ベーコンの『ノヴム・オルガヌム(新機関)』

帰納と演繹

無人島に無知な少年がひとり置き去りにされてしまったとします。
自分より大きなものは水に沈み小さなものは浮くと考えるほど未熟な知性です。
その少年が、海にスギの巨木が倒れ浮かぶのを見、さらに後日サクラの木が川を流れているのを見たとします。
その個別的な経験から、「(大きさに関わらず)木は浮かぶ」という共通の一般的命題を導き出します。
これを「帰納」と呼びます。

それなら自分には伐り倒せないスギ(大)やサクラ(中)の木ではなく、イチジクの木のような低木でも水に浮かぶのではないかと考えます。
この帰納によって得た一般命題「(全ての)木は浮かぶ」から個別の事例「イチジクの木は浮かぶ」を推論するのが「演繹」です。

知は力なり

そしてその少年はその一般則「木は浮かぶ」が正確かどうか、落ちている様々な種類と大きさの木を水に投入したり、流れてくる木を観察したりして、それが確実であることを確信します。
これが「実験」です。
(もちろん帰納は絶対確実なものではなく、いずれ反証される可能性をつねにもっています。例えば水に沈む黒檀の木ように。ポパーの項を参照)

そしてこの帰納と実験によってえた知によって、無知で非力な少年は自分でも伐り倒せる木によってイカダを作り、無人島を脱出します。
まさに「知は力なり」というわけです。
少年ダビデが自然の摂理の科学的応用によって投石器を作り巨人ゴリアテを倒す、知の力です。

自然の解明

帰納と演繹は元々アリストテレスが論理学において提示した概念です。
しかしそれは検討もされないありふれた個別経験から最も普遍的な一般命題へ一気に飛躍するような帰納であって、そこから演繹される概念は曖昧で不正確な誤謬しか導き出しません。
それは議論に強くなるための抽象的なレトリックであって、それでは精緻な自然の現象や法則を捉えることはできません。

だから石の階段を一段ずつ叩きながら昇っていくように、徹底的に選別、検討された個別的経験から帰納によって一般命題を引き出し漸次的に普遍へと近付いていく、忍耐強い姿勢と科学的方法論が必要になるわけです。
これをベーコンは「自然の解明」と呼びます。
自然の解明によってえられた知によって人間の生活に新しい発見と力を与え、人間を向上させることが学問の使命となります。
この態度が近代科学の基礎となり、今にいたります。

現在、人々が使っている経験の方法は盲目的で愚かしいものである。したがって、定まった道なしにさまよい歩き、たまたま出くわしたものだけに頼るので、あちらこちらと引き廻されるが、ほとんど前進しない。
正しく秩序付けられうまく整頓され、逆戻りしたり迷い歩くことのない経験から始めて、それから一般命題をひき出し、そして次にうち建てられた一般命題から新しい経験をひき出すのである。
ベーコン著『ノヴム・オルガヌム(新機関)』より抜粋

四つのイドラ

イドラとは幻影や偶像などと訳される言葉で、自然の解明を妨げる偏見や誤謬を指し名付けたものです。

1、「種族のイドラ」…人間という種族の本質に根ざした強固な偏見です。
秩序付けと整理という知性の主な働きが、繊細な自然の複雑さを必要以上に捨て単純化してしまい、意志と感情の働きが、いったん得た知識に固執し反証を無視し真理を捻じ曲げます。
人間の感覚という働きが、どうしても感覚に近い見やすいものだけを重視し、遠い見難いものをおざなりにしてしまうという身体的な制約ももちます。

2、「洞窟のイドラ」…各個人の特性やその人固有の環境から生ずるイドラです。
理念を偏愛する人と現実へ固着する人、ラジカルな人と保守的な人、細部にこだわる人と全体を重視する人、等々。
個人の性格やその人のいる教育・文化的風土等の主観的な影響によって、客観的であるべき自然の様をあるがままの姿でとらえられなくなります。
光の差さない個人というせまい洞窟に閉じこめるようなイドラです。

3、「市場のイドラ」…これは言語という人々の間を流通する(市場のように)ものから生ずるイドラです。
自然や現実を伴わない抽象的な詭弁に中身のない言語新作、曖昧な定義による混乱した言語に議論のための議論等、それらが幅を利かし自然の解明への暗い覆いとなります。
まるで市場の貨幣価値がモノの本当の価値を見えなくさせるように。

4、「劇場のイドラ」…伝統的な学説や権威を盲信することから生ずるイドラです。
学説のイデアとも言われ、既成の権威ある学説がまるで舞台で上演される架空のお芝居のように虚構によって人々を惹きつける様を見てそう名付けられました。

知性はこれら四つのイドラを妥協なく拒み退け、自然を偏見なく虚心に見ることで、はじめて自然の解明がかなうのです。

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