ロックの『市民政府論(統治論第二論)』(5)

哲学/思想 社会/政治

(4)のつづき

第十四章、大権について

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立法権力と執行権力が別の者に委ねられている統治形態では、法の不備を補うために、公益という基本原理に基づき、様々な事柄が執行権力の思慮分別に任されることになります。
法が予見できない事例、法に記載のない事例、立法部の招集が間に合わない事例、厳格な法の尊守が反って公益を害する事例(例-延焼拡大を防ぐために隣家を潰せない)、法の無差別(普遍)性により現実の内容と著しい齟齬が生じる事例(例-公共善の為に法を犯した人が罪人になる)など、様々な事例において、「成員の保全」という統治の基本原理、目的に適うよう、法と現実を上手く取り成す必要が生じます。

160
法の定めによらず、時にそれに反し、公益のために自らの思慮分別に従い行動する権力が「大権」と呼ばれるものです。

161
共同体の利益という統治の目的に正しく向けられる限り、人民は大権を咎めることはありません。
大権の行使が人民の利益になるか害になるかを常に考えていれば、人民との間に問題は生じません。

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統治初期においては、国家の成員や法の数も小さく、家族共同体と似たようなものであり、統治者は人民の父として多くの事柄を大権によって統治していました。
しかし、国の規模が大きくなり、愚かな君主が現れると、大権を公益でなく私的目的の為に用いはじめ、人民に害を与え出したので、大権に公認の制限が必要となりました。

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この制限は、人民による大権そものへの侵害ではなく、統治者が大権の根拠であり統治の目的てある「公益」を逸脱したため、大権から別物に成った権力に制限を加えているにすぎません。
大権の無制限性は、共同体の利益という目的を有する時にのみ発生するのであり、権力がそれを外れる場合は、むしろ共同体に対する侵害行為となるのです。
君主の大権が恣意的に用いられ、人民を害するような統治においては、人民は理性なき下等な被造物として主人に奉仕し飼われるだけの家畜となります。

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しかし、理性的な被造物である人間が、わざわざ自分を害するために生まれ持った自由を放棄し、他人に服従することはありません。
大権は、あくまで公益を慮り権力の範囲を理解する善き君主だからこそ、人民に容認され黙従されるのであり、範囲を超え恣意的にその権力を行使する愚かな君主に対しては、人民は抗議し制限を設けます。

165
イングランドの歴史を見れば、最も賢明で善き君主の時に、大権も最も大きくなっています。
人間的弱さや過ちによって多少のズレがあったとしても、君主が公共を配慮し公益を目的としていることが明らかであれば、人民は不平を述べず大権の拡大を認めたのです。

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しかし、絶対君主制のように君主の権原が神命によるものである場合、「善き君主の統治は人民にとって最大の危険」と言われる逆説が生じます。
賢明で善き君主によって大権が拡大された後、代替わりで愚かな君主が座に就くと、拡大されてしまった分その恣意的な権力は巨大になり、人民の害も大きくなってしまうからです。
そうなると、人民は、大権に歯止めをかけ本来の権利を回復するまで、争いと混乱の中で生きなければならなくなります。

167
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執行権力や立法権力が、人民の奴隷化や破滅を企てた場合、地上にはそれを裁くより上位の裁判官がいないため、人民は天(神)に訴えるしかありません。
すなわち、地上の法に先行する神の法(自然の法、理性の法)に照らすことです。
生命や自由の保全を命じ、恣意的な隷属化や殺傷を禁ずる神の法を破るような状況は、人間の越権行為であり、天命において人民はそれを正す必要があります。
大権の行使の誤りを判定するものも、この天(神)の審級です。
不都合が限度を超え、大半の者がそれを実感し、是正の必要を強く感じた時に、人民は天への訴えを起こします。

第十五章、父権、政治権力、専制権力について

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混同しやすい父権、政治権力、専制権力を総括します。

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第一、父権(親権)。
子の善の為に親が子を支配する権力。
子を助け、教え、導き、守るための権力。
子が理性を獲得し、自ら法を理解し、法の下で自由な主体として自律的に生きられるようになる(成人)までの間の限定的権力。
成人後、子は親に服従する義務はなく、法の下で対等な存在として、養育において与えられただけの恩を、孝行として返す。
父権は自然に与えられた支配権ではあるが、政治的支配権には遠く及ばず、子の固有権(所有権)に対して手出しできない。

