アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(1)幸福論

哲学/思想 宗教/倫理

※ダッシュ記号(―)によって省略されている章は、内容が他と重複しているもの、あるいは本書の大意を理解するのに重要でないものと判断し、割愛したものです。

<第一巻>幸福

第一章、目的は別の目的の手段である

学問や技術、行為や選択など、人間の営みはすべて「善(善いもの)」を目指しています。
「善」の定義が「万物が目指すもの」と言われているように。

目的には二種のものが存在します。
活動そのものが目的であるもの(例、歩くことそのものが目的の散歩)と、活動の外にある何かが目的であるもの(例、学校に着くことが目的の通学)です。
後者の場合の活動は、あくまで外の目的のための手段であり、より善であるものは活動ではなくその外にあるものです。

医術は健康を目的とし、造船術が船を目的とするように、それぞれの術や活動は、各々別のものを目的としていますが、それらの目的はつながりをもった従属関係をもっています。
例えば、革加工の技術は馬具(馬術)を目的とし、刀鍛冶の技術は剣(剣術)を目的とし、その馬具と剣は騎馬兵(騎馬術)を目的とし、さらに騎馬術は統帥(統帥術)を目的としています。
このようにある目的は他の目的との主従関係の構造にあり、主となる目的はそれに従属する諸々の目的より望ましいものとなります(前者のために後者が必要とされるから)。

第二章、手段となりえない目的の終極が「善」である

このように、ある目的はその上の目的のために存在し、その上の目的はさらに上の目的のために存在し、最終的にすべての目的を包摂し、すべての目的の目的となるような、ひとつの究極目的にたどり着きます。
それが先に述べた、万物の目指すものである「善」です。

第三章、

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第四章、具体的にいえば「善」とは「幸福」である

人間のすべての認識および選択が、究極的なひとつ目的である「善」を目指しているとするなら、それは具体的に何なのでしょうか。
名の上では、おおむね皆の答えは一致しており、それを「幸福」と述べます。
しかし、「幸福とは何か」ということになると、皆の意見は異なってきます。
例えば、「快楽」「金」「名誉」など、幸福の何であるかは人それぞれ違いますし、同じ人でも状況が異なれば変わってきます(病気になれば健康、孤独になれば愛など)。

第五章、幸福は快楽でも富でも名誉でもない

現実の生き方から推測すると、凡庸な人々は幸福を「快楽」であると考えているように見え、快楽の奴隷のように動物的な生活を選択しています。

これに対し、教養のある洗練された人々は、幸福を「名誉」であると考えているように見えます。
しかし、「名誉」は名誉を与えてくれる人に依存(隷属)するものであり、また、「名誉」はむしろ自らのアレテー(器量、卓越性、徳)に自信がないがゆえに求められるものであり、アレテーに隷属するもので、究極目的とは言い難いものです。

「金」はそもそも他の何かを手に入れるための手段であり、常に手に入れようとするものに隷属しており、明確に善や幸福の定義(何ものにも隷属しない最終目的)から離れています。

第六章、

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第七章、幸福とはただ生きることではなく善く生きること

領域の異なる技術や種類の異なる行為において、「善」とされるものはそれぞれ異なります。
医術においては健康が善で、戦においては勝利が善となります。
この種類の異なる善に共通する性質(本質)は、その各々の営みにおいて「目的となっているもの」です。

そして、先にも述べたように(第二章)、人間のあらゆる営みの目的となるような究極(終極)的な目的「最高善」が存在します。
その定義は「常にそのもの自体として望まれ、いかなる場合も他のもののゆえに望まれることのないもの」です。
要は、それ自体として目的とされ、他の目的のための手段(道具)とならないものです。
例えば、医術はそれ自体として望まれるのではなく、健康という他の目的のための手段としての営みであるので、最高善ではありません。

この最高善の定義に値するものが「幸福」です。
幸福は常にそのもの自体として望まれ、他のもののために望まれることはありません。
終極的なものとは、もはや不足することのないもの(欠如のないもの)、要は「自足」するもののことです。
幸福とは、人間の生を不足のないものとすることであると私たちは一般に考えています。
「幸福」は、終極的で自足的な或るものであり、人間のあらゆる営みの目的となるものです。

では、人間の幸福な状態とは、具体的にどういうものをさしているのでしょうか。
それには先ず、人間が人間であること固有の働き(機能)について考える必要があります。
単純な生命活動(ただ生きるだけ)であれば、動植物にも共通の機能であり、残るものは理性的な理-ことわり-、分別の機能(いわゆるロゴス)です。
人間固有の働きとは、分別にかなった魂の活動および行為です。
事物はそれぞれに固有のアレテー(器量、卓越性、有能力)に基づいて活動する時、優れたもの、完成されたものとなるように(例、鳥は飛ぶこと、馬は駆けること、魚は泳ぐこと)、人間も人間固有のアレテー(理、分別に拠る活動)を十全に育て発揮することにおいて「人間の完成(終極、自足、善、幸福)」へ至るのです。

