フロムの『正気の社会』(1)第一章~第四章

哲学/思想 社会/政治

序章

本書は、『自由からの逃走』の続編です。
人は、自由(主体的責任)の不安から逃走するために、強い指導者や民族や国家に服従する全体主義を望む、ということを述べたのが、『自由からの逃走』です。
二十世紀の民主主義社会においても、別の形の「自由からの逃走」によって、人は自己から疎外され、病んだ社会に生きているという事実を分析し、加えて正気の社会(健全な社会)を実現するためにいくつかの提案をしたものが、本書『正気の社会(The Sane Society)』です。

第一章、私たちは正気か

現代の西欧社会に生きる私たちは、自分たちが正気であるということを疑っておらず、例外的に一部の人間が正気でない人として精神病院に入っていると考えています。
しかし、精神病院の内に居る人々は、自分は正気で、病的な症状は、社会の異常な環境に対する正常な反応だと信じています。

事実はどうでしょうか。
現代社会は、歴史上最も多くの物質的富を作り出すことを可能にしたと同時に、戦争によって歴史上最も多くの破壊を為すことを可能にしました。
だからと言って、人々は理性的に成熟した訳でもなく、紀元前の人々と変わらず、その不安定な破壊性に脅かされています。
私たちは、経済の安定のために農作物を大量に処分すると同時に、何百万という飢えた人々を抱え、戦争を恐れながら同時に、経済の安定を軍事産業に頼っています。
現在、人口の九割以上が読み書きができ、印刷メディアだけでなく、テレビ、映画、ラジオなど様々なコミュニケーション媒体を手に入れましたが、その内容は過去より遥かに劣化しており、無教養、無価値、野蛮なもので溢れています。
平均労働時間は過去の半分になり自由な時間を得ましたが、(時間の使い方を知らない)私たちはむしろ自由な時間を恐れ、無益な”時間つぶし”を必死で追い求めています。
このような事実を省みて、本当に私たちは正気であると言えるでしょうか。

社会における精神の健康の問題は、単に個人の不適応(個人の病理)を診れば片付くというものではありません。
本書が扱うのは、社会や文化それ自身が不適応状態になるという、社会病理学的な問題です。
精神病の発生率や自殺率など、精神疾患に関わる様々な統計データからも、繁栄している欧米の国々が最も酷い状態にあることが分かります。
社会発展の目標である、物質的豊かさや民主主義や平和などを実現している国ほど、精神的には病的な社会となっているのです。
現代西欧文化が、人々の精神的健康や正気に対し、いかなる効果をもたらしているかを次章で考察します。

第二章、病的な社会とは

現代の社会科学者の大半は社会学的な相対主義の立場を取っています。
いかなる社会であれ、社会として機能している限り正常であり、病理はただその社会における個人の不適応にある、という考えです。
本書はそれとは異なり、「正気の社会」と言う語の前提として、正気でない病的な社会があり、また人類の精神的な健康に資する普遍的な基準(つまり社会の病理性の判断基準)が存在すると考えます。
人間には、種として共通のベースとなる心的特性や諸規則や目的(充足状態)があるはずであり、人間の定義は生物学や医学的な規定によるだけでなく、精神的な規定(人間性)も考慮する必要があります。

しかし、この人間性の一面を過度に強調し、社会形態を人間の精神構造の反映にすぎないと考える学者がいます。
その反動として、現在、多くの社会科学者は、人間は生来的な心的特性など持たず、環境要因(社会・文化)の決定論に従う順応的なものであると考えています。
この両極端な考えは生産的ではなく、支持することもできません。
本当の課題は、個人と社会の無数の現象から、人間に共通する本質を抽出することであり、そこから人間性に固有の諸規則や目的を探り当てることです。

人間は、自然物をその性質に従い変様することができるように、人間の性質に従い、自己を変容することが出来ます。
人間は自らの性質に従う潜在的な可能性を発展的に変様させていくことが、人間の歴史における課題です。
ある特定の文化において現れる特定の人間像は、人間の一般的な潜在的可能性を、社会秩序の拘束によって限定(特定)したものにすぎません。
人間は優れた社会・文化的条件を形成することによって、潜在的な能力を発揮することができますし、その反対の場合は阻害されます。
人間の精神的健康の基準は、ある特定の社会秩序に個人が適応しているかどうかではなく、このような潜在力を発展させ成熟できているか、あるいは阻害され発展に失敗しているか、という、万人共通の問題にあります。

