アランの『幸福論』(6)

(5)のつづき

七十二、ロボットたちの口論

普通、私たちの発する言葉には、意味があるものだと考えています。
その人の心にある考えを言葉によって口にするものだ、と。
しかし、大半の言葉はそうではなく、それは何の考えも持たない叫びのようなものです。

私が誰かに憤慨して、「うるさい、馬鹿、嘘吐き、うんこ垂れ、死ね」と言ったとしても、それは本当に、大声で、頭が悪く、嘘をつき、脱糞する人だと心の中で考え、口述し、死ぬことを命じているわけではありません。
それは、「うぎゃー、むきー、あっ、むむ、ひー、うおぉ」といったような、動物の叫び声にも似た、習慣的に獲得された感情のオートマティックな自動機械の働きから生ずる音声でしかありません。

例えば、テレビで日本に来て間もない外国人タレントが、周囲の人に「オマエ、バカ」と言っても笑って流せるのは、彼は日本語をまだよく分かっていないため、見よう見真似によって獲得した言語行為をなしているだけであり、心の中の考えを述べているわけではないと分かるからです。
私たちの使う言葉の大半は、それと同様、何の考えもなしに、感情と状況に合わせて発せられる、単なる条件反射的な習慣の産物でしかありません。

そもそも論として、心の中の考えを言葉にするためには、かなり覚めた集中力と、主体的な意志を必要とします。
怒りや悲しみのような情動に支配された人が、そんな理性的な行動をとれるはずもありません。
だから、彼らの発する言葉の意味内容を、彼らの考えそのものだとして、自分の心を傷つけたり、相手に仕返しをしたりする人は、オウムの言葉に傷つき、オウムの言葉に憤慨し叩き殺すようなものなのです。

喧嘩をしている本人同士は、相手の言葉を相手の本心、自分の言葉を自分の本心だと、マジに思っています。
しかし、喧嘩の仲裁にはいる冷静な人は、二人の言葉をマジにせず聞き流しながら、先ずは落ち着かせようとします。
冷静にならなければ、考えというものは言葉に宿らないと、よく知っているからです。

七十四、不運というチャンス

楽観主義も幸福も、努力や訓練を必要とすると述べました。
だから、不幸をもたらすような状況に出会った時、そこからすぐに逃げ出すのでなく、自分の幸せを鍛えあげるための試練と考え、立ち向かわねばなりません。
勿論、あまりに大きすぎる試練ではやられてしまうため、まずは自分を鍛えられる適度な経験値の不幸から倒していき、力をつけてから、挑戦するのです。
不運(ピンチ)が機会(チャンス)だということが分かれば、どんな状況でも落ち着いて能力を発揮することが出来ます。

七十五、思考と感情のマッサージ

本来、思考というものは自由に駆け回るもの(動き)であり、だからこそ思考は大冒険の末に、新たな発見をもたらします。
しかし、多くの場合、学校教育は思考を閉じ込め、偏執狂になることを強要し、発見され終わった過去の思考過程を反復させること(静止)を旨とします。
自分で思考を働かせて意見を述べるのではなく、反復的に暗記した過去の意見を復誦するだけのロボットを作ろうとするのです。

そうやって育てられた石化した思考は、複雑な現実の問題の前で無力であり、彼は人生において一歩ごとに躓きます。
それは思考だけでなく、気分や感情にまで反復的なステレオタイプの規格化をもたらし、既成概念のイマージュは、心まで頑なな石のようにしてしまいます。

身体の健やかさがその柔軟性にあるように、思考や感情の健康も、その柔軟さではかられます。
思考を柔軟にするためのマッサージとして必要なのは、「どうして?」という原因への問いです。
凝り固まった既成概念に対し、その出自を遡及的に問いただすことによって、思考のめぐりが回復し、概念は石化した垢を洗い落とされ、産まれた時のような柔軟さを取り戻すのです。

七十七、幸福だから笑うのではなく、笑うから幸福なのだ

友がいる。
私が笑う。
それにつられて友が笑う。
そして二人顔を見合わせ大笑いする。

私ひとりいる。
私が笑う、世界は何の反応も見せず、その声は虚空に消えてゆく。
私は笑う、少し小さくなったその声は、また虚空に消えてゆく。
私は笑う、声に出さず心の中で。
私は笑う、わずかな心の動きだけで。
私は笑う、笑っているのか泣いているのか、もう分からないほど無感覚で。

私たちの内にある喜びの種を発芽させ成長させるのは、他者の存在であり、そもそも内部の感情は外部の動きなしには成立しません。
人は独りでいる限り、自分であることも、自分の心を持つことも不可能です(スキナーの行動言語の項を参照)。

笑顔になるために、幸せな状況や心持ちになることを待っていても駄目なのです。
喜びを目覚めさせるには、笑いというきっかけ(始まりの動き)が必要です。
人は幸せな状況にあるから笑うのではなく、笑うからこそ、幸せが生ずるのです。

