デカルトの『方法序説』

哲学/思想 科学/自然

はじめに

本書の正式なタイトルは、『著者の理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を求めるための方法の序説、なおこの方法の試みなる屈折光学、気象学および幾何学』(落合太郎訳)です。
要は科学論文(屈折光学、気象学、幾何学)の序文にあたるもので、彼の方法論、哲学、自然学を簡潔に述べたものです。
全六部から成り、第三部までで方法論の構築へいたる経緯を、第四部で哲学の概略、第五部で自然学、第六部で本書執筆に関する諸問題が語られます。

第四部の哲学に関しては『省察』という本で詳しく語られるので、それは項をあらためて解説します。
第五部および第六部に関しては、一般向けには必要のない部分ですので割愛します。

 

第一部、世界という書物

良識(理性)というものは、万人平等に与えられているものです。
それは真偽を区別し、正しく判断する力です。
だから、人間の意見の違いというものは、持って生まれた理性の優劣で生ずるものではありません。
同じものを見ているようにみえながら、各々が異なる筋道で思考を導くために、異なる考えが生まれてしまうのです。

優れた精神を持っているだけでは駄目なのです。
頭の回転が速いことや記憶力や想像力に優れることなどより大切なのは、それを使いこなす方法を会得していることです。
私(デカルト)のような凡庸な精神、そして人間の短い人生であっても、この方法にめぐり合えたことで、可能な限りまで知を高める手だてを得ることができました。

私がこの序説において述べるのは、そのめぐり合い(方法の獲得)の過程です。
別にこれが正しいわけでも、手本になるわけでもありません。
ただ、読者にとってはひとつの経験として、私にとっては、その読者からの評価や批判を通して、自分を改めるきっかけとすることです。

私は子供の頃に、人文学(書物、文字による学問)が人生において有益で確実な知識を与えてくれると聞かされ、それを極めるために努力しました。
ヨーロッパの最高学府の全課程を終え、それでも足らずに、別の学問領域や非常にマイナーなもの(占星術や錬金術や魔術など)にまで手を出しました。
しかし、結局、それで得たものは、有益でも確実でもない、無益で不確実な、無数の疑いと誤りの迷いだけでした。
必死で勉強した結果、ただ自分がどうしようもなく無知であるということを思い知らされただけです。

しかし、これによって重要なものも得ました。
それは、自分をもとにして考え判断する自由です。
“理想となる学説は他者や先人から与えられる”という既成概念の束縛から解き放たれた自由です。

勿論、学校での学びは、それぞれの特殊な状況においては有益です。
語学は獲得できる情報の可能性を広げ、歴史は判断のための助けとなり、詩は繊細さと優しさを雄弁術は力を与え、数学は正確さと発想力と技術革新を、法学や医学は富と名誉をもたらし、哲学の衒学性は社会的な装飾として役に立ちます。
そして、これらをひと通り学ぶことは、欺かれないためにも、正しい価値判断のためにも有効です。

しかし、結局、これらは実利的な有益さであり、学問的に本質的な部分でそうであるのではありません。
私のように、生活(財産、利益)のための学問を必要とせず、虚飾にまみれた世俗の名誉には興味を持てない者にとっては、目的となりえません。

こういうわけで、私は教師から得る学びを卒業し、解放されると、人文学(書物、文字による学び)を完全に放棄し、私自身の内か、あるいは世界という大きな書物の内にある学びのみを探究しようと決意し、世界中を旅してまわることにしました。
まるで他人事を扱うような安全な書斎の机上の思弁よりも、下手をすれば判断の誤りが自分の命に関わるような現実経験と試練の中での思考の方が、はるかに生産的で、多くの真理を見つけられる可能性があると考えたからです。

他人事を眺めるだけの勉強から学んだこととは、誰かが正しいと考える意見は、たんにその人が生きる場所での常識や習慣のようなものであり、別の場所ではまったく反対のことが正しいとされているという、相対的な事実です。
そこに私を確信させるものは何もなく、むしろそれは誤りを誤りによって打ち消していく迷信の解体作業であり、それは私(人間)の生まれながらにもつ理性の光を覆う幕を剥ぎ取り、解放してくれたのです。

そうして、世界という広大な書物の中で学び、そして私自身(人間)の内でも学び、私のたどるべき道を探すために全精力をかたむけたのです。

 

第二部、方法の四つの規則

戦争でドイツにいた頃、皇帝の戴冠式から部隊へ戻る際の宿舎で足止めをくらい、落ち着いて思索にふける機会を得てこう考えました。

例えば、建物を作る際、多くの大工の手によって作られた寄せ集め仕事より、ひとりの大工が労力を傾け作り上げたものの方が、完成度が高く整い調和しています。
それは書物による学問においても同様です。
自ら証明に立ち会ったわけでもない他人の蓋然性によるだけの意見を寄せ集めて構築された学問は、一人の人間の生まれながらにもつ良識による純粋な推論ほどには真理に近づけません。