171
第二、政治権力。
各人が自然状態(自然法)で持っていた権力(固有権-生命自由財産-の保全のために適当な手段を講じる権力)を、共同体に信託した契約と合意を起源とする権力。
それ故、統治者(政治権力)の目的は、共同体の成員の固有権の保全と繁栄以外にあり得ず、絶対的恣意的権力とはなりえない。
政治権力は、自然法の違反を個人に代わり処罰する権力(被害者および共同体の保全に最も有益な方法で)であり、法を作る権力とそれを執行する権力を有する。

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第三、専制権力。
一人の人間が、絶対的恣意的な形で他人を支配する権力(生命を奪うこともできる)。
自然が与えたものでも契約による譲渡によるものでもなく(自然権に反しこれらは不可能)、戦争状態において発生する権力。
戦争状態へ自ら突入することは、理性の掟(自然法)を放棄し、権利なき暴力によって不正な目的を達成する試みであり、人間(理性)から獣(暴力)へと堕ちた害獣として、生命を奪われても当然の境位へいたること。
即ち、戦争における捕虜のような者だけが、専制権力に隷属する。
契約は自らの生命の主人である者のみが可能な行為であり、捕虜に契約が認められた場合は、支配者はその専制権力を喪失し、捕虜は人間に与えられた権利(自然権)を回復し、戦争状態は終わりを告げる。

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第十六章、征服について

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昨今の戦争による無秩序により、人々は、武力による征服を人民の同意による統治と混同し、征服を統治の一つの起源だと勘違いしています。

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しかし、不正な戦争を開始し、他者を不当に侵害する侵略者が勝利しようと、決して被征服者の権利を手に入れることは出来ません。
強盗に入った泥棒がナイフを突きつけ、財産の譲渡証書にサインさせたとしても無効であるように、王冠をかぶった大泥棒による大規模な強盗(侵略)も無効です。
ただ問題は、この大泥棒(征服者)自身が犯罪者を処罰する権力を有していること、および損傷と強奪により正義を回復する術も力も持たない被害者(被征服者)に比べ、彼が圧倒的な力を持っていること、です。
そのため、被征服者は、ただ忍従し、権利を取り戻すまで、子孫の代になってでも、繰り返し法に訴え続けるしかありません。
被征服者とその子孫に、その訴えを聞いてくれる地上の裁判官がいないのであれば、天に訴え、地上に公正な立法部が打ち立てられるまで、争わねばなりません。

177~180
次いで、合法的で正当な戦争における征服者の権力関係について考察します。
特に、征服者と被征服者が、同一の法の下での国民として一体化しない場合についてです。

第一に、征服者と共に征服を行った者を、征服後に、征服者が支配する権力はなく、彼らは征服以前と変わらず自由であり、従軍時に征服者と交わされた条件に基づき、領土や戦利品などの利益を与えられます。

第二に、征服者の得る権力は、征服者に対する不正な暴力の行使に加担、協力、同意をした被征服者に関してのみです。
そもそも人民は、統治者に対し、不正な戦争を始める権力を与えておらず、その統治者の恣意的な権力の乱用に対し、人民は責めを負う立場にありません。
多くの場合、実際の征服者は、不正な戦争に加担した者としなかった者を区別することなく扱いますが、権利関係として、征服者の被征服者の生命に対する支配の権力の根拠は相手の不正な暴力に対してのものであり、それ以外の者に対してはいかなる権原もありません。

第三に、正当な戦争において敗者に対する征服者の権力は、完全に専制的なものです。
戦争状態に入ることで放棄された生命への権利に対し、勝者は絶対的権力を持ちます(節参照)。
しかし、これらの人々の所有物を自由にする権利は持ちません(詳細は182節)。

181
暴力の行使は、相手の身体および財産に害を与えます。
そして、その不正な侵害行為を裁く共通の裁判官が存在しない場合、戦争状態に入ります。
人間の掟である理性の法を放棄し、野獣の方法である暴力を選んだ以上、命の危険を及ぼす野獣として殺されて当然です。
いわば、生命の保持を命ずる自然法(理性の法)を放棄することによって、同時に、生命に対する権利をも自ら捨てることになるのです。

182
父が獣的で不正な人間であっても、子が理性的で正しい人間であることもあり、父の悪事を子の罪にすることは出来ません。
父が不正な暴力によって生命の権利を捨てたとしても、子は生命保全の権利を有しています。
子は親の財産なしには生きていけないので、この権利に照らせば、親の財産は子に帰属します。
従って、征服者は被征服者(敗者、侵害者)である父の生命(身体)に関しての権利を完全に得たとしても、財産の権利に関しては限られています。
征服者の財産に対する権原は、侵害者によって受けた損害および戦争の費用の賠償としてあります。

