ロックの『市民政府論(統治論第二論)』(3)

哲学/思想 社会/政治

(2)のつづき

第八章、政治社会の起源について

95
生来的に自由で平等である人間が自然状態を脱し政治共同体に属するのは、己の合意によってのみであり、同意なしに他者の政治権力に服することはありません。
そして、合意によって結合した一つの政治体(国家)では、多数派の決定が人々は拘束する権利をもちます。

96
複数の主体によって結合された一つの共同体が、同じ一つの方向へ動くためには、多数派の意志による決定をその舵取りとしない限り、不可能です。
議会において、多数派の決議が全体の決議となり(実定法により特別に数が定められていない限り)、そこに全体の権力が託されていると見なした上で決定されます。

97
複数の人々の合意によって政治共同体を設ける時、各成員は多数派の決定に服し制限される義務を負います。
もし、個人の好き勝手に、ある社会の決議には従い別の決議には従わないという判断を下すなら、その人は依然自然状態にあるのであり、社会契約は意味を失います。

98
個人に利害対立や意見の多様性や生活上の都合が存する限り、多数派の同意を全体の決議として扱わなければ、リヴァイアサン(政治共同体)は生まれたその日に砕け散ります。

99
政治社会の基礎を構成するものは、多数決に服することのできる自由な主体が社会的結合に合意するという契約です。

100~115
これに対し二つの反論が考えられます。
第一、「自然状態、およびそこからの合意形成などいうものが、歴史上実際に存在したのか」
第二、「人間はある統治のもとに生まれそれに服するので、自由に新しい統治体を創始することなど不可能」(フェルマーの言説を念頭に置いている)

まず第一の反論に関してですが、そもそも歴史的記録というものは、政治社会が長期間維持された後に生じる「文字」という技術によって可能になるのであり、それ以前の遠い記憶(創始の歴史)は残されないということです。
統治は記録に先立つものであるため、ある政治体の起源については、その政治体ではない第三者が保存する偶然的な記憶(記述)に依るしかありません。
そして、その記述(アメリカ大陸および古代ローマの歴史)を紐解くと、確かに統治が無く相互に独立した自由な自然状態というもの、および、同意に基づく政府の樹立が、歴史的事例として確認されます。
このような国家と統治の起源の記述を、一般的歴史としてまとめると、以下のような流れになります。

原初的な政治共同体は、一般的に一人の人間による統治(君主制)であり、それは父親を起源としています。
先ず父権の支配の元にある家族というひとつの共同体があり、その父が亡くなると、成長し父権を獲得した子たちの中から、相応しい者が後継者として選ばれます。
この家系の網が徐々に大きくなっていくと、やがて原初的な政治共同体である世襲の君主制が誕生します。

初期の君主政体は安定的に政治的福利を保証してくれ、なおかつ他の統治形態に関する知識のない彼らにとっては、それは習慣として自然と選ばれる当たり前の統治形態でした。
人々の生活様式は単純で分かりやすく、規模も小さかったため、社会内での争いに対する法的統制や、絶対権力の暴走という危険に対して、さほど注意を払う必要はなく、第一の配慮は外敵の侵入へと向けられていました。
外敵との闘いが重要な契機となり、単純な家系の長は部族の構成員に対する強い支配力を持つ「国王=将軍」に質的に昇格し、部族の結束力も国家的なものとして強まることになります。

ここにおいて支配者の機能は、単純に公共の利益と安全以外のものを目的とせず、権力の委任も行使もそれに準じて行われるものでした。
統治者も臣民も、当初は純粋で徳を有し、相互信頼によって結ばれ、両者の間で争いが生じることはありませんでした。
共同体の成員が、一人の人間(君主)に権力を委ね、それに服するのは、同意によるものですが、支配者が誠実で徳を有していた分、明示的な条件でもって交わされる同意というより、信頼の中で自然と発生する黙示的な同意が中心となります。

しかし、時が進むと、君主は自らの本来の使命(公益)を忘れ、己の野心と欲望を充足させるために、その絶対的な権力を用いるようになります。
そこで、人々は、この行き過ぎた権力を抑制し、その悪用を防ぐための策を必要とすることになります(これが次節からの主題です)。

次いで、第二の反論(新しい統治体を創始することは不可能)に関してですが、現実の歴史がこの言説の矛盾と誤りを証示しています。
生まれながらに服していた支配から離れ、新しい統治体を築くことは、歴史的に頻繁に生じることです。
多数の小規模の国家の出現、強国による併呑、強国の解体による小国への分裂、という政治的共同体の生成の過程すべてにおいて、この反論が否定されています。
もし、人々が生まれながらの統治体を離脱することも、新たな統治体を樹立することもできないとしたら、全世界はただ一つの普遍的な君主国に帰着していたはずです。

116
森の中の自然人も高度な統治に服する臣民も同程度に、人間の本質的な自由を有しています。
これに対し、一部の学者は、人間がある統治体の下に服すると、自然状態の自由の権原も資格も失い、子孫は親の契約によって、その統治に従いつづける義務をもつと言います。
しかし、子は成人すると父と同格の自由を獲得するため、決して父は成人した子を拘束し続ける権利は持ちません。
子は成人すると、ただ自らの同意によって、その統治に服するのです。

117
父親の資産(主に土地)を子が享有する場合、必然的にその共同体の条件を引き受けねばなりません。
領土の所有は共同体の成員以外認められない以上、既成の統治の臣民とならねばならないのです。
各人が成人する度にこの暗黙の同意を行い臣民となっていることが、明示的でなく見えにくいので、子は父と同じ統治の元に強制的に服するなどという誤解が生ずるのです。

