ロックの『市民政府論(統治論第二論)』(6)

哲学/思想 社会/政治

(5)のつづき

第十七章、簒奪について

197-198
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第十八章、暴政について

199
簒奪は、他人が持つ正当な権利を横取りし、その権力を行使することです。
暴政は、権利を超えて権力を行使することです。
暴政はこの権力を公益でなく私益(貪欲、野心、復讐などの私的情念の満足の為に利用するものです。

200
正当な統治を為す君主は、法に基づく権力の限界の中で公益を目的とし、暴政を為す暴君は、恣意的な目的の為に万人の権利を譲歩させます。
この違いをよく理解していたジェイムズ一世(在位1603-1625年)の演説を紹介します。

私の認めるところ、正統な君主と王位を簒奪した暴君をへだてる差異の中でも、際だって大きな差異は次の点にある。すなわち、高慢で野心的な暴君は己が王国と国民を、もっぱら君主の願望とわがままな欲望を満た す定めにあると見なしているのに対し、公正で廉直な国王はそれとは対照的に、自分には国民の富と所有権を確保する使命があると考えているということである。
国王は、自分の治める王国の基本法を遵守する義務を、二重の誓約によって負う。まず、暗黙のうちに、国王としての地位にあるという事実によって縛られる。 そして、それ相応に国民と国法を保護する義務を負う。また、戴冠式における宣誓によって、言葉の上でも縛られる。
したがって国王たる者はみな、暴君でない限り、また虚偽の宣誓によって王位に就いたのでない限り、おのれの法の枠内に進んでとどまる。

201
これは君主制に限らず、他の統治形態でも生じやすく、人民の固有権の保全という統治の目的は、独りあるいは一部の人々の恣意的な目的にすり替わり、暴政に陥ります。

202
法によって与えられた権力の限界を超え、恣意的に法外のことを臣民に強制する者は、その時点で為政者としての資格を失い、権限なく他人の権利を侵害する者と成り、抵抗されます。
例えば、下位の行政官が法的権限を超え、容疑者の家へ無理に押し入れば、強盗とみなされ、抵抗を受けます。
最上位の為政者であってもそれは同じことであり、むしろより多くの信用と権力を預かり、より優れた教育や助言者に恵まれ正邪の判断を弁えている分、その越権行為の罪は、より大きくなります。

203
問い。
それでは、君主のそういう法外な命令に対し、抵抗してもよいのか。
そんなことをすれば、統治は混乱をきたし、無政府状態に陥るのではないか。

204
答え。
実力によって抵抗する必要があるのは、不正で不当な暴力を相手にした時だけであり、それ以外の場合の抵抗は、神にも人間にも非難されて当然です。
以下(205-2 )の理由からして、そういう混乱が生じることはありません。

205
人民が(自然法に基づく自己防衛として)君主に抵抗するのは、君主が人民を相手とした戦争状態に入り、統治を事実上解体した時のみです。
そうした事例を除き、君主は統治が続く限り、神聖な特権として暴力や危害から守られます。
君主自ら人民に危害を加えるなど、頻発するようなことではなく、また危害が全面的に拡大することも考えにいでしょう。
君主がそうしようと願っても、悪知恵しか働かない暗愚の王一人で、法律を覆したり、人民全部を弾圧することなど土台無理です。
仮に君主の愚策や悪政によって人民に部分的な害が与えられたとしても、全体として平和と安全が保たれているなら、見返りとしては十分であり、むしろ共同体の統率者が些細なことで危害を加えられるよりは、統治として安全です。

206
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207
仮に最高の為政者が神聖なものとして守られない国があったとしても、抵抗が頻発したり、簡単に統治が混乱させられることはありません。
実力行使が生ずるのは、法への訴えによって権利侵害への補償や救済が為されない時のみであり、法(統治)が上手く機能している限り、抵抗を合法化する口実は与えられないからです。

