仏教哲学とは何か(4)今を生きる

(3)のつづき

今とは何か

仏教では「今を生きる」ということをしきりに説きます。
今この瞬間、この時こそが実在であり、未来や過去は想像によって生み出された煩いの種でしかないと。
しかし、「瞬間」とは一体なんでしょうか。
曖昧なままでは仏教“哲学”ではないので、少し考えてみます。

原的な時間

幅のない線や面積のない点は現実には存在できないように、瞬間といっても抽象の産物ではなく、現実に存在するものであるなら、必ず幅のようなものがあるはずです。

私が何らかのメロディーを聴く今この瞬間、その音は必ず前後の音と関連することによってしか存在しえません。
そうでないと、ただバラバラの単独音が感覚されるだけで、そこにメロディーが生じません。
例えば、かえるの歌の「ドレミファミレド」のメロディーの「ファ」を聴いている今この瞬間に、その前のミの音は物理的には消えていますが、私の中に彗星の尾のように保持されているからこそ、「ファ」はメロディーとして現出できます。
それと同時に「ファ」の後にくる音も、ある程度の枠内で予測され期待されています。
まさか「ファ」の後に2オクターブ高い「レ」がきて「ドレミファ15ma_レ…」になるなど誰も予期していません。
かえるの歌のメロディー「ファ」を聴くいまこの瞬間は、その前後が一体となってはじめて成立するものなのです。

人間にとって瞬間が成立する、この最低限度の幅(のようなもの)を持つ「今」を、ある哲学者は「原的時間」と名付けます。
そしてこの直接的な原的時間経験を、抽象化や数量化などによって、理念的に無限の過去と無限の未来へと引き伸ばしたものが、私たちにお馴染みの客観時間(未来、現在、過去)を成立させるのです。

現在も過去も未来も同じひとつのものでしかない

原的時間においては現在も過去も未来も一体となっており、それらを切り離すことは、即、瞬間そのものを無くすことに等しく、それらは同じ一つのものでしかありません。
しかし、実のところ、この三者のつながりの関係(構造)は、いくら抽象化して引き延ばしたとしても、決して変わることはありません。
あくまでも現在も過去も未来も同じひとつのものの現れであり、決して切り離すことはできません(同じひとつの坂を、視点の違いによって「上り坂」「下り坂」と別々に認識するように)。
「ファ」の音の意味が、その前後の「ミ」との関係によってのみ生じえたように、私が生きる現在の意味も、未来と過去との関係によってのみ生じているのです。

例えば、私が恋人と共に来た花火大会で、今この瞬間の花火に感動するのは、そこはかとなく予期されている卒業と共に終わる青春(未来)と、花火大会に一緒に来られるようにまでなった恋人との過程(過去)が、その花火の感動(意味、メロディー)を生み出すからです。
その前後の音(未来と過去)が違えば、とうぜん現在のメロディーも変わり、例えば、テキ屋のおじさんにとって見慣れたその花火は、パチンコ屋の大音量の雑音と同じような意味しか持っていません。

分断された時間によって引き裂かれる心

この「現在」「過去」「未来」が、ひとつのものの別の面の表れであるということを忘れ、それらを想像によって分離独立させ、他との関係性を忘却した時、時間は人に憂いと煩いをもたらします。
人は往々にして、未来のために今と過去を失い、過去のために今と未来を失い、今のために未来と過去を失います。
いずれやることのために今しかできないことを失い、どうにもならない過去のために今なすべきことを忘却し、今だけしか見ないことによって未来の可能性と過去の意味を捨ててしまいます。

結果を恐れる(あるいは期待する)あまり、上手く身体を動かせなくなった野球選手は、未来によって今を失ってしまった人間です。
過去の失恋を悲しみうつむくあまり、目の前の素敵な人や新たな恋を見逃してしまうのは、過去によって今と未来を失った人間です。
今に溺れ刹那的に生きるのは、今によって未来と過去を失ってしまった人間です。

本当の意味で「今を生きる」

しかし、時間が一つもののであるという事を把握している人は、知っています。
結果は今という過程が充実することによってはじめて生じるものであり、過去の意味はそれを生かすかどうかの今と未来への姿勢が作り出すものであり、今を充実させるのは未来への目的意識と過去のヒストリー(由縁)の自覚だということを。

恋人と観る最後の夏の花火がひときわ美しいのは、終りを意識する未来と、今まで共に歩んで来た思い出という過去があるからです。
「今を生きる」とは、そういう未来と過去と現在が一体となって生ずる「今」であり、決して未来や過去を持たない動物や赤子の生き方を指しているのではありません。
今を生きるということが、同時に未来と過去を生きることにならなければ、本当の意味で「今を生きる」ことにはなりません。

仏教ハウツー本が連呼する「今を生きる」という言葉に従って、後先考えずにやりたい放題やる人間は、単に未来と過去を捨象した抽象(想像)の産物としての「今」を生きているだけです。
確かにこの方法によっても、未来に囚われている人、過去に囚われている人の呪縛を解除し、動き出させることはできます。
しかし、その先に待っているものは「今」への囚われです。
そうではなく、根本的な解決、時間というものに囚われることそのものを無くすためには、想像によって実体化されてしまった「未来」「過去」「現在」という時間の分割をいったん解体し、本当の時間のあり様(一なる時間)に出会い、その本来的な視座によって、世間一般の時間(客観時間)をとらえ返さねばなりません。

仏教哲学は仏教ではない

仏教は人々に赤子のように純粋に生きることを説きます。
しかし、人は赤子や動物になることはできません。
だからこそ、仏教哲学は自覚的にその純粋な経験を理性によって再構成しようとするのです。
赤子にはなれなくても、赤子のような態や生の構造を実現することはできます。

仏教哲学があくまでも哲学であろうとする限り、必然的に仏教そのものとは相容れない部分が出てきます。
もし、そこを曖昧にしてしまえば、ある哲学者が一部の仏教哲学者を揶揄するように、浅い水たまりを掻き回して深い深淵に見せようとする、ことになってしまいます。

仏教は極めて深遠(深淵)なるものとして扱われますが、多くの場合、悟りを開いた者は極めて浅い人間に見えます。
上辺だけの仏教哲学者は、浅いものを必死で深く見せようとし、本当の仏教者は、深いものを浅さの中に見せるのです。

おわり