アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(2)中庸論

哲学/思想 宗教/倫理

(1)のつづき

<第二巻>中庸

第一章、人間は習慣の産物である

以上のように、人間のアレテー(器量、卓越性、徳)には二種類あります。
ひとつは、思考の働きとしての知性的アレテーであり、これを成長させるのは主に教育、学びであり、時間と経験を必要とします。
もうひとつは、その人に具わる人柄(エートス)によるアレテーであり、これを生じさせるのは語形の近い習慣(エトス)です。
[例えば、前者の思考によるアレテーは、「社会人は行儀よく振舞うのがマナーである」という思考、教えに従って外発的に行儀よく振舞う人。後者の人柄によるアレテーは、行儀の良さが習慣として身に付いており、内発的本質的に自ずから行儀よい“行儀のよい人”。ここで言う人柄とは、その人の本質、本性のことです。]

動植物や物体と違い、人間のいかなる人柄としてのアレテーは、自然本性的、生得的に持っているのではありません。
例えば、石は、自然本性的に下方へ運動するという性質を持っていますが、この石を何万回上方へ投げて、上方へ運動するよう習慣づけようとしても、何も変わりません。
自然本性的に具わるものは、決して変えることができないからです。
人間は自然に与えられた素質としての本性に従うものでも反するものでもなく、持って生まれたその本性を習慣によって方向付け、現にいま在る本性を完成させるのです。
[もし、人間の人柄が習慣付けでなく、全て生得的に決定するものであるとするなら、私の友人の一卵性双生児の兄弟の兄の方が穏やかで優しい秀才のエリート、弟が喧嘩最強のアウトサイダーになった現実を説明できません。]

人間(人柄)のアレテー(器量、卓越性、徳)は、生物的なアレテーの様に最初から獲得していたもの(例、視覚機能)を後で働かせる(例、見る)ものではなく、反対に、現実的な或る働きの後、その或るものを獲得するのです。
人は家を実際に建てることによって建築家となり、実際にピアノを弾くことによってピアニストになり、現実に正しい行いをすることによって正しい人になり、現実に勇気ある行動をすることによって勇気ある人になります。
[これは、現実の行為の連続(習慣、練磨)によって、その行為に方向付けられた人柄に成るということです。]

諸々のアレテー(器量、徳)は、同じ種類の行為によって、得られもすれば(善くもなれば)失いもします(悪くもなる)。
ピアニストは、同じくピアノを弾くという同種の行為から、善いピアニストと悪いピアニストが生じるように、その行為の為し方のいかん(習慣付け、練習の為し方)によって、諸々のアレテーは反対のものへと変化します。

例えば、恐ろしい状況に対応する行為において、怯えるよう習慣付けられるか平静でいるよう習慣付けられるかによって、人は臆病な人に成るか勇気ある人に成るかが分かれます。
正しい人と不正な人、節度ある人と放埓な人など、対になる諸々の性向や状態(ヘクシス)は、類似する活動(エネルゲイア)によって生じるのものです。
活動のあり方に応じ、状態、性向のあり方も変化するのであれば、若い頃からいかなる仕方で習慣付けられるかということが、人間のすべてであると言っても過言ではありません。

第二章、アレテーは中庸によって生じる

人間の行為は、正しいロゴス(理、分別)に従うべきものであることを述べましたが、このような行為は、欠乏と過剰によって失われます。
運動の欠乏も過度な運動も健康を損ね、栄養の欠乏も過度な栄養の摂取も健康を損ね、これらは欠乏でも過剰でもない適度である時に健康を生じさせます。

人間の諸々のアレテー(器量、卓越性、徳)においても同様です。
勇気の場合、欠乏であれば臆病となり、過剰であれば無謀となり、その中間の適度において「勇気」となります。
節制の場合、快楽が欠乏していれば無感覚となり、快楽が過剰であれば放埓となり、その中間の適度において「節制」となります。

アレテーは、同じ行為の過剰と欠乏によって失い損なわれ、中庸によって生じ育ちます。
それと同時に、この成長や喪失は、同じ行為の中でさらに促進されます。
例えば、勇気の場合、恐ろしいことに耐えるよう習慣付けることによって勇気ある人に成りますが、勇気ある人に成ることによって恐ろしいことが恐ろしくなくなり、より一層耐えやすくなります。
反対に、臆病はより一層恐ろしいものを恐ろしくし、恐れへの耐性をさらに弱めることになります。
[例えば、ダイエットがしんどいのは最初だけであり、軌道に乗れば乗るほど、むしろその節制した生活が非常に楽で過ごしやすいものになります。]