208
為政者が不法行為を為し、かつその侵害の法的救済が為政者によって妨害されるとしても、そう簡単に統治を混乱させるような抵抗は生じません。
侵害された人々には、抵抗によってその不法行為によって奪われたものを取り返す権利があたえられますが、実際には行使しないためです。
なぜなら、世間は己の利害に直接かかわること以外には無関心なので、侵害された一部の少数者が立ち上がったところで誰も追随せず、抵抗者自身が身を滅ぼす負け戦であることが確実だからです。

209
しかし、為政者の不法行為が大多数の人々に及ぶ場合、あるいは少数でもそれが全体の脅威の可能性を示している場合、人民の抵抗は避けられません。
子は親の配慮の程度を常に感じ取っており、それに見合った眼差しを親に向けます。
抵抗は普通に回避、予防できることであり、猜疑の目を向けられ抵抗される統治者は自業自得と言えます。

210
君主の言動が異なり、法をすり抜ける詐術を講じ、大権を恣意的に利用し、己の企みに副った人事権を行使し、都合に合う宗教や団体を厚遇し、君主の側近や助言者も共犯関係にあるのを目の当たりにした時、人民の心には何を為すべきかの確信が生まれます。

第十九章、統治の解体について

211
統治の解体には、単純に統治のみが解体する場合と、その根となる社会そのものが根こそぎ解体する、二つの途があります。
社会そのものが解体するほぼ唯一の要因は、外国勢力の侵攻です。
征服者の剣により、社会という基礎が粉砕されると同時に統治も瓦解し、人々は生命を保全してくれるはずだった社会という共同体から切り離され、各人は孤独な自然状態に戻り、生存の為にいかなる選択を為すのかという選択に迫られます。

212
外部から社会が根こそぎにされ統治が解体するのとは反対に、内部から統治のみが解体されるということもあります。
立法部は政治的共同体の形態と生命と統一を与える魂の部分であり、これを基点として人々は一つの意志を共有し、仲裁され、相互に結び付いているため、この立法部が解体されると、必然的に統治も解体します。
立法部の権威は、人民の同意と任命というものを、その存在根拠とするものなので、立法部がその根拠を逸脱した時(要は恣意的な権力の乱用)、法は拘束力を失い、人々はその法の下の服従から脱します。
権限なき権力に抵抗することは自由であり、新たに適当であると考えられる立法部を設立することが許されます。

213
以下に、こうしたことが起こりうる、三つの統治形態について考察します。(?)

214
その一。
社会の意志を基礎に作られ執行されるはずの法の中心に、単独の人間(君主)の恣意的な意志が置かれる時、立法部は改変されたことになります。

215
その二。
立法部が適切な時期に集まり、設立目的に則った自由な活動を為すことを君主が妨害する場合、立法部は改変されたことになります。

216
その三。
人民の同意なく、公益を無視し、君主の恣意的な権力によって有権者の資格や選挙の方法が変更される場合、立法部は改変されたことになります(立法部の構成員は人民の同意と公益に基づく選挙によって指名されるため)。

217
その四。
君主または立法部によって、外国権力の支配化に国民が引き渡される時、立法部は改変されたことになります。

218
上に述べたような統治の解体(立法部の改変)は、君主の責任によるものです。
単独の人間を統治者とした政体の場合、君主のみが権威を盾にしてこれら立法部の改変を主導することができ、また、それに反対する者は反逆者や敵として定め、抑圧することが可能です。
法の認可や議会(君主を除く立法部の成員)の解散の権利を持つ君主の協力なしには、立法部を改変することは不可能です。

219
内部からの統治の解体には、執行権力の機能停止というパターンもあります。
執行権力を持つ者の怠慢や責務の放棄などにより、法が執行されない状態に陥った時、事実上の統治の解体、無政府状態になります。
法と執行は一対でその存在を保証されているため、執行無き所には法も無い、ということです。