一般的に精神的健康(正気)を判断する際に、「大多数の人間が同じ考えや感情を持っているかどうか」で量られてしまうという問題があります。
これは真理から最も遠い方法であり、何百万人の人が精神異常をきたしていたり、誤った事や悪い事をしているらといって、彼らを正気だとか真理だとか善だとかいうことは出来ません。
人間の本質的な特性である自由と自発性を実現することは、人間共通の目標です。
ある特定の社会においてこの自由を拘束し、大部分の成員が(人間の本質に照らして)欠陥状態にある時、その成員は自分の欠陥に気付くことができません。
むしろ、他のすべての人々と同じであることの安心感を得、欠陥が美徳であると崇められる社会的評価による自尊心によって満たされてしまいます。

自動人形のように行動し、型通りの感情のみを持ち、他人から与えられた経験のみを経験するような(自由を失った)人間であっても、社会や文化が、欠陥をもちながらも病気とならず生活できるような条件を備えている場合、成員は神経症の症状を抑え込むことができます(つまり病気に気付かない)。
例えば、社会が提供する映画やテレビやスポーツなどの様々な麻薬的な装置を、数週間でも停止すれば、多くの人々は神経症的な不安状態に陥るでしょう。
社会が提供する治療システムが効かない人々(誠実で感受性が高い人が多い)もいます。
彼らは、文化の麻薬を受け入れることができず、かといって流れに逆らって生きられるほど強壮でもないという、進退両難の状態にあります。

いかに問題のある社会であっても、人々の症状を抑える治療薬(社会システム)さえあれば、社会は上手く機能し続けるように見えます。
しかし、歴史はこれが不可能であることを証明しています。
確かに人間は動物とは比較にならない無限とも思える順応性を持っています。
人間は、食物や風土などのほとんどの物的条件に順応し、いかなる心的条件においても生きることができます。
戦国時代であれ太平の世であれ、貴族であれ奴隷であれ、孤独であれ協調であれ、人間が生存できない心的状態はほとんどないように見え、人間に共通の性質など無いとも思われてしまいます。
しかし、人間共通の性質を無視した非人間的な扱いは、いずれ人々の反発を生じさせ、社会は破滅的な結末にいたることを、歴史は証明しています。
それは、社会を作る支配者層に対して直接向かうものでもあれば、自分自身の破壊(社会的な無気力無関心による奉仕能力の低下)によって間接的に支配者に破滅をもたらすものもあれば、よりよい社会や独立を目指す創造的革命的な破壊であったり、様々です。
人間は、ほとんどの条件において生活することができますが、その条件が人間の本質に反し、成長と正気(精神的健康)という基本的欲求を妨げるものである場合、破壊的な反発が生じるということです。

「正気の社会」とは、人間に共通する性質に伴う欲求と一致する社会のことです。
それを知るには、人間の本質とは何か、その本質から生じる欲求とは何か、いかなる社会が人間と社会の間に葛藤を生じさせ、いかなる社会が人間の発達を促進するのかを、考察しなければなりません。

第三章、人間の状況

一節、神と動物の間にある人間

人間は動物界に属します。
動物の機能は、先天的に本能に内在する特殊な行動様式により決定されます。
高い発達段階にある動物ほど適応が不完全(つまり単純ではない)で、行動様式が柔軟(つまり本能によって規定された行動様式をある程度変化させる)です。
しかし、いくら知能の高い動物であっても、自然の一部として自然と”調和”し、自然に”生かされている”受動的な存在です。

この調和を破り、自然を越え出てしまった特異な動物が人間です。
人間は、生物学的に最も無力になった動物であり、能動的に自ら”生きなければならない”という地位に至ります。
ここで、生命がはじめて、自ら思考し(知能ではなく理性)、自分自身を意識する(自己意識)という事態が生じます。
人間は自然界のはみ出し者となります。
人間は、自然の一部(動物的、自然的存在)でありながら部外者でもあるという、安住の地なき存在です。
自己を意識するとともに、己の無力さと限界を実感し、「死」というものを認識し、生と死の矛盾を終生背負い続けることになります。
理性は、祝福であると同時に呪いであり、人間は、解決できない矛盾に解答を与えようと、奔走し続けます。
人間は、絶えざる矛盾と不均衡の中にあります。
かつて受動的に自然と調和していた(生かされていた)人間以前(動物)の状態へ戻ることは出来ず、ただ理性を発達させて、自然と自分を支配し、自ら調和を実現する(自ら生きる)しか道はありません。

