九鬼周造の『「いき」の構造』(通常版)

芸術/メディア 言語/論理

<第一章、序説>

言語とはその民族の存在の軌跡

言語と民族というものは、密接に関連しています。
ある言語およびその意味内容には、その民族の過去の在り様から現在の在り様までの変遷が記録されています。
使用される言語の中に、その民族の歴史と文化(生存の証)が開示されているのです。
言語や意味が集まって、その民族の精神的存在(本質)を生じさせるのではなく、反対に、民族の生きた存在の軌跡として言語や意味を生じさせるのです。
ある言語は、その民族の体験と存在の証しによって色付けられているということです。

同じ語として翻訳される「木」も「wood(英)」も「bois(仏)」も、その意味する内容は大きく異なっており、その風土や民族独自の特殊な規定を受けた意味内容をもっています。
単にそれぞれの語圏によって、指し示される、思い描かれる樹種が違うということだけではなく、そこに込められた意味が全然違うということです。
例えば、木の文化によって育まれた日本の歴史と風土における「木」という言葉には、フィンランドなどの一部の森林国を除いて他国には見られない深く重層的な意味が含まれています。

民族独自の語

当然、形のないもの(愛や正義など)に関する言葉は、その相違も甚だしくなります。
ある言語圏では中心となるはずの言葉(概念)が、他国には明確に存在しないというようなことも多々あります。
例えば、フランス国民の歴史と精神性を表す「エスプリ」という言葉と同様の意味を持つ語は、どの言語を探しても見つけ出すことはできません。

「いき」という日本語も、これと同様、日本独自の色をもつ言葉です。
そこに大和民族の特殊な存在様態が開示されています。
この歴史的民族的に規定された言葉を、安易な抽象化によって曖昧にし他の語と同類の通約可能なものへと堕とすことなく、その現場に立った視点(世界-内-存在)から具体的に解明することが、本書の目的です。

 

<第二章、「いき」の内包的構造>

内包と外延

ある言葉や概念の意味や定義を正確にとらえるためには、内と外の両方から攻める必要があります。

「内包的」とは、そのものが内に持つ一般的な意味や定義のことで、分かりやすく言うと辞書に載っているような説明です。
例えば「恋」なら、“【恋】《名・ス自他》異性に愛情を寄せること、その心”となります。

しかし、それで一般的、抽象的には理解できても、具体的なことが分かりません。
だから今度は外側から具体的にハッキリさせていく必要があります。
それが「外延的」ということです。

数のような明快な概念であれば、具体的な単純枚挙で片が付きますが、「恋」のように曖昧で具体的事例が無限にあるような概念であれば、反対の概念や類似の概念など、それを取り巻く別の概念との比較によって、外側からその輪郭を明確にしていく必要があります。
「恋」の場合であれば、「愛(あい)」「好(よしみ)」「情(なさけ)」などの類似の概念、およびその反対概念との比較を通したものになるでしょう。
例えば、絵の上手な人はモチーフの輪郭の内だけを見て対象を描くのではなく(例えば山の絵なら凸の部分、ポジ形)、同時に何もない外側の空間の形を見て描く(例えば山の絵なら凹の部分、ネガ形)ことによって、正確に対象の形を描き出しますが、言葉の輪郭(定義、意味)においてもそれをする必要があるのです。

本章では「いき」に関しての内包的意味を探究し、次章では外延的意味を探究します。

媚態

「いき」という語の第一の徴表は「媚態」です。
徴表とは、その事物を他の事物から区別する本質的な性質や特徴を表すしるし(徴)のことです。

「いきごと(粋事)」とは、異性間の色事を意味する言葉です。
この二人を隔て同時につなげる間(ま)における態度が「媚態」であり、「いき」の内にある「色気」や「なまめかしさ」や「艶っぽさ」はこの間における緊張です。
そして異性が完全な合一を遂げ、この間と緊張を失った時、「媚態」は消えてしまいます。
媚態の内にあった緊張は、倦怠といった情の無いものへと変化します。
「エッチしたり、結婚したら、相手の魅力がなくなった」とよく人が言うのは、合一してしまったことによる媚態と緊張の消失です。