220
これらのような形で統治が解体した場合、人民は生来的な自己保存の権利に従い、人民の安全と公益のためになる新たな成員構成と形態において、立法部を新設することができます。
しかし、これは手遅れになっていない状態で可能な治療であり、極度の圧政や外国権力への引き渡しなどによって、立法部の自力更生が不可能になってしまっいた場合は、意味を持ちません。
ですので人民には、現に存在する暴政から逃れる権利と同時に、暴政を予防する権利も与えられているのです。

221
その他、内部からの統治の解体には、立法部の暴走というパターンもあります。
立法部が信任に背き、臣民の固有権(所有権)を侵害し、恣意的に彼らの生命と自由と財産を扱うようになった時です。

222
人が固有権の保全のために結束したもの社会であり、その機能中枢として権限を信託されたものが立法部です。
人民は立法部に服する見返りとして、固有権の保全が約束されるはずであるのに、立法部がその見返りを与えないだけでなく、むしろ恣意的に収奪するようなことがあれば、人民はそれに服する義務はなくなり、戦争状態に突入し、その国民奴隷化の試みに対し抵抗することになります。
根源的自由を回復し、新たな立法部を設立し、固有権を保全します。
これは最高の執行権者についても同様であり、恣意的な権力の行使は、法と執行という二重の信託を裏切ることになります。
また、買収や脅迫などの不正な方法で、代議員、候補者、有権者を操作し、選挙方法を作り替えることも、信託に背く行為です。
それは、人民の自由な意志に従い選ばれた候補者が、人民の代表(代議員)として、公益のために自由に議論しそれに基づき自由に行動する信託の関係を壊し、社会の真の代表者の代わりに、恣意的個人の偽の代表者を立てる行為です。
信託に対する最大の裏切りであり、明確な政府転覆の試みです。

223-227
無知で感情に流され易く不安定な人民の怒りによって、新しい立法部を設置することが許されるなら、どんな統治も長続きしない、という意見もあるでしょう。
しかし、同時に人民は、慣れを好み改めを嫌うものでもあるので、たとえ改めが必要な状況に追い込まれても、改めの好機がやってきても、慣れ親しんだ統治を改めさせることは容易ではありません。
改めたとしても、また古い体制に舞い戻るか、以前のものを部分的に残すかします。
支配者側に大きな失政や不正や人間的過失があっても、人民は反抗せず耐え忍びます。
しかし、長引く悪政や言い逃れの詭弁や策謀などによって、失政や不正が統一的に破滅の道へ収斂する意図的なものであると明らかになる時、過酷な状況に耐え忍んできた人民は決起します。

むしろ反逆者とは、抵抗する市民ではなく、支配者なのです。
反逆者とは、社会の基礎である統治の基本法と法律を蹂躙し、再び戦争状態に戻ろうとする者のことであり、権力を持つ側が、最もこの誘惑に駆られやすいのです(権威による思い上がり、武力による実行のしやすさ、周囲のお追従による煽り)。
市民の抵抗の可能性こそが、この反逆を抑止する防壁になるのです。
立法部に恣意的な変更を加える者、統治の目的に反した行動を為す立法者は、反逆の罪を負います。
人間同士の戦争状態を回避するために設立された立法部の機能を壊すことは、人々から仲裁権を奪うことであり、それは人民を束ねていた絆を破壊する行為だからです。

228-229
ーー

230
惰性を好むはずの国民を決起させるほどの、強い悪意や疑念を持たせるような状況を作る支配者が、先ず問題の発生源なのであって、人民の不服従や抵抗はそれへの反応に過ぎないのではないかということです。
無秩序の発生が、人民の側の不服従と反抗に起因することが多いのか、支配者の側の横暴と抑圧に起因することが多いのか、公正な歴史に訊ねる必要があります。
どちらにせよ、権利を侵害し、公正な統治の基本法およびその体制を壊そうと企てる者は、最大の害悪を為す人類共通の敵として扱う必要があります。

