アランの『幸福論』(5)

人生/一般 哲学/思想

 

(4)のつづき

 

五十五、言葉は状況を作る

環境が知らず知らずのうちにその人の行動を規定するように、言葉も同じ作用を持ちます。

窓のない、薄暗い電灯の、コンクリートで冷えた空間内に居ると、人の心も閉鎖的で、暗く、冷たいものになります。
それと同様、弱音や悪口や悲観的な言葉で自分を囲うと、やがてその言葉は拘束力を持ちはじめ、自分の心と行動を規定するドグマ(絶対的な教義)となります。

「どうせ駄目だ」「俺はツイてない」「世の中そんなもんだ」「みんな自分のことしか考えてない」
事実に基づかない、気分と感情に任せたそんな憶測だけの言葉が、認知を歪め、無意識的な命令となり、やがて本当に自分を駄目にし、運(機会)を喪失させ、世の中を閉塞させ、万人をエゴイストにします。
そして、その言葉は、周囲にも強力な感染力を持ち、伝播していきます。

 

五十六、情念のフィルター

私たちは普段、物事を客観的に見ることはなく、何らかの感情や気分などの情念のフィルター(色メガネ)によって世界を歪めて見ています。

怒りのフィルターで見る人にとって、世界の事物はどれも怒るべきものであり、悲しみのフィルターで見る人にとっては、すべてが悲しむべきものになります。
誰かか普通の顔で「そうですね」と普通に返答しても、怒りのフィルターにある人は「なんて横柄な返事だ!人間を舐めるな!」と怒鳴り散らし、悲しみのフィルターにある人は「なんて冷たい返事だ、僕は嫌われているんだ…」と沈み込みます。

ただ、人間はそれを反省することが出来ます。
自分を不幸にするような事物のとらえ方をしていると感じた時、こう考えて、そのメガネを外して欲しいのです。
なんでもないことで憤慨したり落ち込んだりしている、街中に出没した大げさな悲劇役者、あるいは、風車小屋を大巨人だと思って妄想とマジで闘っているドンキホーテ。

 

五十七、絶望の本質

私たちは解決不能な難問や、決定不能の行き詰まり、そして世界の混沌のめまいの中で、絶望します。
しかし、この絶望の本質的な原因は、理不尽で不合理な世界でも、それに対する思考の混迷でもなく、それに対し固執する情念です。
諦めきれない自分の理想や常識への固執、問いには必ず答えがあって欲しい、世界はつねに合理的であって欲しい、などというものへの諦めのつかなさが、そこから離れることを許さず、同じ思考をどうどう巡りさせ、それが絶望のめまいを引き起こすのです。

裁判官は判決の難しいどんな事件を抱えても、食事は喉を通り、普通に眠ります。
それはそれで、これはこれだという自覚と切り替えをきちんとしないと、答えのない世の中の難題に判決を下すという仕事はやっていけません。
世界は判らないことだらけで解決不能なのが普通です。
答えのある問題しか出さない学校のテストで優秀であればあるほど、そういう当たり前の事実が見えなくなります。
学校(試験制度)における優等生が世界の不条理と接し、すぐに絶望するのは、そういう理由からです。

 

五十九、不幸を生み出す世間(比較)の眼差し

不幸の原因として、「自分の意志の伴わない行動」というものを挙げましたが、もうひとつあります。
それは、比較です。
本当に厳しい状況の中で生きる時、あるいは大切なものがあってそれに夢中になる時、私はただ現在の行動に一生懸命で、他のことに目を配っている時間は持ちません。
しかし、行動が停止し、暇が出来、あちらこちらに比較の目を張りめぐらすようになると、不幸というものが噴出してきます。

ロビンソン・クルーソーは、無人島で家を建てるまでは、日々を一生懸命に充実して生きていましたが、家が出来、落ち着き、暇が出来ると、故郷の生活を考えはじめ、比較し、自分の境遇の不幸を感じはじめます。

