、自由と同胞愛に基づく疎外ない社会を実現できなかったどころか、その中央集権的な計画立案は、資本主義やファシズムよりもさらに強固な統制と権威主義を生み出すという結果を示しました。
これは、所有権の法的変更と計画経済が、社会的・人間的な変化をもたらすのに十分な条件だと考えたマルクスとエンゲルスの誤りを証示するものです。
また、マルクスは資本主義の不平等の縮小を考えていましたが、むしろロシアの所得格差は、アメリカやイギリスのような資本主義国よりはるかに大きくなっています。
社会主義は国家と社会階級の漸進的な消滅につながるとマルクス主義者は考えていましたが、ロシアは国家や社会階級の輪郭が、どの資本主義国よりも強くなっています。
マルクスの社会主義概念の核心は、物(=資本)は生命(=労働)に仕えなければならず、生命が死んだ物に従属してはならないというものでしたが、ロシアでは人間の軽視がどの資本主義国よりも酷くなっています。

マルクス主義に基づいていないイギリス(労働党)も、実際的な措置においては産業の社会化をたどり、全てか無かの原理主義的なものではなく、平和的な方法による資本主義と社会主義の混合的な経済を採用しました。
民主的な社会主義、いわゆる社会民主主義~暴力革命に基づく共産主義ではなく、議会制民主主義に基づく社会主義の実現~です。
基礎産業の国有化(全産業の約五分の一)によって、経済全体をある程度調整可能にし、労働者の社会保障制度の拡張を図りました。
しかし、イギリスのこの実験も、それなりの成果は挙げたものの、資本主義における疎外の問題は何も変わらず、特に経済ではなく人間的な面で、社会主義が掲げた理想に資するものではありませんでした。

ソビエト共産主義の恐るべき結果があり、他方で労働党社会主義の残念な結果があり、多くの社会主義者に諦めと絶望の雰囲気をもたらしました。
今でも社会主義を信じ続けている人もいますが、それは確信というよりも、プライドや頑固さによる硬直したものです。
社会革新への信頼を失った人々は、資本主義に対する批判や社会民主主義の新たな提案を控え、ただ共産主義に対する攻撃に終始し、まるで共産主義の脅威を排除しさえすれば世界は平和であるかのように欺瞞的に振舞っているだけです。

しかし、彼らの悲観的失望的態度にも関わらず、依然としてヒューマニズムに基づく社会民主主義の理想は多くの人々の目的となっており、むしろ以前よりも現在の方がその実現の為の客観的条件は与えられています。
社会変革の問題は、理論的にも実際的にも今日の科学者が解決した問題ほど解決が難しいものではありません。
そして、私たちが飛行機やテレビなどの科学技術の産物を必要としている以上に、人間の復興を必要としているということも疑いなき事実です。
人間が自然科学の問題に投じた能力を、人間の問題にも振り向ければ、先人から受け継いだ課題の解決の道を前進させることができるはずです。

B、共同体主義的社会主義の原理

所有権と財産権は資本主義経済の核となるものです。
マルクスは、この資本主義の財産制度を逆転させるために「収奪者からの収奪」を要求し、生産手段を社会化することを、社会主義と定義付けました。
マルクス主義社会主義の人気と失敗は、当にこの財産権と経済的要因の過大評価というブルジョワ的精神に依存していたことにあります。
労働者の社会的・人間的状況が考慮されなかったため、労働過程における役割や他者との関係性などという重要な関心事は、他の社会主義思想学派(オーウェン主義、サンディカリスト、アナーキスト、ギルド社会主義者ら)によって探究されます。
彼ら(共同体主義的社会主義とでも呼ぶべき)が目的とするのは、働くすべての人々が積極的かつ責任ある参加者となり、仕事が魅力的で有意義なものとなり、資本が労働者を雇用するのではなく、労働者が資本を雇用する産業組織にありました。
彼らは、所有権ではなく、労働の組織および人間間の社会的関係を第一の問題と考えました。
数十年前にはマルクス主義のドグマの純粋な形のみがすべての解決策であると考えていた社会主義者たちも、この態度に転向しつつあります。

G.D.H.コール(1889-1959)は、共同体主義的社会主義の理念について以下のようなことを述べます。
「昔からの自由についての主張は正しいが、それは政治的自治の意味しか考えられておらず、新しい自由の概念は、より広範でなければならない。国家の市民としてだけでなく、人間としても扱われねばならないのである。改革者は、物質的な側面に重点を置くことによって、十分な衣食住を与えられた”服を着た機械(市民)”から構成されたより”大きな機械(国家・社会)”を信じるようになった。個人の行動の自由を装って、飢餓か奴隷(人間機械)の二者択一をもたらした。新しい社会主義の目標は、抽象概念としてではない、具体的な人間としての自由を確保することである」
「政治的自由は、実質的には幻想である。週六日間の経済的服従の中で暮らしている人が、数年に一度の投票に行くだけで自由にはなれるわけではない。人間にとって自由が意味をもつためには、産業的な自由が含まれなければならない。労働する人々が、自分も自治的な社会の一員であると思えるまでは、どのような政治体制下に居ようが隷属的であり続ける。国家社会主義も労働者を専制政治の奴隷にするものである為、単純に賃労働奴隷と資本家の主従関係を無くすだけで解決するものではない」
「人間は、どこにいても鎖につながれており、その屈辱を自覚するまでは自由になれない。文明の病は、物質的な貧困というよりも、自由と自己信頼の精神の衰退にある。世界の変革は、「改革」を生み出す慈悲心からではなく、当人たちの自由になりたいという意志から生まれる。自由は上から与えられるものではなく、自身の手で獲得されるものである」
「社会主義者は労働者に対し『貧しさの不快さから脱するために闘おう』と呼びかけるのではなく、『貧しさは人間が奴隷状態であることのしるしにすぎない。だから奴隷状態から抜け出し自己信頼をもてる生き方を選ぼう』と説得し、安楽よりも自由の方が大切であることを労働者に気づかせた時、賃金奴隷制度は終わる。普通の人々が社会主義者に成るのは、最低限度の文化的な生活水準を獲得する為ではなく、奴隷制度によって自らと仲間の尊厳が辱められていると感じた瞬間なのである」
「そのために私たちが目指さなければならないのは、労働者による産業の自治、直接的な経営と管理と要約できる」

