ロックの『市民政府論(統治論後編)』(2)

哲学/思想 社会/政治

(1)のつづき

第六章、父権について

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ここでいう「父権」は便宜的な名称で、実質的には母親を含む「親権」のことです。

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「全ての人間は生まれながらに平等である(二章四節参照)」と述べましたが、言い換えればそれは「人間は他人の意志や権威に従属ぜず、生来的(平等)にもつ己の自由の権利」のことです。
能力や功績や徳や出自や年齢などによって、人間の間に地位の上下が生ずるのは当然の事で、そういう事を指す平等ではありません。

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子供は生まれた瞬間に、即、この生来的な自由と平等の状態を与えられる訳ではなく、後に芽吹く種子のような可能性として与えられています。
しばらくの間は親の権利の内に従属します。
しかし、この拘束は、子供を保護する産着の機能を果たし、子が成長し理性的になるにつれ、徐々にその拘束を脱いでゆき、最終的に完全に平等の状態(自由)を獲得する成人となります。

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両親は人類の保全を命じる自然法(理性の法)に従い、無力で理性を持たぬ幼児が成長し自立するまで保護、養育、教育する義務を負っています。

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理性を未だ有していないもの(幼児)が、自然法(理性の法)の下に服することは出来ません。
幼児は、自然法の与える自由と平等の権利を未だ有さず、可能性、約束として有しているにすぎず、その時までは両親の権力化に服します。
「法」は束縛ではなく、理性的な行為主体の、自由、利益、幸福を増大させるためのものです。
以前述べたように、法なき所に自由はなく、自由とは、法の許す範囲内で、自分の意志の自由を尊重し、自分の行為、身体、所有物、権利を意のままに処理することです。
勝手気ままにやりたい放題することは自由ではなく、むしろそれは他者からの暴力と拘束を招来し、自由を奪うものです(第四章注を参照)。
【ミニ解説】
例えば、私がツーリングで自由にバイクをかっ飛ばせるのは、危険地域への進入禁止の策や道路標識や信号による規制によって守られているからです。もし、これらの規制が無ければ、私は先に崖や沼地があるかもわからないのでノロノロ運転するしかありませんし、信号という規制によって事故から守られてなければ、常に他車にビクビクしながら慎重に運転することになります。一見、法的な制限によって自由が束縛されているように感じますが、実際は反対に法が自由の条件なのであり、法を守るという義務によって自由であれる権利が保証されているのです。法とは人間の自由と利益と幸福を最大化するために設けられるものであり、束縛とは対極のものです。
【解説おわり】

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親が子に対して持つ権力は、未熟な子を保護、教育し完成と自立へと導く義務を根拠として生じるものです。
理性を獲得し理性が親にとって代わり、自らの分別によって意志的に行動する自由を獲得するまでは、子の意志に指示を与え子の行動を律してくれる保護者が必要なのです。

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理性的な分別は意志と行動の自由の条件であり、法を知り、法の範囲内で自由を行使する成熟した状態になるまでは導き手(他者)に従うというこの事実は、自然法であれ実定法であれ、人間の服する法すべてに言えることです。
例えば、イングランド法(実定法)の場合、成熟(意志と自由の獲得)の目安を21歳としており、もし、それまでの間に親が亡くなった場合は、代理者や法によって配慮されます。
成熟すれば、父と子は等しく自由になり、同じ法の下の民となり、父の子に対する権力(生命・自由・財産)は完全に消え、すべて子に移されます。

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もし、何らかの欠陥によって、法を理解し、意志(自由)の限界をわきまえた上で行動する理性の能力を獲得できなかった場合、他者の監督の下に置かれ続けることになります。
例えば、精神的な病を持つ者や極端に知的水準の低い者などは、彼に代わって彼の利益を求め、理性を代理してくれる、導き手が必要です。
それは、自然法が人間に課した、子が自立するまで保護するという義務としてであり、王と奴隷のような一方的な支配と管理を動機とするものではありません。

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人間は生まれつき理性を備えているがゆえに、生来的に自由なのであり、両親への服従とこの生来的自由が両立するのは、理性が成長によって開花する時間差をもつものだからです。
理性的な分別のつかない間は、父親の分別を元に自由なのであり、この服従と自由は同一の原理を基礎にしています。

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政治共同体(国家)もそれを配慮し、人が理性を獲得し主体的に行動する自由を持つまでの間(子供の間)は、統治に対する忠誠や恭順の誓いや、服従を要求することはありません。

