デカルトの『情念論』(1)第一部

哲学/思想 心理/精神

概略

第一部は分かりにくいので、先に簡単にまとめておきます。
先ず、精神には能動的なもの(A)と受動的なもの(P)があり、それぞれの対象が非物質的か(1)と物質的か(2)により、大きく四つに分かれます。(A1、A2、P1、P2)
本書の主題となるP2(知覚)は、さらに三つに分けられます。(P2-a.事物知覚、P2-b.身体知覚、P2-c.精神知覚-情念-)

「精神の構造」

●A.能動的精神(意志)…精神が主で身体が従。

・A1.非物質を志向する意志…主に思考のこと。

・A2.物質(身体)を志向する意志…行動のこと。

●P.受動的精神(知覚)…身体が主で精神が従。

・P1.非物質的なもの(精神)が原因となる知覚…想像や夢、意志そのものの知覚など。

・P2.物質的なもの(身体)が原因となる知覚…神経を介した以下のような知覚のこと。
P2-a.外的事物に関係付けられる知覚。外的感覚。例、リンゴを見る(感じる)。
P2-b.身体に関係付けられる知覚。内的感覚。例、空腹感や痛みなど。
P2-c.精神に関係付けられる知覚。世間一般で言う狭義の情念(デカルトは情念の原因を身体の神経作用と見ます)。例、怒りや悲しみなど。

[第二部から、情念(P2-c.)についての詳細が網羅されます。面倒な方は第二部から読んでください。精神に関係付けられる知覚というのが非常に分かりにくいので、野田又夫氏の解説を引用します。]

「恐れ」というような受動的意識(情念、P2-c.)では外感(P2-a.)や内感(P2-b.)とは違った趣に見える。それは外物や身体部分についての意識でなく、精神自身についての意識である。もちろん「虎が恐ろしい」とか「幽霊が恐ろしい」とかいうように何か外物に関係づけられることもあるが、よく見ると、「虎が恐ろしい」というときに虎を指しているのは外的感覚であって、「恐ろしい」という感じは直接には虎の意識でなく虎を見ている精神の状態そのものの意識であります。「虎は茶色い」といえばこれは視覚によっていわれ、「茶色」は虎そのものに帰属させられるが、「恐れ」という感じは虎そのものに帰属せず虎を見ている自己の状態の形容である。だから檻の中の虎は「茶色」だが、「恐ろしい」ことはないのであります。受動的意識の中でこのように意識状態そのものについての意識であるものが、「情念」であります。外物のものでなく身体のものでもなく心自体のものとして感ぜられる意識内容で、しかも受動的なものが「情念」であり、デカルトは情念を「心の受動」と呼んでいます。
(野田又夫著『デカルト』岩波新書、カッコ内の英数字は引用者)

 

第一部、情念および精神の構造

1、
何かが生起する時、それを起こす主体は「能動(アクション、活動を含意)」、それを受け入れる主体については「受動(パッション、情念を含意)」と言われます。
「能動」と「受動」は正反対のものですが、常に同一の事柄の二つの側面であり、それを各々の主体に結びつけた時に生ずる呼び名です。

2、
人間は精神と身体の合一であり、互いがこれほど直接的に働きかける関係はありません。
身体において能動である時、精神は受動(パッション)となります。
人間の「情念(パッション、受動)」について知るためには、身体と精神のそれぞれの機能の違いを学ばねばなりません。

3~16、
[身体の機能についての医学、生理学的な記述]

17、
精神の機能とは、まさに思考です。
思考には二種類あり、精神の能動によるものと、受動によるものです。
前者は意志の働きであり、それは精神から能動的に発します。
後者は知覚の働きであり、それは対象となる事物から受動的に受け取ります。

18、
さらに意志の働きは二種類あります。
第一は、物質的でない対象(例えば抽象観念や神)を志向するものです。
第二は、物質的な対象である身体を志向し、身体において完結するものです。
後者は例えば、歩くことを意志し、脚が動く場合などです。

19、20、
さらに知覚の働きにも二種類あります。
第一は、物質的でない対象(精神)を原因とする知覚。
第二は、物質的な対象(物体)を原因とする通常の知覚です。
第一の精神を原因(対象)とする知覚とは、意志していることそのものの知覚や、意志によって生ずる想像や思念を知覚するような場合です。
私が何かを意志する時、能動的に意志しつつ、同時にそれを受動的に知覚しています。
実のところ、意志と知覚は同じひとつの事柄の両面であり、その事柄において優勢な方を基にして名付け(とらえ)られているだけです。
例えば、想像や思念を知覚する場合も、これらの知覚は精神の能動である意志の働きに依存しているため、一般に人々はこれらの知覚を受動ではなく能動と考えます。
[物体の単純な知覚の場合も、完全な受動ではなく、見ることや聴くことをやんわり意志することを含んでいます。]