C、社会心理学的反論

実際的な議論に先立ち、共同体主義的社会主義に対する二つの批判(産業労働の性質に基づく反論、人間の性質と心理的動機に基づく反論)を挙げます。

現代の産業は極端な分業に基づいており、本質的に人間の全体的な興味と両立することは出来ず、その性質上、機械的で、面白くなく、疎外された労働とならざるを得ません。
労働を再び面白く意味のあるものにしようとする考えはロマンティックな夢想にすぎず、それを論理的に実現しようとするなら、現代の進歩した産業システムを放棄し、産業化以前の手工業的生産様式に退歩するしかありません。
むしろ機械化をさらに進め、労働をより無意味なものにすることに、人間の未来はあるのです。
私たちはこの100年間で労働時間の大幅な短縮を実現しており、将来的には1日4時間、2時間とさらに減っていくことも夢物語ではありません。
作業工程はより細分化し、集中力を必要とする作業は人工知能によって代替されるため、労働者の仕事はより自動的・機械的・簡易的なものとなり、もはや積極的な配慮を必要とせず、白昼夢に耽りながら機械を見守り、たまにレバーを引くだけの簡単な作業となります。
清潔で明るく健康的な工場で、ニ・三時間の不快でない無意識でもできるような簡単な仕事をするだけで生活できるようになり、人間の重要な関心は仕事ではなく、残りの余暇をどう楽しく過ごすかに向かうのです。
むしろ労働の無意味化を加速させることが希望であると彼らは言います。

これは産業革命の目標でもあり、非常に説得力のある批判に見えますが、いくつか問題があります。
第一に労働の機械化は、この説を反証する事例を生み出しています。
自動車工場で働く労働者を対象とした研究によると、仕事が機械的、反復的、分業的な性質のものであるほど嫌悪され、自身の仕事に対する動機付けの95%が仕事内容ではなく給与であり、99%の人間が仕事内容を嫌っているという結果となっています。
これは現実の行動にも表れており、大量生産の程度の高い作業に就く人ほど、仕事を辞める率が高くなっています。
また、産業心理学者は集中せずに済む安楽な仕事を肯定的に捉えていますが、実際は、仕事、遊び、休憩(休憩も活動です)のいずれであっても、集中していない活動は疲れと耐えがたい倦怠感を生じさせ、反対に集中した活動は爽快でリフレッシュされます。
労働の完全な自動化と時間短縮の理想郷が順調に世界で実現するとしても、数世紀はかかるはずであり、今後数百年生きる人間はより厳しくなっていく疎外に耐え忍ばなければならなくなります。
仕事の在り方は人間形成の根本的要因であるため、仕事の自動化、無意味化、怠惰化、疎外化は、日常生活や余暇、つまり人生まで自動化、無意味化、怠惰化、疎外化してしまう危険性があり、これは不健康な理想(というより妄想)なのではないかという疑念が残ります。

現代の労働は本質的に個人の興味や満足から切り離されたもの(分業)であり、仕事の不快さは高い生産性の代償として生じる必要悪だと彼らは考えています。
労働者と管理者を切り離し、管理的な組織を構築し、労働者は規則に従ったルーチンワークに徹し適応することによって、このシステムは機能するのです。
労働者が経営へ積極的に参加することは、組織に混乱をもたらすため、現代の産業とは相容れない要求です。
一般的な人間は怠惰で、責任を果たす傾向を持たないため、労働者は自分の機能(持ち場)をきちんと遂行できるよう、管理者によって条件付けられなければなりません。

多くの一般人や心理学者が、観察可能な現実証拠とは矛盾する「人間は本質的に怠惰である」という見解を支持し、労働の怠惰化と怠惰な人間の管理化を推進しようとしています。
しかし、実際は怠惰は正常な状態ではなく、精神病理的な特異な状態です。
自身を何に賭けることも出来ない退屈状態は、人間にとって最大の精神的苦痛であり、人間を退屈状態に置けば、何の報酬が無くともエネルギーを何らかの有意義な方向へ賭し、不活動状態から脱しようとします。
子供の頃は皆、怠惰ではなく、外部からの動機付け(報酬)がなくとも、活動の喜びそのものという内的動機付けによって、忙しく活動しています。
何に対しても興味を持てない怠惰な無気力状態は、人間の本質的な性質から逸脱した重症の状態(精神病理学的に)です。
何らかの事情により失業・休業状態を余儀なくされた人々の多くが、経済的な損失よりも、その強制的な不活動状態に精神的苦痛を感じます。
定年後、他に賭けるものを見出せない多くの老人は深刻な不幸を感じ、それが急速な身体の衰弱や病気の発症・悪化につながることを示す資料は多くあります。

「何もしない」不活動状態や怠惰を理想とする考えは、人間が疎外された労働や満足感を与えない無意味な仕事に苦しんでいる反動から生じる”結果”にすぎません。
現代の経済システムよってこの病的状況が常態化されているため、それが普通の自然な状態であると錯覚され、「人間は生来的に怠惰を志向する生き物である」という見解が広く信じられてしまっているのです。
生来的怠惰を支持する見解は、疎外された仕事を前提とした研究から導かれたものにすぎず、疎外されない有意義な仕事においては全く当てはまらないということです。