言葉にすることによって、はじめて人は自分の思考を知るように、言葉以前に自分の思考などというものは存在しません。
芸術家は作品を作ることによってのみ、その芸術的インスピレーションを証すのであり、作品以前に芸術的イマージュが作家の内に存在するわけではありません。
それと同様、笑い(喜びの行動)以前に喜びの感情などというものは存在せず、笑うことによって、はじめて人は自分の喜びを知り感じるのです。

七十八、不幸の本質

「決断しない」という選択が、人を不幸にします。

人生とは、何の保証もない未来に対する一歩一歩の賭けの決断によって前へ進んでいきます。
これらの人達に悔恨など微塵もありません。
過去は、不確実な未来の賭けに対する参考のデータ、競馬新聞の記号のようなものに過ぎず、「あの時分かっていたなら(悔恨)」という言葉を許さないからこそ、賭けなのです。

この決断という自由(不確実性)と責任(自業自得)の重圧から逃げて、「決断しない」という決定をなす時、生の流れは停止し、鬱血し、その人の内に退屈と思い悩みの渦がとぐろを巻きます。
停止しているように見えても、そのエネルギーは解消されず、陸に打ち上げられた魚のように、同じ場所でのたうち回り、危険なご破算を願う情熱(怒り)として蓄えられます。

悩み、悲しみ、怒り、無力感、恐怖、苦しみ、卑下、それらの不幸を生み出すのは、決断拒否による生の停止であり、それを癒すのは思考ではなく、賭けへの決断(行動、生きること)のみです。
思考や観念の中で行動(シミュレーション)しても、役にはたちません。
なぜなら、現実の決断の一歩ごとに状況の布置は変化し、物事の関係性はガラリと変わり、必要な過去のデータも別物になるからです。

“resolution”という言葉には、「決心(決断)」と「解決」という二つの意味が含まれます。
解決とは、すなわち決断のことなのです。

真理というものをよく見れば、それは、定義され、誓われ、決断された誤謬でしかありません。
たんに「決断された(信じられた)に過ぎないものを実証している」と、信じないことが、真理の本質です。
決して何も信じることなく、同時に確信を持つという、真理のアイロニカルな特性の秘密が、ここにあります。
(要は真理とは、誤りと分かっていながら、決断-賭け-によって正しいものとして措定する自己欺瞞であり、その誤りを後に認め、さらに別の誤りへと決断することが、進歩です)

七十九、ルールの効用

しかし、あまりにも多すぎる決断は、複数の作業を同時にさせて身体をおかしくしてしまうように、心の筋肉をおかしくしてしまいます。
子供にあまりに自由を与えすぎると、混沌とした、ほとんど狂気じみた遊びをしはじめます。

だから人間は、規則や法、慣習や儀式や流行などの、決断の指針を求めるのです。
考えることなく決断させてくれる規則や法は、むしろ思考の怠惰を肯定してくれ、制服や僧衣や軍服は、私のなすべきことをあらかじめ決定してくれるため、人の心を落ち着かせます。
限られた選択肢(コレクション)から選べばよいだけの流行服は、最小の決断の思考で、決断の喜びを味わわせてくれる重要な機能をもっています。

勿論、これも程度の問題です。
多すぎる決断(自由)が人をおかしくするように、反対に多すぎる規則(束縛)も人を狂わせます。

八十、伝染病治療者

上司が私に怒鳴り散らす、私はイライラしながら昼食のレストランでボーイにあたる、ボーイも苛立ちコップを落とし、割れたガラス音が赤子を泣かせ、赤子の泣き声に客は苛立ち、殺伐とした怒気が全体に感染する。

この伝染病を止めることができるのは、一体誰でしょうか。
それは、この事実を知っている私です。

上司が私に怒鳴り散らす、私は上司が役員会の叱責で苛立っていると推測し、弱い犬に吠えられたかのように相手にしません。
私は昼食のレストランで穏やかにボーイに接し、午後のレストランは平穏な時間が流れ、楽しい昼食のひと時を皆が楽しみます。

八十一、伝染病の原理

人間は明確な意見については、意識によって受け容れるか抵抗するかの選択が出来ますが、無言のメッセージに対しては無力であり、それは知らぬ間に自分の心の奥深くまで浸入します。

「貧乏人は気持ち悪いからいじめろ」と意見されても、人は意識によってその意見を斥けます。
しかし、目の前で貧しい人がいじめられているのを日々見にしていると、無意識のうちに自分もそれに加担するようになります。(バンデューラの心理学実験の項を参照)
そして、後付で、もっともらしいイジメの理由をこしらえあげ合理化します。

私が何かに対して合理的な理由を持って怒る時、実のところそれはただ無意識に感染した怒りであり、後で理由や意図を探し出し付けているだけのことがよくあります。

ここから分かるように、大切なのは単なる意見ではないのです。
大げさな希望や幸福論を意見として語るより、無言のメッセージである笑顔や礼儀や友好的な所作や穏やかな態度が、世の中を善くしていくのです。

(7)へつづく