<第三巻>責任
第一章、自発と非自発
行為には自発的(本意)なものと非自発的(不本意)なものがあり、これは行為者を評価する際や裁く際に重要な問題になります。
一般的には、「強制」や「無知」によってなされる行為は非自発的なものとされています。
非自発「強制」
強制の場合、行為の始点が行為者自身ではなく外部にあります。
例えば、それは支配者に連行されるような場合であり、原因が完全に外部にあり、行為者自身は意思決定に関与しない時です。
しかし、多くの場合、そう単純ではありません。
例えば、家族を人質にとられて、他人を殺すことを命じられる時、いかに家族を殺されたくないからといっても、自ら天秤にかけて他人を殺した場合、そこに行為者の意志と自発性が関与しており、単純な強制による行為とは言えません。
自発と非自発が混合したケースですが、どちらかというと自発的な行為と言えます。
なぜなら、その状況(現に行為が行われる時点)において、目的となるもの(選択すべき望ましいもの)として、その行為が行為者自身に選択されており、行為者の内に始点があり、それを為すかどうかは行為者の決断にかかっているからです。
自発と非自発の比重は、行為が現に行われる時点、その状況、場面に関係付けて考えねばならないものです。
例えば、船の積み荷を自発的に捨てる人はいませんが、難破を避けるためという状況、場面、時点を考えた場合、本人の意志によって積み荷より命を選んで、自ら自発的に捨てることもあります。
自発的に他人を殺すことなど決してない人でも、他人の命より人質の家族の命を選んだその選択そのものは、紛れもなく私の意志によって為されているのです。
この状況の把握は、評価や懲罰の問題に深くかかわってきます。
・より美しいもののために、醜いものを選ぶ場合、行為者には賞賛が与えられます(例、船員たち-命-を救うために、積み荷-商品-を捨てる)。
・どうでもいいようなもののために、醜いものを選ぶ場合、行為者は劣悪な人とされます(例、難破の恐れの無いような嵐に怯えて、積み荷を捨ててしまう)。
・誰もが耐えられないようなもののために、醜いものを選ぶ場合、行為者には同情や赦しが与えられます(例、人質の家族の命を守るために、命じられた悪いことをする)。
何を代償とし何を選択するかということの判断が難しいことがありますが、もっと難しいのは、下した決断に留まることです。
例えば、村の皆で一生懸命作った商品である積み荷を捨てることは耐えがたい苦痛です。
それによって村は困窮し、皆、路頭に迷うかもしれません。
その苦しみと葛藤の中で、船員の命を守るという決断に従い留まるからこそ、その行為者に賞賛が生じるのです。
例えば、家族の命を大切にするような善き人にとっては、いかに自らの決断であると言っても悪事に手を染めることは苦しく耐えがたいものであり、そこに留まるのは困難です。
だからこそ、そこに同情や赦しが生ずるのです。
非自発「無知」
無知によって非自発的(不本意)に為される行為は、必ず苦痛や後悔を生じさせます(例、引き出しに大金が入っていると知らずタンスを処分した)。
後の苦痛や後悔を生じさせないものは、非自発的(不本意)なものではなく、単なる意図なき行為です(例、引き出しにゴミ屑が入っていると知らずタンスを処分した場合は、そもそもどうでもいいことで本意や不本意が生じえない)。
無知によって為される非自発的(不本意)な行為は、強制とは違って行為時点ではそれが認知されておらず、後の認知(知識、有知)によってその無知が判明し、後悔と苦痛が生じるものです。
行為の後の知識によって無知が発覚し、この有知の現在の時点と、無知の過去の時点との意図の比較において、非自発的(不本意)であったことが、事後的に理解される(発覚する)のです。
ずっと無知のままであれば、後悔も不本意も生成しません。
また、無知が精神状態として生じる場合(酩酊、錯乱、激昂状態など)、その行為は自発(本意)か非自発(不本意)かを問い難いケースであり、無知ゆえの行為ではなく、単なる状態としてのものです。
そもそも行為時点における有知・無知の問いようがないのです(例、泥酔して自らタンスを処分したことすら知らない)。
そういう行為は、「無知によって為された」というより、「状態(酩酊、錯乱、激昂)のせいで為された」と、普通考えられます。
勿論、その状態へ至ったことに関する自発性、責任は問われますが(後述)。