仕事の動機付けに関する最も一般的な理論は、「金銭が仕事の主な動機である」というものです。
第一には、飢餓への恐怖、つまり生きていくために必要なものとしての強制的な動機付け、第二には、もっと稼ぎたいという、より大きな金銭への期待を誘因とした自発的な動機付け、であり、現代資本主義(大量消費)社会では後者の意味合いが主となっています。
実際、世界中の経営者が、労働者の生産性向上と管理の向上のための第一の手段として金銭的インセンティブを計画しており、経営者側、労働者側どちらに対する調査でも、大半がこの見解を支持しています。

しかし、より多くの金銭を求める欲求は産業自体によって絶えず喚起され続けているという事実を考慮せずに、動機に関して議論しても不完全なものとなります。
現代の金銭動機の多くが産業側によって人為的に作られたマッチポンプ的なものです。
消費者は、広告や分割払いシステムなどの様々な方法によって、もっと多くのより新しい商品を購入したいという欲望を刺激されます。
結果的に消費者は、常に自分の財力では充たされることのないほどの過剰なニーズを抱え、金銭に飢え続けることになります。
さらに、仕事自体が疎外され意味を剥奪されたものであるため、必然的に動機の向く先が金銭の一点に集中します。
実際、人はその仕事そのものに意味があり興味を持てるものならそれらの動機を重視し、金銭的報酬が少なくてもそれを選ぶ傾向があります。
また、中・上流階級では、金銭は、安全を得ることや消費の欲求を充たしたいという機能以上に、名誉・地位・権力などの証しとして利用され、それ(金銭に伴う名誉)が強力な動機として働きます。
勿論、程度の差はあれ、下層階級においても、獲得される金銭の額によって威光を得ようという欲求は多く見られます。

現代の大部分の人にとって仕事の動機は、以上のような金銭を主としたものです。
19世紀から20世紀初頭にかけては、独立した経済的存在となる満足感と、自らの仕事に対する熟練という動機が未だ機能しており、金銭動機よりも有意義で魅力的な労働の選択肢がありました。
しかし、現代ではこれら動機は急激に減少しています。
19世紀初頭には有業人口のほぼ五分の四が自営業者でしたが、1870年頃には三分の一に減少し、1940年までに五分の一となります。
被雇用者は自営業者に比べ、疎外された労働条件下で働くこととなり、仕事に対する満足感と自己価値観の低下(自立した人間ではなく組織の付属物であるという劣等感)を生じさせます。
勿論、被雇用者でも高度な熟練を有する者であれば、ある程度疎外を軽減させ、仕事もそれなりに有意義なものとなります。
しかし、産業が発展する程、熟練労働者の椅子は減り、極一部の熟練者を除き大半が未熟練労働者で占められていくことになります。
現在、経営者や高度な専門家集団などの極一部の人々を除く国民の大部分が、個人的な才能を開花させたり特別な成果をあげたりする機会のない熟練不要の雇用労働者として働いています。
大多数の人間が、金銭を得るということのためだけに、自己の肉体的才能と知的才能を極少数の雇用者に売り(賃労働)、自身の興味とは離れた他人の利益のための手段としての労働を為さざるを得ないのです。
不満、無関心、退屈、喜びや幸せの欠如、徒労感、人生には意味がないという漠然とした感覚は、この状況の避けられない結果です。
現代人の金や名誉や権力などを求める強迫的な活動の裏には、これらの社会的病が隠れています。
人々を駆り立てるものは、自然な動機ではなく、疎外された自己の空虚さを埋め合わせるため、あるいはその現実から逃避するためという、病的な動機を元としています。
この事実を明らかにするためには、精神分析的な視座(意識と無意識)が有効です。
現代人は意識的には自分の状態に満足していると思って(思おうとして)いながら、悪夢や不眠や心身症やその他様々な病的兆候によって、無意識的な不満や不幸を間接的に表明しています。
社会において、幸福や満足は一種のステータスとなっており、不幸や不満足は「失敗、不成功、落ちこぼれ」の証として作用するため、他人に対しても自分に対しても、その事実を隠そうとする傾向にあります。
例えば、かなりの数の人が結婚生活においての幸福を偽ってることが、アンケート調査から明らかになっています。

仕事に対する調査では、意識的な満足を感じている人の割合は、経営者・専門家八割、ホワイトカラー六割、ブルーカラー四割程度と、意識面でも有意な数となっています。
これに、高血圧、潰瘍、不眠症、神経の緊張、疲労、心因性疾患、神経症的症状、欠勤、怠業、離職などから心理学的に判断された無意識的な不満足を併せると、仕事に対する満足度は上記のものより遥かに低い数字となります。
経済的観点から見た最も重要な症状は、ブルーカラーの意図的な労働制限(怠業)であり、1945年の世論調査では、労働者の四割以上が仕事において最善を尽くすべきではなく最低限の仕事で良いと考えています。
このような不満を、産業社会は金銭的及びそれに伴う威光(地位・名誉・権力等)というインセンティブによって打ち消そうとし、実際、不満を上回る労働に対する熱量を生じさせることに成功しています。
しかし、それは人間の幸福と精神の健康に資することはなく、むしろ有害に働きます。

人を動かす動機には様々なものがありますが、動機付けによってはその人を蝕むようなものが多々あります。
金銭的インセンティブは労働者の経済的生産性を高めることしかできず、人間的生産性(生産的構え=健康・正気)に関わるものではありません。
人は恐怖や罪悪感のような神経症的な動機から激しく働くこともあり、条件次第でそれは不活動と過剰活動のどちらにも振れる表裏一体のものです。
疎外された労働が常態化した社会に生きる私たちは、それが唯一の労働と考えているため、仕事を嫌悪するのは当然の反応であり、金銭的インセンティブ以外の健康的な動機があるという事実を認識することができません。
私たちがもう少し現実をよく観察し(例えば、子供が夢中で何かに没頭している姿など)、想像力を働かせれば、仕事に対する有意義な動機付けという別の可能性を再発見することができるはずです。

