デカルトの『情念論』(3)第二部・下

哲学/思想 心理/精神

(2)のつづき

 

91~95、六つの基本情念「喜び」と「悲しみ」
「喜び」は快い情動で、精神における善の基本となるものです。
精神が善から受けるもの(結果)は喜びであり、喜びのないものは善とは言えません。
「悲しみ」は不快な情動、ネガティブな無活動状態であり、精神における悪の基本となるものです。
これらは脳(身体)の諸印象が引き起こす情動(受動)であり、純粋に知的な精神の作用(能動)によって引き起こされるものを指すのではありません。
勿論、精神と身体は結合しているので、知的(能動的)に引き起こされた喜びや悲しみは、情動(受動)としての喜びや悲しみも伴います。

知的な喜びや悲しみは、善や悪を所有しているという「考え」が原因となりますが、時に何の考え(知的原因)もなく喜びや悲しみを感じる時、それは精神の介入なしに脳(身体)の諸印象によって起こっているものです。
では、精神の介入なしに起こる喜びや悲しみとはどういうものでしょうか。
例えば、体の調子がよい日や晴天の日などは非常に快活になったり、体が不調な時や天気の悪い時などは理由も分からず悲しくなったりします。
これらは知性の働きではなく、身体や物理的な環境が脳の内に引き起こす印象が生じさせるものです。

また、精神の作用が原因でありながら、それと気付かれていない善悪によって生ずる「喜び」や「悲しみ」もあります。
例えば、登頂の難しい山に登る時の喜びは、その危険や困難という身体物理的な環境が脳の内に生じさせる印象(悪)と、その危険や困難にあえて立ち向かい克服する勇敢で能力ある自分という精神的な思考(善)とが、重なり合って得られるものです。

 

96~136、
[上述の五つの基本情念(驚きを除く)に伴う、身体運動(外的な表情や動作、内的な生理学的動き)の記述。]

 

137~143、基本情念の効用と機能
自然によって定められた情念の効用は、身体(生命)の保存に役立つ、あるいは完全性へと向かわせる有益な行動を精神に促し、それを意志させ、協力させることです。
まず、身体を害するものは精神に苦痛をもたらし、その苦痛の感覚は「悲しみ」の情念を生み出し、次いでその苦痛を与えるものに対する「憎しみ」を、さらにその対象から逃れようとする「欲望」を、順次引き起こします。
反対に、身体を益するものは精神に快感をもたらし、その快い感覚は「喜び」の情念を生み出し、次いでその快感を与えるものに対する「愛」を、さらにその対象の持続や再獲得への「欲望」を、順次引き起こします。

しかし、この情念の効用が常に正しく機能するわけではありません。
有害なものが喜びを与えたり、悲しみを引き起こすものが有益であったりします。
先にも述べたように、これは善悪の表象の見誤りや、適切さを外れた過度の関心から生ずる情念の不調和によるものです。
精神は理性と経験を用いて、善悪に対する正確な価値判断をなすことによって、これを修正しなければなりません。
情念は最終的に欲望を生じさせ、その欲望を介して人間の行動を導きます。
当然、この情念を引き起こした原因が正しいものである場合は、すべて有益な結果を生み、誤ったものである場合は、すべて有害な結果を生みます。
真なる認識に伴う欲望はつねに善であり、誤った認識に伴う欲望はつねに悪です。

 

144~148、自由意志と運命(必然)
これを引き起こすよくある誤りは、「1.私に依存する事柄」と「2.私に依存しない事柄」をきちんと区別しないことから生じます。
「1.私に依存する事柄」とは、私の自由意志にのみもとづくものであり、ここにおいて善いと判断したものを欲し為すことこそ、「徳」と言われるべきなのです。
私にのみ依存するものであるということは、必ず実現されるということであり、つねに期待した満足をすべて受け取るのです。
「2.私に依存しない事柄」とは、私以外のもの(他人や環境や運-偶然-など)にもとづくものです。
その対象がいかに善いものに見えても、それは私の行為(自由意志)のコントロール外にあるため、その実現可能性は、他のものに依存する不確実なものです。
それは望んでも悲しませることの方が多く、何より問題は、その不確実で他力本願な思考が、私の確実で自律した意志(徳の実現)の場所を奪い取って、頭の中を占領してしまうことにあります。

