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アリストテレスの『友愛論』(2)

人生/一般 哲学/思想

(1)のつづき

<第九巻、愛について(続)>

第一章、

――

第二章、

――

第三章、愛の解消

愛した時とは、異なる人間になった相手に対して、そのまま愛すべきかどうかという問題があります。

先にも述べたように、有用性や快楽によって結びついた者たちは、不安定なので、すぐに愛の関係が解消されたとしても、不思議ではありません。
[例えば、金と容姿の交換関係で結びついた者たちの場合、一方が事業に失敗して文無しになったり、一方が老化によって容姿の美しさを失った場合、交換に値しない者は捨てられ、愛は解消されることになります。]

問題は、本当は有用性や快楽を求めて相手に近付いているのに、相手の善き性向、人格そのものを愛しているふりをして騙し、愛の関係を作る場合です。
[例えば、真の目的は相手の金や身体であるのに、人格そのものを愛しているふりをして近づき、目的のものを手に入れると本性を表し、変わり身をする場合。]
これが単に騙される方の思い違い(相手は有用性を求めているのに、勝手に人格の善さを求められていると勘違いした場合)であれば、騙される方の責任ですが、相手が意図的に見せかけを作り騙していた場合は、厳しく責任を問うべきです。
愛は金よりも大切なものです。
贋金を作り騙す者よりも、偽の愛を作り騙す者の方を、さらに責めねばなりません。

では、最初は共に相手の善き人格を愛し、本当の愛で結びついていた人たちのうちの一方が、邪悪な人に堕ちてしまった場合は、どうすべきでしょうか。
もし、その人にまだ立直る可能性がある場合であれば、援助の手を差し伸べねばなりません。
しかし、もう改善が不可能なものにまで変わってしまっていた場合は、離れなければなりません。
いかなる場合であれ、人間は、自ら劣悪に同化したり、邪悪を愛する者になったりしてはいけないからです。

反対に、一方が善くなりすぎて隔たりができ、関係のバランスが崩れた場合は、もはや価値観が異なってしまっているので、以前のように共にいること、心通い合うことが難しくなってきます。
先にも述べたように(八巻八章)、この場合、劣った方が努力して優れた方に合わせるべきであり、逆であってはなりません(自ら劣悪になってはいけない)。
優れた人の方がなすべきことは、相手に手を差し伸べ引き上げるか、もし愛が解消されてしまったとしても、赤の他人ではなく、過去の愛の記憶を保ち、旧友として親切にせねばなりません。

第四章、他者への愛と自己自身への愛の類似性

人間は多くの場合、「自己と他者の関係」が、「自己と自己の関係」の反映のようになっています。
A.を他者への愛の特徴、B.を自己自身への愛の特徴として、並列してみます。
ここで言う愛とは、徳ある人々の間で交わされる本当の愛のことです。
さらにC.では、徳のない劣悪な人々の間の関係を描きます。

A.愛する人は、友のために善を願い、実行する。
B.徳ある人は、自己の善を願い、その実現に向けて努力する(特に自己の精神的部分)。
C.劣悪な人は、むしろ自己の精神にとって害になるものを望み実行し、他者の害を望む。

A.愛する人は、友の生と存在を願う。
B.徳ある人は、自己の生の保全を願う(特に自己の精神的部分)。
C.劣悪な人は、むしろ自己の生から逃避し、自ら破滅しようとし、他者の生もなおざりにする。

A.愛する人は、友と共に過ごすことを望む。
B.徳ある人は、内なる自己と共に過ごすこと(要は内省的な活動)を望む。
C.劣悪な人は、内なる自己と向き合うと不安になるので他者に逃げようとするが、その他者も心向き合う他者ではなく、共に気散じを求める皮相的な関係となる(これまた不安になるので真の他者との出会いを避けている)。

A.愛する人は、自身と友の心が一致し同じ価値観を持つ。
B.徳ある人は、考える私と、自己が一致しており、魂は分裂せず統合されている。
C.劣悪な人は、自分自身と言い争い、他者とも言い争う。