しかし、多くの人々はこの事実を知ったとしても、産業革命以降の技術的成果を放棄するわけにはいかないと、反論するでしょう。
つまり、人間的な仕事の満足感と経済的生産性はトレードオフの関係にある為、不満足は必然であると言うわけです。
現代の労働が有意義な仕事となりうるか(経済的生産性と人間的生産性は両立しうるか)という問題を、次いで考察します。

D、動機となる利益と参加

仕事の状況の「技術的側面」と「社会的側面」を分けて考えると、第一に、社会的側面が満足できるものであれば、技術的側面において多くの種類の仕事が魅力を持つことが分かります。
第二に、技術的側面において本質的に面白くないものが、社会的側面によって有意義で魅力的な仕事になることもあります。

第一の問題について考察します。
例えば、多くの男性は鉄道技師という仕事(技術的側面)に強い興味を持っていますが、地位・名誉・権威などの社会的な意味付け(社会的側面)によって、男性は技師よりも経営者を選択してしまいます。
技術的側面においては、単調なデスクワークよりも、日々変化する人とのコミュニケーションを楽しむことのできるレストランの給仕の方が魅力的であったとしても、社会的評価や給与(社会的側面)において劣っているため、人は事務仕事を選びます。
タクシーの運転手であれ炭鉱夫であれ、人が避けるどんな職業であっても、否定的な社会的側面が無ければ、どんな種類の仕事(いかなる技術的側面)であろうが、ある種のタイプのパーソナリティーにとっては、魅力的になるはずなのです。
地位として見下されたり、低く評価されたり(低給)するような、職業の貴賎を生じさせる社会的状況(幻想)が、各々の人間の個性と職業の本質的魅力の適切なマッチングを阻み、仕事をつまらないものにしてしまっているのです。

第二の問題について考察します。
上に述べたことが正しかったとしても、やはり現代の産業の機械化と分業化とルーティン化によって、労働の本質的な魅力(技術的側面の魅力)が、失われていっているのは確かです。
しかし、いかに技術的側面において魅力のない仕事であったとしても、社会的状況次第(社会的側面)で、満足を与えるものとなる可能性があります。
例えば、掃除や洗濯などの単調な仕事も、雇用労働者として為す作業員と、愛する家族の為になす主婦とでは、意味も満足も全く異なったものとなります。
両者、仕事の技術的側面は同じですが、作業状況(社会的側面)が異なります。
主婦にとって家事は夫や子供たちとの全体的な関係の一部であり、仕事はその状況に対しての直接的な参加となり、それが彼女にとっての意味を生じさせています。
それに対し、雇用労働者は、自分とは関りのない疎外された状況において作業を為すばかりでなく、目的が金銭のみに向かっているため、状況への参加が不可能になり、仕事の意味や満足を見出すことができなくなります。

産業心理学における研究でも、労働状況の技術的側面と社会的側面の区別の重要性が証示されています。
労働者の仕事への積極的かつ責任ある参加が、単調な仕事に意味と満足を生じさせるということを示したひとつの例が、メイヨーの『ホーソン実験』です。
[ホーソン実験の頁を参照]
この実験は、病気、疲労、それに伴う生産性の低下が、主に仕事の単調な技術的側面によって引き起こされるのではなく、社会的側面において全体的な労働状況から労働者が疎外されることによって引き起こされることを示しています。
労働者が社会的な状況に参加することを許され、ある程度疎外を軽減することができれば、同じ仕事であっても労働者の心理的反応と仕事に対する態度が大きく変わってきます。
メイヨーに続き、労働状況の社会的側面の重要性を結論付ける様々な研究が為されました。
これら産業心理学の研究による成果は、今日のヨーロッパにおいて展開されている共同体主義運動に関する報告と併せて考察することによって、より説得力のある産業組織の変革の可能性を開くことができます。
[フランスの宝飾家・起業家・政治家であるMarcel Barbu(1907-1984)によるボイモンド―(時計製造工場)でのコミュニティー実験(1941年開始-1971年終了)について詳細に語られます。『中公バックス世界の名著・フロム・ユング』484~496頁を参照。]

E、実践的な提案

問題となるのは、共同体主義者が限られたコミュニティーで作った条件を、社会全体にも作ることが可能かということです。
その条件とは、人が自分にとって意味のあることに人生とエネルギーを捧げ、自分が何をしているのかを理解し、行われていることに影響力を持ち、同胞と疎外されることなく一体感を得られるような労働状況を作り出すことです。
その為には、個々人の積極的な参加と責任を可能にすると同時に、必要な時には統一された指導力を生み出す、集権化と分権化を融合する方法が見つけなければなりません。

労働者が積極的に参加するための第一の条件は、労働者が自分の仕事だけでなく、企業全体の動きについてよく知っていることです。
それは主に、企業内の技術的過程全体の中での自己の作業役割と、企業外の社会全体における自社の経済的機能を把握すること、つまり技術面・経済面の両方の全体地図を得ることです。
これらの知識は、入社後最初の数年間の教育プログラムとして、与えられるものです。
理論的な知識や興味は、それらを行動にし、その結果として反応が生じる時にのみ活きたものとなる為、個人の行動が労働状況や企業全体の決定に影響を与えること、そしてそれを把握することができる場合にのみ、積極的で責任ある参加者となることができます。

労働からの疎外は、労働者が資本によって雇用されず命令の対象ではなく、むしろ労働者自身が”資本を雇用する”責任ある主体となる場合にのみ克服できます。
ここで重要なことは、生産手段の所有ではなく、経営と意思決定への参加です。
問題は、権威主義的な管理体制による経営と、計画性のない労働者たちの管理による経営との対立ではなく、集権化と分散化の統合、つまり上から下への流れと下から上への流れの意思決定の統合にあります。
経営に対する責任を労働者にも分与し、中央指導部と小グループ(労働者)の間で労働状況や経営全体の問題について話し合い、最終的な意思決定を為します。
また、仕事の第一の目的は儲けることではなく、社会の人々に奉仕するという原則(その対価-結果-としての儲け)を受け入れなら、奉仕される側(消費者)も、意思決定の第三の参加者として発言権を得る必要があります。