人間の進化は、自然という故郷を失った時に始まります。
もはや自然に帰ること(動物に戻ること)は許されず、新たな安住の地を探し求めるしかありません。
自己意識を持ち、神の命令を破り、自然との調和を失った時、楽園を追放されたアダムとエヴァのように。
その時はじめて人間として、人間の安息できる世界を、自ら創造するという道を歩み始めたのです。
人間は、本能の固定した確実性を離れ、不確実な自由の中で生き、死とともに自然へと還ります。
人間は、神と動物の間、有限と無限の間に生きる矛盾した存在です。

人間の実存にひそむもろもろの矛盾に対して、いつも新しい解決を見いだし、自然とも仲間とも、自分自身とも、いつも高度の調和のかたちを見いださねばならないという必要性は、人間のあらゆる情熱や愛情や不安をひき起こすすべての精神力の源泉なのである。

動物は、生理的欲求が満たされれば、それで満足しますが、人間は人間である限り、それだけでは幸福になることは出来ません。
幸福のみならず、正気(精神的健康)の成立においても、本能的欲求の充足だけでは、十分な条件となり得ません。
動物としてではなく、人間固有の存在条件に基く諸欲求を分析しなければ、これら(幸福や正気などの精神的問題)を理解することは出来ません。

二節、人間の存在条件に基づく諸欲求

人間は、常に退歩(動物へ帰る)と進歩(人間の成就)の狭間にあります。
本能的欲求を完全に満足させても、人間の特殊性に基づく高い情熱や欲求を充足することは出来ず、人間的問題は解決されないままです。
人は動物的な欲求だけでなく、人間的な欲求に駆り立てられます。
失った調和の代わりになる新しい調和の実現を求めるのです。
それは、人間の存在に対する解答を得ようとする情熱と努力であり、さらに言えば、それは狂気を避け正気であろうとする試みです。
人が精神的に健康であるか病的であるかは、この解答が人間の欲求に一致している程度に拠っています。
健康者も神経症患者も、共に人間的欲求の充足を目指し努力していることに変わりはないのです。
どの文化においても、体系的な解決の方法をもっており、各々独自の欲求および充足の仕方を有しています。
文化間において、その解答に良し悪し(人間的欲求に一致しているかどうか)はあっても、機能そのもの(解答を求める)は変わりません。
個人-文化間においても同様、個人が文化より良い解答を持っていることもあれば、悪い解答を持つこともあります。

人間存在の問題に解答を与えようとするものを宗教と定義づければ、あらゆる文化は宗教と言え、あらゆる神経症患者は私的な形の宗教を持っていると言えます。
宗教や芸術や精神病を生み出す人間の底にある強力なエネルギーを、妨げられ昇華された生理的欲求(フロイト)だけで説明するのは難しいでしょう。
それは、動物的な生理的欲求を超えようとする、より人間であろうとする欲求が生じさせるエネルギーです。
その面で、すべての人間は理想主義者であると言えます。
その理想主義の良し悪しは、人間の性質とその発達に関する規則に照合し、判断する必要があります。

A.人間の結びつきとナルシシズム

人間は、自然との結びつきを失い、自己意識によってその孤独を自覚し、理性や想像力によって己の無力さや生と死の偶然性に気付いてしまいます。
この孤立の牢獄を脱するために、正気でいるために、人は新しい結びつきを作ろうとします。
仲間との絆なしに、この人間存在の在り方(孤独)に対抗することは出来ません。
他者と結びつきたいといういう必然的な欲求を満たすことにより、人は正気が保てるのであり、愛(広義の)と呼ばれる情熱の背景にはこの欲求が隠れています。