会社員である私は自分の仕事や家庭に満足し、充実して暮らしています。
しかし、休み時間に会社の同僚に、社会に対しての、仕事に対しての、家庭に対しての、愚痴や非難の目を向けた世間話を聞かされる時、私に不幸の影が忍び寄ります。
不幸を生み出すのは事物や状況そのものではなく“世間(比較)”、そして世間に隷属し、自分の意志を持たない私自身です。

お母さんが作ってくれたお弁当をもって嬉しそうに遠足に行く私。
しかし、クラスメートは、幸せそうにお弁当を食べる私を蔑みながら、やれおかずが少ない、彩りが汚い、果物が入っていないと言って、彼らの豪華なお弁当を見せ付ける時、私は不幸になるのです。

そんな中でも幸福に生きていける人は、世間に対して無関心であるか、自分の意志(「母さんの作った弁当は世界一だ」)を貫ける勇敢な者だけでしょう。
感受性の高い人が、世間を嫌い、孤独を好む傾向にあるのは、こういう理由からです。

 

六十三、幸福の取手と不幸の取手

物事には必ず二つの取手があります。しかし片方は欠けた取手で、手を傷つけたり、落下させてその物事を台無しにしてしまいます。
それなのに、なぜ、わざわざ欠けた方(不幸になる方)を握ろうとするのでしょうか。
私たちの不幸は、本来ニュートラルである現実を、わざわざ悪い方の解釈で捉えることから生ずるのです。
幸福になりたければ、その両義性(ふたつの取手)を自覚し、幸福になる取手の方を選んでゆけば、必然的に幸せになっていきます。

コップに半分の酒がある。
もう半分しかないと嘆きながら不味い酒を飲むか、まだ半分もあると言って嬉しそうに美味い酒を飲むか。

普通の家の普通の子として生まれる。
金持ちや天才や美男美女を羨んで、自分の境遇を呪って生きるか、それとも、ものすごい確率で生まれた自分という存在(命)と何でもない日常という稀有な境遇に感謝し、はつらつと生きるか。

 

六十四、興奮という殺し屋

論争、喧嘩、殺し合いに戦争、彼らは怒りの発作の原因を色々こしらえて、それっぽく弁明(言い訳)するのですが、結局のところ、本質的な問題は「興奮」です。

普通、物事の合理的なつながりだけで、殺しあいや戦争というリスクの高い帰結を採ることはありません。
些細な出来事の興奮によるエスカレーションによって、それは取り返しのつかない帰結へと至るのです。

人は冷蔵庫のヤクルトを飲んだ飲まないの口論から離婚し、人はアパートの階段を昇る音の注意から殺し合いにまで発展させ、人は辺境の些細な経済的小競り合いを、民族間の怒りの発作に点火し雪だるま式に膨れ上がらせ大戦争を生み出します。

「戦争なんて巨大な運命を、僕が止められるわけないだろう!」と、誰もが思っています。
しかし、そんな大げさなものではなく、ただ個々人が怒りの発作に加担しないよう注意して居ればよいだけなのです。
最初の小さな怒りを抑えることは容易いですが、膨れ上がった発作的怒りを静めることは非常に難しいのです。

 

六十五、六十六、賢人の智慧

「あやまった憶見を取り除けば、君の不幸はたちどころに治る」と、ヘレニズムの賢人は言います。
彼らは感情やその原因となるものを、物理学の観察対象のように冷淡に眺めることによって、不幸を浄化します。

サッカーのチケットが取れなくてどうして悲しむのだ、大の大人が革の球を足で転がしているのを、座って見るだけだろう。
赤いリボン(フランスの勲章)が貰えなかったからといって何が不幸なのだ、そこらの仕立て屋が作ったただの絹のリボンを、偉いじいさん達の慰みの余興として受け取るだけだろう。
飛行機が恐くて乗れない?事故率も死亡率もいつも乗っている電車や自動車よりはるかに低いのに?