このような共同経営・共同決定の原理は、所有権の制限を意味します。
当然、企業の所有者は、資本投資に対して適当な割合の利益を受け取る権利を有しますが、資本そのものが雇用されている人々に対して無制限の命令を下すような権利は与えられず、利益はある程度分配されなければなりません。
共同経営を導入する際に必要な法規は所有権の制限ですが、これは別に革命的なことではありません。
保守的な実業家であるJ.F.リンカーン(リンカーンエレクトリック社会長)ですら一定量を超えた利益は労働者に分配すべきだと提案しており、B.F.フェアレス(U.S.スチール社会長)は、従業員が毎週5ドル程度自社の株を買えば、数年で過半数を得られるだけの株を取得できると述べます(つまり労働者自身が大株主になることで議決権を握るという提案)。
社会学者のF.タネンバウム(1893–1969) は、労組が労働者の代表として、企業の経営を制御するだけの株式の購入し、労働者自身が商品のように扱われぬよう管理することを提案します。

勿論、これらは既存の資本主義型の方法を発展させるものであるため、被雇用者が”自分たち”のことしか考えないなら、結局、利己的で疎外された個人がチーム単位に拡大されるだけで何も変わらないという危険をはらみます。
グループ内だけの社会的結束は、部外者に対する敵対心と表裏一体のものであり、それは社会的感情ではなく拡張された利己主義にすぎず、問題をより一層悪化させます。
労働者が自らの企業の枠を超えて物を見、考え、消費者や他の労働者全体に対して関心および関係を持つことは、労働者の経営参加において本質的なことなのです。

仕事を人間化するという目的を持った、上述の提案の本質は、経済的な利益を増大させることでも、仕事そのものに対する満足感を得ることでもなく、経済活動を生活全体の一部かつ従属的な部分として統合することにあります。
経済活動は、余暇や私生活や政治活動など他の活動から切り離すことはできず、他の領域を人間的にすることなく一部のみを改善したとしても、皮相的なものに終わり、本当の変化は起こりません。
さまざまな活動領域を分離し、分割されたものを対立させたり、分割された一つの従属物に支配(疎外)されたりすることは、まさに現代文化の病であり、正気への道は、この分裂を克服し、社会と個人の新たな統一と結合を成就することにあります。
先に述べたように、社会主義の失敗は、私有財産と共有財産の対立という経済的要因のみ強調し、人間的・社会的要因を無視したことにあります。
この失敗の原因が明らかになるにつれ、労働者の共同参加、共同経営、分権化、労働過程における労働者の具体的な機能、を焦点とした社会主義への刷新が求められつつあります。
オーウェン、フーリエ、クロポトキン、ランダウアー、共同体主義者の提案は、マルクスやエンゲルスの考えと融合します。
関心はもはや理念的・理想郷的・独断的なイデオロギーにはなく、現在の具体的な人間にあります。
民主主義的社会主義、人間主義的社会主義を実現するには、その当事者が社会主義および民主主義の本質を理解せねばならず、社会主義者自身が資本主義の精神で実行されている社会主義を捨て、労働者自体が資本主義の精神で運営されている労働組合を民主主義化せねばなりません。
フェビアン協会のメンバーらは、共同参加と分権化のための具体的な方策を『ニューフェビアンエッセイ』の中で述べています(詳細は社会思想研究会出版『新フェビアン論集』を参照)。

現代の産業界全体が、”拡大し続ける市場”というものを前提として成り立っているため、産業界はあらゆる手段を使って国民の購買意欲を刺激し、精神的に有害な受容的な構えを生み出し、強化しようとします。
企業は作る必要のないものを作り(大量生産)、消費者は欲しくないものを欲しいと洗脳され購入する(大量消費)、という無駄のサイクルが、経済的に要求されるのです。
使い捨ての商品を通して、消費者は仕事や人間の努力に対する敬意を失い、本当のニーズを見失うことによって、浪費される生産物を心から必要とする他の国民や貧しい外国の人々のことを忘却してしまいます。
習慣化された無駄のサイクルの幻は、人間の生活の現実を覆い隠すのです。
現代の経済システムそのものがこのサイクルを基礎とし、その回転を止めることは経済の崩壊を意味します。
疎外された消費は、精神論で解決できるようなものではなく、疎外を生み出す経済的過程自体を変える必要があります。
一般的な解決策を述べるとするなら、人為的にニーズを作り出す分野にではなく、真のニーズが満たされていない分野に生産を誘導することです。
これは、国有銀行を通じた融資、特定の企業の社会化、広告の変革をもたらす法律などによって実現できます。

富裕層にとっての平和は、長期的には、貧困層の経済状況に依存します。
貧困層のニーズ(真のニーズ)を満たし、社会あるいは世界の安定をはかるには、富裕層の無駄な消費サイクルの生産性を、貧困層のそれへと向け変える必要があります。
争いが生じた際の損害や争いを抑止するために要するコストに比べれば、人為的な経済サイクルをある程度抑制することによって生じる富裕層の利益の減少は大したものではありません。

これは、資本投資の利益のために、有害かつ不健全な方法で国民のニーズを人工的に操作することが、どの程度許されるかという、より一般的な問題に関わります。
食品や医薬品は、法律によって、身体的健康に有害となるような、無制限の製造や広告を規制しています。
それと同様、資本家の利益の最大化の為に、消費者の精神的健康を著しく害するような他のすべての分野の商品についても、同じような対策を取ることが可能です(例えば、映画を売るために為される過激描写に対し、一定限度で法的規制をかける)。
もし、法的規制では効果がない分野があれば、その産業は社会化する、あるいは公共の資金で作られる必要があります。
精神的ニーズを物質的ニーズに隷属させるようなことをしない限り、これらの問題を解決することは可能です。