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人間が理性によって法を理解し、己の意志の自由の範囲を限定づけた時、人間としての自由が生じます。
人間を、理性以前の無分別で無制限の自由へ放り込むことは、人を野獣として扱い、人でなしの惨めな状態のうちに見捨てるに等しいのです。
だからこそ、両親は子供を支配する権威と保護と教育の務めが与えられるのであり、親の権力は子供の幸福のためのものなのです。

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この子供に対しての両親の配慮が、誤った認識により、父の絶対的で恣意的な支配権に高められてしまうことがありますが、それはあくまで以下に述べるような限定的な権利にすぎません。

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父の子に対する権力は、養育と表裏一体のものであり、父は子への配慮を止めれば、同時に子への権力を失います。
権原(権利の根拠)は、単に子供を作るという行為だけで得られるものではありません。
子に対する父の支配権は一時的なものであり、また、子の生命や所有権までには及ばない限定的なものです。
この時期が過ぎ、子が理性と自由を手に入れれば、父は他人の自由に手を出せないのと同様に、子の自由に手をつけることは出来ません。
父の支配権は絶対的なものでも永続的なものでもないのです。

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子が自立すれば父と同様の自由を約束された、対等な、同じ法の下の臣民となります。
しかし、両親には子を養育し理性ある自由な主体とする義務があると同時に、子は自由(いわば幸福)と生命を与えてくれた両親を敬い両親の幸福と生命を大切にする義務があります。
勿論、それは親が成長した子に命令し服従させる権力ではなく、子が理性と生命を与えてくれた親への尊敬と感謝に基づき、主体的に助力することです。

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親には二種類の権利があります。
第一に、子が未成年の一時期の間、養育の義務に基づき監督する権利。
第二に、子が成人してから親が亡くなるまでの終生の間、親が子に与えた配慮、費用、愛情に応じた敬意を受ける権利。
この二つは、同じ親から子への権利に見え混同されやすいのですが、実質的には、前者は子の権利(親の義務)であり、後者は親の権利(子の義務)であり、まったく異なるものです。

68.69.70.71.72.73
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引用(後日添付します)

75.76
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第七章、政治社会について

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人間は本質的に社会(共同体)を形成せざるをえないよう神に創られ、その道具として知性と言語が与えられました。
最初の社会は夫と妻の関係として生じ、次いで両親と子供の間で社会が成立します。
それに主人と下僕の社会が加わります。

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婚姻関係は、互いの自発的な契約によって作られます。
生殖、相互扶助、利害関心の共有により結びつき、それは互いの思いやりと愛のために必要なものです。
そして、生まれた子には、養育される権利が生じます。

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夫婦の結びつきは、単なる生殖でなく、種の保存でもあるため、子が自立して生きられるようになるまでは、婚姻関係は持続されねばなりません。
生まれてすぐに自活する機能を獲得する動物や、雌の片親だけで十分養育される動物と違い、自活まで時間と手間のかかる動物の場合、両親が共同で子を養育するよう、自然的に創造されています。

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特に人間は、次回の生殖時期がくるまでには子が自活し、その度に新たなつがいを形成する動物とは事情が異なります。
人間は常に生殖可能で、子が全く自活できない状態で次の子を産むことができるので、必然的に他の被造物(動物)より長い期間パートナーとして結びつき、協働で養育にあたる必要が生じるのです。
夫婦の結びつきが不確実であったり、簡単に婚姻関係を解消できるような社会では、種の保存、人類の繁栄という面での目的は、著しく損なわれることになります。

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他の動物より長い関係であるとしても、婚姻関係の目的と本質からして、それは生涯永続しなければならない契約関係という訳ではないでしょう。
生殖と教育を全うし相続の配慮を終えれば、この自発的な契約(婚姻)は、自発的な同意、あるいは期限や条件の設定などによって、解消することが可能であるべきです。

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夫婦は共通の関心事をもっていますが、同時に共通しない別々の意志を持った自由な主体でもあり、考えが対立することがあります。
その場合の支配権は、より賢くより力の強い男性が持つ方が自然です。
勿論、これは共通の関心事と共通の財産についてだけであり、妻固有の権利にはおよばず、妻は契約に基づく離婚の自由を有します。
親権に関しても契約の定めによります。

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所有物の共有と管理、相互協力、生殖、養育等、結婚の目的の達成において必要なものは、男女の自由な契約とその調整によって十分得られるのであり、それ以外の特殊な権力(生殺与奪の権利を持つ絶対的父権)などは無用なのです。
統治者は夫婦のどちらかの権利に制限を加えたり、どちらかに特別な権力を与えたりするのではなく、ただ両者の契約間において争いが生じた時に裁定を下すのみです。

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ここまでは夫と妻の関係を述べ、前章で両親と子の関係を述べ、次節から主人と下僕の関係を述べます。