しかし、よく考えてみれば、私の意志の力の外にあると思われる「偶然」や「運(必然的運命のことではなく、偶然的運のこと)」などというものは、知性の誤りから生じた単なる幻であることが分かります。
人間は、自分の力によって可能だと認める事のみを欲望します。
自分の力の及ばない事を可能だと認めるには、その事がらが偶然や運に依存するものであると考える時です。
前者は「起こる」という確実性によって、後者は「起こりうる」という可能性の判断によって欲望されているのです。
けれど、この可能性の判断というものは、ただ私があらゆる結果を生む原因というものを知り尽くしていないことから生ずる、主観的な幻想にすぎません。
もし、私が「偶然や運に頼って欲望している事がら」について知り尽くしており、それが起こりえないという必然を把握していたなら、私はその可能性を認めることも欲望することも、決してなかったはずだからです。

[分かりにくいので解説します。例えば、入試前に偏差値55の私が55以下の学校を志望(欲望)することは、自力に基づく確実なものです。偏差値55の私が60以上の学校を志望することは、運や偶然の力に依存した不確実なものへの欲望です。しかし、もし、私が過去の試験問題のデータを知り尽くし、「あわよくば私の得意な問題ばかりが出て合格するるかもしれない」という偶然への期待を打ち砕く情報を持ち合わせる時、決してその学校を志望(欲望)するということはありえません。「可能性」とは、結局、私が無知であることの別名であり、現実に対し無知な子供がとんでもなく大きな夢(可能性)を抱くのと同じことです。]

「私の外部に偶然や運というものがあり、それが事物を動かしている」という通俗的な見解を捨てる必要があります。
そして、私の自由意志の外にあるものは、すべて神の摂理(必然)に従い、不可謬かつ不可変であるということを認識せねばなりません。
これを自覚せずに欲望する時、人間は誤るのです。
私の自由意志の範囲(コントロール)内にあるものと、その外にある不可変の必然に属するものとの境界を明確に分け、私の欲望がこれを越境し拡大しないよう注意しなければなりません。

例えば、目の前に分かれ道があるとします。
一方は安全な道で、もう一方は危険な道だと認識されています。
当然、私は安全な道を選び取ります。
しかし、必然の決定は、その日に限って安全な道の方に強盗を配置しており、私は襲われ大金を失います。
理性は安全な道を選ぶことを要求し、欲望はそれに従ったからには、どんな悪がふりかかろうが(どんな結果が待っていようが)、達観して受け入れねばなりません。
知性が認識できる範囲の最善を尽くし選択したのなら、もう達すべきところへ至っているのであり、その結果がいかなるものであれ不可避であり、別の可能性を考えるべき理由など一切ない(意味がない)のです。
自由と必然の境界を引き、幻の運(偶然)と本当の運命(必然)を区別する修練を積めば、欲望は制御され、やがて習慣となります。
ここにおいて欲望は、つねに私を十全に満足させるものとなるのです。

このように、私(精神)みずからの内に満足の原泉を持つのなら、外(他)から来るいかなる混乱も私の精神を害することはできず、これにより精神は自身の完全性を知るのです。
私(精神)が満足をもって生きたいのであれば、ただ忠実に「徳」に従えばよいのです。
先にも述べたように、「徳」とは、良心の不安(60.参照)の無いようによく検討した、自分が最善であると判断する事がらを為し、生きることです。
この満足は人を幸福にする極めて強い力であり、どんな激しい情念も、その平安を乱すことはできません。

[要するに、デカルトは、世界には人間の「自由意志」とその外部の「運命(必然)」しか存在しないと言っています。いわゆる運(偶然)は、単に人間が必然を把握していないことから起こる幻想でしかないということです。世界には自分の「自由意志」と「必然」しか存在しないなら、当然、自分の自由意志において最善を尽くしたなら、残りはもうすべて必然であり、完全に為すべきことを為してしまっている完全な状態であるというわけです。だから、その最善を尽くした後の結果に対し文句を言うのは、偶然(別の可能性もあったのではないか)という幻想が引き起こす虚像への文句であって、それはオバケを信じて怯えている子供と大差がないということです。また、ここで言う必然は人間にとっての必然であり、神にとっては私の自由意志も神の摂理に含まれるものですが、それは人間の知性の限界を超えており、把握するすべはなく、考えても意味のないことです。]

 

第三部、特殊情念について

149~212、
[第二部で考察された基本情念を類とする、各種の特殊な情念が語られます。]

 

おわり