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デカルトの『情念論』(2)第二部・上

哲学/思想 心理/精神

(1)のつづき

 

第二部、諸情念の枚挙と順序立て、および六つの基本情念

51、
情念は、精神(意志)の活動、身体の状態(により生じる脳内の諸印象)、そして基本的にそれらが関わる感覚の対象(感覚される事物)によって、引き起こされます。
情念を網羅するには、対象との関りを考察する必要があります。

52、
情念の機能とは、自然が有益であると定めるものを、精神が意志し維持するよう促すことです(40.参照)。
また、それに伴って、身体もこれらの有益な事柄を実現するための運動を促されます。
[例えば、恐怖の情動は、動物が脅威に出会った時などに、命を守るため(有益のため)の行動(逃走など)を意志するよう、自然に定められたものです。]
そこで、感覚がどのような仕方で対象に動かされるかも調べる必要があります。
以下、これらをふまえて、主要な情念を、生起順に枚挙していきます。

53、「驚き」
見知らぬ対象や、予想とは異なる対象に出会う時、人間は不意を打たれ、驚き、揺り動かされます。
驚きは、対象についてまだ明確でない状態で起こるため、情動のうちで最初のものとなります。
対象が明確であれば、そもそも不意を打たれることもなく、驚きの情念は起こりえません。

54、「尊重」と「軽視」
その驚きの対象の大小によって、大には尊重、小には軽視が結びつきます。
また、その対象が自分自身であった場合、大は高邁(高慢)、小は謙虚(卑屈)の情念が生じ、それはやがて現実的な習慣となります(高慢な人、卑屈な人、など)。

55、「尊敬」と「軽蔑」
また、その対象が善悪の判断の原因となる自由意志を持つもの(要するに他の人間)である場合は、尊敬と軽蔑になります(54.の尊重が他人に向いた時は尊敬、軽視が他人に向いた時は軽蔑)。

56、「愛」と「憎しみ」
驚きの情念に類するものは、対象の判断が明確でない状態で引き起こされますが、それに対し、対象の善し悪しの判断によって起こるものが、愛と憎しみです。
対象がその人にとって善いものであれば愛を持ち、悪いものであれば憎しみを持ちます。

57、「欲望」
この善悪というものは、情念が基本的な要素とするものです。
これらを順序立てカテゴライズするため、時間の区別に従い、考察していきます。
まずは欲望(未来へ向かう情念)からはじめます。

58、「希望」「不安(懸念)」「執着」「安心」「絶望」
人間は、善の獲得や悪の回避を可能とするものに欲望を持ちます。
その欲望対象の獲得可能性が高い時は「希望」が生じ、低い時は「不安(懸念)」が生じます。
「執着」とは「不安(懸念)」が特殊な形で現れたものです。
「希望」が極端になりそれが確信に変わる時に「安心」となり、「不安(懸念)」が極端になると「絶望」に変化します。

59、「勇気」「大胆」「臆病」「恐怖」
欲望の実現が自分の力と選択に依存する時、そして何らかの困難に出会った時。
この困難に対抗する時に「勇気」と「大胆」が生じ、その反対である時は「臆病と」「恐怖」が生じます。

60、「良心の不安」
この選択の困難に際して熟考や検討を経た決断ではなく、不決断のまま中途半端にある行為を選択した時、「良心の不安」が生じます。

61、「喜び」「悲しみ」
私がもつ善に対する考慮は「喜び」を、悪への考慮は「悲しみ」を生じさせます。

62、「あざけり」「うらやみ」「憐み」
他人がもつ善や悪がその人にふさわしい時、善のふさわしさは「喜び」を、悪のふさわしさは「あざけり(嘲笑)」を生じさせます。
他人がもつ善や悪がその人にふさわしくない時、善の不相応さは「うらやみ」を、悪の不相応さは「憐み」を生じさせます。
「うらやみ」「憐み」は、他人のもつ悪への考慮であり、悲しみの特殊形(他人を対象とした悪の考慮)です。

63、「自己充足」「後悔」
私が過去になした善に対する考慮は「自己充足」を、悪への考慮は「後悔」を生じさせます。

64、「好意」「感謝」
他人がなした善はその人に「好意」を抱かせ、その善が私自身に対しなされる時は「感謝」が加わります。

65、「憤慨」「怒り」
他人がなした悪は「憤慨」を引き起こし、その悪が私自身に対しなされる時は「怒り」が加わります。

66、「誇り」「恥」
私がなした善に対して、他者の評価が関係付けられる時、善は「誇り」を、悪は「恥」を引き起こします。

67、「いや気」「残りおしさ」「爽快さ」
善であっても持続しすぎると倦怠から「いや気」を引き起こし、悪も持続すれば慣れから悲しみを軽くします(反復は情念を中性化する)。
過ぎ去った善からは「残りおしさ」が、過ぎ去った悪からは「爽快さ」が生じます。

68、69、
以上が諸情念の最適な順序での枚挙です。
そして、これらの情念をよく見ると、単純で基本的なもの(方法序説第二部参照)は六つ、「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」だけであり、その他の情念はそれらの複合、あるいはそれらの種(特殊)的な情念であるということです。
以下、この六つの基本情念を詳細に見ていきます。

70~78、六つの基本情念「驚き」
「驚き」とは、精神が受ける不意打ちであり、その対象に注意を向けさせます。
驚きの原因は、対象を特異なもの(注目に値するもの)として示す、脳の中の印象です。
この不意打ちという条件が他の情念にも見出される時、驚きはそれら情念と結合します(不意打ちはほとんどの情念において見出されます)。
不意打ちは、脳-神経活動において身体を彫像のように静止させ、知覚もはじめに現れた面に固定され、様々な側面から見る精緻な認識を得ることを不可能にします。

