フロムの『正気の社会』(3)第五章後半

哲学/思想 社会/政治

(2)のつづき

第五章、資本主義社会における人間(後半)

二節、資本主義の構造と人間の性格(続き)

C.20世紀の社会(続き)

2、性格学的変化(続き)
c.その他諸々の様相

●匿名の権威-同調

18世紀および19世紀の権威は、合理的-不合理的(第五章二節B.参照)、促進的-抑圧的、寛大-厳格、問わず、権威として”明白”であり(王、神、父、教師、法律、道徳など)、誰が命令あるいは禁止しているか、そして権威が何を欲しているかが分かり、それに対し服従するか反抗するか、その結果なにが生じるかも意識的に把えることができました。
しかし、20世紀半ばに権威はその性格を変え、匿名で目に見えない、疎外的な権威となります。
命令も禁止も思想的・道徳的要求もされず、それでいて人々は過去の強力な権威主義社会の従僕以上に従順になっています。
匿名の権威(同調)の法は、市場の法則同様、見えないものであるため、人々は攻撃することも反抗することもできず、知らず知らずのうちに従うしかないのです。
具体的な権威者はどこにもおらず、世論、常識、市場、利益など形の無いものを通して操作され、本人自ら同調という声なき命令に従うのです。
親はもはや自らの意志や考えによって子供に命令せず、同調の法則に適合するものを提案(suggest)し、導こうとするだけです。
仕事においても露骨な命令は影を潜め、提案し、言葉で丸め込め、操作し、魅力的なものであると宣伝し、あたかも本人の意志で適合的な行動を欲しているかのように導きます。

“明白”な権威がある場合、不合理な権威への反抗や良心の命令に対する葛藤を通して、パーソナリティー(人格や個性)、特に自意識が発達します。
人間は、疑い、抗議し、反抗するがゆえに、自分自身を「私」として経験します。
たとえ服従し敗北を感じたとしても、私は自分自身を敗北した者としての「私」を経験します。
しかし、もし私が匿名の権威によって支配されたなら、私は自己を失い、私は「「それ(匿名であるため名付けられないシステム)”It”」の一部である、人格(個性)なき「誰か”one”」になってしまいます。
匿名の権威が機能するためには、私はシステムに適合し周囲と同調しなければならず、他の人と相異したり、突出して「はみ出し」てはなりません。
それでいて、私はパターンの変化に応じて常に変化する準備ができていなければなりません。
私が問うべきことは、自分の行動が正しいかどうかではなく、周囲の変化に合わせて適応しているかどうか(特異になってないかどうか)だけです。
私が服している”周囲”を除いて、誰も(私ですら)私を支配する力を持っていません。
現代人の、「周囲に受け入れられることへの渇望と受け入れられないことへの不安」は、疎外された人間に特徴的な感情です。
自分が受け入れられるかどうかを疑わない限り、不安も渇望も生じません。
問題は、いかに客観的事実として受け入れられる素養を持った疑いなき人間であっても、自己を失っているため、周囲と同調し受け入れられることを渇望せざるを得ないのです。
アイデンティティの感覚を代替的にでも持てる唯一の避難所は、同調することです。
劣等感は他人と異なっているという(同調から外れた)感覚から生まれ、良い方に異なるか悪い方に異なるかは本質的な問題ではありません。
明白な「権威」の概念に取って代わった「(上辺だけの)自由」の概念の裏に、実際は匿名化した権威と没個性(自由を担う主体としての個性の不在)があり、自由も疎外されたものとしてあります。
自己から疎外された人間は己の虚無の経験を恐れ、同調無しに独りでいることができませんが、その反面、群れの中にいると今度は匿名の権威による適応(同調)への圧力がのしかかってきます。

権威主義を排除するプラグマティズム的な寛容な教育の流行は、適応(同調)主義という匿名の権威のために、明白な権威がもはや必要とされないことを物語っています。
疎外された適応(同調)性は、価値判断を単なる好みや意見や感想と同一視し、ひとつの「るつぼ」に放り込み、平等化します。
真剣にならず、互いが意見を交換し、どんな考えや信念も他方と同様に優れているものとして受け入れる公平な姿勢が重視されます。
価値の高低という突出を排除し、すべては平等に平準化され、プラトンも下世話な噂話も、同じ程度に重要なものとして尊重することが礼儀であるとされます。
個性の欠如と見境いのない社交性による外向性が推奨され、個性や内向性は努力して治すべきものとされます。
自己の内に問題を抱えてはならず、互いが自己のプライバシーを曝け出し共有し、悪しき孤独を乗り越えねばならないのです(事実上、自己の問題に自己が向き合えなくなる)。

いまや伝統的な道徳や良心は失われ、代わりに、適応し他のものに似ることが有徳、他のものと異なり同調を壊すことが悪徳とされます。
現代の精神医学では、前者(適応)は健康を意味し、後者(不適応)は神経症を意味します。
人は、他者から自己を引き離しプライバシーを確保することに罪悪感を感じ始め、それを子供じみた反抗や神経症的兆候とみなします。
「孤独で利己的な熟考の中ではなく、他の人々と協同することで、人は自分自身を満たすことができる」という、いかにも素晴らしく聞こえる文句の裏に、「自分自身を放棄し、群衆の必要の一部となり、それを好め」という意味が隠れています。
このような疎外された同調を、人は「togetherness(一体感、団結、連帯感、絆)」などと呼び、もてはやします。
内向的で周囲と同調できない者は、神経症的だとされるに留まらず、まるで異端者や罪人のように扱われます。
友情は、個人の好みと個人の魅力に基づいて形成されるのではなく、自分の位置(居住地や社会的地位)に基づく周囲との同調関係によって決定されることになります。
その人個人の内容ではなく、社会的外面(同じ考えや同じ洋服や同じ生活スタイル等を持っているかどうか、合わせられるかどうか)で人間関係が決定されるという、疎外的状況にあるのです。
外交的で同調的であることが義務となっている彼らは、人間の本性に基づく幸福から疎外されているため、無意識的に漠然とした不安と自己喪失感と憂鬱を抱えており、妥協的に表面上の幸福を享受しているにすぎません。