所得の平等という考えは、本質的な意味では、社会主義的要求でもなく、現実的でもなく、望ましいものでさえありません。
本質的に必要なのは、人間が尊厳をもって生きていくための基礎となる所得です。
所得の不平等が、人生経験に根本的な違いをもたらすようなことになってはいけないということです。
所得の数量的な多寡が問題なのではなく、所得の量的な違いが人生経験の質的な違いに変わるラインです。
所得の差が或る程度の範囲であれば、人生の基本的な経験可能性は変わりません。
[ここでフロムは、人間の尊厳ある生存を最低限維持するための普遍的社会保障(いわゆる生活保護)の必要性を訴えます。また、一切の社会的責任を放棄するような病的な依存を生じさせないよう、受給の期限を設けることを提案します。]

万人に最低限の生活の権利を与える社会保障に対する主な反論は、それによって人々が働かなくなってしまうということです。
しかし、これは先に述べたように、人間は本質的に怠惰だという誤謬に基いた批判であり、実際は、神経症的な怠惰を除き、人は働くことを好み、無為を嫌うということです。
人間の性質に反するような強制的な労働条件が人々の怠惰への志向を生じさせているだけであり、疎外や強制なき労働であれば、それは各人にとって十分興味深く魅力的なものになります。
悲惨な労働条件を受け入れざるを得なくする飢餓という経済的脅威が無くなった時、はじめて人は生命を担保にされた強制労働から解放され、自由で責任ある主体として行動することができます。
なんの資産も持たず産まれ、自分の生命を資本家に対し切り売りすることでしか生きていけない労働者に、いかなる自由も存在しません。
契約の自由とは、両当事者が自由に承諾または拒否できる場合にのみ生じる概念であり、契約条件を拒否することの許されない(生命を担保にされた)労働者は、事実上の奴隷状態にあります。
最低限の生存を保証することは、雇用主と被雇用者の間に真の契約の自由を成立させるための第一歩なのです。

このような制度は、様々な方面で、人間の自由の範囲を拡大します。
失業する自由(生活保護という安全網)がない場合、嫌いな仕事を為し続ける必要があり、解雇されるリスクを冒せず上司に対する完全な服従状態が生じ、身体的にも精神的にも極めて危険な状態が生じます。
経済的な問題で不幸な結婚生活から逃れられない女性や、悲惨な家族状況から逃れられない青年、転職に時間のかかる中高年の労働者など、多くの人々が、最低限の生活を保障されることによって、基本的な脅威が取り除かれ、人間としての行動する自由が回復されます。

この社会保障にかかる費用は、格差がもたらす暴力的な争いから国家を護る費用(軍事、警察)に比べれば小さいと先に述べました。
それに加え、労働者が仕事に対する興味を回復する社会においては、生産性が上がり、人々の犯罪や精神的病に起因する経済的損失が減少するため、費用の問題はより小さなものとなります。

第三節、政治的変革

民主主義は個人の意志と信念を基本とするため、現代の疎外された社会においては、まともに機能していません。
現代人は、メディアによる強力なプロパガンダや、疎外と同調を強制する社会システムなどによって、自分個人のものでない意志や信念(というより臆見や偏見)を持つにすぎません。
一般的な有権者は新聞報道程度の情報しか持っておらず、さらに世界の実体から疎外されているため、その内容を抽象的、非現実的、非個人的に解釈せざるを得ず、報道を小説を読むのとほとんど変わらない無責任な傍観者(他人事)視点で捉えるだけです。

民主主義(多数派の統治)が、王制や貴族制(少数派の統治)より良いと判断されたのは、そちらの方が為政者が誤った時のリスクが小さいという意味(リスク分散)でしかありません。
それがいつの間にか、民主主義者は、多数者の選択(多数決)それ自体を必然的に正しいものであると決めつけるようになり、多数であることが正しいことの論証となり、多数者の主張が押し付けられるようになっています。
しかし、歴史的に見て、元々正しい考えを持つのは少数者であり、後にその正しさが市民の理解を得て多数になっていくのが普通です。
つまり、多数決という考え方自体が、正しさからの疎外を促進しているという側面があります。

有権者は、直接政策決定に関わることができず、どの政党や政治家に自身の政治的意志を任せるかという限られた範囲でしか政治に関ることができません。
政党および政治家は、有権者の票を必要とするため、当然、民意を反映した政策を採ります。
しかし、投票が終わるとそのつながりは消え、為政者は利己的な利益を混ぜた政策を為すようになりますが、有権者は次の投票まで何もすることができません。
そういう意味でも、有権者の意志は、非常に限られた範囲でしか力を持ちません。

民主主義の進歩は、選挙権拡大の過程であり、いまやほぼ全国民にその権利(普通選挙権)が与えられるようになりました。
しかし、選挙権を完全にするだけでは不十分であり、民主主義制度はさらに次の段階に進歩しなければなりません。
真の決定は、空気に流された大衆によって下すことはできないため、五百人以下の小集団に分け、各集団がタウンミーティングのような形で議論することによって、大衆的扇動の影響を最小限に抑え、個人の意見を決定に生かすことができます。
勿論、ここで下された決定が、中央の意志決定に直接影響を与えるシステムでなければ、意味がありません。
これは、現在の中央集権的な民主主義と、高度な地方分権とを組み合わせたシステムを作る、つまり昔のタウンミーティングの原理を現代の産業化社会に再導入するという課題です。