情念の機能とは、精神にとって有益であり、かつ情念なしでは維持することが難しいもの(思考)を保存することです(52.参照)。
情念の引き起こす害(不利益)は、情念が必要以上にそれを保持し強化することや、保持すべきでない誤ったものを保持、強化することにあります。
「驚き」におけるこの有益性とは、その注視の機能です。
既成のものとは違う特異なものであること(新しい情報的価値)が驚きの条件であり、それは新しく特別な注意と反省と記憶を、精神に促す機能です。
もし驚きがなければ、人は対象を記憶することはないでしょう。
だから物事に対しての驚き(発見)の傾向を持たない人は、極めて無知であることが多いのです。

しかし、この驚きが極端になり、驚く(考慮する)値打ちのないようなものにまで反応したり、理性を失ってしまうほどのものになれば、歪みや誤りが生じてきます。
だから、驚きの傾向は大切なのですが、それを理性的に制御し、自らの意志による特別な注意と反省を利用すべきなのです。
また、多くの事物についての認識を得、新奇なものに対する経験値を積むことによって、驚きを適切な形で留めることができます。

驚きが極端で、最初の印象に縛られ、その対象についての本質的な認識が得られないことが続くと、これが悪習となり、次第に事物を表面的な驚きでしか見られなくなります。
これが世間の興味本位で皮相的な好奇心(ワイドショー的な)、認識のためではなく驚くことそのものが自己目的化した病癖の正体です。

79~85、六つの基本情念「愛」と「憎しみ」
「愛」とは、自身に適合する(有益な)対象に意志を向かわせようとするものであり、「憎しみ」とは、自身に有害な対象から離れようと意志させる情念です。
これらは身体の神経作用を伴うものであり、単純に精神が原因の損得勘定を指しているのではありません。
また、これ(愛憎)は、今の欠如から未来の充足を求める「欲望」のことではなく、いま現在の対象との関係性のことです。
「愛」は、私と対象が一つの全体の部分であるとみなし、「憎しみ」とは、私と対象が完全に分離したそれぞれ別の全体であるとみなします。

例えば、親と子が純粋な愛の関係にある時、それぞれが部分でありつつ全体としてひとつであるため、自分の方がより優れた部分であるなどとは考えません。
だから、それは対象(相手)から何かを得ようと欲望することはなく、時に自分の利よりも対象の利のために自分を犠牲にすることもあります。
また、お互いの部分性(自己同一性)を失わせるほど密接に結合しようなどとは思わず、対象を第二の自己(独立した対象でありかつ私自身)の様に気遣うのです。

この「愛」の対象を、現実的な上下の比較において評価する時、三つに区別されます。
対象が自分より下である時は「愛情」、例、花や馬。
対象が自分と同等である時は「友愛」、例、人間。
対象が自分より上である時は「献身」、例、神、君主、国家、偉人。
勿論、これはその人の主観的な評価(愛とは自身に適合する対象に~)のことです。
当然、全体を構成する部分(私と相手)において上下関係が存在すると、下位のものより上位の者が優先されるため、私は神や君主のために自分を犠牲にすることはできても、花と自分との選択においては自分を選ばざるをえません。

「憎しみ」は愛と正反対の情念ですが、これら愛のように多くの種類はありません。

私たちは、内的に自身の本性に適合するものを「善」、反するものを「悪」と呼び、外的(外的感覚、主に視覚)に自身の本性に適合するものを「美」、反するものを「醜」と呼びます。
また、内的な善悪よりも、外的(感覚的)な美醜への愛憎の情念の方が、強く精神を動かします。
この美へ向かう情念を「愛好」、醜を回避する情念を「嫌悪」と呼びます。

86~90、六つの基本情念「欲望」
「欲望」とは、自身に適合する(有益な)と想像する未来の対象(事物)に意志を向かわせようとするものです。
愛との違いは、対象が想像(表象)的であることと、未来の存在に向けた志向であるということです。
欲望は以下の四つに区別できます。
1.「今現在持っていない善きものを、未来において持つこと」
2.「今現在持っている善きものを、未来において失わないこと」
3.「今現在持っている悪いものを、未来において失うこと」
4.「今現在持っていない悪いものを、未来においても持たないこと」

これはただの言い換えの様に思われるかもしれません。
例えば、1.と3.は「健康を持つこと」「病気を失くすこと」として、同じひとつのことを言っているわけですが、その態度が本質的に異なっています。
健康(善)を志向することは、愛や希望や喜びを伴うポジティブなものであり、病気(悪)を避けようとすることは、不安や憎しみや悲しみを伴うネガティブなものです。
だから、善の追求と悪の回避は同じ欲望でありながらも、一般的には相反するものとして区別されるのです。

ただ、善の追求と悪の回避が、同じものを別側面から見たものであると言っても、先にも述べたように、その欲望が愛好(美への欲求)と嫌悪(醜の回避欲求)によるものであれば、強い情動を伴い、それらにはかなり大きな差異がでてきます。
例えば、健康、不健康に対する欲望(概念的な善悪に対する欲望)よりも、死を予感させるウジ虫(悪の外面化-醜)に触れた時の回避衝動や、生を増進する美味そうな桃(善の外面化-美)を見た時に食べようとする衝動の方が、はるかに強く人を動かします。
この愛好(善の外面化-美)への欲望の極みとしてあるものが、異性への愛好です。
そして人はこれを「恋」と呼びます(いわゆる愛と恋の違いです)。

 

(3)へつづく