●ノンフラストレーションの原則

匿名の権威である「同調」は、現代の生産様式の結果生じる半ば必然的な拘束です。
共通の嗜好をもち規律ある集団行動を為す、武力なしで服従する、人間の自動機械化です。
もう一つ、現代の経済体制を支えるものとして「大量消費」があり、それは現代人の社会的性格として、あらゆる欲望を直ちに満足さえなければならないという、ノンフラストレーションの原則を生じさせています。
現代では貯金した後に欲しいものを買うのではなく、クレジット(信用供与)の掛買いが主流であり、広告によって刺激された欲望を瞬時に満たすことによって、消費の回転を高速化します。
消費者は、クレジットの返済も終わらぬうちに、飽きたらすぐに最新のものに買い替えるという終わりなき欲望のサイクルの中にいます。
欲望は遅滞なく満たされなければならないという原則は、性的欲望も規定します。
「抑圧された性衝動や性的欲求不満が神経症を生じさせるため、抑圧の無いことが健康である」というような合理化の言説が流行します(フロイトの通俗化)。
子育てにおいても、欲求不満が心的外傷を生じさせると信じる親は、子に欲望するものすべてを与えようとする、ある種のコンプレックスに陥っています。
現代人の特徴である貪欲さと先延ばし不可能な欲望の即時充足は、ディストピア的な理想を実現します。

欲望の抑制の欠如は、明白な権威の欠如と同様、自己の感覚の喪失を生じさせます。
人間は、欲望と抑制(つまり現実)の狭間で、葛藤したり、決断したり、疑問を持ったり、反省(自省)したりしながら、自己の感覚を育んでいきます。
もし、欲望が即時充足されれば、自分を自分として意識する必要はなく、「自己」は麻痺していき、最終的には破壊されます。
人間は忙しく常に快楽とその獲得手段である仕事に夢中になる、欲望と充足の回転を為すひとつの機械となります。
その欲望は自然なものではなく、経済システムの指導の下に刺激され喚起された受動的で人工的な欲望です。
社会は、現代の体制が維持発展するよう働く機械、つまり武力というコストをかけずに得られる、何の疑いも持たず、何の葛藤も持たず、幸福を感じ不満分子とならない人々を必要としているのです。

現代人は乳離れできない大きくなりすぎた赤ん坊であり、世界という乳房から与えられる消費(商品、観光、食物、酒タバコ、交友、講義、本、映画など)の快楽を絶えず待ち望み、”受容的構え”のまま成長できずにいるのです。
人々はその即時的快楽生活の裏側に、絶えず憂鬱と劣等感と不全感と罪悪感をもっており、人生が砂のように自分の手をすり抜けていることを感じています。
そしてその悩みは、本質的に解決されることはなく、たえず話すこと(後述)によって、処理されます。

●自由連想と自由会話

フロイトの発明した「自由連想」は、意識的な思考の統制を解除し、無意識の思想や感情を、熟練した精神分析家の解読によって明らかにする技術です。
自分自身が理解している以上の自分を発見することにより、患者の本質的な問題と対峙することになり、問題解決の可能性が開けます。
しかし、「自由連想」は、その本質を理解しない心理療法家たちのカウンセリングの中で通俗化し、単なる「自由会話(free talk)」になります。
患者のお話(悩み)を共感しながら聴くことによって、患者の緊張を解消し、スッキリさせることが目的となっています。
問題とその緊張が生ずる度に、カウンセリングに通い、おしゃべり(自由会話)によって解消するという姿勢は、先の消費(即時快楽)のサイクルと似ており、患者は悩みを抱えてはすぐに消尽するひとつの機械のようなものに成ります。
これは、フロイトの目指していたものとは正反対の姿勢です。
「自由連想」は問題を深掘りし、下層にある本当の考えや感情を発掘すること、つまり患者が本当の自己に出会うことを目的としています(原因療法)。
しかし、「自由会話」は、問題そのものを一時的に解消(スッキリ)させることを、定期的に機械にオイルを指すように継続し、生活を円滑にする作業です(対症療法)。
むしろ、それは自分が誰なのかを忘れさせ、問題解決の契機となるはずの緊張と自己意識を喪失させようとするものです。

「打ち明け話」は、ある種のファッションや室内遊戯となり、秘め事を晒すことに何の抑制も遠慮も恥の感覚もなく、他人事のように気安く自己の内の悲劇を語ります。
精神医学、心理学、精神分析学の基本的機能は、自己を発見し理解し「あなたを解放する真実」を見つけることでしたが、今やその機能は変化し、人間を操るための道具となっています。
彼ら専門家は「正常な人間(適応的人間)」というモデルを示し、患者と比較し、悪い部分を診断し、社会に適応できる正常な人に成れる方法を考えてくれます。
現代心理学はテイラーが労働の機械化においてに為したこと(テイラーシステムの頁を参照)を、自由や共感的理解という美名の下に、パーソナリティー自体において行うのです。
精神医学者、心理学者、精神分析学者は、いまや新興宗教の教祖のようになり、人間の操作の専門家、あるいは疎外された人格を推進するスポークスマンのようになっています。

●理性、良心、宗教

疎外された世界では、理性、良心、宗教は、どのようなものになるでしょうか?