 

六十八、楽観主義の本質

ふたつの未来があります。
ひとつは、おのずと出来上がる未来、もうひとつは自分でつくり出す未来。
現実の未来は、この二つの未来の絡みあいによって紡ぎだされます。
日食や地震のような、おのずと生ずる未来に対しては、人間はただ忍耐と科学的態度(冷静に観察し知識を得る)しかとれません。
そして、その見識を自分の作る未来の方に活かすのです。

人間の手の届かない、そういう天上的な領域の事柄は変えられないにしても、人間の手中にある地上的な事柄は変えていけます。
オプティミズム(楽観主義)とは、このことです。
人間に可能なことと不可能なことを醒めた目で弁別し、責任の所在を明確にし、人間の可能性(自由)と責任の範囲内において、より良い未来へと変えていくことです。

可能性の境界を知らぬままに、天上的な物事まで変えようとする夢想的な姿勢は、オプティミズムではなく、形を変えたペシミズム(悲観主義)でしかありません。
絶望のあまり、捨て鉢になってありもしない希望にすがろうとする、躁病者のような夢想。
あるいは、あとで貶めるために祭り上げる、悲観主義の前戯としての擬似楽観主義。
ありえない希望を立てれば、実現不能なそれは必然的に絶望を招来し、悲観主義の快楽をより効果的に味わえるのです(後で憤慨し罵る快楽を味わうために、異性を聖女化するバタイユ的なエロティシズム)。

人間の手で、大地震は変えられなくとも、戦争を防ぐことはできます。
「戦争なんて巨大な運命は変えられない!」と、まるでそれ(戦争という人災)が自然災害であるかのように嘆く悲観主義者は、涙で視界が歪んでおり、この二つの未来の違いが見えておらず、それらを混同した、誤った認識の中で生きているのです。

 

六十九、悲観主義の本質

悲観主義とは、結局のところ、自分の無力と無能と努力不足の告白でしかありません。
「僕(あるいは人間)には物事を変えられない、この世界はどうしようもないものなのだ」と。

しかし、楽観主義とはトレーニングの賜物(たまもの)です。
自分を信じ、鍛え、よく考え、決断し、行動し、現実の物事を変えていくという具体的な訓練の中で、楽観主義は実証的な確信として育まれるものなのです。
そもそもこの訓練もせずに、努力もせずに、物事を変えようとしても、変えられるわけがありません。

だから悲観主義者の言説が正しいのは、鍛えていない人間にのみ当てはまる部分的なものです。
その隠れた前提を開示し、厳密に言うとこうなります。
「僕は鍛えておらず、努力を放棄しているがゆえに、物事を変えられない。この世界がどうしようもないのは、僕がどうしようともしない(どうしようもない)からだ」

 

七十一、私の笑顔は、他人の笑顔でつくられる

人間の心というものは不安定で、お天気の予測のように難しいものです。
特に自分に対してはなおさらで、他人の変化ははっきり見え、けっこう予測もする(嫁さんと上手くいってないな、上司に叱られたな、腹の具合悪いのだろう、等)のですが、自分についててはほとんど見えていません。
だから、自分自身の心や身体というものを観察し、そこから生じる自分の言動を“ふるい”にかけた上で、行動していかねばなりません。

しかし、自分だけで自分のお天気を、どうにかできるものでもありません。
二つの対面するお天気(人間の心)というものは、互いが互いに影響を与え合っています。
臆病であるがゆえに武装し、激しい雷雨によって近づく他者に対し、私が危険な者でないことを示すようおだやかなお天気の親切で接すれば、その嵐も止みます。
私と他者は、互いを映し合う鏡のような存在です。
自分の顔が見えない時、鏡を使用するように、私は私の気分や行動を上手く制御するためには、他人という鏡に働きかけ、反照的に改善することが必要です。

私だけが笑顔で幸福になろうと努力しても、周りのお天気が不幸の嵐雨であるなら、嫉妬の攻撃や不幸の同調圧力によって、私の晴れ間はすぐに掻き消されてしまいます。
自分の笑顔は、自分だけで作ることは難しい、だからまず、他人に対し働きかけ、周囲の環境を含め、よいお天気にしていかねばならないのです。

 

(6)へつづく