183
征服者には被征服者の財産の中から損害の賠償を受ける権原があり、子には生存の為に被征服者の財産に対しての権原があります。
もし、被征服者が、賠償と扶養を両立させる財産を持っていなかった場合、自然法(可能な限りの生命の保全)に照らし、財産に余裕のある方が、死の危険にある緊急性の高い方に対して譲歩する必要があります。

184
いかに戦争の損害と費用の賠償額が大きいとしても、征服者は、被征服者の子孫まで追放し、土地の権原を得るほどのものにはなりません。
賠償額は多く見積もっても、せいぜいその土地の数年分の生産物程度に過ぎないため、土地の永久の権利を奪ってしまえば、極めて不釣り合いになり、ほとんど暴力的な強者の弱者に対する権力支配と変わらないことになります。
勝者(征服者)は実際の権利以上に増長し、敗者(被征服者)は実際の権利以下に委縮しがちですが、土地の相続権はあくまで被征服者の子孫のものであり、それを奪うことは出来ません。

185
以上のように、正義に基づく戦争であったとしても、征服者は、共に戦争に加わった者、対抗しなかった被征服者、対抗した被征服者の子孫、の三者に対しては支配する権利を持たず、これらの者は既存の統治の解体後、自ら自由に新たな統治体を建ててもよいのです。

186
普通、征服者は、暴力によって脅し、被征服者を強制的に自らの望む統治に服させようとし、被征服者はその服従に同意したのだと考えられます。
しかし、例えば、強盗が銃を突き付けて私を脅し、私自らが懐の財布を取り出し差し出したとしても、その所有権を譲渡したことにも、その暴力を容認したことにもなりません。
それと同様、正当な権利なく暴力によって強制された被征服者の同意や約束には拘束力がありません。
被征服者は暴力によって奪われたものを取り戻す権利を、征服者は返還する権利を、常に有し続けています。
その約束を履行するか反故にするかは、被征服者の自由な選択に委ねられています。

187
征服者の統治は、戦争に参加しなかった被征服者に対して、拘束力を持ちません。

188
しかし、同じ共同体(被征服者)の成員として、戦争に参加しなかったも参加したと見なされた場合はどうなるでしょうか。

189
ーー

190-192
人間は皆、生まれながらに二つの権利を持っています。

第一に、自分の身体に対する自由の権利です。
どんな統治の下に生まれたとしても、生来的に人は自由であるため、その統治の法への服従から生じる権利、および先祖から継承した財産(その統治への同意によって作られたものであるので)を放棄すれば、従う必要はありません。

第二に、他人に先立ち、父の財産を相続する権利です。
先に述べたように(186節)、武力によって強制された過酷な条件下で、それに対する自発的な同意がなかったとしても(統治への同意が所有権の保護の条件であるにもかかわらず)、依然先祖の所有物への権利を有しています。
彼らは、自らの意志で同意するような統治体制がくるまでは、その暴政に対し、常に剣によって自らを解放する権利を有し続けています。

いかなる統治体制も、自発的同意のない人民に対し、服従を求める権利はありません。
統治形態と統治者を自由に選べる状態、(人民あるいは代表者に承諾された)恒常的な法をもつ状態、誰であれ奪い取ることのできない確固とした所有権を持つ状態、が揃わない限り、人民の同意による統治とは言えず、人間は統治の下の自由な存在ではなく、戦争状態の暴力下の奴隷と変わりありません。

193
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194
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君主といえど、自然の法(神の法)に服す義務があり、いかなる権力もその義務を免除させることはできません。
特に「約束」の場合、この義務は極めて強い拘束力をもち、全能の神すらそれ(約束、宣誓、認可)の絆に縛られます。

196
まとめます。
正当な大義ある征服者は、戦争に加担した被征服者の身体に対し専制的な権力をもち、受けた損害と戦費を彼らの資産や労働により賠償させる権利をもちます(局外者の権利侵害にならない限りで)。
戦争に同意しなかった人々や捕虜の子孫の所有物、および統治(支配)の権原に関しては、征服者は権力を持ちません。
もし、この権力外のものに手を出せば、正当な征服者自身が不正な暴力による侵略者となってしまいます。
この不正な侵略者に対し、人民が剣を持って戦うことは、反逆ではなく、神によって容認、推奨された正義を回復する行動であり、これにより暴力的に結ばされた契約は解消されます。

 

(6)へつづく