「理性」

実用的目的(主に生物学的生存)の達成のために事物を表面的に結合し運用する能力である「知能(intelligence)」 に対し、「理性(reason)」は表面の背後にある本質を認識し”理解”しようとするものです。
理性は生存目的のためにある訳ではありませんが、未来予測(表面の奥の見えない関係付けの網を把握し未来へと延伸する)など生存的効用を二次的に有します。
表面的な事物の印象を受容し操作するだけ(知能のこと)なら自己感覚(sense of self)は必要ありませんが、表面を貫通し本質を把握する理性的思考には必須です。
デカルトは「われ考えるゆえにわれあり」と、私が思考するという事実から自己の存在を導出しましたが、逆から言うと、自己を失わない限りにおいて思考(つまり理性)は成立するということです。
疎外されたパーソナリティーに特有の現実感覚の欠如は、ここに理由があります。

現代人は現実主義だと世間一般では考えられていますが、それは妄想であり、実際はその逆です。
例えば、文明全体を破壊してしまうような兵器を弄びながら現実主義を自称する現代の人間は、普通に考えれば、狂気に憑りつかれ現実という名の妄想の中にいる患者です。
現代人は、人工的に作られた偽りの現実の書き割りで本来の現実を覆い隠し、現実から疎外されています。
生と死、幸福と苦しみ、感情と思考などの人間的現実において、驚くほど現実主義の感覚が欠如しています。
また、現代社会は著しく分業化・細分化が進むと同時に、事物のつながりや人間組織の広がりが極端に大きくなり、全体を見通すことが難しくなっています。
つまり、理性の機能である事物の根底を貫く法則や関係性の把握が、困難であるということです。
人間の目が可視光線内の波長しか捉えることができないように、理性にも限界があり、現代社会は全体(根底)を見通し細部を適切に操作できる限界を超えてきています。
具体的、現実的に把握できる範囲を超えると、現実感が薄れ、必然的に非現実的なものになってしまいます。
プラトンやアリストテレスは、ポリス(都市国家)が機能する理想的な人口的限界と空間的限界をよく考えていました。

現代人は表層を操る知能のみが発達し、深層を理解する理性を失っています。
現実の背後にあるもの(意味や本質や関係など)は考えようともせず、刹那的に現実の表層を消費するだけで、未来など知ったことではないという姿勢です。
毎日新聞を読み、無数の情報を摂取しているにも拘らず、驚くほどその内容や意味を理解しておらず、知識を持った愚鈍ともいえる状態です。
知能検査で理性の能力を計測することは出来ません。
現代人は、ノウハウ(know-how)は持っていても、なぜそうなるのか(know-why,)、何のためか(know-what-for)などの理性に関わる知識はありません。
人工知能はその最たる例であり、それは人間の知能が為すことを高速かつ正確に為すにすぎず、理性の機能を模倣することは出来ません。

「良心」

倫理的行動は理性に基づく価値判断(善悪の決定)を前提としており、さらに理性は自己を前提にしています(先述)。
また、倫理はヒューマニズム(人間主義)に基づくものであり、制度そのものや物体が人間を押しのけて第一の目的となることはありません。
しかし、現代は人間が社会の機構という目的に奉仕する手段(自動機械や商品)となっており、自己を殺しそれへと順応(同調)することが生活の原理となっている以上、倫理も良心もその前提条件(考える我-理性と自己-)を奪われています。
「良心」は同調とは正反対の性質を持っており、それは他のすべての人がイエスと言う時に、己一人でもノーと言う勇気を伴うものです。
そして、ノーと言えるためにはその根拠となる理性的価値判断の確実さが必要です。
つまり、人間を単なる手段(機械、商品、物)と捉えず、己を”人間”として経験し、同調に呑まれないだけの自己(=理性)を持つ時にのみ、良心は発動するのです。

これ(ヒューマニズムに基づく倫理)に対し、市場における倫理は善悪ではなく「フェアネス(公正、公平)」に基づくものであり、それは市場的パーソナリティーに生きる現代人の行動を規定するのもです。
ヒューマニズムの倫理(隣人を愛したり、他者と一体になったり、大切なもののために命を懸けることなど)は、公平の線上から外れるアンバランスなものであり、市場の倫理とは矛盾します。
しかし、現代の欧米の人々は、伝統的(ユダヤ‐キリスト教的)ヒューマニズムの倫理と市場的倫理という相異なるものを妥協的に結びつけ、その矛盾を忘却することに成功しています。
例えば、ユダヤ‐キリスト教的黄金律「汝の隣人を汝自身のように愛せ」は、換骨奪胎され、公正の黄金律として解釈され直しています。
それでも、約4,000年前(紀元前17世紀)から続き、私たちの心に深く根付いている伝統的なヒューマニズム的良心という大いなる遺産も、徐々に失われつつあります。
メディアでは、伝統的倫理とは真逆の内容のものが溢れかえり、残忍さや野蛮さや非道徳的なものが、金が儲かる商品だからという市場の原理によって、強化されています。
倫理的な行動は、個人の具体的な場面でまだ多く見られますが、社会そのものは倫理を駆逐し野蛮に向かって進んでいます。