118
統治する側は、臣民である父親に対しての権力は主張しますが、それを子に対してまで同様に拡張することはありません。
イングランド人の夫妻がフランスで産んだ子供が、イングランドの臣民であるかフランスの臣民であるかは生まれながらに決定しているものではなく、その子が成人した時に自由な同意によって決断されるものです。

119
すべての人間は生来的に自由であり、自身の同意なしにいかなる地上の権力にも服することはありません。
同意には、明示的なものと黙示的なものがあり、問題となるのは、この後者の暗黙の同意をどのように把握し、どの程度の拘束力をもたせるのかです。
それは、期間を問わず、その土地(統治体の領土)を利用する者は、その国の法に従う義務を負う臣民として(黙示的に同意した者として)扱われるということです。

120
人々が統治に服する第一の目的は、所有権の確保と調整です。
その所有権を保証する統治体の、当の領土を所有し利用するためには、必然的に、その統治体の法の下に服さねばならず、これを引き離して考えることは根本的な矛盾を生じさせます。
自らの身体と所有物を、その統治体に服することなしに、その領土の部分を享有することは不可能です。

121
黙示的同意の効力は、統治体の領土に住み土地を享有している間だけであり、贈与や売却等によりその土地を手放せば、いつでも自由に離れることが可能です。
他国の一員になるなり、未開の土地を探し新しい共同体を築くなり、好きにすればよいのです。
しかし、明示的な同意によって、その統治体に服することを宣言したなら、国が解体するか公的に国籍を剥奪されない限り、終生、臣民であり続ける義務を負い、自然状態の自由へと回帰することは出来ません。

122
ある国で外国人が生活する際は、その国の法の下に服する義務と同時に保護を受ける権利をもちます(戦争状態にない限り)。
しかし、その扱いは滞在者としての仮のものであり、成員(臣民)としてのものではありません。

第九章、政治社会の目的について

123
なぜ自由で平等な主人である自然状態から、あえて人は統治の下に服するかというと、それが極めて不確実なものだからです。
いつ何時、同等の他者が、私の固有権(生命、自由、財産)を侵害するかも分からない、絶えざる戦争状態の危険への不安を回避するために、私と他者は社会的に結び付き、相互保全につとめるのです。

124
自然状態における自然法(=理性の法)は、個々人の理性によって把握されるものであるため、無知や偏見によってそれが当人に認知されないことがあります。
また、そこには正不正の公的基準や公認のルールが定められておらず、固有権を保全する条件が整っていません。

125
自然状態では個々人すべてが裁判官かつ執行者であるため、公平な権威を欠き、争いを客観的に裁定することができません。

126
自然状態においては、たとえ正当な裁定があったとしてもそれを支持し執行する強い権力が無いため、不正を為した侵害者は実力で抵抗し、自らの不正をかき消し、むしろ処罰する側に大きな被害が及ぶことがあります。

127
自然状態は特権を有すると同時に、以上の三つの条件(124~126)によって悪い状態を生み出してしまうため、それが人を社会の形成へと駆り立てることとなります。
人々が固有権の保全のために、己のもつ権力を委ねるという同意の中に、国家と社会、立法権力と執行権力の起源と根拠があるのです。

128
自然状態の特権の内の大きな二つの権力のうちの一つは、自然法が許す範囲で自己と他人の保全のために適切なことを為す権力、もう一つは自然法違反を処罰する権力です。
人がもし、堕落せず理性の法(自然法)に従い、生きられるのであれば、そもそもこれら二つの権力を放棄し政治的共同体(社会)など作る必要はないのです。

129-130
この二つの権力を放棄する(委ねる)代わりに、人は共同体から全力で保護されると同時に、共同によって生じるさまざまな便宜を享受します。
共同体の安全と繁栄のために必要な規制を受け容れることで、私自身も安全と繁栄が約束されるのです。

131
理性的な人間が、以前より劣悪な状況になるために交換などするはずがなく、社会が個人に与える利益が自然状態より下回ってはなりません。
いわば社会の権力は、公益を超えてはならず、国民の安全や繁栄のため以外のことに、その力を向けてはならないのです。
恒常的な法、公平な裁判官、それらに基づく公正な執行権力などによって、自然状態の三つの欠陥を補い、全ての成員の固有権を保障するものでなければなりません。

第十章、国家の諸形態について

132
多数派が法をもうける権力をもつのが「民主制」、少数の選ばれた人間やその継承者に法をもうける権力を委ねるのが「寡頭政」、ただ一人の人間に委ねるのが「君主制」、さらに君主の権力が継承される「世襲君主制」、代ごとに多数派によって選ばれ指名されるのが「選挙君主制」です。
共同体はこれらを組み合わせて、望ましい統治形態を作ることができます。
国家の形態は、最高の権力である立法権力が、どこに置かれるかによって決定します。
最高権力以外の権力が法を作ることや、下位が上位クラスの権力に対し規則を定めるなど、想像できないからです。

133
私が述べる「国家(コモンウェルス)」が意味するのは、単なる統治の形態ではなく、ジェイムズ一世が使用した意味のものであり、既存の「国家」の語義と差別化をはかるために この語をを踏襲します。
【ミニ解説】
common-wealth(共同-富、公益)の転義として、commonwealth(国家)の意として使われ、単なる状態をあらわすstate(国家)以上の共同体的な意味付けが与えられています。該当部分を一部引用します。

ジェームズ一世(1603~1625年在位)は1603年の議会の演説において、次のように述べている。
私は、適正な法律と勅令を定めるにあたって、常に公共および国家(commonwealth)全体の福祉を優先することにする。私個人の私的な目的は二の次にしたい。絶えず国家の富と福祉に配慮することこそ、私の最大の幸せであり、現世における無上の喜びである。(ロック著、角田安正訳『市民政府論』光文社、第18章200節より、括弧内は管理人による追加)

 

(4)へつづく