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下僕には二種のものがあります。
一つは、自由な主体が契約によって、賃金と交換に一定期間その家族に権力を与え、召使いになるもの。
もう一つは、戦争捕虜として自然権に基づき、主人の絶対的権力に服する奴隷であり、生命、自由、所有の権利を失った者です。
政治社会の主要目的は所有権(固有権)の保全にあるため、それをもたない奴隷は、社会の構成員とはみなされません。

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家庭内の共同体は、主人-妻-子-召使い-奴隷、という従属関係になります。
家長制の構成は君主制に類似している部分があるため、家長は家庭内の構成員に対し君主の様に振る舞う権利があるように思われることがあります。
しかし、家長の権利は君主と異なり、特異な形で与えられたものであり、非常に限定的な期間、範囲、内容の権力でしかなく、それは妻と変わらない程度のものです。

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人間は生来的に自然権によって与えられた固有権、即ち生命自由財産の保全の権利、及びそれを侵害する他人を裁き罰する権利を持っています。
しかし、社会共同体の規模が大きくなり関係が複雑になってくると、構成員全ての固有権(所有権)を保全し、被害者の助けの訴えを聞き、犯罪者を裁き罰し、構成員の争いを解決する、中立的(超越的)立場の権力が必要となります。
各人は自然法を自ら執行する生来的権力を共同体にゆだね、私的な裁きに代わり、その共同体が共同体の法に基づき裁く、政治的な権力の誕生です。
裁判所のように、各人共通の提訴先を持たない人間は、単純な自然状態から抜け出せず、各人が自らが裁判官と執行官であらねばならないのです。

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政治共同体(国家)は、共同体の固有権(所有権)の保全のため、何を不当行為としいかなる刑罰を与えるべきかを決定する権力(立法権)と、部外者からの侵害を罰する(戦争及び講和の)権力をもちます。
これにより、成員各人は侵害を私的に判断し罰を実行する権力を放棄し、政治共同体にそれを託す訳ですが、それはただ後に必要に応じて審判の執行を仰ぐためです。
その審判は成員各人の代理としてなされるものであり、各人による審判と同義のものです。
これが政治共同体の立法権と執行権の成り立ちと根拠です。
罰の実行において、必要であれば構成員全ての力を用います。

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人々は、自然状態にある各人の力(自然法を執行する権力)をひとつに委ね、その一になった権力(政府)の統治の下に国民として参入し、争いの解決や侵害の救済を仰ぎ、必要であれば執行に際して助力する義務をもちます。
天上ではなく、地上の審判者を樹立することにより、政治社会が誕生するのです。

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絶対君主政は、一部の人から唯一の統治形態であると考えられていますが、それは政治的な統治と言えるものではありません。
政治社会は、自然状態において生ずる諸問題を回避、解決するために必要なものですが、絶対君主制は、人々を自然状態のまま、あるいはもっと悪い状態におくものだからです。

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一人の人間(君主)が立法権力も執行権力も独占すれば、中立、公平に立つ地上の審判者が居なくなります。
恒常的な決まり(法)や共通の審判者を持たない場合、人は依然として自然状態にあることになり、争いが常態化します。
絶対君主制は、単に審判者が居ないという問題ではありません。
臣民は、自然状態において持っていた権利を剥奪された、事実上の君主の奴隷であり、平和だけでなく争うことすら許されないのです。
己の固有権(所有権)が、君主の意向によっていかに侵害されようとも、防衛することも、訴え出ることもできず、ただ無制限の自然状態を得た君主の一方的権力に晒されるだけです。

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絶対的な権力は人間の傲慢さと有害さを増長し、学問や宗教によって自己を正当化し、歯向かうものは剣で黙らせます。

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絶対君主制において生じる法は、人類の繁栄や社会の平和や幸福を実現するためのものではなく、己の権力や利益を維持するための家畜が互いに傷付け合うのを防ぐためのものでしかありません。
臣民の間では通じる法は君主には通じず、超越的で、いかなる暴挙も正当なものとされ、それに疑問を投げかける者は反逆者として始末されます。
君主一人を除く全員を法律の拘束下に置き、己のみ自然状態の自由を保持するのが、絶対君主制における法の構造です。

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人間の歴史の中で、特定の支配者に統治を任せ権力を集中することに問題がある(必ず後に劣化する)ことが、経験的に明らかになり、その解決として、人間の集合体としての立法部が設置されることになります。
成員自らが集団的に設けた法に成員自らが服し、例外なく万人が平等に法の下に集い、法の適用をまぬかれる特権者が居なくなった時、政治的社会が実現し、人々は自然状態から市民社会へ移行するのです。

 

(3)へつづく