仏教哲学とは何か(2)存在という幻想

哲学/思想 宗教/倫理

 

(1)のつづき

 

存在の恣意性

世界という全体から「あるもの」を切り出してくることが、その存在を生成させると、前項で述べましたが、この切り出し方というものは、かなり恣意的(自分勝手)なものです。

例えば、私たちがぼんやり無数の星が瞬く夜空を見上げるとき、それはひとつの全体としての星々の雑踏を見ています。
その星空全体から、それぞれの土地の人々の好きなように一定の形あるものを切り出したものが星座です。
ここで重要なことは、星座の切り出し方は恣意的であり、どのような形にでも分割できるということです。
北斗七星を「ひしゃく」として切り出す人々もいれば、別の星と合わさったものとして「動物の尻尾」として見る人々もいます。
二十世紀初頭に国際的に共通の星座が取り決められるまでは、同じ星が国や時代によって様々な形と名称の星座として親しまれていました。

これと同様、世界という雑然とした全体から、どういう形(本質)でものを切り出し、存在させるかは、国や文化や個々の人によって違うと言うことです。

 

「犬」は存在しない

私たちは「イヌ」と「オオカミ」と「キツネ」を明確に分け、各々別々の存在として認識しています。
しかし、この生物学的分類は、先ほどの星座の取り決めと同様に、ただ国際的に学者が集まって決定された生物学の基準に従い分けられた、カテゴリー(分類)のひとつでしかありません。
もっと別の分け方はいくらでもあるわけですが、先進的な欧米の学問基準に、他の文化の生物学のカテゴリーは駆逐されます。

だから、この基準に所属しない国の人々は、「イヌ」と「オオカミ」と「キツネ」を同じ「ヌミネ(造語)」という生物(名)として捉え、逆に私たちが同じ生物「イヌ」として見るポメラニアンとドーベルマンを、まったく別の動物として捉えてることもありえます。
例えば、ドーベルマンは「ヌミネ」、ポメラニアンは長毛種のネコと同じ動物として「モワコ(造語)」という存在として把握されるかもしれません。

 

存在はすべて幻想である

では、この切り出し方、いわば存在の定義付けを行うこの分割は、一体何によって決定されているのでしょうか。
それは、それぞれの国や文化や個人にとって、都合のよい、便利である、利益になる、切り分け方だと言うことです。
基準となる生物学のカテゴリーは、それが学問的にもっとも使い勝手が良く、生産的であるから採用されているのであり、数学も別に10進法の分割ではなく6進法でもいける訳ですが、10進法の方が学者集団にとって都合が良いから採用されているだけです。

実在や真理というものは、それを扱う者にとって、最も利益になる幻想(誤謬)の別名であると看破したのが、哲学者のニーチェやW・ジェイムズです。
イヌ/ネコの分割から、善/悪の分割、美/醜、真/偽、生/死、幸/不幸、正常/異常まで、すべてのものや概念は、その人(々)に都合よく切り出され、存在として把握された幻想(イリュージョン)であり、確固として実在する個物ではないのです。

勿論、それらの分割が完全に恣意的だというわけではありません。
それはある程度物理的な環境に規定されており、人間の三半規管と地球の重力が存在する限り「上」「下」の分割はほぼ必然的に生じ、「10進法-人間の手指が10本だから説」のように、分割がある傾向をもつのは確かです。
ただ、物理的な環境も変化するので、その相対性に変わりはありません。
例えば、人間が無重力空間の巨大な宇宙船内で生活することが当たり前になれば、天地の区別があまり意味を持たなくなり空間の分割の仕方も変わってくるでしょうし、人類の色覚に変化が起これば、事物の分割の仕方も確実に変化します。

 

真の実在とは何か

このように、私たちの把握している世界が相対的な幻想でしかないなら、一体真の実在とは何なのでしょうか。
それは存在としてものを切り出してくる前の、分割以前の「一」である世界そのものです。
しかし、分割(切り出し)によってしかものごとを存在として把握できない人間には、この分割以前の世界を把握することは不可能に思えます。
仏教哲学で有名な西田幾多郎はそれを「絶対無」と呼んだり、井筒俊彦はカントに倣って「存在X(エックス)」と言ったりするわけですが、結局これは、数学のようにゼロ(絶対無)とか、無限(絶対有)とか、不定項xのように、抽象的にしか表せないものなわけです。

インドの宗教を主題としたある映画で、そこに出てきた導師が悟りの言葉として“It is.”と繰り返し述べます。
「一」の世界は、「It(それ)」という風に、アバウトにしか言い表せないものであり、これが言語の限界です。
仏教は、修行によってこの世界を把握することが可能であると言うわけですが、あくまで本頁は哲学の立場からの記述ですので、言語で説明できない世界に越境することはしません。
はっきり言って本当に悟りがあるかどうかは、悟ってみなければ分からず、悟ったことのない私には永久に知りえない世界です。

 

ふたつめのまとめ

何ものでもない(かつ全てのものである)「It(それ)」の世界から、自分の都合に合わせて、様々な事物を切り出し、存在としてものを把握します。
それにより何でもなかった世界は、ものに溢れ、豊かな個性の世界が生じます。
そして、「もの」と「もの」は、ルビンの壷のように、互いを存在の条件としてつながっており、その「つながり」が、世界の事物を秩序づけ、個々のものが個性を主張しながらも、同時にまとまった「私の世界(私にとっての世界)」を作り出します。
「ソラ」という存在は「ダイチ」との関係性によってのみ成り立つものであり、「ダイチ」が無くなれば「ソラ」も存在しなくなり、残るものはなんでもない「無、それ(It)」のみです。

そして、この「私の世界」は、私の恣意的な切り出しによって生み出された小宇宙であり、別の文化に生きる人や、私とは違うあなたは、別の世界として「It(それ)」の世界を切り出し、私とは違うまったく別の秩序の世界(小宇宙)を所有しているのです。
それぞれがそれぞれの幻想(イリュージョン)を、たった一つの世界であると思い込み、それを実在であり、真実であると思い込んでます。
なぜなら、皆が共通して根源的に接している「一」あるいは「It」の世界を把握することは、極めて難しいからです。

この「一」の世界を忘却し、自分の所有する世界のみが世界のすべてであると勘違いした時に、あらゆる対立と争い、人間の苦しみが生じることになります。

 

(3)へつづく