九鬼周造の『「いき」の構造』(かんたん版)

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言葉は歴史と文化の反映

言葉というものには、その国の文化と歴史が刻み込まれています。
ひとつの言葉の中には、どうしても他の国の言葉に翻訳できない特殊な意味やつながりが存在しています。

例えば、仏教国であり自然災害国である日本において「諦め」という言葉には積極的な意味があります。
「諦」という語の真義は、明らかにすること、真理の解明であり、「諦め」とは真実を知った上で落ち着いて生きることをさします。
そこにあるのはジタバタせずに覚悟を決めた強い人間のまなざしであり、単に目的を断念したウジウジした敗残者のまなざしではありません。

目的論や意志や主体をベースにする欧米において、この語が翻訳される際には、単にギブアップやアバンダンなどのネガティブな意味としてとらえられるだけです。
それと同様に、私たち日本人には、フランス語の「エスプリ」という語義を正確にとらえることはできません。
その国の歴史と文化をよく学んで、はじめて開示されるものです。

九鬼は、特にそういう日本独自の文化が強く反映した語として「いき」を取りあげ、その構造の解明を試みます。

 

「いき」の構造

「いき」という語は、「媚態」「意気地」「諦め」という三つの要素が統合されたものです。

『媚態』
「いきごと(粋事)」とは、異性間の色事を意味する言葉です。
この二人を隔て同時につなげる間(ま)における態度が「媚態」であり、「いき」の内にある「色気」や「なまめかしさ」や「艶っぽさ」はこの間における緊張です。
二人が合一して間を喪失させるのではなく、可能性を可能性のまま持続させることが「媚態」の本領です。

『意気地』
元々、「いき」は「意気」という字で、意志や気概を指す言葉でした。江戸時代に入るとその心の真直ぐさが純粋さとしてとらえられ、「粋」という字としても使われることになります。
「意気、意気地」には、武士道の理想が生きています。
貧しくとも恥ずべき生き方はせず、不義を為さず、誇り高く忠義を尽くす態度です(「武士は食わねど高楊枝」の本意)。
武士は、金(商人)を卑しいものとして蔑み、気概、矜持を重んじる、プラトニックな理想主義者です。

『諦め』
「いき」特有の垢抜けた心持ちは、異性関係の中で理想と現実を往来し、幻滅の憂き目(失恋や裏切りや幻滅など)を経た後の、解脱の境地です。
世の必然を諦か(あきらか)に知り、世俗への執着を脱した諦めの境地、すっきりと垢が抜けた在り様です。

要するに「いき」とは、「媚態」という材料を、日本の道徳的理想主義である武士道を「意気地」、宗教的非現実性である仏教的悟りを「諦め」とした、二つの理念的な設計図によって完成させたものです。
日本の民族独自の存在様態で色づけられた恋の形です。
「いき」という語を分かりやすく定義付けるなら、「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」となるでしょう。

 

「いき」の具体例

西洋風のあからさまな裸体は「野暮」であり、うすもの(夏の着物)から透ける緋の襦袢(レディスのインナー)、無造作に着た湯上り姿、左褄によって覗く素足などが、「いき」となります。
[左褄は着物の左側を腰辺りで軽く持って左脚を少し見せながら歩く媚態ですが、襦袢(下着)の結びが右にあるので左を上げるのは侵入拒否の証しです。色を売る花魁に限っては男性が手を入れ下着を外しやすいよう右褄です。]

肩や背中が大胆に露出する西洋風のドレスや濃い化粧は「野暮」であり、ちらりと見せる抜き衣紋(着物の後襟を少し後方へ傾けうなじを見せる着付け)や奥ゆかしい薄化粧が、「いき」となります。

媚態(受容)と意気地(拒否)が同時に表れたそんな姿に、日本の「いき」が具現化されています。
一元的な均衡(私だけの世界)が、「媚態」によって二元性(私とあなた)へと開かれつつも、行き過ぎて私とあなたが合一して消失することがないように、「意気地」と「諦め」によって節度と抑制を保った絶妙な状態が「いき」な態度ということです。

 

おわり

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