アランの『幸福論』(7)

人生/一般 哲学/思想

 

(6)のつづき

 

八十二、八十三、八十四、礼儀の力

礼儀というものは、乱暴な情念を鎮めるための体操です。
せっかく与えられたこの短い人生という時を、くだらない情念のせいで無駄にしないための技術です。

礼儀正しさの中にある柔軟さや自然さやゆとり、調和的で無駄のない有機的な動きは、自信に満ちた生きた生命のイメージです。

無作法さの中にある硬直性や不自然さやあせり、対立的で誇張された機械的な動きは、怯えの混じった怒りに満ちた死と破滅のイメージです。

勿論、礼儀正しさに見せかけた無作法もあります。
例えば、強者に媚びるための取り繕った不自然な礼儀には、卑屈さや誇張や恨みなどの無作法に属する態度が所々で見え隠れするため、その正体が分かります。
また、無遠慮で人を侮辱するような、形式ばった上辺だけの礼儀作法は、無作法以外の何ものでもありません。

逆に、無作法に見える礼儀正しさもあります。
悪意ある人間に対し、断固として、剣を構える強硬な姿勢の礼儀もあれば、あえて無作法に崩すことによって、場を和ませるという礼儀もあります。

礼儀は人々を調和と幸福へ導き、無作法は人々を対立と不幸へ導きます。

 

八十八、武器を捨て、勇気を持つ

はじめにも述べたように、幸福とはその人の主体的な意志を伴う行動、その人独自の力の発揮、躍動です。
彼等は、自分には何ができ、何ができないかの限界設定(個性)をよく理解しており、他者との差異を互いに理解し合える人々です。

反対に、不幸な人達は自分の行為をなせず、退屈と不満のなかで、底意地の悪い考えや情念を蓄えます。
自身の行為を、他の機械的な諸力の奴隷とし、個としての完全性の実現は永久に果たされません。
主体性の本質である反省の機能を失った盲目的な奴隷は、量産型戦闘マシーンのような独特の機械的で冷徹な凶暴性を持つようになります。

完全性は、個々の部分の調和によって成り立ち、不完全性は、ギクシャクとした個々の部分の衝突と不調和を生み出します。
自己の完全性を発揮できない不安定な個性は、その不安と恐怖から、他者の個性や差異を許容できず、自己の世界観のみを暴力によって強制しようとします。

しかし、人は暴力や強制に頼って自己の完全性を実現しようとする限り、幸福にも自由にも主体的にもなれず、個性を獲得することもできません。
武器を捨て、本当の勇気と自信と意志(自由)を持たない限り、不幸の鎖から開放されることはありません。

 

八十九、幸福は自分の中にある

当たり前のはなし、幸福というのは私の精神の状態であり、外的な物ではありません。
別に、お金や家や勲章や学歴が幸福なわけではありません。
それは間接的に、私の自由(主体的)な行動や自尊心という幸福になるためのものを与えてくれるだけです。

直接的には、幸福というものは、私の内にある徳や能力のようなものであり、これをもたなければ、いくら外的なもの(金や権力など)を持っていても不幸をもたらすだけです。

本当のお金持ちとは、お金の扱い方(儲ける力)を内に持つ人であり、彼は全財産を失っても、すぐに金持ちになれます。
本当に賢い人は、国を追われ別の文化圏や学問領域に移っても、すぐに新たな知識を獲得し使いこなします。
幸福もこれと同様です。

私たちは幸福な物を手に入れることによって、幸福になれると思っていますが、それは原因と結果の混同です。
自分の内に幸福というものを身につけているからこそ、お金や権力や知識は、幸福に貢献するのです。
多くの人が宝くじで大金を手にすることを恐れるのは、幸福というものが単に外的なものによって決定されるのではないという事を、うすうす感じているからです。

本当に幸福というものを身に付けている人は、全財産を失っても、すぐに幸福になることができます。
どんな嵐も暴君も、この内にあるものを、物理的な力によって奪うことはできません。
だから、本当に幸福を持つ人は、全てを捨てても幸福でいられるのです。

倒れる英雄が、すべて(命)を捨てて闘い、死ぬ時、幸福を感じています。
それは、死が幸福だというくだらないロマンティシズムではありません。
彼が幸福を内に持っていたからこそ、勇敢に戦い、堂々と死ぬこと(物的身体を捨てること)ができたのです。