「宗教」

誰もがそれなしでは生きられない(正気ではいられない)、広い意味での宗教と神は、方向付けの体系と帰依の対象であると先に述べました。
現代では機械が神であり、その理念は能率です。
私たちは、伝統的な宗教が課題としてきた人間存在の根本的な問題に対する意識や関心を追い払い、人生の意味について問い解答を模索することを放棄しています。
現代人は、人生を上手く投資し、損することなく過ごすこと以外の人生の目的をもっていません。
いまだ多くの人々は伝統的な神を信じていますが、体裁は異なれど実質的(精神的)には無神論者と違いはありません。
隣人愛を換骨奪胎し、非個人的な市場の公正原理に解釈し直したのと同じように、もはや神は宇宙株式会社の代表取締役と解釈されており、個々人(平社員)は神(社長)と顔を合わせることなくただその雲上人の存在を認めながら自分の役割を果たしているにすぎません。
神をビジネスパートナーにするために祈り、宗教は商品と同じように販売されます。
多くの教会は本質的に現代社会の保守勢力に属し、人間を非宗教的な体制に合わせるために宗教を利用しているあり様です。
伝統的な宗教(一神教)と相容れなかった公平の倫理と疎外が、いまや宗教の名の下にプロモートされているのです。

●仕事

人間は他人を搾取しない限り、生きるために働かなければなりません。
また、動物と異なり、人間は「生産」という事実によって動物の地位を乗り越えました(ホモ・ファーベル)。
仕事は、人間を自然から解放し、社会的かつ独立した存在へと創り変えます。
自然の調和から離れ、今度は反対に人間が自然の主人、建造者として自然と結びつきます。
そして、仕事によって自然を形成し変化させる過程で、自分自身も変化させていきます。
自然を再創造することで、己の力を活用することを学び、技術と創造性を高め、仕事の発達は個性の発達を意味することになります。
美しい大聖堂も、職人の作った便利な椅子も、農夫の作った甘いトウモロコシも、すべては人間の理性と技術による自然の創造的変化の表現です。
西洋の歴史でいえば、13世紀14世紀の職人の技能は、創造的な仕事の進化における頂点のひとつです。
そして、仕事は有用性だけでなく、精神的な満足感を与える行動でもありました。

「つくられた生産物と生産の過程以外には、労働をする根底の動機はない。毎日のどんなささやかな労働も有意義なのは、労働者の心のうちで、労働がその生産物と分離していないからである。かれはまた、自己の労働行為を自由に統制できる。したがって職人は自分の仕事から学び、その実行によって、能力と技術を利用し発展させることができる。そこでは、労働と遊び、労働と教養とが分離していない。職人の生計の手段が、かれの生活の仕方全部を決定し、かつ元気づけているのだ」(C.W.ミルズ)

中世の構造が崩壊し近代的な生産様式が始まると、仕事の意味と機能が根本的に変わりました。
中世の封権社会の閉鎖的システムが個人に安心感と帰属感を与えていたわけですが、経済構造の変化と共に、各個人はいきなり自由であるがゆえの孤独と無力感の中に放り出されることになります。
この自由の不安と恐怖を鎮めるために、代替的絆としてプロテスタンティズムが利用され、経済活動の成功と失敗は即救済の有無を意味することとなります(ウェーバーの頁を参照)。
仕事は、それ自体が満足すべき楽しい活動ではなく、義務になり強迫観念となったのです。
仕事は、経済的成功という世俗的な疑似救済のための手段となり、人は憑りつかれたように禁欲的に富の獲得を目指し始めます。
勿論、これはある程度資本を蓄積できる上・中流階級を中心とした態度であり、自分の身体労働を売るしかなかった大多数の労働者にとって、仕事は単なる強制労働に過ぎません。
労働は、神に対する奉仕でも選民の証しでも禁欲的な責務でもなく、身体以外の資本を持たないがゆえに食うために強制的に労働力商品になり自分を売らなければならないという、動機付けからなります。

19世紀まで広く普及していた責務として仕事に向かう態度は、20世紀前半になると大きく変化し、新しい態度が生じてきました。
現代の労働者は、物理的にも社会的にも経済的にも、生産の全体と関わることはなく、なぜそれを生産するかも分からないまま、特定の部分に配置され、特定の仕事を遂行するのみになります。
仕事の主人である能動的人間として、その部分的な代替作業として機械を用いるのではなく、機械という主人の部分的な代替(機械では未だできないあるいは機械より安くつく部分)として、人間は受動的に仕事を為すだけです。

「労働者の大多数の者にとって、仕事の唯一の意味は、労働や製品に結びつくなにものかにはなくて、給料支払い小切手にある。労働は不自然なものであり、給料支払い小切手を手にいれるための不愉快で、無意味な、ばからしい条件であり、そこには重要さも気品も見当たらない。このために、怠業や、能率低下、少ない労働にたいして同額の給料支払い小切手を得ようとするいろいろな策略がひき起こされてもいっこうに不思議ではない。またこのために、不幸で不満な労働者を生じても、なんの不思議もない。なぜなら、 結料支払い小切手だけでは、自尊心の基礎となるに足らな
いからである」(ドラッカー)

労働者として「雇用」され、組織や設備のひとつのパーツになったことによって、己に与えられた部分を適切に遂行し金を持ち帰ること以外の関心を失います。
近年、産業における人間の問題が注目され、産業心理学などが盛んです。
しかし、その主な内容は、産業の向上のためにいかに人間をうまく稼働させるかということ(産業の人間問題)であり、人間の向上のために産業をいかに利用するか(人間の産業問題)ではありません。
テイラーが人間の身体的技術的な面で労働者の生産性の最大化をはかったのと同じことを、産業心理学は心理的な操作によって達成しようとします。
ここにおける人間の幸福とは、「労働者は幸福な時によく可動するのであれば、(機械に注油するように)労働者にも幸福や安心を提供しよう」ということです。
「人間関係」の名のもとに、労働者は疎外された人間に最適化するよう計画的に扱われます。
現代の多くの精神科医や心理学者は、「人間関係」について語りながら、実態は最も「非人間的関係」を意味し、「幸福」について語りながらそれは自分を失った「完全な規格化(routinization)」を意味します。
つまり、機械として生きるよう疎外された人間が推奨されるのです。

