プラトンのイデア論

注、本項を読まれる前に必ずプラトンの弁証法の項をお読みになってください。

イデアと現象

「イデア(idea)」とは観念、理念、本質、理想などの意味をもつ語で、現在の「アイデア」の語源にもなっています。
それの対となるものが、目の前に現実にあらわれる象(かたち、ありさま)としての「現象(phainomenon)」です。

目の前に現れた「現象」から、共通の本質や類型や理念を抽出したものが「イデア」です。
イデア論において重要になるのは、このイデアが現実から離れ独立して存在するものであり、むしろイデアこそが真の実在であるという主張です。
先ず、イデアという真実在の世界があって、それが私たちの前に現象としてあらわれるというのがイデア論の構図です。
現実の現象からの分離と、立場の転倒が、イデア論の本質的な構造です。

イデアとその分有

例えば、チワワとドーベルマンとチャウチャウでは、形も大きさもかなり違う生き物です。
しかし、私たちはそれを同じ「犬」として認識します。
その時、頭の中にある犬のイメージや参照枠のようなものが、犬のイデアです。
分かりやすくいうと、動物ビスケットのような、犬すべてに共通する原型のようなものが頭の中になければ、これら形の違う生物を同じものだと認識できません。

例えば、現象としてあらわれる現実の円は、すべて違う形をしています。
地球の円は赤道方向に伸びた楕円ですし、コンパスで描く円は近くで見ると画用紙の凸部についた不定形の黒鉛の帯状の集積です。
原理的に真の円は現実には存在できません。
現実には幅のない線は存在しえず、面でない点は存在できないように。
だから私たちは様々な円に似た物体を見て、頭の中にある真円「円のイデア」という参照枠に照らして、それら現実のものを「円」と呼んでいるのです。

このようにプラトンにとって現実にあるもの「現象」は、「イデア」という本物をコピー(分有)する不完全な似姿・模像でしかなく、イデアこそが真の実在となります。
それは理念の世界にあり、現実の物理的な生成消滅の憂き目を見ない永久で普遍の完全な実在であり、それを捉えることができるのは私たちの思惟のみであるという考えです。

洞窟の比喩

洞窟の比喩とは、この現象とイデアの関係性を比喩的に述べたものです。
私たち人間は、生まれたときから洞窟の奥の壁面に向かうようにして杭に縛りつけられた囚人であり、背後にある光(真実在・イデア界)を直接見ることができないようにされています。
だから、私たちは背後の光によって照らされた背後の事物の影絵が壁面に映った姿しか、見ることができません。
囚人はその目の前の現象のみを実在と思い込み、背後の真の実在の存在を想像することすらできません。

仮に縄を解かれ、振り返り、光を直接見たとしても、目が光に慣れていないため苦痛であり、よく見えず、結局見慣れた影絵に戻ってそちらを実在だと思いたがります。
だから、真実在(イデア)を観るためには、そのための訓練が必要であり、徐々に目を慣らしていかなければならないというわけです。

現代に生きるイデア論

イデア界などと言うと、現代の人には馬鹿げた話に聞こえるかもしれませんが、その実、今を生きる大半の人たちが、このイデア論の構図に縛られて生きる囚人なのです。

例えば私が星空を見ているとき、天文学者がやってきて「あの星は20万光年先からやってきた光で、今はもう消滅した銀河を私たちは見ているんだよ」と言ったとします。
私がいま見ている星という現象は仮象であって、真の実在は「今はもう消滅した銀河」というわけです。
しかし、「今はもう消滅した銀河」は、いま目の前に輝く星という諸現象から弁証法的な推論によって導き出された事後的なものでしかありません。
明るさや色や視直径や年周視差などの現象としてあらわれるデータ(素材)をもとに推論された仮説(仮象)であって、本来、何か違うデータが出てこればすぐに変わるものです。
結局、今を生きる私たちの多くも、目の前の現象より頭の中の科学的真理という理念を真実在と信じる、非常にプラトニック(プラトン的)な生き方をしているわけです。

目の前の美しい星よりも、データから算出された数や概念を実在視する学者。
肉体(現象)的な愛よりも、精神(理念)的な愛を大切にするプラトニックラブな人。
現実の女性よりもバーチャルの理想の女性に恋する芸術家やオタク。
理想のためなら肉体を捨てられるという過激な宗教家や政治活動家からプロボクサーまで。
むしろプラトニックでない人を探すのが困難なくらいでしょう。