フォイエルバッハの『キリスト教の本質』

人間の本質

あらゆる動物の中で宗教を持つのは人間だけです。
そうであるならそれは人間の根本的な特別な性質、いわゆる本質に基づき生じたものであるはずです。
通俗的に人間の本質として「意識」がよく挙げられますが、他の動物の行動を観察してみると彼らも厳密には意識をもっていないなどいえません。
だから重要なのは、人間にのみ特別な意識のあり方です。

それは何かといえば、或るものの「類(理念や本質、プラトンのイデアやアリストテレスのエイドスに似た概念)」を対象とすることができる意識です。
猿が鏡で自己を意識するとき、それはあくまで猿そのものであって、「サル」という類(理念や本質)ではありません。
人間が椅子を意識する時、外的生活にある椅子そのものを対象にすることも、内的生活である「イス」という類(理念)を対象とすることもできます。
動物が一重の生活を送るのに比して、人間は外的生活と内的生活の二重の生活を送っているわけです。

人間は人間自身の類(理念や本質)を意識の対象としてもちうるがゆえに、自省(独りで考えたり、自分との対話)が可能となるのです。
また、個体としての自己ではなく類(理念や本質)としての自己を意識できるがゆえに、人間は類(理念)としての自分を類(理念)としての他者の地位に置くという、いわゆる同情や移入ができるのです。
このように、人間は自らの類を対象とする類的存在であるという本質特性が、宗教の生まれる基盤となっているはずです。

神の本質

しかし、人間は自己の本質を対象を通してしか捉えることができません。
幼児が大人という対象(他者)を通して人間の本質を見出し成長していくように、人間は自らが対象とするものにおいて自分自身を意識します。

例えば、私が優れた画家で在るという本質(私の何であるか)を知るのは、実際に優れた作品を自分自身の手で描き対象化した時のみです。
例えば、私がビールジョッキを片手に宴会するか、楽茶碗のお抹茶を両手に取り静かにお庭を眺めるかで、私自身がどういう人間であるかということが、その中に如実にあらわれるわけです。
例えば、「人間なんて信じられない」とすべての他者に疑いをかけながら生きる人間は、「信じられない他者」という対象を通して、自己の「不安定で脆く、常に怯える自信のない私」という本質を垣間見ることになります。

ある人が関わりあう対象の世界はその人自身の対象化された本質以外の何ものでもありません。
対象の意識は人間の自己意識であり、「対象は人間のあらわな本質であり、人間の真実にして客観的な自我」なのです。
人間は自己の本質を自己のうちに見出すのに先立って、それをまず自分の外に置き他のものの本質として対象化するのです。

だから対象の世界における無限であり完全である「神」の概念は、実は私の内の「人間の最高の類」であり「人間の絶対的本質」のあらわれであるということです。
人間の最高の類や絶対的本質などというと分かりにくいですが、誤解を覚悟で言えば、それは人間という概念の頂点にある完全な人間の理想像のようなものです。
心理学的成長にせよ(ユングの項参照)科学的進歩にせよ(ベーコンの項参照)、類-種関係において低次の種から高次の類へ、最高の類を頂点としたピラミッドの階段を昇っていく過程です。

そして人間はこの「神の意識は人間の自己意識である」ということを自覚しないままに、対象としての神を生み出してしまっています。
いわば宗教とは人間の自己分裂であり、神とは人間の疎外された自己にほかなりません。

宗教の進歩

宗教の進歩とは、前段階の宗教では客観的対象として捉えられていたものが、後段階の宗教においては主観的なものとなることであり、前段階で「神」として崇められていたものが、後段階では「人間的なもの」として認識されるということです。
幼児が他者のうちに見出していた自己の本質を、徐々に自己自身の本質として自覚する成長のように。
それは神として対象化された人間自身の本質を、しだいに自己のうちへ取り戻すという当為です。

宗教、少なくともキリスト教は、人間が人間自身にとる態度である。あるいは、いっそう正確には、それは人間が自分の本質に対して取る態度であるが、しかしここでは、自分の本質に対する態度は、あるほかの本質に対する態度という形を取っている。神の本質とは人間の本質に他ならない。あるいはいっそう正確には、それは個人すなわち現実的・肉体的人間の制限から切り離され対象化された人間の本質であり、言いかえれば、個人から区別された他の独自な存在として直感され尊崇された人間の本質である。それゆえ、神的なもののすべての規定は、人間の本質の規定である。
~フォイエルバッハ『キリスト教の本質』より

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