疎外された労働は、”完全な怠惰”と”無意識の敵意”という、二つの反応をひき起こします。
仕事そのものに意味が無くなり、主体性や精神的満足感を失い、部分的なルーティンワークとなった倦怠的労働に最適化するよう馴致された人間は、怠惰と受動状態に対する憧れをもつことになります。
現代の広告は、性へのアピール以上に、いかにその商品によってあなたが何もしないで楽をできるかということ、つまり怠惰への訴えを利用します。
それ以上に深刻なのは、無意識的な敵意です。
多くの人々は、自分の商売と販売している商品の奴隷になっていると感じており、無意識的にそれらを軽蔑し、それを要求する顧客を憎み、競争相手である商売敵、上司、同僚などに敵対心を持っています。
そして、何より自分自身を憎んでいます。
薄っぺらな成功以外、何の意味もなく人生を過ごしている自分自身を、心の奥で嫌っているのです。
概ねこれらの敵意は無意識的なものであり、時折生じる救援の内なる呼び声のように一時的に意識化されるにすぎませんが、心を乱すその声は可能な限り速やかに蓋をされます。

●民主主義

仕事と同様、民主主義も疎外されたものとなります。
民主主義の原理は、個々の成員が責任をもって社会に参加し、国民全体が自ら運命を決定するというものです。
すべての国民が意思決定に対して平等に責任と影響力を持つという理想です。
普通選挙(全民選挙)が実地される以前の民主主義は、選挙権を持つ特権階級に有利な意志決定がなされる不平等なものであり、その既得権益の城壁が取り払われるまで時間を要しました。
全ての国民が制限や特別な資格なく選挙権を有する普通選挙は、社会を同胞愛と互恵的利益と普遍的信頼の状態に導くと同時に、国民に責任感と積極性と自立した人格を与えるものであると考えられていました。
しかし、理想であったはずの普通選挙の実現は、当初の期待を裏切り、失望させるものでした。
問題は選挙権の制限ではなく、どうすれば選挙権(自らの意志)を本当の意味で行使することができるか、にありました。
自らの意志や信念を持たず、趣味も意見も感覚も、社会の条件付けによって受動的に与えられている自動機械として操作されている人々は、いかにして「自らの意志」を行使するのでしょうか。
このような状況では、普通選挙は呪物となります。
それは単純に、票が公平に数えられなかったり、投票に社会的圧力がかかっていたりするような、操られた選挙であるというような問題ではなく、完全に自由な選挙であっても国民の意志は反映されないという問題です。
疎外された社会において人々は、中身も碌に知らず比較もせず、ファンタスティックな主張で宣伝された商品を買うのと同様に、政治においても事実や正しい情報はほとんど意味をもたず、広報の技術によるプロパガンダが重要になっています。
政治理念も政治指導者も、商品の販売と同じような戦略によって売り込まれ、重視されるのは販売(=得票)に結び付く効果であり、提示される内容の合理性や有用性ではありません。
党の代表も、テレビCМで起用する有名人を選ぶのと同じように、決定されるのです。
民主主義国家における政治は、商品市場と本質的に変わらず、政党は大企業と似たような行動をとります。

シュンペーターは、古典的な民主主義(18世紀)を以下のように定義付け、続けて現代の民主主義を考察します。

「民主主義的方法とは、政治的決定に到達するための一つの制度的装置であって、この政治的決定とは人民の意志を具現するために集められるべき代表者を選出することによって、人民みずからが問題の決定をなし、それによって公益を実現せんとするものである」

個々の人の意志や諸事実の見通しや推論の方法によって、私的関心事から遠い国内問題や国際問題を扱えば、古典的な定義を満たすものではなくなります。
政治上の大問題も、個々の人間の内においては現実感が失われ、暇つぶし程度の関心を惹くにすぎず、無責任な雑談のタネにしかなりません。
それは自身の仕事からはかけ離れた架空的な世界に思え、危険の可能性も直接的なものと感じられず、また、問題の重要性を想像することも困難です。
現実感の低下は、責任感および効果的な意欲の低下の原因ともなります。
意志(明確な目的を持った責任ある行動を生じさせる効果的な心の在り方)とは呼び難い、空想や愚痴や好き嫌いや言い訳のようなものを持っているだけで、国の問題の解決につながるようなことはありません。
人々(民主主義の成員)は、国政という委員会の一員でありながら、暇つぶしのゲームに費やす努力以下の労力しか払わない役立たずの委員です。
そして、この意志の欠如と無責任感は、政治的問題に対する市民の無知と判断力の欠如を導きます。
むしろ教育水準の高い人々の方が酷く、単純に情報量が問題である訳ではありません。
人は、直接的に関わる関心領域(自分事)以外の情報を重要視せず、またそれを有効に活用することもできません。
直接の責任から来る自発性がなければ、どれほど完全で正しい情報があっても、人は無知であり続けるのです。
市民に情報を提供するだけでなく、問題意識を持たせ、その活用法を教えようという賢明な努力もありますが、効果は極めて限定的です。
現代民主主義において民意が作られる方法は、商業広告のそれと酷似しており、合理的な議論や現実的・批判的な意識を回避し隠蔽するよう、潜在意識や観念連合(連想)に訴えかけるのです。
こうして、古典的な民主主義の定義は、現代において以下のように書き換えられます。