231
皆、強盗に対しては当然の事として実力で抵抗しますが、法に関する権力を持つ為政者に強盗をされた場合、まるで彼らが法を破る権力をも持つ法外の特別な存在であるかのように考え、無抵抗になることがあります。
しかし、為政者の地位や特権は法に支えられたものであるにも関わらず、その法を破り、同胞の信託を裏切る訳なので、むしろ普通の強盗より、その罪は重いと言えます。

232-238
権利のない実力を行使することは、即ち、相手との間の拘束を無効にする無法状態とすることであり、当然、拘束の解けた相手は実力によって抵抗してきて、戦争状態に突入するこになります。
絶対君主制擁護派最右翼の法学者ウイリアム・バークレイ(1548-1608)ですら、暴政に対する人民の抵抗を認め、以下のようなことを述べています。
暴虐に対する自己防衛の抵抗は自然法の一部であり、容認されますが、それはあくまでも防衛(および損害賠償)のためだけに為されるものであり、決して国王に対する復讐や、自発的な攻撃や、自衛の限度を超えたものであってはならないと言うことです。
国王に対する畏敬の念を持った上で為されるべき、慎みのある抵抗です。
国王が国王である限り、決して人民は国王を攻撃をすることは許されません(防衛は可能)。
しかし、事実上、国王が国王でなくなるようなことを為した場合は、国王は王であることをやめ、一私人に戻るため、人民のその拘束は解けます。
そういうケース(事実上国王でなくなる)は、以下の二つの状況においてです。
その一、国王自身が統治を転覆しようとする場合、即ち国家と国民を意図的に破滅させようとする時です。
例えば、暴君ネロ(紀元54-68年在位)や暴君カリグラ(紀元37-41年在位)などです。
その二、国王自身が他国の君主に従属し、人民に委ねられていた国家を引き渡す場合です。
人民を裏切り強制的に彼らを外国権力の支配下に置きます。
国王は国を譲渡すると同時に、国王としての権力も地位も失います。
しかし、この譲渡はいかなる権利の移譲も生じさせず、ただ人民を解放し、人民自らが自らを処す自由な立場に置きます。

239
以上がバークレイの主張であり、即ち、国王が国王としての権威の根拠を失った時、一般人と同格になり、人民の抵抗が許されるということです。
この主張は、私が本書において述べてきたこと(統治の目的を逸脱し信託を裏切った時、君主は君主でなくなり、人民との戦争状態に突入する)と、ほとんど変わりません。
さらにバークレイは、「人民は災悪をもたらす企みを未然に防ぐことが許される」とも述べ、暴政の計画段階での抵抗を許容しているということです。
この抵抗の為の根拠は、国王が共同体への配慮を放棄し公益を無視し保全すべき国民を裏切ったことにあるとも説明しており、その面でも本書と一致しています。
ただ、国王がその権威を失うのは、国民の支配者が交替するからではなく、「国王が保全するはずの(国民の)自由」を失いその責任を負うからであり、人民は強制的に引き渡された譲渡先の王の奴隷となることはなく、この権利侵害に対し常に抵抗する権利を持ちます。

240-242
君主あるいは立法部のその行動が、信託に背くものか正当な大権かを一体誰が判断するのかという疑問が生じます。
信託を受けた者や代理人がその信託に則った行動をしているかどうかを裁定するのは、彼を指名し代理を委任した者であり、信託を裏切る者を解任する権力を持つのも、指名した当人です。
君主あるいは立法部(信託を受けた人)が、信託の範囲を超えた行動をしているかどうかは、人民全体(信託を与えた人)がその信託の範囲をどこまで認めていたかどうかの判断が必要になります。
もし、君主あるいは立法部が、そうした裁決方法を拒否するなら、被害者である人民は自ら時機を見計らい、天(神)に訴えねばなりません。

243
人民が立法部に任期を設けていた場合や、立法権を持つ者の失策によって信託されていた権力が剥奪された場合は、その最高の権力(立法権力)は社会(人民全体)に戻ります。
そして、人民は、新たな立法部の設立、新たな受託者の使命など、自分たちが妥当だと考える選択を自由に選び決定する権利を持つことになるのです。

 

おわり