この他者との結びつきには、いくつかの種類があります。
1.「服従」・・・ある個人、ある集団、ある制度、神など、自分より強い者や大きなものの一部になること(つまり服従)によって、孤独を克服する方法です。
2.「支配」・・・権力を持ち、他者を自己の一部分にすること(つまり支配)によって結びつき、孤独を克服する方法です。
1.服従と2.支配は、依存性という共通の性質を持っています。
依存的関係を結ぶ者は、まとまり(矛盾による葛藤のない、統一された状態)と自由(自立性)を失っており、心の奥に常に無力さを抱え、怯えの裏返しとしての敵意をもっています。
支配的(サディズム)あるいは服従的(マゾヒズム)関係を実現しても、最終的には失敗に終わります。
依存的関係は、内的な問題を本質的に解決するものではなく、彼らは結び付きながらも孤独を感じています。
結び付きの感覚が十分に生じないため、支配と服従を求める欲求はどんどん強くなり、結果的に過剰でいびつなまとまりのない絆となり、最終的には崩壊してしまいます。
3.「愛(恋愛にとどまらない広義の)」・・・自分自身は独立した(自由)ままで、まとまりある他者との結びつきを実現するものです。
互いの自己同一性と自己効力感を確保しながら、世界との結びつきを成立させることです。
幻想(サディズムは自己を大きく他者を小さく、マゾヒズムは自己を小さく他者を大きくする幻想が必要)を基にした依存ではなく、現実を基にした共感による結合によって、人間存在の孤独を克服することです。
愛において重要なことは、何を(対象)愛するかではなく、いかに(性質)愛するかです。
友、恋人、親子、神など、対象に限らず、私が私自身でありながら他者と結合することです。
独立と結合の両極の成就によって、愛は成立するのです(自立した個人が積極的になす結合が、愛するということ)。

人間が、自己や他人や自然に対して、積極的、生産的に関わろうとする「生産的構え(生産的な方向付けの枠組、productive orientation-後述-)」は、思想面では理性的な現実把握を、行動面では生産的な仕事を、感情面では愛情の営みとして発現します。
自己への愛情は、利己主義とは異なります。
利己主義は自分を愛していないがゆえ、その空虚さを貪欲で埋めようとする姿勢です。
他人への愛情は、二人の人間が一体となりながら、同時にそれぞれが個別の人間であることを体験させます。
生産的な愛情は、気配り、責任、知、尊敬、という態度で特徴づけられます。
愛する他者の幸福に気を配り、責任をもって関わり、上辺(幻想)ではなくその人の奥にある本質を知り、そのあるがままの存在を敬う姿勢です。

生産的構えを基にした愛情ではなく、ナルシシズムを基にした愛情が常に破局に終わることを知った時、はじめて結びつき(愛)の欲求の本質が理解され、正気の愛情へシフトします。
一次的ナルシシズム(自己や他者や世界を発見する以前の、全世界=自分で完結した乳幼児期の段階)は子供の成長にとって正常な過程ですが、成人期になって現れる二次的ナルシシズムは、病理的なものとなります。
彼にとっては自己の思考、感情、欲求のみが存在し、外界は常に主観的に捻じ曲げられた幻想となり、世界との接触を失い、自己という箱庭世界に自分を幽閉します。
二次的ナルシシズムは、客観、理性、愛情、正気などとは正反対のものです。
自己を外界に結び付けることに失敗した時、狂気を生じさせるという事実は、人間が正気を保つためにはなんらかの”結びつき”が必要であることを明らかにします。
そして、生産的な結びつきである愛情だけが、人間の自由と統合性を失わせずに”結びつき”を実現することができます。

B.超越(創造と破壊)

人は何の理由も分らぬまま世界に投げ出され(産まれ)、何の同意もなく世界から退場させられます。
人間は動物と異なり、理性によって、偶然に翻弄される受動的な”被造物”としての自己の地位を自覚してしまうため、この被造性を超越しようという衝動に駆られます。
己が能動的な創造主となり、子を作り、物を作り、音楽を作り、思想を作り、友を作ります。
そういう創造的行為によって、主体性と自由を回復し、超越の欲求を満たします。
創造(主体的)の基礎には配慮(気配り)があり、常に作り出すもの(対象)に対する愛情が前提にあります。