二人が合一して間を喪失させるのではなく、可能性を可能性のまま持続させることが「媚態」の本領です。
それは、決して追いつくことのできない「アキレスと亀」のように、二元的関係性が絶対化されたものです。
この媚態が「いき」の基調となる「色っぽさ」を規定しています。

意気地

「いき」という語の第二の徴表は「意気」「意気地」です。
元々、「いき」は「意気」という字で、意志や気概を指す言葉でした。江戸時代に入るとその心の真直ぐさが純粋さとしてとらえられ、「粋」という字としても使われることになります。
命を惜しまない火消しや、寒中でも法被(はっぴ)一枚で美しい刺青を見せるとび職人、そんな江戸っ子の気概が江戸の文化の理想としてあります。

また、「いき」には武士道の理想が生きています。
貧しくとも恥ずべき生き方はせず不義を為さず、誇り高く忠義を尽くす(「武士は食わねど高楊枝」の本意)。
金(商人)を卑しいものとして蔑み、気概、矜持を重んじます。
値札も見ずに買い物をし、宵越しの銭を持たない(入った分だけ気前よく金を使いきる)、いきな伊達男。
大金を積む野暮な富豪をつっぱねる、いきな遊女。
理想主義的(プラトニック)な「意気地」によって、媚態が霊化(昇華、崇高化)されていることが、「いき」の特色です。

諦め

「いき」という語の第三の徴表は「諦め」です。
世の必然を諦か(あきらか)に知り、世への執着を脱した諦めの境地(「諦」は仏教用語で真理を明らかにすること)。
すっきりと垢が抜けた、心持ち。

恋多き経験は、理想と現実を往来し、幻滅の憂き目を得る機会を多くします。
そんな中で、世に対し人に対しての懐疑と厭世、ある種の諦観が生じ、苦界からの解脱が成就します(「苦界」は仏教用語で苦に満ちた世間のこと)。
「いき」は、若い芸者よりも年増の芸者に多いのはそのせいです。

つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心である。「野暮は揉まれて粋となる」というのはこの謂にほかならない。婀娜っぽい、かろやかな微笑の裏に、真摯な熱い涙のほのかな痕跡を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握し得たのである。(九鬼周造著『「いき」の構造』)

いきの定義(一般的構造)

この三契機(媚態、意気地、諦め)によって、「いき」の構造は以下のようにまとめられます。

1.「媚態」の本質規定である二元的可能性(二に分かれたままひとつにならず、合一を現実化することなく可能性のままにいること)を、
2.「意気地」という理想主義の心の強さでその緊張の強さを増し一層持続させ、
3.「諦め」(必然、運命の認識)によって自由(=可能性のままにいること)を強く理由付ける。

すなわち「いき」とは、「媚態」が武士道の理想主義に基づく「意気地」と仏教の悟りに基づく「諦め」によって存在として完成されたもののことです。
ゆえに「いき」とは、混じりけなく精錬された媚態の「粋(すい)」(いわゆる純粋の粋)です。
現実(俗世)にそむき、理想と浄土のうちにある澄んだ空気の中で、超然として無目的な自律的遊戯を為すのです。
媚態がための媚態という、他の目的のためではない純粋な恋の形を体現するのです。
[アリストテレスのエネルゲイアの項を参照]

要するに「いき」は、「媚態」という材料(質料因)を、日本の文化と歴史特有の道徳的理想主義(武士道)と宗教的非現実性(仏教的彼岸)という理念的な設計図(形相因)によって完成させたものです。
日本の民族独自の存在様態としての恋の形です。
分かりやすく「いき」を定義付けるなら、「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」となるでしょう。
西欧人が、日本の女の愛嬌と媚に感動したのは、「いき」の魅力を感じとったからでしょう(大正時代当時の女性のはなし)。