要は、ただ単に「生きること」ではなく、理性を伴う生の活動「善く生きること」において、人間は幸福なものとなるのです。

第八章、幸福とはアレテーにもとづく活動である

このアレテー(器量、卓越性)が、所有によるものか使用によるものか、いわば「状態(ヘクシス)」か「活動(エネルゲイア)」かという問題がありますが、この解答は後者になります。
例えば、オリンピックで優勝する者は、単に最も優れた身体能力を有する者ではなく、競技に出場し、その能力を最も優れて発揮(行為、活動)する者です。
優れたアレテー(器量)を有しながら、活動せず眠り惚けている者は、決して優れた者ではありえません。

彼らの人生は本来的に快い人生となります。
前章で述べたように、固有のアレテーに基づいたものは、、自然の本性に従ったもの、内在するもの、それ自身においてあるものであり、習慣や環境や機能障害などによって生じる自然の本性に反した快楽ではないからです。
多くの人々は本性的(内在的)でない外付けの快楽を求めるので、そこに相克が生じます。
[例えば、鳥は飛ぶことが本性的に快いはずであるのに、飛ばずに地面を歩いたり玉乗りしたりすることの方を好むよう調教されれば、その生の営みは快の相克により、純粋に快いものにはなりません。]

アレテー(器量、卓越性)を伴う生が幸福と同一であるにしても、ある種の人々は幸福と好運(よい環境)を同一視します。
なぜなら、幸福になるためには、本質的なことではない二次的なものだとしても、ある程度外的な要素(富や人間関係や育ちや健康などの環境、道具立て)を必要とするからです。

第九章、幸福は運ではなく学びや活動によって得られる

だから、幸福は、ひどく運が悪くアレテー(器量、卓越性)において障害を持つ人でない限り、ほとんどの人に開かれたものです。
好運は付帯的なもの(生存の前提条件、道具的な手立て、助力的なもの)であり、幸福の実現のために主となるのは学習および活動です。
政治の目的は、学びによって市民を善き人とし、美しい活動をなしうるようはからうこと、いわば市民のアレテーを十全に発揮しうるよう最大の配慮をすることです。

第十章、幸福は安定しており不運によって損なわれない

幸福を決定するものは活動(アレテーに従う)であり、偶運ではないということです。
アレテーに従う活動(要は幸福)は安定的で持続的な確固としたものであり、運のようにコロコロ変転するようなものではありません。
一般的な好運も不運も、幸福な人の生を左右する程のものではありません。

大きな好運の場合は、その人の幸福をより善いものとして飾ってくれます。
大きな不運の場合は、確かに活動を妨害し苦痛をもたらしますが、幸福な人は偶運を受け容れる術を知っており、いかなる不運をも心おだやかに堪え忍び、いま与えられたものによって、見事に美しい行為を作り出します(劣勢にあっても少ない手駒で巧みに勝利する将軍のように)。
幸福な人が不幸になることは決してありません。
ただ、人生には時間の制約があるので、巨大な不運に見舞われた場合、それを立て直すのに時間が足りないということが、例外的に生じます。

第十一章、

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第十二章、

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第十三章、魂の区分(理性と非理性)

幸福はアレテー(器量、卓越性)に即した魂の活動です。
ここで言う人間のアレテーは、肉体のアレテーではなく、魂のアレテーのことです。
肉体のアレテーに関わる医者が肉体について知り尽くそうと日々研究するように、魂のアレテーに関わる政治家は魂について研究し、深く知っておかねばなりません。

魂にはロゴス(理、分別)的な部分と、非ロゴス的な部分があります。
前者は、人間特有の人間的アレテーである、理性、分別に関わる部分です。
後者の非ロゴス的な部分とは、単純な生命活動や睡眠時のような動植物とも共通する生物的アレテーによるもので、ロゴスとは全くかかわらない部分です。

また、非ロゴス的なものでありながらも、ある仕方でロゴスにも関わる中間的なものとして「欲望、欲求」があります。
それは理性に反しながら(無抑制)も、時に理性に従う(抑制)ものです。
いわば理性的でない敵対的な部分が、時に理性によって説得されたような形で理性の側に付くものであり、その時はロゴスに関わる部分としてもとらえられます。

とすると、ロゴス的な部分にも二つのものがあることになります。
ひとつは、本来的にロゴス的な、自らの内に分別、理-ことわり-をもつもの。
もうひとつは、本来ロゴス的ではないが、外発的にロゴスに従うもの(教師に説得されて分別を持つような)。

 

(2)中庸論へつづく