しかし、超越の欲求を満たすもう一つの方法があります。
自ら創造できないなら、反対に自ら破壊してしまうことによって、被造性を超越することです。
人間に超越の欲求がある限り、創造するか破壊するか、愛するか憎むかの選択に迫られます。
歴史的に見る巨大な破壊への意志は、創造への意志と同様、人間の本質に根差すものです。
創造(愛)と破壊(憎)は、異なる欲求ではなく、同じ超越の欲求の異なる解答にすぎません。
創造による欲求充足は、人々に幸福をもたらし、破壊による欲求充足は、人々に苦しみをもたらします。
前者の方法(創造)に挫折した者は、(自己と他者の両方に)苦しみを与えてでも後者の方法(破壊)によって超越の欲求を満たそうとします。

C.愛と近親愛

(系統発生的に見れば)人間は人間として生まれた時、自然の家から出ることになります。
その孤独と無力の状態は、自然の絆に代わる新しい人間的な絆を獲得することにより世界での安心感を得ると同時に、人を狂気から保護しようという行動を生じさせます。
(個体発生的に見れば)子供は母との絆による保護から出た時、自立し成人となります。
人は成人になっても、心の奥に、かつての保護と安心の状態へ回帰したいという願望があります。
母子的絆に代わる新しい絆を獲得しない限り、この退行的願望は人の心を捉えます。
この退行的願望に憑りつかれる時、病理的現象があらわれはじめます。
人間は成長するために、近親的結びつきを切らねばなりません。
へその緒を切り自ら栄養を摂取する時、誕生し、両親の保護から離れ自立する時、成人(人と成る)します。
あらゆる文化において近親愛がタブーとなるのは、それが人間の進歩にとって必須の条件でもあるからです。
血縁関係による絆は、家族、氏族、民族、国家と、拡張され、同一感を生じさせ、血縁外の者は危険な異邦人として感じられます。

個人にせよ民族にせよ、この母固着が成長や発展を阻害すると考えたのが、フロイトです。
しかし、フロイトはこの問題に特殊な解釈(エディプスコンプレックス)を与えてしまったため、近親愛の絆を性的なものに限定してしまい、多くの可能性を取りこぼしてしまいました。
母権制(家母長制)を研究した文化人類学者のバッハオーフェン(1815-1887)は、母権制の否定的な面として、成員は自然・土地・血統の拘束による個性と理性の発達の阻害のために、進歩なく子供のままで居続けるという点を挙げます。
肯定的な面として、万人が平等に権利、自由、安心、自己肯定感を与えられる(父権的な競争・比較による優劣ではなく、存在しているだけで価値を保証される)点を挙げています。
それに対し、父権制(家父長制)の特徴は、自然による拘束が弱いため、個性(自立性)と理性の発達が促進され、自然の絆に代わる人工的な絆(掟と権力に基づく主従の関係)を作る点です。
無条件の愛である母権制と異なり、父権制は、義務・法・倫理・階級などの条件に基づく愛(父の期待に応えることによって得られる愛)です。
父の愛は子自らが努力によって獲得するものであり、母の愛は子の無力さによって恩恵的に与えられるものです。
父権制は、理性、訓練、良心(内在化された命令)、個人主義、階級制、抑圧、不平等(競争による優劣)、主従などを生じさせます。
反対に、母の愛への固着のある人は、自らを無力な状態に置き、幼児に退行し、面倒を見てくれることを受動的に待ち続けます。

フロイトは「良心」を、父が内在化されたもの(父の命令の遂行に対する義務感と命令の逸脱に対する呵責の念)と考えましたが、内在化されるのは父の像だけではないはずです。
母の像も良心の片翼として内在化され、義務を遂行しなくてもあるがままのあなたでいい、そして敵(競争相手としての他者)を許し、愛せと諭しています。
人間の良心の内には、義務(父)の原理と、愛(母)の原理が共存しています。
義務(父)に従うだけ、あるいは愛(母)に従うだけの偏った良心にしたがう行動は、問題を生じさせます。

これらは個人(個体発生的)だけでなく、歴史(系統発生的)においてもみられる構造です。
原始共同体における自然崇拝(自然と人間が一体となっている揺籃期)、インディアンのトーテムにおける自然(動物)と人間の分離直前の中間状態、偶像崇拝に見られる人間化された神、農耕文化に見られる母性神、ユダヤ教における父権的律法、古代ギリシャにおける父権的理性、カトリック教聖母崇拝における母権的愛と寛容の倫理、プロテスタントにおける父権的精神の復興、民主主義社会における母権コンプレックスの解消(人権、自由、平等)、伝統的拘束から自由になった近代人の「自由(自立)からの逃走」としての全体主義(近親愛-国家主義・血族主義-的な固着への退行)などの流れです。
ヨーロッパは十七世紀と十八世紀の大革命以後、父権制(理性的絆)と母権制(情愛的絆)のポジティブな共同で発展(成長)するのではなく、ネガティブな退行によって自由の重圧を回避(自由からの逃走-成長の拒絶-)したのです。
私たちは理性と愛の共同的発展によって、新しい人間的な結びつきの型を見つけ出し、世界を自然状態に代わる人間の第二の故郷(正気の社会)としなければなりません。