また、ここで言う無知とは、行為を構成する個別の状況、「個別的な事柄に関する無知」です。
例えば、先にも述べましたが(二巻三章)、悪とは善悪の判断の誤りから生じるものですが、そういう無知を指しているのではありません。
個別的な事柄とは、「誰が」「何を」「何に関して、何において」「何を用いて」「何のために」「どのように」といったことです。
特に自発的(本意)、非自発的(不本意)を分ける上で重要になってくるのは、「何に関して、何において」「何のために」に対する無知です。
要は、行為が為される状況「何に関して、何において」と、行為がもたらす結果「何のために」が、特に重要な問題となるということです。
自発
以上の様に、強制と無知が非自発的(不本意)なものであるのなら、自発的なものとは、行為の始点が行為者自身の内にあり、かつ、行為を構成する個別的な事柄に関する知識を持っている場合であると言えます。
第二章、選択
アレテーにおいて重要な「選択」というものは自発的なものですが、単に前章の自発の定義(行為の始点、知識の有無)だけで済むものではありません。
「選択」は決定に先立って、ロゴス(理、分別)によって思案されたものであり、子供の様に思案の伴わない半ば動物的な自発を指しているのではありません。
また、思案といっても、それは目的に関する考え(願望)ではなく、目的を達するための手段に関わる思案です。
例えば、「健康であることを望む」とは言いますが、「健康であることを選択する」とは、普通言いません。
人は「健康であることを望み」、その目的(願望)のために手段として「健康的な生活を選択する」のです。
医者は患者を健康にするかどうか(目的)など選択せず、健康にするための手段を思案し選択するだけです。
「選択」は常に現実的な可能性に基づく(自分の力の範囲内の)ものですが、「願望」は不可能な事柄にも関わるものです(例、不死を願う)。
不可能なものを選択しようとする人(例、空を泳ごうとする人)は、ただのバカと思われるだけです。
第三章、思案
思案(選択における)というものは、私たちの力の及ぶ範囲内にあって、現実に為しうる物事についてのものです。
決して変わらぬ永遠のことや当然すぎること、考えても意味のない偶然事や無関係なことについて、人は思案しません。
思案は、私の選択およびその行為によって、変化する可能性のある(私次第の)物事に関してのものです。
思案とは、目的に達するための手段において、何を選択すれば、最も上手く達成できるかを考え探究することです。
思案によって、最初に述べた(一巻一章)ような、最終目的に至るための目的と手段のつながりと順序を、始めから終わりまで正確に把握し、そのロードマップに従い行為選択していくことです。
幾何学者が解析(分析)、証明するような過程で、思案され選択の組み立てが為されるのです。
この思案(分析)の中で、可能であることが判明(証明)できれば計画に着手し、不可能ごとに出会えば(証明できずば)計画を止めます。
たとえ友人の助力や確率の問題のような外的な力が必要な時であっても、それに働きかける始点はやはり私なのであり、私の力の及ぶ範囲内(私次第)のものに属すると言えます。
以上のように、「選択」の定義は、「私の力の範囲内(私次第)のものごとへの、思案に基づく欲求(目的となる願望への希求)」となります。
思案によって、行動のつながりを分析し、行為の始源となる自分自身の内の指導的な部分(選択を決定する中枢のようなもの)が明確になった時、人はいかに行為すべきかの探究を止め、行動にうつります。
[例えば、精神分析や心理学の手続きは、多くの場合、患者本人が自覚していないこの指導的な部分を、患者に代わって、その人の行為(症状)から分析する(本心を暴く)作業です。それによって行為を患者自身の主体(指導的部分)に統合することの可能性が生じます。]
第四章、願望
手段に関わるものが思案であり、目的に関わるものが願望です。
無条件に真実として考えれば、願望においては、人間誰しも「善」を求めているはずなのですが、具体的な個々の人間を考えた場合は、その人にとって「善に見えるもの」を求めてしまっています。
優れた人は物事を正しく判定するため、それぞれの場面で真実を見てとり、「善」と「善に見えるもの」が合致していますが、そうでない人の場合は、快楽などによる錯誤によって、善を見誤り、善くないものを善と見なし求めてしまうのです。