21、
勿論、意志の働かない受動的な想像というものもあります。
例えば、夢の幻想や、いきあたりばったりの自由連想や、目覚めながらに持つ夢想などの場合です。
まさに精神の受動(パッション、情念)と言えますが、精神が身体(神経)を介して受け取る感覚知覚の場合のように明確な原因はなく、むしろ感覚知覚の影絵のようなものです。

22、
想像ではなく、神経(生理学的な)を介した普通の知覚は、三つに分けられます。
a.外的対象に関係付ける知覚、b.自己の身体に関係付ける知覚、c.自己の精神に関係付ける知覚、の三つです。

23、
a.は、外的事物→感覚器官→神経→脳→精神、の順にある種の運動や変化を伝える過程です。
この際、精神に伝達された運動や変化(感覚知覚)は、それらの原因となる対象を措定し関係付けます。
知覚された変化や運動ではなく、「松明を見る」とか「鐘を聞く」と思うのです。
[例えば、お寺のそばでボーンと鳴ったら鐘を聞いていると思ってしまいますが、実際に聞いているのは単なる或る特定の空気の振動音です。もしかしたら近所の公園で練習しているヒカキン(ビートボクサー?)の声音かもしれません。]

24、
b.自己の身体に関係付ける知覚とは、飢えや渇きなどの自然的欲求についての知覚や、熱や痛みなどの身体上に感じる知覚などです。
手を冷たい空気にさらすと、空気の冷たさと同時に手の温かさを感じています。
この二つの作用を違うものと捉えるのは、その前後関係の判断によるものです。
先ず、私のうちに温かい手があって、次いでそれが冷たくされた時、その続いて引き起こされる冷の作用は、(私の外の)作用を起こす対象が元であると判断してしまうからです。

25、
c.自己の精神に関係付ける知覚とは、いわゆる「情念」のことです。
外的事物に関わる知覚(a)も、身体に関わる知覚(b)も、ともに「受動(パッション、情念)」ではあるのですが、ここでいうのはもっと狭い意味での受動である情念(喜びや怒りのような)の感覚のことです。

26、
外的事物の知覚(a)や身体の知覚(b)に欺かれることはあっても、精神に内在し密接している情念に欺かれることはありません。
情念は精神が感じる通りに在り、夢の中や妄想にふける時(a.b.において欺かれている時)であっても、悲しみや怒りの情念(c)は、真としてあります。

27、28、29、
「精神の情念(c.の狭義の情念のこと)」の第一の定義は、「精神の知覚、感覚および感動」です。
精神の情念における「知覚」とは、能動的な意志の働きでない不明瞭なものであって、明証的な知覚を指すのではありません。
それは精神と身体が不分明に密接した混乱の中にあります。
さらに、情念は「感覚」でもあります。
情念(怒り、悲しみ等)は外的な感覚対象と同じようなあり方で、精神に受け取られます。
また、情念は「感動(エモーション)」でもあります。
精神のうちに起こる変化や動揺の意識を指すものです。
第二の定義は、「精神に関係付けられ、精気によって引き起こされるもの」です(精気とは神経を動かす原因物質)。
外的対象(a.)や身体部位(b.)に関係付けられるのではなく、精神に関係付けられ(c.)、意志の働きではなく神経(身体)を主な原因とするものです。

30~38、
[情念がいかに神経(思考ではなく身体としての脳)を原因として生じるかを、解剖学的な視点から説明します。]

39、
だから、同じ対象に出会ったとしても、それぞれの人の脳の状態が違っているため、ある人はそれに恐れの情念を抱き、ある人は大胆な興奮の情念をもちます。
恐れる人の脳は神経を介し防御行動のための指令を出し、勇敢な人の脳は血を湧き立て興奮させるような指令を出します。

40、
情念の機能とは、この脳-身体的な指令関係を、精神にも意志させようと促すものです。
恐れの感情は精神に対し「逃げるよう意志せよ!」と促し、大胆の感情は精神に対し「闘うよう意志せよ!」と促すのです。

