アランの『幸福論』(4)

(3)のつづき

四十二、四十四、本当の幸福

人間は苦しみを嫌うものだと思われ、そして、苦しみこそが不幸だと思われています。
しかし、そうではありません。

例えば、重い荷を背負って山を登らされる奴隷の苦しみは嫌われますが、登山家が重いザックを背負って登る苦しみは好まれます。
外的な状況により飢餓や貧困が強制される時、人はそれを嫌いますが、自分の意志によって仲間のためにあえて空腹や貧しい状況に飛び込む時は、それを好みます。

実のところ私たちは、快楽を求め苦痛を嫌っているのではなく、自由を好み、隷属を嫌っているのです。
人間は自分自身の主体的な行動(意志の自由)を求めており、それが幸福なのであり、幸福は、快楽や安楽や物的な豊かさ(物の自由)によるものではないのです。
馬が躍動して駆けるように、自分の自発的な力の発揮と自発的な行動を望んでいるのです。

多くの楽しみを制限しながらお金を貯める守銭奴は、実のところ、お金を沢山持つことが幸福だから、それを集めているのではありません。
勝つために贅沢や食欲や性欲を我慢するボクサーのように、お金の量は、彼にとって苦難を乗り越えた自分の能力と行動を証す戦績であり、スコアなのです。
子供は立派な自分の部屋を与えられていても、自分で材料を集めて、自分の力で自分の秘密基地をこしらえようとします。
絵を描くことの大好きな子供に、絵を描くことを強制すると、絵を描くのが嫌いになります。
人は自分の力で幸福を作りたいのであり、その創造そのものが幸福なのです。

幸福とは、本の中ではなく現実の中につむぎだす詩のようなものです。
何らかのこうありたいというヴィジョン(詩/夢/目的)があって、それを行為によって実現する、その創作行為(ポイエーシス)そのものが、幸福なのです。

そのヴィジョン(詩)がどういうものであるかは、人それぞれに違います。
大金持ちになって世界一周のクルージングを優雅に楽しむこと、あえて貧しい世界に飛び込み貧しい人達と苦楽を共にし生きること、オモチャの収集で部屋を埋め尽くすこと、名うてのプレイボーイになること、燃え尽きるまで戦い抜きカッコよく死ぬこと等、何でもよいのです。

だからこそ、人は主体的な行動ではなく、隷属させられるような快楽には、幸福を感じず、哀しみや不幸を感じるのです。
お酒を飲むのではなくお酒に呑まれる人間、人を愛するのではなく愛に囚われる人間、レジャーを楽しむのではなくレジャーに駆り立てられる人間…。

人間の幸福は、自分で意志し、行動することそのものの中にしか存在しません。
行動の種類は関係なく、その行動を自分が支配している限りは幸福であり、服従している限り不幸なのです。
人間は与えられた楽しみには退屈し、むしろ自身の行動によって獲得される苦しみの方を選びます。

動かぬ流れは鬱血します。
鬱血は悲しみと苛立ちと不安を生じさせます。
その時、人間は、陰鬱と焦燥と不機嫌の中で、最も意地悪で破壊的な人間となります。
これが人間の不幸の正体です。

四十五、エゴイストの本性

エゴイストは言う。
「人間はただ、自分の快楽を求める生き物であり、人助けをする者も、酒やセックスを好む者も、そこから等しく快楽をえているだけであり、対象が違うだけで、根は同じである」と。

一見、もっともらしい意見ですが、見え透いた詭弁です。
彼はただ、人間行動を促進するものを「快」、抑制するものを「苦」と定義づけているだけなのであり、その本質は「行動」です。
これは、快だからやる⇔やるから快である、の循環論であり、名付け(言い換え)の問題です。
正確に言うと、こうなります。
「人間はただ、自分の行動を求める生き物である」と。

エゴイストは、誤った判断のために、幸福になれません。
なぜなら、隷属的なネガティブな苦しみを拒絶するために苦しみ全部を捨ててしまい、行動に必要である自発的なポジティブな苦しみまで一緒に捨ててしまうからです。
彼は山を登る運動なく登山を楽しもうとし、腹も減ってないのにご馳走を食べようとし、何の過程も経ない愛を得ようとし、走ることなくフィニッシュテープを切ろうとします。
快楽がための快楽を求め、快楽の中にありながら退屈し、飽き、快楽に吐き気をもよおし、本当の楽しみに出会うことなく、快楽という名の苦しみの絶望の中で死んでゆきます。

四十六、ふたつの富

富にはよい富とわるい富の二種類があります。

悪い富とは、その人の行動を殺してしてしまう富です。
例えば、働き者が働くことを止めてしまうような、宝くじの大金。
子供の自主性を奪い、自力で歩けなくさせるような、親の財産。

良い富とは、その人の行動を生かすような富です。
働きたくても働けなかった百姓がやっと手に入れた耕作地、勉強したくても出来なかった少年が手にする学費。

その人の活動力を増すものこそ、本当の富であり、活動力を減ずるものは、富の形をした毒のようなものです。

四十七、幸福は他人からもらえない

そもそも、他人からもらう幸福など存在しません。
幸福は自分で作るものであり、それは学ぶことによって大きく膨らんでいくものだからです。
他人から貰ったものは、料理ではなく材料のひとつであり、それを美味い料理にするか不味いものにするかは、私の行動次第です。