D.アイデンティティー

人間は理性と想像力を獲得したことによって、自然から引き離された「自己」を意識し、自然に生かされるのではなく、自らの意志で生きなければならなくなります。
「私」は自然ではなく、他者でもない、自立した主体である為、自ら自分でないものとの関係付けを構築しなければなりません。
分離(私でありたい)と調和(共にありたい)の要求を同時に満たさなければならず、この課題に失敗すると、人は正気を保てなくなります。

母と一体化し自他の区別を必要としない幼児や、個人化が生じていない原始的氏族や個人化を許さない封建制度(産まれた瞬間、その人の本質や役割が決定されている社会)などにおいては、この問題は生じません。
しかし、成長や社会の進歩によって、このような”与えられる自己同一性”を失い、自立した個人として生きなければならない状況に至った時、「わたしとはいったい何者なのか」というアイデンティティーの問いが生じてきます。
西欧中世封建制の崩壊と共に、デカルトの「われ思うゆえにわれあり」の主体の意識が登場し、近代以降、西欧は個人を解放し活かす方向へ舵を切ります。
自然や神などではなく、人間個人が政治的・経済的な主体となり、権力を担うものとして活躍することにより、私や主体の感覚、つまり「同一感(Sense of Identity)」を与えようとします。
しかし、この個人主義による同一感(アイデンティティーの感覚)の獲得が可能になったのは一部の者にすぎず、大部分の人々は置き去りにされることになります。
そのため、個人のアイデンティティーは、出自、階級、宗派、職業などの「地位(ステータス)」をその代用品として利用することになります。
しかし、「ステータス」は歴史のある国においては強い効果をもちますが、アメリカのような文化的な流動性の大きい場所では効果が薄く、人々は「同調」の経験の内にアイデンティティーの感覚を得ようとします。
他人と同じであり、他人に群れの仲間であると認められている限りにおいて、「わたし」を感じることができるのです。
まとめると、原始的氏族との同一感を失い、それにつづく個人的同一感も得られない人々は、ステータスと同調(群衆への帰属)をその代わりとし、アイデンティティーを確保しようとするのです。

アイデンティティーの感覚を得たいという欲求は、人間存在の本質にあるものであり、「私」という感覚がなければ、人は正気を保つことができません。
それは非常に強い欲求であり、時に生存の欲求よりも強いもとなります。
たとえステータスや同調などによる幻想的なアイデンティティーの感覚であったとしても、人は命や自由や愛を犠牲にしてでも、それを手に入れるよう駆り立てられるのです。

E.方向付けの枠組み(frame of orientation)を求める欲求

理性と想像力を持つ人間は、アイデンティティーの感覚を持つだけでなく、世界の中で自分自身の位置と方向性を定めることが必要になります。
この欲求(精神的方向付け)は、乳幼児期の身体的方向付け(歩いたり触ったりしながら物理的な世界と物と自分の位置を理解していく)過程と似ています。
人間は世界の内で多くの不可解な現象に包囲されているため、理性によってそれらを自分の思考の範囲で扱えるような文脈に置き、理解し、その発展によって方向性の体系が作られていきます。
この方向性の体系が幻想的なもの(例、トーテム的世界)であっても、方向性の枠組みを求める欲求は満たされます。

生物学的には人間の頭脳の能力に変化はありません(人間の歴史レベルで)が、理性と知識の発展による客観的な世界像は、長い時間をかけて構築されます。
客観性を高め、より現実に触れる機会が増えれば、世界を人間的な世界として創造していく可能性も増します。
知能は物理的な物を上手く操作するための動物的な能力であり、理性は世界を”把握”し客観性や真理性を得る人間的な能力です。
人間の発達において理性、つまり客観性に対する能力は、必須のものですが、人々は幻想(一面的、主観的世界把握)によって理性の使用を妨害しています。