 

九十、エゴイストの悲しみ

幸福は行為(生の運動)の中にしか生まれないと述べてきました。
だから、幸福を待ち(静止)望む人には、幸福はやってこず、やってくるのは不幸のみです。

この静止した不幸の中で足掻く人間が、エゴイストと呼ばれる人です。
エゴイストは自分では幸福になるために動かず、恐怖の脅しや人を隷属させるテクニックによって、他人に幸福を持ってこさせようと待つ人です。

しかし、彼の前に他人の持ってきた幸福が差し出される時、、それはもうしおれた死骸となっています。
王手からチェスをはじめさてもらう王様、ヘリで山頂まで行って登頂旗を立てる富豪、金で買った気に入りの異性の死んだ目で言われる「愛しています」の言葉。
彼には、ゲームも登山も恋愛も、どんな幸福も閉ざされ、心は満たされることなく、憂鬱と退屈に支配され、欲求不満は病的なものとなっていきます。

反対に、幸福な人は非常に活動的で気前が良く、周囲の人達に幸福を分け与え、感染させます。
他人のために何かできることがあるとすれば、それは、私自身が幸せになることです。
勿論それは、他人の分を奪うことによって得る物的所有でないことは、言うまでもありません。
憂鬱と退屈と不幸の中にある暴君を変えることができるのは、この幸せの感染力のみです。

 

九十二、幸福の闘い

幸福になろうとしなければ、幸福にはなれません。
それには、多くの問題を乗り越え、多くの敵と戦う必要もでてきます。
当然、挫折や負けることもあります。
しかし、それを恐れて、闘うことなしに待っているだけでは、どのみち不幸に呑みこまれてしまうだけです。
結局、闘わざるを得ないのであり、精一杯幸福になるために闘うことは、人間としての責務です。

幸福を待つだけで不幸に呑まれてしまった人達、幸福の闘いを諦めて憂鬱と怒りの中に沈む人達、そんな不幸な彼らは幸福に対するルサンチマン(怨み)に駆り立てられ、幸福な人、及び幸福になろうと努力する人を、あの手この手で引きずり降ろそうとします。

平和を壊そうという不穏な動きは、彼らの憂鬱と退屈と不安と苛立ちが生み出すものです。
幸福を持つ者、あるいは幸福を信じ目指す者は、毅然としてこれらと闘い、時に勝ち、時に負けつつも、不屈の闘志で、自由と主体性と平和と活動力(いわば幸福の要素)を守り続けねばなりません。

 

九十三、幸福への誓い

悲観主義は気分によるもの、楽観主義(オプティミズム)は意志によるものであり、気分は必ず悲しみと憂鬱をもたらし、やがてそれは恨みや怒りに転換します。

悲観主義の雄弁は、被害妄想者のように、気分に任せた根拠のない理屈で徹底武装し、まくしたて、その大声と多弁と感情に訴える詐術と迫真の演技によって、他人をねじ伏せようとします。
オプティミズムの雄弁は、大らかなトーンで、相手の主体性を失わせない、同意を求めるエスコートのような礼儀によって、楽観主義へ導こうとします。

憂鬱な思考は、気分によるものであるため、事実に即さず、根拠がなく、ただ、私を騙そうとするだけです。
騙された私は、自ら不幸を作り出し、その思考の動揺は、苛立った刺々しいものを生み出していきます。

気分の入り混じった思考で、中途半端に考えることは止めなければなりません。
それは私を騙し、不幸の道へ引きずり込みます。
それなら全く考えない方がマシです。
現実がはっきりと見える覚めた状態でのみ思考し、毅然として判断し、動揺なく背筋を伸ばして行動することです。

私たちは、幸福になることを誓わねばなりません。
なぜなら、幸福は意志によるものだからです。
オプティミズムは、どんな時でも悲観主義や不幸に屈することなきよう、誓約を求めているのです。
それに署名し、私たちは今日から、幸福になるよう努力せねばなりません。

 

おわり

 

※本項は、『幸福論』の抄訳でも編集でもなく、当サイト管理人による解説です。
これらの内容をアランの言葉として引用すると恥をかいてしまうので、ご注意ください。