「民主主義的方法とは、政治決定に到達するために、個々人が人民の投票を獲得するための競争的闘争を行なうことにより決定力を得るような制度的装置である」

国民と政党との関係は、現代の大企業化における株主の役割と株主の意志が経営に及ぼす影響とに類似しています。
法的に言えば、何十万もの株主が企業を所有し、その方針を決定し、経営陣を任命する権利を有します。
しかし、実際の所、株主は企業に対して責任は感じておらず、配当金などの利益のみが目的で、大多数の株主は総会に出席することはなく、基本的に経営者の為すこと自体には無関心で黙認しています。
これと同様、ある企業の株を買うように、有権者は投票で政党を選ぶと、選挙後は党と有権者の関係は遠のき、党の内部で決定されることは一般には知らされず、事実上、為政者の為すことは黙認されます。
国民(有権者)は国家の決定を支配していると信じていますが、実際は個人の株主が大企業と持つ関係程度の影響力にすぎません。
これは政治的決定が有権者の意志(投票)の結果であると言えると同時に無関係でもあるという矛盾した状態であり、国民の意志は疎外されています。
自己が決定の主体であるという錯覚を持ちながら、自己以外の力によって決定がなされているという状況は、国民に深い無力感を与えます。
効果的な行動を禁じられると、生産的な思考も停止します。
何の効果もない己の政治的決定や行動は、ますます国民の政治的思考を減退させていくという悪循環に陥るのです。

三節、疎外と精神の健康

疎外は精神の健康(メンタルヘルス)にどのような影響を与えるのでしょうか。
精神の健康の定義が、社会的機能を果たし、生産のサイクル(仕事→生活→仕事→生活→…)を回し続けることであるとするなら、疎外された人間は「健康」であると言えます。
実際、現在の精神医学のメンタルヘルスの定義に照らせば、私たちは皆、健康であると診断されます。
健康と病気の定義や区分は、それを定めた人間の基準に沿って作られる文化的産物であり、当然、疎外された精神科医は疎外された人間に基づき健康を定義づける為、人間の本性に基づくヒューマニズム(人間主義)の観点からは病気とみなされるものを健康であるとしてしまいます。
現在の精神の健康の定義は、疎外された社会的性格の一部である、適応性、協同性、競争性、寛容性、野心などの資質を強調しています。

現代精神医学で最も優秀なH.S.サリヴァンの概念も、蔓延する疎外の影響を受けていました。
彼は、独自の個人的自己が存在するという考えを「妄想」と述べ、人間は他人の期待に応えるという観点から自分自身を経験するという事実を、人間性として捉えました。
サリヴァンの呈示する人間の基本的欲求は、「安全の欲求、親密(協同)の欲求、性的欲求」であり、世間一般的には妥当なものに思えますが、これら概念を批判的に検討すると、疎外の影響が見えてきます。

現代精神医学で強調される「安全」の概念は、世界的な戦争の脅威、および人々の自動人形化と過剰適応からくる不安に対する、真当な応答にも思えます。
人々は、可能な限り不安を生じさせる問題やリスクや疑念を排除しようとする傾向にあり、現代精神医学も、安心(安全感)を精神的発達および精神的健康に直結するものと見なし、その行動を支持します。
子供の教育においても「安全」が重視され、あらゆる衝突や障害を取り除き、子供が不安に陥らないよう常に親は気を配っています。
しかし、過度な衛生が人の免疫力を弱くし逆に病弱になってしまうのと同じように、不安の完全な排除はむしろ人をより無力にします。
人間の存在条件がそもそも不安を基礎にしており、人間の思考や洞察も不完全で、多くの誤謬を伴う部分的な真理しか把握することができない不確定なものです。
結果は常に人間の能力外の多くの要因に依存しており、人生は自身のコントロールを超えたアクシデントの連続です。
いかに最善だと思える決断を下したとしても、リスクは不可避で、結果を確信することはできません(むしろリスクを含まない決断は決断とは言わない)。
その人が感覚を持って生きている”人間”である限り、人生において悲しみや不安を避けることはできません。
人間が自身に為せる、また為さなければならない心の課題は、過度な恐怖やパニックを起こすことなく不安に耐える力を養うことであり、安心を感受することではありません。
人生は、必然的に不安定で不確実なもので、完全に確実なことと言えば、人は必ず死ぬということです。
完全な安心とは、意思決定をやめ、責任を追わず、リスクを冒さない、つまり人間であることを停止し、強い権力に丸ごと服従する時に成立するものです。
自由な人間は必然的に不安であり、考える人間は必然的に不確実なのです。
人間存在に固有の不安に耐えるために、人は、家族、氏族、国家、階級、職業などのグループに根を張ることによって、安定的な立ち位置とアイデンティティの感覚を確保していました。
しかし、近代化の波はこれら一次的絆を消滅させ、独立的に生きるよう求めます。
現代人は「私は私だ」と真に感じられるまで、自己の独自の存在を発展させることによってアイデンティティの感覚を持つことができ、世界に呑まれるのではなく自ら主体的に世界と結びつく生産的な構えを発達させることによって安定的な立ち位置を確保できます。
この方法を採れない疎外された人間の場合、同調することによって問題を解決しようとします。
可能な限り仲間と似たもの(多数派)となり、他人から承認を得ることで安心を得、反対に他人と異なるもの(少数派)になることや他人から承認されないことは不安の種となります。
主体が自分ではなく他者の方にある為、終わりのない同調への渇望と、いつ安心が瓦解するか分からない慢性的な不安(不安が生じるかもしれないという不安)を持つことになります。
まるで麻薬中毒者のような承認(他者の意識に認められること)依存を生じさせ、それに反比例して自己の意識は弱くなり、自己信頼(自分自身で自分を認めること)も失われます。

