仏教哲学とは何か(3)諦観と安心

(2)のつづき

「ありがとう」と「おかげさま」

前項までで、一応、原理的なことは説明し終えましたが、抽象的で少し分かりにくかったと思います。
ここからは日常経験やマンガや流行歌などによって、それらをもっと具体的に記述していきます。

「あるもの」の存在は「あるものでないもの」に支えられて成立しているということをこれまで考察してきましたが、これが仏教特有の様々な倫理観や価値観を生じさせます。
仏教の「ありがたい(ありがとう)」や「おかげさま」などという言葉に表れているように、自己を支える他者の存在の自覚は、必然的に感謝の気持ちを起こさせます。

反対に、このつながりを知らず、自分の切り出した自分勝手な存在だけを絶対視する時、様々な対立、問題や苦しみが生じてきます。
そこで、対立的に考えているものが、実はお互いの存在を維持するために必須の条件であるということを、具体例で描いていきます。

具体例

・私の知人は雨を非常に嫌います。
たしかに日本は雨が多く、鬱陶しく感じる時も多々あります。
しかし、その雨の多さが日本の水資源の豊かさを生んでいます。
その知人はお風呂が大好きで、マンション選びの第一条件はお風呂の大きさだそうです。
一般人が、湯船につかるためだけに毎日200リットルもの水を浪費できるのは、この国くらいです。
雨が降った時に「おかげさま」「ありがたい」と言って、感謝できる人は、その「つながり」を知っている人です。

・「俺は死にたくない!」と言って、不老不死を手に入れた手塚治虫のマンガの主人公は、今度は無限に続く生に飽き苦しみ、「もう、死なせてくれ!」と叫ぶことになります。
「生」を活かすものは「死」であること、「限界(不自由)」があるがゆえに「自由」は尊く輝くこと、そういう「つながり」を知っている人は、人間に寿命があることに不満を持たず、限りある今この時の生を大切にします。

・『じゃりん子チエ』というアニメ(漫画)に出てくるお金持ちのお坊ちゃんのマサルは、ホルモン焼き屋(屠殺関連)のチエちゃんを馬鹿にします。
しかし、マサルが自分の手を血で汚さずに、家で美味しいステーキを食べられるのは、マサルの代わりに動物を〆て食肉にしてくれる人達がいるからです(昔は各家庭の成員自らが屠殺していたため、食べ物のありがたみ-命を頂く-もリアルに実感できました)。
そういう「つながり」を知っている人は、チエちゃんに対し、差別ではなく感謝の心で接することができます(文学的に言えばマサルはチエちゃんが好きでイジワルをしているのですが、社会学者は被差別問題と見ます)。

・空き地(遊び場)で乱暴なジャイアンという悪者を追い出したら、平和になるどころか、もっと凶悪な隣町のガキ大将が空き地を占拠しにやってきて使えなくなるというエピソードがあり(うろ覚えで正確ではありませんが)、結局、ジャイアンがその年上のガキ大将と大ゲンカして取り返してくれます。
生態系の問題と同様に、きちんと「つながり」を見ずに目先の利益や感情的な対立で物事を動かすと、後に強烈なしっぺい返しを受けます(レイチェル・カーソンの項を参照)。

・クラスに脇役がいるから主役が栄え、不良の馬鹿がいるから博士は偉く、どんくさい博士がいるから体育得意な不良がモテます。
ミスチルの桜井さんに代弁してもらえば、「降り注ぐ日差しがあって 、だからこそ日陰もあって、その全てが意味を持って、互いを讃えているのなら、もうどんな場所にいても、光を感じれる(『GIFT』作詞・桜井和寿)」ということです。
つながりを知れば、すべてのものの存在意味(本質)が開示され、その存在への感謝と尊重の気持ちが生まれます(それが桜井の言う贈り物-GIFT-)。

ここで挙げた例は日常的で些細なものばかりですが、歴史に残るような宗教やイデオロギーの対立、戦争やジェノサイドも、これら(つながりの忘却)と同じ原理で起こるものといえます。

「これでいいのだ!」

つながりを見れば見るほど、そして「一」の世界の認識へと近付けば近づくほど、生まれてくるのが、存在への肯定感です。
仏教ベースのアニメ(漫画)として有名な『天才バカボン』のパパは、世界がスラップスティックコメディのように、しっちゃかめっちゃかでどうしようもなくなっても、「これでいいのだ!」と存在のすべてを肯定し、ハッピーエンド?で終わらせます。
不条理で無茶苦茶に見える世界も実は根でつながっており、それを構成するそれぞれの存在の“全てが意味を持ち、互いを讃えている”ことを理解するからこそ、すべてを受け容れられるわけです。

仏教ではこれを「諦観」などと呼びますが、これはネガティブな意味での「諦め(あきらめ)」ではありません。
諦観の諦は「諦か(あきらか)」であり、語源的には真理の開示、本質を明らかにすることの意です。
諦観によって物事を見極め安定の境地に立つ人は、真理の見えていない傍から見る人たちには、物事を「あきらめて」しまったかのように映ります。
これにより、「諦か(あきらか)」が「諦め(あきらめ)」という言葉に俗化され、本来の意味が覆い隠されてしまいます。

あるがままに生きる

仏教がやたら「あるがまま、なるがまま」に生きることを説くのも、これと同じ理屈です。
諦観によって、運命の輪(世界の在り方)と、私の生き方が一体となった時、絶対的な安心の境地(悟り)に到ります。

雨が降って怒っている人にとって、怒らず落ち着いた人は、怒ることを、あるいは晴れへの希望を、諦(あきら)めてしまったかのように見えます。
しかし、その雨が、帰宅後の私の楽しみのバスタイムを作ってくれていると諦(あきら)かに知っているからこそ、別に怒ることもなく落ち着いているのです。
一休さんの名の由来である悟りの句 「一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」の境地です。

苦悩の原因

それとは反対に、人の心が苦しむのは、つながりが見えない時です。
例えば、暴飲暴食で病気になったり、無茶な浪費で貧乏になっても、その不幸の原因(つながり)が自分に見えているなら、ある程度「しゃあない」と諦めもつきます。
さらに、もし自分が医者で完全にそのつながり(遺伝や生活習慣などの病因)を理解(諦かに)していたなら、病気になっても別に苦悩などせず、淡々と治療に励むだけです。

しかし、何の理由(つながり)も分からないまま、いきなり大病になったり、財産や大切な人を失えば、その不条理の中で心は耐え切れない懊悩に打ちひしがれることになります。
精神の苦しみは不条理との邂逅、いわば理由の不調和であり、理由の調和した合理的なもの(当然)に対して、人は苦悩することはありません。
例えば、人は苦しみの中にある時、「何でだよ!」と叫びます。
突発的に出るその言葉の中に、いかに人が理由を求め、苦しんでいるかがよく分かります。

つながりが見えるということは、そこに意味(~のためのもの、存在の理由)が生じるということです。
ニーチェの言うように、苦しみに意味がない時に人は苦しむのであり、意味のある苦しみなら人は耐えることができます(健康のための苦しい手術や赤子を産むための苦痛、悟りを得るための苦行や大切な人のための受苦、など)。

だからこそ、つながりを諦かに理解することが、苦悩を離れた安心をえるために必須の条件となるのです。

今を生きる

最後に「あるがまま」と同時によく言われる「今を生きる」という仏教の教えを、哲学的に見て終わります。
また抽象的な記述に戻るので、項をあらためます。

(4)へつづく