勿論、町全体や国家、文化や学問体系全体を改善するために、すべてを取り壊し、一から作り変えることはできませんし、理にもかなっていません。
しかし、一戸の自分の家を更地にした上で建て直すように、一個人の私が、自分で吟味もせずに鵜呑みで付け足してきた諸原理や意見を、きれいさっぱり捨て去り、一からはじめることは可能です。
理性の基準によって自分で吟味したもののみを取り入れ、再構成していくことです。
勿論、以前に捨てたものも、理性の水準器を通りえたなら、再獲得しても構いません。

しかし、世を成り立たせるのは、これとは正反対の二種類の人達であり、私を真似ることや模範とすることを勧めるわけではありません。
第一の人は、自分の有能さを疑わず、性急に判断をくだし、自分の思考を吟味し順序だてて積み上げていくだけの忍耐力を持たない人。
第二の人は、逆に自分の理性に自信がなく、他の人に教えを乞おうとし、自分で考えることをせず他人に従うことで満足する人。

必要なのは、理性における謙虚さと勇敢さの両方を持つことです。
闇の中を一人あるくように、周到な注意を払い、遅くとも確実な足取りで、決して倒れることのないよう、進めるのです。
この探究のモデルとしたものが、解析幾何学、代数学および論理学の、三つの長所を統合した方法です。
それは以下の四つの規則にまとめられます。

第一は、明証的に真であると認めることなしには、いかなる事をも真であるとして受けとらぬこと、すなわち、よく注意して速断と偏見を避けること、そうして、それを疑ういかなる隙もないほど、それほどまでに明晰に、それほどまで判明に、私の心に現れるもののほかは、何ものをも私の判断に取りいれぬということ。

第二は、私の研究しようとする問題のおのおのを、できうるかぎり多くの、そうして、それらのものをよりよく解決するために求められるかぎり細かな、小部分に分割すること。

第三は、私の思索を順序に従ってみちびくこと、知るに最も単純で、最も容易であるものからはじめて、最も複雑なものの認識へまで少しずつ、だんだんと登りゆき、なお、それ自体としては互になんの順序も無い対象のあいだに順序を仮定しながら。

最後のものは、何一つ私はとり落とさなかったと保証されるほど、どの部分についても完全な枚挙を、全般にわたってあますところなき再検査を、あらゆる場合に行うこと。

(落合太郎訳『方法序説』岩波書店より)

上から順に、「明証の規則」「分析(解析)の規則」「総合の規則」「枚挙の規則」と呼びます。
真でないものを決して受け容れることなく、あるものからあるものを演繹する際に必要な順序をきちんと守れば、どれほど遠くにあるものでも、発見することができるはずです。

【解説】
分かりにくいので少し解説します。
明証と分析によって得られた正しい前提(単純命題)を総合(演繹)したものなら、それも確実に正しいはずであり(演繹の真理保存性)、この総合の確実性をさらに枚挙によって検証、保証するということです。(演繹、帰納の項を参照)
フランシス・ベーコンは帰納によって演繹(総合)の元となる一般則(対象が共通にもつ単純な命題、原理、原因、原則)を導いたわけですが、デカルトは幾何学的な解析(分析)をモデルとして発見しようとします。
幾何学の「解析」というものは、よく分かっていないある図形Aが与えられたと仮定して、その図形を成立させている条件(既知の)にまでさかのぼり、発見(解析)されたその既知の条件によって、ある図形Aを作図可能にするものです。
私の目の前にある何らかの問題(未知の出来事や命題、不確実なもの)に対し、それを分析(解析)することで既知の(確実な)ものへと還元し、理解(証明)することです。

 

第三部、道徳の規則

理性的には既成の概念を打ち壊し、ゼロの状態から慎重に新たな学を打ち建てるにしても、現実生活や行為においても非決定であるわけにはいきません。
家の建て替えをする際には、仮住まいするための簡単な家が必要です。
そこで探究の間、世俗の中でもできるだけ幸せに生きるための道徳的な規則を、三つの格率として立てました。

第一は、自国の法律と慣習(と宗教)に従うことです。
共同で生きる人々の間にあっては、最も穏健な意見に順応した生活を送ることが有益です。
悪いものは極端であるのが通例であり、リスクを背負う二者択一より中庸にある方が安全です。
[既成概念の信奉者の攻撃から身の安全をはかるための、外面的な装いでもあります。]

第二は、行動において果断であり、かたい意志を貫き、ぶれることなく生きることです。
森で迷った時は、最も蓋然性の高い方向へ一直線に進むのが最善の策です。
実生活において、後悔や迷いや不安はまったく無益であり、決断と行動を必要とします。

第三は、運命より自分に打ち克ち、世界の秩序より自分の欲望を変えることです。
私の変えられる範囲内にあるものと、範囲外にある変えられないものをきちんと区別できるよう自身を習慣付け、その上で最善を尽くすことです。
どんな過酷な外的状況にあっても、自分の力の範囲内にあるのは思考であり、その思考を制することによって、運命すら徳としたストアの賢人達のように。
これは環境に拠らずに、自律的に自由と幸福を得る方法です。

 

デカルトの『省察』へつづく