精神的健康のもう一つの目標である「愛」は、「安全(安心)」の目標と同様に、疎外された状況において新しい意味をもちます。
フロイトにとって、愛の基礎は性愛であり、愛にも様々な形のものがありますが、それらは性的な愛の変形したものでしかないと考えます。
例えば、万人に一方的に注がれる宗教的愛は、個人を愛し性的に結びつく際に生じうる苦悩(拒絶や離別など)を回避するために為されるものだと考えます(個人ではなく万人を愛し、かつ一方的に愛せば決して愛に傷付くことはない)。
性愛にしろ変形した愛にしろ、その目的は対象と一体になり溶け合うエクスタシー(忘我恍惚)や大洋感情、によって、自我が分化(独立)する以前の状態へ退行することです。
フロイトにとって精神的健康とは、愛の能力が完全に達成されることであり、これはフロイトの生きた時代(唯物論と家父長制)を反映したものです。
サリヴァンはフロイトとは対照的に、性愛と愛を区別し、愛を親密(intimacy)として捉えます。
親密とは、互いの価値を認め合い、協同(collaboration)し、他者の欲求と自己の行動を適応させ、相互満足に近付け、ますます互いがこの安全な状況を維持しようとするものです。
サリヴァンにとって愛(親愛)とは、”協同の状況”と定義付けられ、これは彼の生きた時代(疎外と市場的人格)を反映したものです。
共通の利益のために団結し、敵対的で疎外的な世界に対抗するという”一組の利己主義”です。
共通の目的を求め、双方が明示された相方の欲求(ニーズ)に自分を適応させるものです。
しかし、本来愛とは、互いが明示(表現)されない要求を汲み取り反応することを意味し、サリヴァンにとっての愛が現代の時代を反映した特殊なものであることが分かります。
愛は市場的な意味合いを持ち、「相互理解」という名の市場的公平性や相互操作の状態を指すものとなります。
愛は利益や幸福を獲得するための手段、スキルとなるのです。
夫婦生活を円滑にする(目的)ためにパートナーを愛し(手段)、子供を将来犯罪者や神経症者に成らせない(目的)ために愛を注ぐ(手段)、のです。

「幸福」も現代の精神の健康(メンタルヘルス)を定義づける際に重視される概念ですが、多くの人にとって、その意味するところは「楽しい(楽しい時間を過ごすこと)」になっています。
映画、パーティー、スポーツ、ゲーム、音楽、テレビ、ドライブ、恋愛、ショッピング、長い睡眠、旅行などが挙げられ、幸福の概念は快楽(pleasure)の概念と同一視されています。
これは先に述べた無制限の消費および怠惰の喜びと軌を一にするものです。
「幸福」と「楽しい」を同義にする観点を取るなら、「不幸」とは「悲しみや悲哀」を指すことになり、実際、世間一般の人々は悲しみや苦しみのない心の状態を幸福と考えています。
しかし、この幸福の定義は本質的に間違っています。
感受性豊かな生きた人間である限り(つまり心が死んでいない限り)、人生において多くの悲しみを経験をします。
悲しみは人間存在に本質的であるだけでなく、それに加え、社会の不完全さによって必要以上にもたらされます。
様々な要因によって限界づけられた人間は、自分の願望と短く困難な人生の中で達成できることの間に、必然的なギャップがあることを認識し、悲しみ苦しまねばなりません。
私たちは現在の日々、避けられない苦しみや不条理に直面し闘いながら、未来においても自分や愛する人を待ち構えている死によって脅かされています。
苦しみや悲しみを避けるために出来ることは、感受性を持たず、愛情を捨て、無反応になり、心を固くし、注意や感情を自分からも他人からも逸らすことです。
それは身体は生きているのに心は死んでいる鬱状態です。
そうなると、悲しみだけでなく、喜びや楽しさも感じることができなくなります。
幸福を悲しみとの対比(喜楽)によって定義づけると、必然的に挫折するため、喜楽と悲苦の対比ではなく、心が活きた状態と死んだ状態(鬱状態)の対比によって捉える必要があります。
つまり幸福とは、人間の生きる(活きる)力が発露した状態であると言えます。
幸福は、世界(他者)と自分を生産的に関係付ける際に生じる強い内部活動の状態(生命力)です。
それは、理性によって喜びも悲しみも丸ごと含んだ現実の真相に触れ、自己と他者の違い(個有性)と同時に一体性を発見し、愛によって自己と他者(世界)を結び付ける際に生じるものです。

ですから、疎外された人間の受動状態や消費的態度の内に、幸福を見出すことは出来ないということです。
幸福とは能動的に充実を経験することであり、誰かに与えられることをを待つものではありません。
現代の人々は、それなりの楽しみや快楽を持っていますが、基本的には憂鬱で、楽しみに勤しみながらも内側では退屈しています。
退屈とは、生産力が無いという経験、生きて(活きて)いないという感覚です。
人間は退屈に耐えられないため、生産的になり幸福になるという選択肢を取らない限り、できるだけ退屈が露わにならないよう試みます。
それは現代社会が提供する娯楽や快楽を忙しく追い求めることによって、自分自身との対峙からも潜在的な退屈さからも逃避する方法です。
この方法は、自己の病気(問題)を隠すことは出来ても、原因から治療(解決)することは出来ません。
ただ、退屈が露わにならぬよう時間を潰し、無事一日を終え、胸を撫で下ろすのです。