第五章、悪徳の自発性
以上のように、願望(目的)、思案と選択(手段)、自発(行為)は、一揃いのもの(目的のために手段を思案し、その選択に従う自発的な行為を為す)であり、アレテーの活動の基本となるものです。
巷の議論では、「自ら自発的に悪くなる者はいない」などとよく言われますが、これは誤りです。
悪は自発的(本意)に生み出されるものであり、劣悪な人に成るかどうかは、その人次第なのです。
[前章と真逆のことを言っているように見えますが、第一に、ここでは願望と思案の違いを念頭に述べられています。悪を望む者などいませんが、悪行を為す選択は自発的なものです。例えば、私が強盗をする場合、他人の金を盗んで美味いものを食べることが自分にとって善いことだと見なし、極めて自発的にそのための手段を思案し行動を起こしています。そして、第二は、後述する習慣付けとしての自発性の問題です。]
また、無知や強制のように非自発的で責任の無いものであったとしても、その状況がその人の可能性内の(その人次第でどうにかなった)ものである場合は、責任が問われます。
例えば、いかに無知の泥酔状態で暴力を振るったとしても、泥酔状態に至った責任そのものはその人自身にあるからです。
放埓な人に成るも、不正な人に成るも、悪事をなす人に成るも、過去における自らの習慣付けにより形成された性質であり、はじめはそう(劣悪)でありえなかった可能性も有していたわけです。
だから、今そう成ったのは、あくまで自発的な選択によるものなのです。
病気(身体の悪徳)においても、本人の責任を問えない生まれ持った病気や不慮の事故によるものならば、非難できず同情すべきものですが、本人の放埓や不摂生や不注意によって生ずるものである場合は、咎められるものになります(例、毎日タバコを二箱吸って肺を病む)。
身体の悪徳(不健康)も、その人の力の範囲内にある(その人次第の)ものであれば、責任が生じてくるのです。
しかし、そもそも願望(目的)の判定において、悪を「善に見えるもの」としてしまうような性質を持った(理性の視力の弱い)人間であれば、どうなるのかという問題(目的についての無知の問題)が残ります。
まず、善悪の表象の誤認は、過去にその人が習慣付けによって獲得した性質が生じさせる、現在の認知の偏り、偏向であり、少なからずその見えの原因が本人自身にあるということです(要は、今、視力が悪いのは、過去において悪くなる行動を選択したという責任)。
悪いことを為し続け、悪い習慣を付け、悪い性質を持った人柄になれば、いま目の前にある悪いものも善いものに見えてきてしまうという認知の歪みです。
さらに言えば、習慣付けによって獲得した性質ではなく、自然本性(先天)的に善と悪を誤認する傾向の強い(先天的に理性の視力の弱い)人間がいれば、どうなるのかということになります。
しかし、いかに目的が自然本性的に傾向づけられていたとしても、相変わらず、思案、選択、行為においては自発的であり続けるのであり、その目的の誤認(元来の視力の悪さ)を思案や行為の次元で修正しうる(補いうる)可能性はあるはずです。
[100%善悪を誤認し悪を為すよう生まれついた人間など現実的に存在しませんし、もし、いたとしても多分人間の定義から外れてモノの定義に属してしまうでしょう。修正しうるというのは、要は習慣付け、学習によるものです。二巻一章でも述べましたが、人間は習慣の産物であり、先天的なもの(自然本性的なもの)は習慣付けによって方向付けられるものです。もし、生得的に与えられた自然本性的なものから一切の可塑性を認められないものであれば、それは石コロのような物体の本質と同類のものであり、人間ではありません。]
以上をまとめると、このようになります。
1.アレテー(器量、卓越性、徳)の本質は中庸である。
2.アレテーは、行為から生じるヘクシス(状態、性向、獲得された性質)である。
3.アレテーは、行為を、アレテーそのものに基づき為す。
4.アレテーは、私の力の範囲内にある(私次第の)、自発的なもの。
5.アレテーは、正しいロゴス(理、分別)の規定に従う行為によるものである。
※ここまでが本書における一般理論です。以降、個別(特殊)的な事柄に関しての中庸の具体例が語られていきます。当サイトでは、特に大きく取り上げられる「正義」のみ扱います。また、本書後半で展開される有名な「友愛論」については、機会をあらためで単独で扱います。