アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(4)正義論

哲学/思想 宗教/倫理

(3)のつづき

<第五巻>正義

第一章、正義一般

正義とは、どのような中庸(中間)であるかを考察します。

アレテー(器量、卓越性、徳)としての「正義」とは、正しい行為をし、正しいことを望むヘクシス(状態、性向)のことであり、「不正」とは、不正を望み不正な行為をなす状態のことです。

相反するものの場合、「ある状態」は、その反対の状態を知ることによって、明らかにできます。
例えば、善い状態が分かれば、悪い状態が明らかになります。
引き締まった身体が善い状態であるとするなら、その反対として、必然的に締まりのないたるんだ身体が悪い状態となります。
また、「或る状態」から「或る状態に在る事物」を知ることができ、「或る状態に在る事物」から「或る状態」を知ることができます。
例えば、或る状態を「健康」とすれば、或る状態に在る事物とは、「健康な食べ物」「健康な運動」「健康な睡眠」などです。

以上を踏まえ、正義と不正を考えてみます。
一般的に不正な人と呼ばれるのは、「法を破る人」と「不公正な人(他人より多く奪おうとする者の意)」です。
だから、正しい人とはその反対の、「法を守る人」「公正な人」となります。
或るヘクシス(状態、性向)から、或る状態に在る物事が分かるので、正しい事とは「合法的なこと」「公正なこと」であり、不正な事とは「違法なこと」「不公正なこと」となります。

正義とは、終極的な完成したアレテー(器量、卓越性、徳)です。
それは自分自身に関する事柄だけでなく、他人に関する事柄においても発揮されるアレテーであり、個から共同体へとさらに進んだものだからです。
アレテーを個人として備えてはいても、他人との関係においてもそれを発揮できる人はなかなかいません。
自分に対しても他人に対してもアレテー(徳)を用いることのできる人は最善の人であり、自分に対しても他人に対しても悪徳を用いる人は最悪の人です。
正義とはアレテーの全体であり、不正は悪徳の全体です。

アレテーと正義は基本的に同じものですが、それが他者を含んだ関係性(全体)としてある時は「正義」であり、ある特定の状態(個的な)としてある場合は「アレテー」となります。

第二章、正義部分

正義について一般(全体)的なことは述べたので、ここからは現実に即した個別(部分)的な正義について述べます。
主に「配分的正しさ」「是正的正しさ」「応報的正しさ」に対応する三つの部分的な正義についてです。
順に、公正的正義、法的正義、経済的正義を扱うものです。
「配分的正しさ」は共同体とその構成員の関係の調和をはかるもので、重視されるのは比例関係であるのに対し、「是正的正しさ」は個人と個人の関係を正しく規制するためのもので、重視されるのは等しさです。

第三章、配分的正義

不正な人とは「公正でない人」、不正な事とは「公正でない事」です。
不公正なものとは、少なすぎたり(不足)多すぎたり(過剰)する配分的にアンバランス(不平等)の状態であり、公正な事とはこの中間にあるバランスの取れた(平等)状態です。

配分を考える時、少なくとも当事者が二人いて、配分されるものが二つあることになります。
しかし、以前(二巻六章、食肉の配分例)にも述べたように、中間というものは「その人との関係における中間」であり、ちょうどよい最適な点は、配分されるそれぞれの人々によって異なるということです。
これは量的な問題(例、胃袋の大きさによって配分される適切な肉の量は異なる)だけでなく、質的な価値の問題(例、その人が菜食民か肉食民か)も関わってきます。

「配分される人」と「配分されるもの」という二つの異なる次元のものが関わる以上、この公正性は、最低四つの項(人×2、もの×2)の比例関係によって量るしかありません。
【解説】
例えば、栄養が過剰でも不足でもない善い状態、Aさんが健康を維持するために必要な食事の量を一日1000g、Bさんのそれを500gとしたとします。
また、Aさんに配分される食物をC、Bさんに配分される食物をDとします。
この時、眼前の30kgの米を配分する場合、ABCDの四つの項が比例関係として釣り合う必要があり(A:B=C:DかつA:C=B:D)、結論としてはAさん米20kg、Bさん米10kgがバランスの取れた配分となります。
分かりやすくするために栄養の量のみで述べましたが、CとDはその人にとっての「価値の大きさ」の比例関係のことです。
現実的に米の価値は単に栄養摂取(使用価値)だけではなく経済的な価値(交換価値)を持つ以上、当然、こんな単純な計算では済みません。
AさんとBさんがそれぞれ共同体の財(米)のためにどれだけの役割を担ったか、などが当然問題になってきます。
BさんはAさんの倍働いて共同体の財に貢献(投資)したにもかかわらず、Aさんの半分しか配分されないなら、それこそ不公正になってしまいます。
【解説おわり】
配分的正義とは比例関係の正しさに基づくものであり、配分的不正とはこの比例関係に反するもののことです。

第四章、是正的正義

不公正を正す「配分的正義」は共同体(社会)を前提とした正義ですが、違法を正す「是正的正義」は人間そのものの関り(人と人が平等に関わり合うもの、それなしでは人間関係が成立しないもの、今で言う人権のようなもの)を前提としたものです。