ヒューマニズム(人間主義)の観点から見れば、疎外的な世界で健康とされている人は、むしろ病人です。
人間の本質に基づくヒューマニズム的な意味での精神の健康は、以下のような基準を持ちます。
愛する能力、創造する能力、アイデンティティの感覚(近親相関的な絆から自立し自己を自己の力の主体として経験する)、客観性と理性の発達(自己の内側と外界の現実を把握する)。
ヒューマニズムにおける人生の目的は、以下のようになります。
目覚めること、真剣に生きること、自己の持つ才能を完全に開花させること、幼児的誇大妄想を捨て限られた自己の本当の力を確信すること、個人の人生は宇宙より重いと同時に一本の草のように軽いというパラドクスを受け容れること、生(life)を愛しながら死を恐怖なしに迎えられること、(本心である限り)自己の考えと気持ちを信じ人生で直面する不確実な困難に耐えること、孤独で居られると同時に他者(人間に限らず命あるもの)と繋がることができること、良心の声に従い且つその声を聞き逃したとしても自己嫌悪に陥らないこと。
精神的に健康な人とは、愛と理性と信念(faith)によって生き、自分の生(life)と仲間の生を尊重する人のことです。

疎外された人間は、自分自身を、自分と他人によって操作されるもの、投資物であると経験しており、自己意識が欠如しています。
この自己の欠如は深い不安と虚無感を生じさせます。
私が私でない虚無との邂逅は、狂気の境に人を追い込みます。
現代が不安の時代と呼ばれるのは、自己喪失による不安のためです。
私の存在価値は他人の承認に依存し、常に他人の評価に神経をすり減らしています。
他人からの承認は、社会への適合に対する報酬として得られるため、周囲の他者と違うこと(不適合)に劣等感を感じ、逸脱と疑われる自己の感情や思考や行動にいつも自分自身が脅かされています。
しかし、私は自動人形(同調ロボット)ではなく人間である限り、逸脱は必然であり、常に逸脱の脅威に晒されており、病的な適合への努力は休まることがありません。
疎外された人間に安心感や力強さを与えるのは、群れ(周囲)との適合の度合いであり、良心の声(人間の本質から生ずる要求)に基づく行動ではないのです。
また、疎外の結果、罪悪感が蔓延することになります。
現代の人々は、幾百もの日々の事柄に罪悪感を感じています。
一生懸命働かなかった、子供に厳しくしすぎた、親を大切に出来なかった、部下に甘い処置を下した、趣味を楽しんでしまった等、悪い事だけでなく善い事をしても罪悪感をもちます。
なぜなら、その行為が善かろうが悪かろうが、他人と適合する行動でなければ、私に存在価値を与えてくれる同調という神的命令を背くことになり、私は自分に対しての劣等感と神(群れ)に対しての罪悪感を持つことになります。
そして、本人には意識され難いもう一つの原因は、良心の声に背いていることから生ずる罪悪感です。
人間は、愛し、考え、疑問を持ち、笑い泣き(感覚し)、創造力と主体性を発揮し、自己の持って生まれたものを十全に開花させるという本質的な願いを持っており、それが良心の声となり、疎外された人間の行動に罪悪感をもたらすのです。
人生という自分に与えられた一度きりのチャンスを、下らない価値観や見えない命令に基づく適応行動のために失ってしまっているという、漠然とした無意識的な罪悪感をもっているのです。
現代人は過去の人々よりもずっと楽しみや安楽のある良い世界で生活しながらも、自分の人生が砂のように指の間をすり抜けていくのを感じています。
一方(自己喪失または罪悪感)が他方を強化し、また一方が他方の正当化として機能することがよくあります。
疎外された人間は、自分であることにも自分でないことにも、生きて(活きて)いることにも自動機械であることにも、人であることにも物であることにも、罪悪感を持つという、進退量難の状態にあるのです。

疎外された人間には、世界との生産的な関係付けに基づくエネルギーの流れがありません。
幸福(=楽しみ・快楽)に成ろうという営みによって、自身の不幸に蓋をし、ますます本当の幸福(人間の本質の実現)から遠ざかるという悪循環に陥っています。
楽しみの為に時間を節約しながら、時間つぶしに一生懸命になります。
私が私の人生の主役だという熱意と経験に依って日々を送ることよりも、失敗や屈辱なく何もない日を終えられたことに安堵します。
信念を持たず、良心の声を聴かず、操作する知能だけで理性を働かせないため、彼は常に当惑し動揺し不安を抱え、完全な解決策を与えてくれる強い指導者を待ち望みます。
このような疎外の光景は、精神疾患のイメージと表裏一体です。
生産的な人間は、外界との接触と内界(自己の内面)との接触の両極をもちます。
狂気は、内界としか接触できず、外の世界を客観的な文脈でとらえることなく主観的な象徴で塗り替え、一般的な感覚や常識を持てない状態にあります。
それに対して疎外された人間は、外界としか接触できず、主観的な文脈を失い、世界や自分を写真のように機械的なものとしてしか捉えることしかできません。
人間の生産性は、認識の内部形式と外部形式の間に生起するものであり、どちらか一方が欠ければ病的状態(統合失調症と疎外)に陥ります。

いくらかの人々はこの現代の状況に不満を感じ、自らの人生に生産性を、主体性を、理性を取り戻そうというアクションを起しています。
その反面、いくらかの学者はアメリカ的(消費社会的)ライフスタイルを賛美し、現状推進の楽観主義を訴え、疎外を時代遅れのものと主張しており(マルクーゼの頁を参照)、人々に深刻な心配などする必要はないと説いています。

 

第六章へつづく