A.愛する人は、友と共に苦しみ共に喜び、気持ちが統一されている。
B.徳ある人は、自身の気持ちが統一され安定しており、矛盾や変わり身が少なく、後悔が生じない。
C.劣悪な人は、自己と自己の気持ち(例えば、心と身体、意識と無意識など)が分裂しているので、異なる気持ちの同時的な葛藤に引きずり回されたり、時間の経過によってすぐに気持ちが変わったりして、後悔に満ちる。
他者との共感も一過的なものであったり、矛盾や葛藤を帯びたものとなる。

第五章、

――

第六章、

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第七章、

――

第八章、本当の自己愛とは

人々は、自己愛をエゴイズムと言って非難し、他者への愛をもつ人を賞賛します。
しかし、これまで述べてきたように、他者への愛は自己に関係付けられてはじめて成立するものであり(八巻八章、九巻四章)、自己を愛せない者に他者を真に愛することなど決してできません。
「心は一つ」「友のものは共のもの」なのであり、片方が欠落し中間性を失った愛は、愛ではありません(愛に偽装された憎悪や不正など)。

問題は、人々が自己で無いものを自己だと思って、「自己愛」という言葉を使っているということです。
人々は、金や名誉や快楽(肉体)などを、他人を押しのけてまで追求する者を「自己愛者(=エゴイスト)」だと思っています。
しかし、自己とは、金でも名誉でも快楽でもありません。
自己とは、その人自身の核にあるもの、いわゆる主体や理性や心などと呼ばれる、支配的な部分のことです(全体を統制する中枢のようなもの)。
なので、真に自己を愛する人とは、そういう支配的な部分を大切にする人のことです。
金も名誉も快楽も、付帯的なものであり、本質的なものではありません(第一巻参照)。
むしろ自己愛者(=エゴイスト)とは、本当の自己を失ってしまっている人であり、それがゆえに付帯的なものに必死ですがりつこうとしているのです(手段が目的化されてしまっている)。

善き人とは自己を愛する人であり、悪しき人とは自己を見失い、自己でないものを自己だと思って求めている、疎外された(本質を見誤っている)人間です。
善き人が、時に愛する他者のため、金や名誉や快楽や肉体を投げ出すことができるのは、人間の本質、人間にとって真に大切なものが何なのかを明確に把握しているからです。
金や名誉や肉体(長寿、快楽など)よりも、心や理性の方が大切であるということを、善き人は知っているのです。
善き人は、怠慢な心や悪しき心で生きる長寿より、真摯な心や善き心で生きる一年の生を選び取ります。
善き人は、本当の自己を愛しているがゆえに、自己を捨てることができるのです。
エゴイストは、本当の自己を愛していないがゆえに、自己に執着するのです。

第九章、真に幸福な人は愛する者を必要とする

「幸福な人は自足しているので、友など必要ない」という人々がいます。
しかし、彼らは有用性や快楽を前提とした条件付きの愛について述べているにすぎません。
条件付きの愛は、欠如を補うためのものであり、欠如なき自足した者に、友が必要ないのは当然です。
条件付きではなく、真に幸福な人は、有用性の交換ではなく、別の面で友を必要としているのです。

先ず第一に、はじめにも述べましたが(一巻八章)、幸福とは状態(ヘクシス)ではなく活動(エネルゲイア)においてあるものであり、孤独な人より、他者と共にある人の方が、活動はより発揮されることになるということです。
人間は自然本性的に共同体を形成する生き物であり、各々の生物はその固有の本性を発揮することが幸福につながることは先に述べました(一巻七章)。

そして、第二に、人間は人間として自然本性的に「知覚(感覚と知性の総合)する」生き物であり、同時に生物一般として自然本性的に「生きる」生き物です。
すなわち、人間にとっては、生(生きる)が充たされ発揮されていることだけでなく、それが知覚される時、最も善く、快く、幸福であれるのです。
馬は草を食み、駆け、躍動し、馬としての生を謳歌することが幸福ですが、人間はそれに加えて、その生を謳歌していることそのものを自ら知覚することにおいて、この上なく幸福であれるのです。