多くの人は、もらう幸福ばかり求めて、自らで幸福になろうとしません。
しかし、幸福は、幸福になる方法を学ばなければ、手に入らないものなのです。
幸福は、私の力の発揮、能力の発現であると、以前述べましたが、それは学べば学ぶほど、強くなっていくものであり、ひとつの収穫が次のより大きな収穫を約束するような、幸福です。
待つのではなく、自分の足で踏み出さない限り、幸福になろうとしない限り、幸福にはなれません。
幸福とは、原理的にそういうものなのです。

五十、希望は、いま現在の一歩の中にのみある

未来というものは、いま現在の行動の中にしか宿りません。

想像でつむぎだした計画、大げさな空中楼閣の御殿は、現実の一歩だけで脆くも崩れ去ります。
未来というものは予見できず、私が現実の仕事によって進めた一歩先にある未来が開示するものは、私が想像によって予期していたものとはまったく別の形をしています。
経験のない夢想家たちは、その現実を知りません。
だから彼等はよく、「俺ならアイツよりもっと上手にやれていたのに」などとこぼすのです。

一歩一歩の現実の歩みの中で、少しずつ、本当の期待(未来)というものが開示されてくるのです。
優れた画家は初めから頭の中に完成のイメージがあり、それを複写機械人形のように実現していくのではありません。
ただ、彼は自分を信じて、描きはじめるだけなのです。
一筆一筆、自分を信じながら、進めていく歩みが、徐々に完成形をあらわしはじめます。
絵を描くとは、未だ見たことのない自分自身の未来の発見であり、画家は完成し終えたときに、ようやく、私の真の未来像の全貌を把握するのです。
遠い昔に動きもせずに想像していた未来とは、まったく違う、本当の未来を、手に入れるのです。

期待は二次的なものに過ぎず、一番重要なものは信じる力であり、はじめは何の期待もなく、信じることによって始めなければなりません。
そして、いくらか前進した後に、ようやく期待が姿を見せはじめます。
頭の中で描くだけの素晴らしい未来など、決して手に入りません。
それは信念を持って進む現実の歩みの先にあるものであり、幻想の期待を捨て、信念によって現実を歩き始める時、その扉は開かれます。

五十一、全体を見る

抑鬱の原因は、近くのものしか見えなくなっていることにあります。
俗に言う、近視眼的なものの見方になっているということです。

目の良いことで有名な鷹は、大空を悠々と飛びながら、地上全体を見回し、獲物を捕らえます。
全体を見ているので、あちらこちらにいる獲物の様々な可能性が見えますし、獲物と全体の関係も良く見えます。
あちらの方が獲物が沢山いる、あのウサギは三方障害に囲まれているから捕獲は容易い、など。
もし、この鷹が近視になって、近くしか見えなくなったら、獲物の捕獲可能性は激減し、死んでしまうでしょう。

これは人間においても同様です。
近視眼的で、大局(全体)を見ることのできない人は、ほんのひと握りの範囲の可能性しか見えず、せっかく見えたそのひと握りの可能性すら、周りのものとそれとの関係性を把握することができないため、失ってしまうことになります。
全体を知覚できず、限られた細部しか見ない人間は、その労力全部を細部に固執させざるをえず、そのたった一つの可能性の檻から逃げられなくなり、偏執狂の様相を呈します。
その細部の檻の外の見えない全体は、知覚ではなく、想像で埋め合わせようとし、ありもしない見えない世界への想像の恐怖と、ありもしない想像の希望(必然的に将来破れる)で満たし、陰気な鬱と陽気な躁の間で揺れ動きます。

「(真を)知る」とは思考のことではなく、正しい知覚のことです。
正しい知覚の整理整頓作業が思考であり、知覚に基づかない思考は単なる想像(幻想)です。
「(真を)知る」とは、細部を詳細にわたり見る事ではなく、細部と全体がどの様に結びついているかを見る事です。

人間も自分の思考と身体を、本当の故郷である大いなる自然に対し還すべきなのです。
遠くの水平線や、星空を見上げる時のように、安らいだ目で、自由な頭で、リラックスしたしなやかな身体で、知覚し、思考し、行動すれば、自然は私をより良く生かしてくれることでしょう。

五十三、今を生きる

「過去」と「未来」が存在するのは、私がそれを考えている時だけです。
存在するものは「現在」だけであり、未来とは現在における予測、過去とは現在における記憶のイメージでしかありません。

過去に友人に殴られた経験を、毎夜ベッドの上で回想し、毎日自分にその時の苦しみを味わわせ続けるのは、私自身です。
友人は最初の一度きり、私を殴ったのであり、その後私は自分で自分を殴り続けます。
そうやって膨らんだ数百発の殴打への復讐のために、私は彼を暴行しあえぐ姿を未来に描き出します。
そして、ある日、現実にナイフを持ち出し、友人を待ち構えます。
しかし、現在という目の前で、現実の友人の怯える顔を見た時、私は我に返り、ナイフを投げ捨てます。
正気(現在)へ返り、すべて(過去と未来)が想像の産物であったと気付くのです。

「人間が苦しみに耐え忍ばなければならないのは、現在だけである」と、ストアの賢人は言います。
過去を苦しみ、未来に怯えるのは、自分で描いたオバケの落書きに恐怖する子供のようなものです。

(5)へつづく