41、
しかし、意志は本性として自由(自由意志)であり、強制されるものではないはずです。
だから、精神は、能動、受動の二つのあり方に区別されます。
ひとつは、精神の能動、意志作用であり、思考は無条件に精神の力の制御下にあり、身体もそれに従属します。
もうひとつは、精神の受動(狭義には情動の作用)であり、それは精神ではない別の能動であるもの(狭義には身体)に依存します。
前者は物体によっては間接的にしか変えられず、後者は精神によっては間接的にしか変えられません。

42、43、
[記憶と想像が働く際の、脳の動きの記述。]

44、
人間は意志によって、その目的とする行動や結果を確実に為せるわけではありません。
「自然(生得的な身体性)」あるいは「習慣」が、意志と運動の線(脳から身体へ命令を送る経路)に介在し、異なった連係を結ぶからです。
「自然」の例で言えば、私は遠近の焦点合わせのためなら目の水晶体を自在に動かせますが(厚みの調整)、水晶体を動かすことを意志して、水晶体を動かすことは決してできません。
「習慣」の例で言えば、習慣として得られた発話の際の口の動きは、意志によって口を動かそうとする口の動きより、はるかに俊敏かつ適切かつ自然に行います。

45、
同様に、人間は意志の活動(能動)によって、情念(受動)を直接コントロールすることはできません。
しかし、私が持とうと意志する情念に習慣的に結びついているものを思い浮かべたり、私が持ちたくない情念に反するものを思い浮かべることで、間接的に働きかけることはできます。
例えば、大胆という情念を持ち、恐怖という情念を捨てたければ、リスクは思うより低いこと、逃げるより闘う方が安全であること、闘えば誇りと喜びと尊敬を逃げれば恥と悲しみと侮蔑を得ること、などの考えを思い浮かべることです。

46、
多くの場合、情念は、身体的な激動を伴うため、それがおさまるまでは、情念は思考を支配します。
小さな情念であれば、精神はそれを抑えることができますが、大きなものになると、その激動がやむまでじっと待つしかありません。
そういう状況で意志にできることは、その激動が生じさせる身体運動に可能な限り同意せず、制止することだけです(例えば怒りの激動によって殴ろうとする拳を抑える)。

47、
一般的に、精神の内には、理性的な高いもの(意志)と、感覚的な低いもの(自然の欲求)があり、つねにそれらが葛藤し闘っていると思われています(頭の中で天使と悪魔がケンカするような)。
しかし、それは先に挙げたように、精神の意志を軸とした運動への命令伝達経路と、身体の生得性や習慣を軸とした運動への命令伝達経路との、衝突と妨害と錯綜から生じる葛藤です。
あくまでも私の内にあるのは一つの精神(意志を軸とした)のみです。
多くの場合、精神に関する既存の問題は、精神と身体の機能をきちんと区別しないことから生じているのです。

48、49、
精神の強さというのは、この闘いの結果生ずるものです。
意志による身体運動が情念による身体運動を抑える時、強い精神と言われ、情念に呑まれる者は弱い精神と言われます。
意志がこの闘いにおいて武器とするのは、事物の善し悪しの真なる認識と、それに基づく決然とした判断力です。
弱い精神は、判断せず決心せず、ただ情念に流されるままに動かされる受動的なものです。
芯のない弱い精神においては、いくつもの情念が同時にいくつもの方向に意志を矯正しようとし(40.を参照)、精神に不安定と不自由と不幸をもたらします。

50、
もしこういう強い精神を持てない弱い精神であっても、習慣の力によって、情念に対する支配権を得ることができます。
例えば、動物は意志を持たず、自然に与えられた運動の命令経路(要は単純な身体-脳の入出力、刺激-反応関係のこと)に従って行動します。
獲物がいれば捕食し銃声からは逃げる自然な犬の運動の命令経路を、計画的な習慣づけによって、獲物がいても留まり銃声に対しひるまない猟犬にすることができます。
それに加えて人間は言語を使用します。
言語における運動の命令経路(刺激反応関係)には、語の意味付けというものが介在します(自然の反応関係において言語はただの音声あるいは線画です)。
ある言語刺激に対し、どういう運動(出力)に結びつけるかも、結局は習慣の問題です(語の意味は習慣によって獲得される)。
こうして分かるように、動物ですら可能であるなら、計画的な習慣づけの力によって、弱い精神(人間)を訓練し変えることは十分可能であり、人間は情念に対し絶対的な支配権を持てます。

 

第二部へつづく