和辻哲郎の『風土』(かんたん版)

存在は時間から生まれる

私たちの目の前にあるものは、どのようにして存在するのでしょうか。
私の目の前の「美しい花」は、通勤で慌しく通り過ぎていく人にとっては「道路の背景」であり、田舎の子供にとっては「美味しい蜜が出る駄菓子」であり、行商人にとっては「売り物」です。
それと同様、私にとっては道の雑草であり、存在として認識されないようなものが、他の文化圏に生きる人にとっては貴重な食材や薬草として、その存在を強く主張するかもしれません。

それぞれの目的(未来に何を投げかけ、プロジェクトし、その人の世界観をデザインするか)に従って、現在、目の前にあるものの存在の本質「何であるか」が決定します。
「存在」に先行するものとして、そういう未来(目的)と関わる「時間」という契機がある、というのがハイデガーの『存在と時間』の主旨です。

存在は時間に先立つ風土から生まれる

しかし、和辻はそこでちょっと待て、と言います。
例えば、私の目の前にある靴は、未来の目的に従ってその本質「歩くためのもの」として存在するわけですが、そもそも論として、それは私を取り巻く周囲の道が荒れていたり、冷たかったりするからであって、やわらかくあたたかい砂浜のような土地であれば、靴など存在として必要とされません。

また、日本では水田で使用された木板(田下駄)が変化して、日常的な下駄となったように、「靴(洋靴)」というものが歩くためのものとしてその本質を規定されるのは、ハイデガーさんの生きる西欧という風土においてだけですよ、ということなのです。

花を美しいものとする鑑賞的な目(志向性)で見るのは、その人がある程度余裕のある裕福な環境(風土)に居るからであって、完全に自由な志向によるものではないのです。

そうやって、存在は時間に規定される以前に、風土に規定されているのに、それを無視してはいけないでしょ、ということで生まれたのが和辻の『風土』です。
副題にある「人間学的考察」というのは、当時流行った哲学のカテゴリーである「人間学」のことであり(ハイデガーも一応そこに含まれる)、たんなる人間についての学問という意味ではありません。

私の周囲に存在するものすべてに、そして私自身の所作や言動や志向や容姿や習慣や心すべてに、日本という風土の徴が刻み込まれているのです。
もちろん、私がこれから作っていく事物や未来にもその風土が宿り、またそれが環境(風土)として、私に還ってきます。
そのように私と風土は決して切り離せないものであり、それを認識しなければ、人間を学的に把握するなど不可能なのです。

その人の立場になって考える

風土の影響をゼロと想定した(あるいは打ち消した)無菌室内における抽象的で普遍的な人間を基礎として「環境が人間に与える影響」を考察するのが、既存の認知・行動科学です。
しかし、そこで得られる人間の姿は、無菌室という風土における人間でしかなく、普遍的どころか非常に特殊なものです。

そこで和辻は、「世界-内-存在(ハイデガー)」ならぬ「風土-内-存在」として、自己を考察対象である風土の内に置き、その影響を模擬的に考察(シミュレーション)するという解釈学的な方法をとります。
当たり前のはなし、その人の立場に立って考えてみなければ、その人の行動の原因など分かるわけがない、という発想です。

その考察から得られたものが、モンスーン型・沙漠型・牧場型という風土的類型(その風土が生み出す人間のあり様の傾向)です。
性格ではなく、あり様です。
そういう風土においては、人間はこういうあり様を志向するだろうという想定の類型(タイプ)です。
これは県民性や民族性、血液型の性格診断のように、人間の人格特性にステレオタイプのレッテルを安易に貼り付ける作業とは全く異なり、あくまでも「人間存在の構造的契機としての風土」が、実際にどういう形で人間の形成に関わっているかの例示です。
単なる統計ではなく、風土からのシミュレーションです。

例えば、統計によって京都人は排他的だという結果が出た時、ではなぜそういうあり方を京都人は選択するのかを、京都という環境に自己の身を置くシミュレーションによって考察することです。
京都は歴史ある伝統や文化財が多いため、それを守るために排他的なあり方を選ぶのではないか、というように。

三つの類型(タイプ)

1、モンスーン地域の特徴は暑熱と湿潤です。
ここでは防ぎがたい湿気の持続的な不快に耐えなければなりません。
また、これらは生物にとっては非常によい生育条件ですが、暑熱と結合した湿潤は自然の暴威(台風、洪水など)を生み出します。
水は巨大な暴力でありながら、同時に生への恵みでもあるため、単純に反抗することはできず、ただ人間を「受容的・忍従的」なあり方にします。

2、砂漠地域の特徴は強い乾燥であり、水の恵みは人間自らが探し求め闘争の上で勝ち取らねばなりません。
限られた草地や泉の対人間の争奪戦や、生命を奪う熱と乾燥の対自然との闘いおいて、個人は不利であるため団結し共同体を作ります。
共同体の敗北は、即、個人の死を意味し、集団への絶対服従が必要とされます。
ここにおいて人間は「戦闘的・服従的」なあり方となります。

3、牧場地域(ヨーロッパ)は、モンスーン的「湿潤」と砂漠的「乾燥」が統合されています。
ヨーロッパでは夏は乾燥期で冬は雨期ですが、他に比べ穏やかです。
この風土においては雑草(夏草)が育ちにくく、豊かな牧草(牧場)が育まれ、耕作もモンスーン地域ほど過酷ではありません。
いわば、自然は人間に従順で、闘いが不要です。
それだけでなく、同時期に湿潤と暑熱が結びつかないため自然の暴威も少なく、そういう面でも自然は従順です。
自然がおとなしければ、それだけ自然の中の規則も発見しやすく、「自然が人間に従う」という発想、ヨーロッパの合理的な自然科学の発想が生じてきます。
ここにおいて人間は「合理主義的」なあり方となります。

日本の風土

日本はモンスーン地域でありながらも、その特異な風土によって特殊な「受容的・忍従的」あり方となります。
他のモンスーン地域よりも不安定で変化の激しい季節風であり、日本は季節の変化と同時に、その変化の激しさと、台風等に見られる突発性が特徴的です。

熱帯的な感情の横溢と同時に、寒帯的な静かな持久性をもつ総合的感情。
四季のように移り変わりが早く、敏感かつ疲れやすい受容性。
桜のようにぱっと咲き感動しつつも、未練なくあっさり散っていくような熱情と冷静の共存であり、変化を求め楽しみつつも、決してそれにとらわれることのない安定(持久性)をもつ二重のあり方。

圧倒的な自然の暴威の前に、冷めた諦めと同時に内に持つ熱い闘争的反抗心。
台風のように突発的に燃え上がるその激しい反抗と、それでいて執拗ではなく清く諦められる恬淡さと忍従性。

そういう日本人特有のあり方を、和辻は「しめやかな激情」と「戦闘的な活淡」と規定します。

※内容に興味をもたれた方は、和辻哲郎の『風土』(通常版)をご覧下さい。