第三章、アレテーは快苦への対処の仕方によるもの

人間の行為選択において、選ばれるものは、快いもの、有益なもの、美しいもの、の三つのものであり、避けられるものはこの反対である、苦しいもの、有害なもの、醜いもの、の三つです。
善い人とは、正しく物事を判別しこの選択を適切になせる人であり、悪い人とはこの選択において誤りをおかしてしまう人です。
この三要素のうち、特に快苦という要素はあらゆる物事に付随するため、選択において誤りと混乱を誘発する原因となります(例えば、美しいものも有益なものも少なからず快さを生じさせます)。
快苦はあらゆる動物に共通の根源的なものであり、美醜や利害と違い、幼少の頃から生活に染みわたっているものです。
実際、われわれは一般的に快苦を基準にして行動をはかっています。

それゆえ、一部の学派は、快苦の情が悪の原因になると見なし、徳(アレテー)とは、快苦に関わらない様、ある種の無感情、不動の状態になることであると述べるわけですが、これは一面しか見ていない偏った定義です(失恋の苦しみを恐れ、恋愛自体を止めるようなもの)。
教育とは、喜ぶべきものを喜び、苦しむべきものを苦しむようにすることだとプラトンが述べたように、有徳(アレテーを有する)とは、快苦に関わりながら最善の選択をなす性向(状態)のことであり、悪徳とは最悪の選択をなしてしまう性向のことです。
快苦への対処の仕方が、善い人と悪い人を分けるすべてだと言っても過言ではなく、アレテーの発揮も喪失もここにかかっています。

例えば、結果的に有害となる様な肉体的快楽を慎むことそのことに喜びを感じ選択する人は節制ある人であり、慎むことに苦痛を感じ逃げる人は放埓な人です。
苦ではあっても避けてはならない恐ろしさに耐えることを選択し苦を凌駕する人は勇気ある人であり、苦痛に呑まれむしろ自らを駄目にしてしまうような逃避を謀る人は臆病な人です。
何に快を感じ苦を感じ、何を選択し何を避けるかというそのあり様は、その人の性向やアレテーと対応しているのです。
[要は、悪い人とは目先の快苦に囚われ、全体として自らを損ねてしまう人です。悪とは判断の誤りから生じ、それを理性によって正しい方向へ馴致することが善であるというプラトン的な発想を引き継いでいます。]

第四章、アレテーに基づく行為の三条件

先にも述べたように(二巻一章の習慣付け)、正しい人に成るのは正しい行為によってのみであり、節制ある人に成るのは節制ある行為のみによってです。
これは当然、「正しいことをした人が正しい」という即物的なことを言っているのではありません。
例えば、読み書きのできない子供が大人の模倣をして文を書いても、読み書きできる人とは言えません。
自らの内にある知識と技術によって文を書いた時、はじめてその人は「読み書きできる人」に成ります。

しかし、それだけでなく、アレテー(徳、器量、卓越性)に基づく行為は、単に技術のように知識と行為さえあればいいというものでもありません。
その行為のあり方、為し方が問われるのです。
アレテーに基づく行為が成立する必要条件は、以下の三つになります。
1.「自分の為すことを知っている」→これは技術とも共通のものです。
2.「その行為そのもののために選択する」→技術は常に何らかの別の目的のための手段であり、動機が外にありますが、アレテーに基づく行為は、動機が行為そのものに内在しています。
3.「ゆるぎない安定した状態で為す」→ヘクシス(状態、性格、性向、性質)に成るまで習慣化された行為によって為されるということです。

[要は、行為を繰り返すことによって、その生き方が身に付いている状態で自然と、自ずから為される行為であるということです。「行為が習慣を作り、習慣が人格を作り、人格が人生を作る」と言われるように。
例えば、「社会的弱者は助ける必要がある」という政治学的な知識に依って為される人助けは「技術」に属するものですが、子供の頃からの習慣付けや教育によって、自然と為される人助けは「アレテー(徳、器量)」に属するものです。]

第五章、

――

第六章、アレテーの本質と中庸の内実

では、先に述べた(二巻二章)アレテーの本性である「中庸、中間」とは一体どういうものでしょうか。
なず、「中間」というものには、二種のものがあります。

ひとつは「事物における中間」。
これは事物そのものに即した普遍的な(皆に共通の)ものであり、両極端から等しい距離にある数学的な意味での中間点を指しています。
例えば、1000グラムの肉では多く、200グラムでは少ない場合、数学的比例としてその中間は600グラムになります。

もうひとつは「私たちとの関係における中間」。
これは、過剰でもなく不足でもない最適な状態にあることの意味での中間です。
これは万人共通の同一のものではなく、ある現実的な人間がある特定の事柄に関わる(対する)ことによって生じる主観にとってのものであり、中間点は同一ではありません。
例えば、1000グラムの肉では多く、200グラムでは少ない場合、レスラーであれば数学的中間点の600グラムでは足らず、一般人であれば600グラムでは多すぎるように、その人に関係して中庸となる最適点は変わってきます(レスラー800g、一般人400gなど)。