人間は自らの存在というものを、知覚することそのものにおいて、保証(確証)しています。
見る者は自分が見ていること(知覚していることそのもの)を知覚し、思惟する者は思惟していることそのものを知覚しています。
知覚という活動なり、走るという活動なり、その活動を知覚する何者かが存在しており、その何者かが人間自らの存在を保障する根拠となっているのです。
[この問題を発展させたのが、「われ思惟す、ゆえにわれ在り」のデカルト哲学です。]

このように、人間は、善く生きることのみならず、それを知覚することにおいて、最も幸福であれる訳ですが、もう一人の自分でもある友が善く生きる姿を隣で知覚するということは、この幸福を倍増させるということです。
共に生き、考えを共有し、私の存在を私自身と友が、友の存在を友自身と私が、知覚し合い、より深く存在することの幸福と確証を得ることが、友の友たるゆえんなのです。

人間において共に生きるということは、ただ畜群のように同じ畜舎で生活するということではありません。
人間存在の完全な姿というものは、他者と共に生きることにおいて、はじめて実現されるものであり、それが人間の自然本性(ポリス的動物)に従う、最も望ましいことなのです。
だから、いくら個人として最高の徳を実現したとしても、愛する他者なく孤独であるなら、やはり本当の人間の完成から見れば、それはどこか欠けたものであるのです。

第十章、友の数

友の数は、その種類に応じ適度である必要があります。

有用性の関係で結ばれる友は、応報(交換)関係を円滑にこなせる程度、生活のために余計(無駄)にならない程度、善く美しく生きることを妨げない程度の、多すぎず少なすぎない適度な数が必要です。

快楽の関係で結ばれる友は、喩えるなら食材に対する調味料程度の割合で(生を彩る飾り程度に)、少しあればこと足ります。

善の関係(真の愛)で結ばれる親しい友は、共にあること(共に喜び、共に苦しみ、相手のことを我がことのように思えること)が可能な程度に、限られた範囲の数であること必要です。
多すぎると、共にあること(生活と心の両面で)が難しくなってしまいます。

数えきれないほどの友を持つ人は、むしろ誰の友でもなく、友を持たない孤独者であり、それはただ社交的なへつらいで結びついている形だけのものです。

第十一章、友の力

好運な状況でも、不運な状況でも、友が共にいてくれることは、より望ましいことです。

不運な状況にある時、友が共に苦しみを背負ってくれるということ以上に、ただ私を想ってくれている仲間が傍にいてくれることそのことが、私の心を癒し、ただ友の顔や言葉がそこにあるということそのことが、力を与えれくれるのです。
しかし、それだからこそ、友を真に愛する善き人は、常日頃から可能な限り苦しみの原因となるものを弾き、強くあろうとするのです。
なぜなら、私が苦しい状況になれば、友にも同じ苦しい思いをさせ、友の苦しむ顔を見なければならないからです。

それに対し、好運な状況にある時、友と共にそれを分かち合うことで、好運な時間はより楽しく喜ばしいものとなります。

善き人は、可能な限り好運を友と分かち合おうとし、可能な限り不運を自らの責任で引き受けようとします。
善き人は、「喜びは皆で、苦しむのは私だけで充分」と考えます。
[反対に悪しき人は、「お前らも苦しめ、喜びは俺だけで」と考えます。]

しかし、善き人がいかに助けを求めずとも、友は助けにやってきます。
助けられる者は可能な限り、友を不運に巻き込み苦しめないよう心がけ、助ける者は可能な限り、友を不運な状況から救い出そうと、求められずとも助けに向かうのです。
それが美しい助け合いの関係です。

第十二章、友あることの意味

人間は自己の存在(生)をより深く感じ、確証し知るために、友と共にあることを必要とします(九巻九章)。
善き人々同士の愛は、共に生きることの中で共振し合い、互いの活動は促進され、頽落を防止(矯正)し、共に手を携え成長していくことになるのです。

 

おわり