マルクーゼの『エロス的文明』(1)抑圧と支配

<第一部、現実原則の支配の下に>

文化とは性欲望の抑圧

フロイトは、人間の文化というものが、人間の自然(本能的)に持っている欲望(主に性的なもの)を抑圧することによって生ずるものだと言います。
もし、本能のままに人間が生きれば、その制御されないエロスは、個人も社会も破滅に導きます。
文明というものは、全面的な欲求の満足という原初的な人間の目的を、禁止し、制御するところから生まれます。

例えば、私がサディスティックな性的欲望を持っていたとします。
もし、その欲望を全面的に解放し、猟奇映画のようなことを現実に行えば、私は処刑され破滅します。
その危険な欲望を禁止し、文化において有効な形(例えば外科医や格闘家や鬼教官など)に変形し解放することによって、私は社会人として生きることができます。

例えば、中学校において部活が盛んなのは、半ば暗黙のうちに禁止された性交の溢れるリビドー(性的エネルギー)を、運動によって解放して、学校秩序を守る働きがあります。
このように、禁止された欲求を、認められる形に変形し充足することを「昇華」と言います(語源的には崇高化、理想化というほどの意味です)。

快楽原則と現実原則

人が飢え食べることを繰り返し生きるように、人は性的欲求不満とその充足を目指す行動の繰り返しによって生きます。
このサイクルを「快楽原則」と言います。
これは社会化されない人間の自然状態です。

しかし、快感原則は現実社会の要請に従い、それと折り合うように、欲望を延期したり変更すること、いわば経済的な損得計算によって、より快感を安定的に満たせるようにする必要があります。
こどもが目先のオヤツの快楽を我慢して、より大きな未来の快楽であるオモチャを買うために貯金するように。
この現実との折り合いによって変更された快感原則を「現実原則」と呼びます。

快感原則が無意識のリビドーに従う性本能だとすれば、現実原則は意識である社会的自我に従う自己保存本能です。

ここで重要なことは、人間は現実原則に従い、現実というものを認識し、善悪や真偽の価値判断を形成するということです。
理性の機能はこの中で発達する、事後的なものなのです。
そもそも外的な欠乏と抑圧のない、人格の内部の無意識の層では、自由と必然が一致しているため、理性の機能を持つ必要が生じないのです(自然の生物のように)。

以下、図式的にまとめたものです。

快楽原則(エロス)→現実原則(文明)
無意識(本能)→意識(社会)
快楽→快楽の制限
即座の満足→遅延された満足
喜びと遊び→苦しみと仕事
受動性→生産性
抑圧の欠如→安全の保証

抑圧される個人

現実原則に則って、個人の性欲は抑圧的に組織化されます。
近代社会においては、経済的な生産性に奉仕する一夫一妻制、および生殖の手段としての性欲へと変形されます。
人間の肉体は非性化され、疎外された労働の機械として訓育し、仕事と遊戯の境界は完全に分割されます。
本来人間は全身が性感帯であったのに、局部にのみそれを集中するよう訓練され、その対象も年齢の限定された異性の人間にのみ向けられるよう馴致されます。

性欲とは本来、多系的で倒錯的なものであるのに、現実原則は、社会に奉仕する異性間の生殖を目的とした性欲の解放にのみ限定し、それ以外は異常な倒錯として禁止します。
文化に対し破壊的に作用する倒錯的な性を厳しく抑圧することにより、性欲の「昇華(社会化)」をうながし、有害なものを有益なものとして利用するのです。

抑圧される社会

人々の生活が組織化されるのは「支配者」の登場によって、人間の管理がの発生する所から始まります。
対等な人間関係の中に上下の階層秩序が生ずることで、事物を秩序のヒエラルキーに収め管理することができます。
この頂点に立つものを象徴的に表現したものが、フロイトの「原父」であり、父権制のイマージュです。
父は快楽と権力を独占し、被支配者の快楽と力を束縛し、強制的に使役させることによって、秩序立った組織(文明・社会)を作り上げます。

フロイトは社会成立の原型として、原父殺しの物語を立てます(史実ではなく、あくまでも歴史から抽出された理念です)。
原父に抑圧される人々は、自分達も父を真似、同一化することによって、快楽と力に与りたいと願う反面、その支配と抑圧を憎んでいます。
彼らはやがて皆で共謀し、父を殺しその肉を喰らい、それにより象徴的に父と一体化し、その強い力をそれぞれが分配することになります。

しかし、父を殺すと、憎しみの火は消え、尊敬と愛の記憶だけが残ることになり、罪悪感が生じてきます。
父への怒りはやがて憧憬へと変わっていくのです。
この悔恨によって、亡き父はより高められ神として崇められ、その罪の感情から個人の中にタブーと禁制(社会道徳)が植えつけられます。
父の掟は、父が殺されたことによって、息子達の中にいき続けることになるという逆説です。
社会秩序というものは、この原初的な暴力に対する罪悪感から生ずる道徳や宗教によって守られるのです。
これがフロイトの言う社会組織の起源(理念的な)です。

この対極にあるものが、抑圧的な支配のない平等を象徴する母権制であり、ここでエロスは自由に解放されます。
しかし、これは先の家父長制の前にある人間の自然状態のようなものではなく、父の専制的な支配の後にくるものです。
文明において自由は解放としてのみ可能であり、エロスの自由とは支配からの解放をさします。

文明のあゆみ

文明の進歩の前提が罪悪感である以上、その進歩の代償として、人は幸福を失います。
罪悪感、いわば「良心」として自己のうちに忍び込んだ専制的な父の亡霊は、自己の内側から欲望の充足を禁止します。
その断念された満足の衝動は内に逆流し、むしろ「良心」のエネルギーとなり、その道徳的厳しさはさらに増していきます。
支配が進み、支配する者が父から行政という客観的な存在に移ってくると、「良心」もそれに準じたものになっていきます。

社会における労働は非リビドー的であり、必然的に不快なものであるため、強制されなければなりません。
文明とは不断の非性化と昇華の連続であるため、人々のエロス(生の本能)を弱めることになり、その反対の力であるタナトス(死の本能)が強くなってきます。
死の本能が支配的になってくると、文明は自己破壊へ向かっていきます。
現実原則による快楽原則の抑圧と疎外が進むと、それだけエロスの解放も破壊的で決定的なものとして働き、社会体制(現実原則)の全面否定という形をとります。

(2)へつづく