全ての知識はこの中間(最適)点を目指し、行為を導きます。
すぐれた完成品(結果)とは、もう付け加えたり取り除いたりすることのない状態、いわば不足なく過剰ない最適な状態に成っているもののことです。
アレテー(器量、卓越性、徳)が目指すものも、この状態です。
人間は、しかるべき時に、しかるべきことに、しかるべき人々に対し、しかるべき目的のために、しかるべき仕方で、要はしかるべき最適なあり様(中間)で、情念を感じ、行為をなすことです。

人間のアレテーは情念と行為に関わるものであり、この過剰と不足は、誤まったものへ導きます。
弓道の的の中心の様に、目的となる中間点は一点であり、その他は無限に広がっています。
的を外すこと(誤り、悪徳)は簡単であっても、的を得ること(正しさ、有徳)は困難が伴い、鍛錬が必要です。
アレテーの本質とはこの「中間(中庸)」であり、この的、中間点、最適点を規定するもの、導き出すものこそが、人間のロゴス(理-ことわり-、分別)の力です。

だから、人間のあらゆる情念や行為を示す概念に、すべて中間があるわけではありません。
例えば先に挙げた(二巻二章)勇気の問題、「無謀(過剰)-勇気(中間、最適)-臆病(不足)」の場合、その本質がそもそも過剰と不足である「無謀」と「臆病」に中間はありえませんし、その本質がそもそも中間である「勇気」には過剰も不足もありえません(過剰は無謀に、不足は臆病に、概念として変化してしまうだけ)。
要は、定義として、過剰や不足の概念に中間などありえず、中間の概念に過剰や不足が入り込む余地はありません。
このことをきちんと認識しておかないと、論理的な矛盾、無限後退が起こってしまいます(過剰の過剰、中庸の過剰、不足の中庸、等々)。

第七章、中庸の具体例

以上で一般則は述べたので、個別的な具体例のいくつかを以下に挙げます。

勇気(中庸)、無謀(過剰)、臆病(不足)
節制(中庸)、放埓(過剰)、無感覚(不足)
気前良さ(中庸)、浪費(過剰)、ケチ(不足)
高邁(中庸)、虚栄(過剰)、卑下(不足)
温和(中庸)、怒りっぽい(過剰)、腑抜け(不足)
正直(中庸)、ハッタリ(過剰)、トボケ-知らぬふり-(不足)
機知(中庸)、悪ふざけ(過剰)、野暮(不足)
友愛(中庸)、へつらい(過剰)、愛想なし(不足)
慎み(中庸)、恥知らず(過剰)、引っ込み思案(不足)

第八章、中庸、過剰、不足の関係性

以上の様に三種の性状のうち、中庸はアレテー(徳、有徳)であり、過剰と不足は悪徳となります。

しかし、中間に居る人の視点では、過剰は大きいもの、不足は小さいものとして見えますが、過剰の視点に居る人には、中間も不足も共に小さいものに見え、不足の視点に居る人には、中間も過剰も共に大きいものに見えてしまいます。
臆病者には勇気ある人と無謀な人の違いが分からず、無謀な人には勇気ある人も臆病者に見えてしまうのです。

また、事物そのものに内在する偏向(例、勇気はどちらかというと臆病より無謀に近しいものに見える)もあれば、人間の認知の偏向(例、人間は快楽に向きやすい傾向があるので、節制は放埓より無感覚に近しいものに見える)もあります。

第九章、中庸を射る方法

「的の中心を射ること」は難しいことですが、「的の中心以外を射ること」は誰にでもできます。
的を射るとは、しかるべき時に、しかるべき程度に、しかるべきことに、しかるべき人々に対し、しかるべき目的のために、しかるべき仕方で、怒ったり、金を使ったりすることです。
それは、情や行為をしかるべき最適なありかに位置付け、善く怒り、善く金を使い、すなわち、「善く生きる」ということです。

この中間の判断においては、1.事物そのものの特性としてどちらの極がより誤りやすいものか、2.自分個人の傾向としてどちらの極に傾きやすいか、そして、3.人間の傾向としての傾きやすさ(特に快楽)、の三点をしっかり考慮することによって、より的に近付けることができます。

さらに言えば、4.その場面状況における傾向、も存在し、ある場面ではやや無謀(過剰)なものを勇気(中庸)と捉えられたり、ある場面ではやや腑抜けた(不足)ものを温和(中庸)と捉えられたりします。
すなわち中庸は、場面に応じて過剰や不足の方にやや傾けねばならない揺れ幅をもっているということです。

 

(3)責任論へつづく