方向付けの欲求は二段階に分かれます。
第一は、客観的現実であろうが主観的幻想であろうが関係なく、何らかの方向付けの枠組みを持つことで、正気を保とうとする段階です。
第二は、理性によって現実と接触し、世界を客観的に把握することで、第一段階の枠組みをより幸福で安定したものにする段階です。
人間は、自分の行動がいかに不合理で不道徳なものであったとしても、それを合理化し、その行動が正しい理由をもつものであると、自分にも他人にも証明したいというたいという衝動を持っています。
人は不合理な行動は困難なく為しますが、自分の行動に合理的な理由があるように見せかけないことに関しては困難です。

人間が肉体を持たない知的生命体であれば、広汎(一般的)な思想体系があれば、こと足ります。
しかし、かけがえのないこの私の肉体、感情、生活において存在する”感覚的な自分”がある以上、満足のいく方向付けの体系を求めるなら、知的要素だけでなく感覚的要素も考慮しなければなりません。
方向付けのシステムは何らかの思想体系であるだけではなく、世界内の自己の存在と立場に意味を与える深い愛(帰依、信仰)の対象を準備する必要があるのです。
この愛の対象を求める欲求を満たすものとして、人類の歴史において様々なかたちの宗教が発生したのです。

第四章、精神の健康と社会

精神の健康(メンタルヘルス)は、人間の本性、人間存在の条件そのものから導出される共通のものです。
前章で考察したように、人間にとって動物的欲求の充足だけでは、正気や精神的健康を実現することは出来ません。
人間特有の、人間の状況の条件から生じる諸欲求(結びつきの欲求、超越の欲求、アイデンティティーの欲求、方向付けの欲求、深い愛の欲求など)を満たさなければならないのです。
権力、虚栄、真理、愛、創造、破壊などに対する人間の強い情熱は、リビドー(性欲)のような動物的生理的欲求に根ざすのではなく、人間特有の欲求から生じるのです。
生理的欲求に対する解決は即物的で単純ですが、人間的欲求の場合は多くの要因に基づき、複雑で、社会組織および人間関係のあり方が問われます。
人は死なないために生理的欲求を満たす必要があるのと同様、人は狂気に陥らないために人間的(精神的)欲求を満たさねばなりません。
基本的な人間的欲求が充たされないと狂気が生じますが、仮に充たされとしても、人間の本質から外れた不満足な方法であると、神経症が生じます。

人は他者と関連づけなければなりませんが、それが依存的あるいは疎外的な方法であると、主体性と自己の統合性を失い、その人は弱くなり、苦しみ、敵対的になり、無気力・無関心・無感動に陥ることになります。
愛情を持って他者と関係付けられた時、彼は自己の主体性と統合性を保持したまま、他者との一体感を得ることができます。
生産的な仕事によって、人は自分を失うことなく、自身を自然と結び付け一体となることができます。
人間が自然や母や氏族の近親姦的絆に根ざしている限り、自己の個性や理性を発達させることができません。
理性と愛を発達させ、人間として自然と社会を経験できた時、人はくつろぎ、自信を持ち、人生の主人であると感じることができるのです。
また、自身の力の経験に基づいたアイデンティティの感覚だけが人に強さ(自己効力感)を与える一方、集団に基づくアイデンティティの経験は人を弱く依存的なものにします。
現実を把握することによって、人は主人公としてこの世界と関わることができますが、その反対に幻想の中に生きているなら、人は幻想を生じさせる条件を変えることのできない操り人形となります。
まとめると、精神の健康とは、近親姦的な絆を脱し、自己の主体性とアイデンティティを獲得し、理性を発達させ、客観的現実を把握し、愛し創造する能力を発揮することです。

このような精神の健康の概念は、人類の偉人たち(ソクラテス、仏陀、老子、孔子、モーゼ、キリストなど)が考えた規範と、本質的には変わりません。
精神医学および心理学は、人間の精神現象を生理学的・身体的・唯物論的に説明することに拘泥し、フロイトは「リビドー(性欲」をその生理学的な基礎として人間の心と行動を分析しました。
しかし、人間の本性から生じる諸欲求(結びつきや超越の欲求など)を生理学的に説明することは出来ず、必要となるのは、世界と自然と人間との相互作用における人間の研究です。