具体的な提案としては、居住地や勤務地に応じて、500人程度の小グループに組織し、これらのグループが定期的に会合を開き、役員を選出し(毎年変更する必要がある)、地方と国家両方の主要な政治問題について議論し、投票によって決定します。
合理的議論の為には事実の情報が必要となるため、政治的に独立した文化機関によってそれらデータを作成、公表します。
学校教育では、政府の影響を受けない比較的客観的な情報(教科書の内容)が制作され与えられるように、各分野から優れた業績と倫理感を持つ人物を集め、非政治的な文化機関を設立し、事実に関する客観的な情報をまとめ発表するのです。
当機関内で意見の相違が生じた場合は、相異なる事実とその根拠を、そのまま国民に提示します。
今日私たちが持っている技術の助けを借りれば、これらのシステムを構築することは容易です。
伝統的に議会は二つの議員(上院-貴族院、下院-庶民院)で構成されていますが、上述のようにして得られた民意(小集団単位での政治的意思決定)の代表によって、真の下院(庶民院)が生まれます。
このようにして、意思決定は上から下と下から上の双方向から為されるものとなります。
政治的問題は抽象的なものではなく、個人の実際的な関心事となり、国民一人一人が責任と主体性と自身の思考をもつことを促すこととなります。
個々の国民は、自分を超えた権力に投票するという儀式によってのみ政治的意志を表明した疎外的状況から脱し、個人は社会の参加者であるという本来の役割を自分自身の中に取り戻します。

第四節、文化的変革

私たちは新しい理想や新しい精神的目標を必要としてはいません。
過去の偉大な人類の教師たちが、既に、健全な生活を送るための規範を示してきました。
彼らは異なる言語で話し、異なる側面を強調し、部分的に異なる見解を持っていますが、本質は変わりません。
本質を見ることができず、表面的相異を強調して見る単純な人々(諸々の教会、政治組織、社会階層)が、激しく争っているだけです。
自然の保護から離れた無力な人間は、良心と友愛の団結の中に新たな拠り所を見出し、完全な人間として生まれ変わるという運命的理想をもつようになりました。
海を超えたあらゆる文化の中心地で、同じ理想が説かれました。
これら偉大なヒューマニズムの教えの継承者である私たちには、正気で生きる方法についての新しい知識が必要なのではなく、その教えを真剣に受け止めることが必要なのです。
私たちの心の革命に必要なのは、新しい知恵ではなく、新たな真剣さと献身です。

文化の指針となる理想や規範を人々に与えるという任務を第一に負うのは教育ですが、現在の教育システムは極めて不健康な状態にあります。
現在の教育が目的とするのは、産業化された社会の歯車として上手く機能するために必要な知識と性格特性を形成することです。
(高性能ロボットのように)権威に従いながらも自律的に働き、(人・物・事に対し)フレンドリーでありながらも深い愛着は持たず、人格市場で需要のある性格的特徴を身に纏うことを、優等生として求められます。
また、現代の教育では、理論的知識と実践的知識の分離が甚だしく、それは仕事に対し意義を持ち参加することを容易にするどころか、むしろ困難にする傾向にあります。
実践的作業と理論的指導のどちらを先に置くかは年齢によって異なりますが、発達のどの年齢においても、この二つの面を分離してはなりません。
理論と実践の結びつきを学び、仕事の有意義さを経験的に知得しない限り、学校を卒業すべきではありません。

私たちの教育が、国民の人間的発展ではなく、社会組織のために役立つ国民の有用性を目指しているという事実は、教育の必要性を15歳か18歳、長くて20歳過ぎ迄と考えていることからも明らかです。
なぜ社会は、子供の教育にのみに責任を感じ、それ以上のあらゆる年齢の人々の教育には無関心なのでしょうか。
6歳から20歳頃までの年齢は、一般に考えられているほど学習に適しておらず、国語(言語)や数学を学ぶのには最適ですが、歴史、哲学、宗教、文学、心理学などの”理解”には限界があります。
大学程度の人生経験では、真の理解を得られない科目が多く、むしろ30代や40代の方が、(記憶ではなく)理解するという意味での学習においては適していると言えます。
関心自体が不安定な思春期青年期よりも、成人以降の関心が安定する時期の方が、勉強に対する興味も強く、生産的な学習が可能になります。
この年代は、転職やキャリアアップなどで再学習を必要とする時期でもあり、勉強する機会を青年以外に与えないのは問題があります。
健全な(正気の)社会であるなら、若者に与えられているのと同じ教育可能性を、成人以降の人々(国民すべての)にも提供しなければなりません。

知識の伝達と人格形成を主とする学校教育は、「教育」の一部にすぎず、最重要の部分というわけでもありません。
「教育(education)」の語源が「引き出す」という意味のラテン語”educere”であるように、その人の内から生ずる知識や学びでなければなりません。
学校教育によって、社会人として上手くやっていく技能や知識や人格特性を学び身に付け、経済的に満たされたとしても、人間の本質的な部分では安心や満足を得ることはありません。
人間が真の満足を得るには、他人から与えられた頭だけの知識だけでなく、自分自身で、自分の全身を使って、世界を把握し、学んだ考えによって、行動しなければなりません(つまり自分の人生を生きる)。

人間の心と身体(自身)と世界は、切り離すことができません。
人間がその心(思考)によって世界を把握し、自身と世界を一体化する時、哲学や科学や宗教が生み出され、人間がその心(感性)によって世界を把握し、自身によって表現する時、歌や絵や彫刻などの芸術が作り出されます。
それは、人生から切り離された、近代以降の専門職としての芸術を指しているのではありません。
[近代以降、芸術家は作品に個人の名を入れるようになり、一方でその名-ブランド-を礼賛し作品を消費する顧客がいるというのが、現代的意味での芸術です。現代の有名彫刻家より優れた彫刻を作った古代ギリシャやエジプトの人々は、神への捧げものとして美を追求したのであり、作品に名を入れるという発想自体がありませんでした。]

