概念
キーネーシス(運動)・・・目的をもち、そこを終点とした限界の中にある不完全(未完成)な行為。活動の主体が外部にあり動かされるもの。時間の内にある、物理的運動に類する行為。
エネルゲイア(活動)・・・目的がうちに内在し、限界(終点)をもたない完全な行為。活動の主体が動くもの自身である。時間を有しない、精神や心の運動に類する行為。
人間固有の活動はキーネーシスではなく、エネルゲイアである。
具体例
例えば、家を作るという行為は家の完成を目的とし、現在はまだ「作っている」最中で、「作ってしまっている(完了)」とは離れています。
ダイエットは減量した理想の私を目的とし、英会話の勉強は英語が話せることを目的とします。
勉強もダイエットも、まずはじまりがあり、現在の行為は未完成であり、時間とともに目的に近づき終点にいたります。
しかし、これは人間固有の行為というより、物体の運動と同じ特徴をもつ行為です。
石を窓から落とせば、着地点を目的とし、時間とともに地面に近づき、やがて終点で静止します。
アリストテレスはこれを「キーネーシス(運動)」と名付けます。
では、人間固有の行為とはどういう行為でしょうか。
例えば、美しい夕日を観るとき、「見ている(現在)」と同時に「見てしまっている(完了)」。
幸福なときは、「幸福である(現在)」と同時に「幸福になってしまっている(完了)」。
現在と終点が一致しており、言葉を変えれば、目的が行為の中に内在しているのです。
始点から終点までの時間を必要とせず、ただ「今」だけを生きている行為です。
この人間固有の行為が「エネルゲイア(活動)」の完全な形です。
エネルゲイア
「エネルゲイア」と「キーネーシス」は、アリストテレスの別の概念「観想(精神・魂)」と「実践(物体)」に対応しています。
ですのでアリストテレスが例として挙げるエネルゲイアの活動は、必然的に精神活動に限定的されており、「観る」「思惟する」「幸福である」「よく生きる」など、かなり狭い特権的な行為を指す概念になっています。
しかし、ギリシャ哲学研究者の藤沢令夫氏は、この限定に無理があることを論じ、もっと全体的な行為に適用できることを指摘します。
遅刻して学校を目的として走る子供(キーネーシス)と、
おもちゃを買って貰って嬉しくて走り回る子供(エネルゲイア)。
電車の時間を調べる目的でホームの時刻盤を見ること(キーネーシス)と、
車窓の向こうに広がる美しい田園を見ること(エネルゲイア)。
先生に褒められる目的で絵を描くこと(キーネーシス)と、
絵を描くことそのものが好きで絵を描くこと(エネルゲイア)。
生産性を目的とした機械的農作業(キーネーシス)と、
歌と踊りのうちにあった昔の農作業(エネルゲイア)。
もともとエネルゲイア的な行為が多かった人間の活動が、社会が合理化していくに従って必然的にキーネーシス的になっていきます。
だから、「一期一会」「今を生きる」「心(魂)をこめて」など、機械的な行為に対するいましめとして、昔から言われ続けるこれら言葉は、エネルゲイア的行為の形を変えた表現でもあるのです。
幸福な人と不幸な人
例えば、幼児はとても楽しそうに絵を描きます。
絵を描くことそのものに目的が内在している状態、行為そのものが常に既に完成である状態です。
しかし、ある種の絵(上手な絵)を描けば幼稚園の先生や両親が褒めてくれるのが分かると、褒められるという目的のための手段として絵を描くようになります。
絵を描くことの外に目的がある分裂した状態、欠如を抱えた未完成状態です。
やがて通信簿のため、美大合格のため、展覧会で賞をとるため、金のため、権威を得るため、名誉のためと、絵を描く行為と目的の間隙がどんどん広がっていきます。
幸福とは、もう何の欠如にも駆り立てられない充足した生の活動にあるものです(行為そのものと目的が合致した状態)。
行為と目的が分離しているということは、常に幸福が今の私の生の活動の向こう側にあり続けるということであり、それは蜃気楼のオアシスを追いかけ続ける乾いた人(欠如を抱えた人)のような受難となるのです。
おわり