配分的正しさのような比例による調和(バランス)をはかることではなく、是正的正しさでは数学的な中間、両者の損益が完全に等しくなる状態への回復を目指します。
例えば、他人に暴力を振るって障害を負わせた場合、加害者が有徳者であろうが悪徳者であろうが、被害者が悪徳者であろうが有徳者であろうが関係なく、裁判官はその被害者の損害に見合った罰を加害者に与え、数学的な意味で中間(両端から等距離の位置のこと)への調整をはかります。
法において考慮されるものは損益の平等のみです。

配分的正義(不公正を正す)は、共同体を上手く回すためのものですが、是正的正義(不法を正す)は、それなしには人間関係そのものが成立しない共同体の基礎となるものです。

第五章、応報(交換)的正義

人々を結びつけ、共同体を成立させる主な動機は物の交換です。
もし、個々人がそれぞれ自立自足して生きられるなら、人は他者と結びつこうとはしません。
この交換の関係においての正しさ(相手に与えた分だけきちんと受け取る、比例関係に基づく応報的な対価の正義)は、交換関係を持続させるため(要は社会、共同体を存続させるため)に必須のものです。

配分的正しさでも述べたように人間間では四つの項による比例関係が生じます。
交換においては、「交換する人」と「交換されるもの」という二つの異なる次元(人×2、もの×2)の比例関係によってはかることになります。
例えば、大工をA、靴職人をB、Aが交換するものC(家)、Bが交換するものD(靴)とした場合、家と靴では「価値の大きさ」が違うため、その価値に基づく比例関係において交換せねばなりません。
家一軒(C×1)が、靴百足(D×100)に値するなら、大工Aは家Cを1渡し靴Dを100受け取り、靴職人Bは靴Dを100渡し家Cを1受け取ることが、配分的正義となります。

しかし、様々な職種の人が集まる共同体において、交換におけるこの比例関係を把握するには、ひとつの基準、すべての交換において等価に働く媒介物(普遍的な中間)が必要となります。
その必要から生じたものが貨幣です。
貨幣は、家、靴、パン、服など、様々なものの交換をつなぐための普遍的な比較対象(基準)となるものです(詳しくはマルクスの項を参照)。
この比例関係のシステムがなければ、交換も共同関係も維持することができません。
共同体は交換を基礎とし、交換は等しさを基礎とし、等しさは一つの基準を基礎とします。
この交換における一つの基準が貨幣(等価交換物)です。

貨幣は、普遍的な交換価値を実体化したものですが、さらにいえば、この交換価値を決定するものは「必要(需要)」です。
もし、靴屋が家を沢山所有していれば、家は必要のない無駄なものであり、家の価値は下がり、靴10足でも交換しなくなるかもしれません。
人々が必要としないものに交換価値は付きません。
「貨幣」とは、社会的な約束に基づいて姿を変えた「必要(需要)」のことです。

「必要」を普遍化したものを貨幣として所有できるからこそ、空間、時間をまたいだ幅広い交換が成立します。
もし、人が、イマ必要なものしか交換しない、ココで必要なものとしか交換しない、あるいは、イマ作れるものでしか交換できない、ココで作れるものでしか交換できないのであれば、交換の機会というものは非常に限定されたものになってしまいます。
自分が持っているものを相手が必要とし、かつ、相手が持っているものを私が必要とする時に交換が行われる訳ですが、そんな一致の機会はなかなかありません。
[例えば、仕立て屋の私がラーメンを好きな時に食べられるのは、抽象的な交換物として貨幣を所有しており、抽象化された必要をいつでもどこでも出し入れできるからです。貨幣なき交換の場合、ラーメン屋が服を欲しくなるのを待って、かつ、その時に私がラーメンを食べたくなる必要がありますが、そんな機会は極少です。]

ここまでを簡単にまとめると、「正義」とは、私と他者との関係(対人関係)において、平等や比例関係(中間、中庸)に反したもの(過剰と不足)を正し、共同体の調和を実現するものです。

第八章、不正における自発性の問題

正しい行為と不正な行為は、先に定義付けた(三巻一章)区分に従う「自発性(本意)」と「非自発性(不本意)」において、以下のようなものとなります。

「自発的な正しい行為(意図に基づく選択)」…正しい人間による正しい行為(アレテーとしての正義)。

「自発的な正しい行為(意図、選択に基づかないもの)」および「非自発的な正しい行為」…正しい行為ではあるが正しい人間とはいえない。

「自発的な不正行為(意図に基づく選択)」…不正な人間による不正行為(完全な不正)。行為および人間として赦されないもの。

「非自発的な不正行為1(意図ではなく激情などによるもの)」…不正行為ではあるが不正な人間とはいえない。行為として赦されないもの。

「非自発的な不正行為2(無知によるもの)」…過失。赦される可能性を持つもの。

「非自発的な不正行為3(不運によるもの)」…不測の事態。赦される可能性を持つもの。

 

(5)幸福論補足へつづく