世の中には、芸術の専門化(専門職化、商品化)によってこぼれ落ちた無数の芸術があります。
美しい聖堂や儀式、フォークダンス、生け花、民謡(昔の人は田植歌や茶摘歌のように皆で歌い踊りながら仕事をした)など、自身に直結する生活の一部としての芸術(広義の芸術)は、現代の世界においてその居場所を失っているので、私たちにはそれを表す言葉をもっていません。
便宜的にそれを「共同芸術(collective art)」と名付けておきます。
それは、生活に直結する意義があり、生産的かつ積極的で、共有された方法で、私たちの感覚を使って世界に応答することを意味します。
現代的な意味での芸術は、生産においても消費においても個人主義的ですが、共同芸術は他者との一体感を得られるものです。
生活(人生)に”追加される”現代の芸術とは異なり、生活とは切り離せない芸術です。
それは人間の基本的なニーズを満たすものであり、それを持たない人間は、有意義なものとして世界を捉えることができず、個人は不安定で孤独な存在となります。
人間は自分自身と世界を、思考的(哲学的・科学的)、および、感性的(芸術的)に関係付け、一体となることによって、世界の意義と自身の存在価値と安心を得ることができます(先に述べた”生産的構え”)。

このような価値観を失った文化においては、人は受容的構え(方向付け)および市場的構え以上に発達することはありません。
現代人は消費文化の中に生きており、あらゆる芸術は市場的、受容的なものでしかありません。
儀礼など過去の共同芸術は、極めて限られた領域にのみ存在するか、見世物的真似事(ファッション)として消費されるにすぎません。
人々は芸術に積極的、生産的に参加することはなくなり、芸術がもたらす他者や世界と一体化する共同の体験も、人生に意義をもたせるアクションも、失われています。
有意義な芸術活動を共有し参加する機会がない現代人は、飲酒、妄想(有害メディア)、犯罪、神経症、狂気などに逃げるほかなくなります。
現代人が、高度な教育機関(教育)とメディア(情報)を有し、膨大な知識を受容的・消費的に詰め込んだとしても、自身を世界と結びつけ能動的な参加者となる機会を持たないなら、むしろ原始的な村の方が遥かに文化的に進歩しており精神的にも健康であるといえます。
人間の本質に依拠し自身の内から生ずる純粋な知識と、芸術的経験(つまり、疎外なき学問と芸術)が無ければ、健全な社会(正気の社会)を作ることは出来ません。

正気の社会を実現するためには、少なくとも学校教育と同じくらい重要なものとして、非宗教的な共同芸術を作り出す必要があります。
アトム化(主体的独立ではなく、主体性を失った孤立状態の意)した社会の、孤独な群衆(リースマン)と化した人々が、共同の機会を得、共に歌い、共に踊り、共に歩き、共に讃えることです。
勿論、今すぐに、人工的に共同芸術を作り出すことは出来ません。
しかし、ひとたびそれらの必要性を認識し、育もうとするなら、種は成長し、新しい才能ある人々が現れてきます。
集団芸術は幼稚園での子供たちの遊びから始まり、学校、社会人へと続きます。
非利益、無目的の純粋な活動としての、共同のダンス、合唱団、演劇、音楽バンドなどを持つべきです。
ここでも、決定的な要因は分権化であり、具体的な対面グループの中で、各々が責任ある主体として積極的に参加することです。
学校や職場や町内での共同の芸術活動は、必要があれば、中央の芸術団体からの援助や提案など受けることもありますが、それによって従属的な立場にあるという訳ではありません。
現代のメディアの技術は、素晴らしい音楽や文学などを、多くの聴衆に届けるという驚異的な可能性をもたらしました。
このような機会を企業だけに任せておくことはできず、非営利の教育施設と同等のものと考えるべきでしょう。

共同芸術を大規模に復活させるという考えは、手工業時代の懐古趣味であり、大規模な機械生産の時代には適さないという批判があるかもしれません。
確かに、私たちがアトム化(細分化)され、疎外され、共同体感覚を持てないなら、新しい形式の共同芸術を生み出すことはできません。
しかし、これは、先に述べたように、変革に向けた試みはすべての領域で同時に取り組まなければ成功ないという問題です。
教育および文化の構造変化は、産業および政治組織の変化と切り離すことはできません。

この変化を実現するためには、生産的構えの基礎にある人間の尊厳、同胞愛、理性、心(物的価値に対する精神価値の優位)への志向、つまり愛と真実と正義を求める現代社会の急進的な批判者になる必要があります。
これは、姿形は違えど過去の偉大な人々が共通に目指した本質なことです。
表面的な形姿に関する対立を止め、代わりに現代社会に巣くう偶像崇拝(疎外)の覆いを暴くために、人々が団結する時代が来たのではないでしょうか?
それは、現代の偶像である、独裁国家における権力、産業化社会における機械、資本主義社会におけるサクセス(金銭的成功)などの神格化です。
人間の精神的特質を脅かすのは、あらゆるところに蔓延する偶像化から生ずる疎外です。
私たちが宗教家であろうとなかろうと、外面ではなく本質に、言葉ではなく経験に、組織ではなく人間に関心がある限り、偶像崇拝を断固否定することで団結することができます。
神についての肯定的な事柄よりも、否定において、共通の信仰(信念)を見つけることができます。
今後、数百年以内に、外面的対立を破り、その共通する本質を実現する新しい宗教が生ずることを期待するのは、突飛な事ではありません。

この宗教のもっとも重要な様相は、今世紀に起こりつつある人類の統合に応ずるような普遍的な性格であろう。それは、東西のすべての偉大な宗教の教えに共通する人間主義的な教えを包含するものとなろう。その教義は、現代人の合理的な洞察力と矛盾しないだろうし、教義的な信仰よりも実際生活を強調することとなろう。こういう宗教は人生にたいする尊敬の精神と、人間の一致団結に役立つ新しい儀礼と芸術的な表現形態をつくりだすこととなろう。もちろん、宗教は発明されえないものだ。時機が熟したとき、前世紀であらわれたのとまったく同じように、新しい偉大なる教師の出現とともに、それはあらわれるだろう。当分の間、神を信ずるものはそれに生命をふきこむことによって、信じないものは愛と正義の教訓に生命をふきこみ、そして待つことによって自分の信念を表現すべきであろう。(E.フロム著、加藤正明/佐瀬隆夫訳『正気の社会』中央公論新社)

おわり