一般(抽象)的に考察すれば、単純に個人の成長と文化の進歩を重ね合わせることには問題があります。
人間個人の成長は身体的限界に規定されており、乳幼児が原始的で近親姦的で非理性的な状態にあったとしてもそれは正常で健康な反応であるため、大人に成熟して身体的規定が変化しても未だ乳幼児のような状態にあれば、それが異常(退行)であると判断できます。
それに対し、文化の進歩においては、古代人も現代人も身体的規定には変わりがないため、ある文化が原始的で近親姦的で非理性的な状態にあったとしても、それが文化的に初期の段階にあるだけなのか、異常なものなのかの判断がつかないということです。
しかし、具体的に考察すれば、この問題はそれほど大きくはありません。
歴史を省み、人類は原始的な文化から始まり成熟したという仮定の下に、現代西欧の文化的成熟を位置づければ、獲得した自由や個人の権利を放棄してでも、人種や国家などの人工(幻想)的絆へ退行しようとする社会(例、ナチスドイツ)は、明らかに進歩の状態にふさわしくない病理的現象だと判断できます。

精神の健康は、個人の社会への不適応という基準では定義付けられず、むしろ社会が人間の本質的欲求にどのように適応しているかによって定義付けねばなりません。
個人の健康は多くが社会構造に依存しています。
人間の存在条件から生じている本質的なニーズに合わせて、社会がいかに調整されているかの問題です。
健全な社会(正気の社会)は、人間が仲間を愛し、創造的に働き、理性と客観性を発達させ、生産的構えに基づく主体性とアイデンティティの感覚を与え、人々を精神的に健康にします。
不健全な社会は、敵意と相互不信を生み、仲間を搾取する道具に変え、破壊的に働き、肥大化した妄想に駆り立て、アイデンティティの感覚を奪い、人間を自動機械のようにしてしまい、人々を精神的病に追い込みます。
勿論、いかなる社会もこの両面をもっており、どの程度、どのような部分で、どちらに傾いているか、の問題です。

現在、強く支持されている(精神医学者や心理学者が信じさせようとしている)見解は、「欧米社会(特にアメリカ)的な生き方が、最も人間的欲求を実現するものであり、それに適応する事こそが精神の健康と成熟を約束する」というものです。
経済活動において望ましい態度を示す人間(継続力、貢献力、信頼性、忍耐力、協力性、意志、決断力、柔軟性、独立性、寛容性など)、つまり社会組織の善良な従者となるような勤勉なサラリーマンや軍人などの人間像を理想とするものです。
この生き方そのものが客観的に健康か病的かという批判的な視座はなく、「健康=現代社会への適応」です。
もうひとつ、現在支持されている見解は、これとは対照的で、「自由に性衝動や攻撃衝動などを発散することのできる原始人(幸福な野蛮人)こそが人間の欲求を実現するものであり、安全の確保のためにその原始的幸福を捨てた(社会契約説)われわれ人間の本性と社会の間には、根源的に解決不可能な葛藤および不適応がある」というホッブズ-フロイト的な言説です。
社会は人間の欲求に対立し、制限付きの歪んだ形(昇華)でしか欲求を解消させず、必然的に人間は常にストレスを抱え神経症的にならざるを得ない、つまり文明社会への適応こそが精神疾患の原因である、という考えです。
これは一見すると、現代社会を批判しているように思えますが、ホッブズ-フロイト的な言説は、非社会的で競争的で貪欲で相互に敵意をもつのが人間の本性であるという前提に基づいており、資本主義的人間を、生物学的なレベルから暗に擁護しています(生物学的生存競争は人間の本性である、よって経済学的生存競争-現代資本主義-も人間の本性に根ざす経済システムである、という風に)。
この両極端な二つの見解は、明に暗に現代社会を弁護するものです。

社会と人間の関係を客観的に把握するには、人間の本性とそこから生じる人間的欲求を明らかにし、それに対して、社会が人間に与える促進的影響と抑制的影響の両方を考察しなければなりません。
先の両極端の見解のように、現在ほとんどの学説が、現代の社会構造の積極的影響を強調し、消極面を無視しています。
次章ではその消極面、いわば現代社会の病原的機能に注目します。

 

第五章につづく