ロックの『市民政府論』(かんたん版)

哲学/思想 社会/政治

立法権力

立法権力は政治共同体の最高権力であり、それ以外のいかなる者の命令も、公的に選ばれ任命された立法部の承認、いわば“社会の同意”と言う条件なしには、法としての効力も拘束力ももちません。

立法権力は、各成員が立法者に委ねた権力であるため、原理的にその力の範囲は、各人が共同体に入る前(自然状態)にもっていた権力以上のものにはなりえません。
立法部は、臣民の生命を奪ったり、財産を収奪したり、恣意的な隷属状態に置くような、自然法を超え出る絶対的権力を持つことはできません。
この権力は、委ねられた自然法の権力の目的(人々の生命/財産/自由の保全)以外のものは有さないのです。
自然法の義務は、社会契約の成立とともに消滅するのではなく、成文化された法と公的な刑罰によって、より精緻化されているということです。

自然法は成文化されておらず、自然状態においては個々の人間の理性によって、その都度それを自覚せねばならない為、不確実です。
そのため人々は、恒常的な法と公認の権威(裁判官)を打ち立て、社会共同体全体の力によって安定的に所有権を保全しようとするのです。
つまり、最高権力(立法権力)は、恒常的な法と公認の権威を用いることを義務付けられた存在であり、決してその権力を、私的な法(命令)や恣意的に選ばれた権力者によって用いてはならないのです。
絶対的恣意的権力というものが、そもそも社会や統治の目的(公益)と矛盾しているのです。
「公認の法」があることによって、国民は自分たちの義務をわきまえ安全を確認し、支配者は権力の限度をわきまえ正しい目的を確認し、社会は平和を保つのです。

時に政治共同体の維持のために絶対的な権力が必要となることもありますが、それは絶対的であっても恣意的であることは許されません。
例えば、軍隊において部下が、上官の命令に絶対的に服従し死の危険にさえ赴くのは、その命令の内容が権力の根拠である「国民の保全」という目的の為のものだからです。
しかし、兵士の生命にかかわるような強い権力をもつ上官も、部下の財産に関しては一円たりとも奪うことは許されません。
なぜなら、その一円を収奪するという行為は、権力の原泉である公益という目的に属さない私的な命令および服従だからです。
一円であっても、上官が恣意的に人民の所有物を奪うこと(所有権の侵害)は、信託された権力の乱用であり、統治社会の基礎を崩壊させるものです。

立法部と執行部の分離

立法権力は、共同体の成員を保全するために、国家の力を用いる指針を作る権利をもちます。
法の効力は恒常的ではあっても、法を作ること自体は短期間で済むため、立法部が常設である必要はありません。
必要に応じ様々な人が集まり法を作り、制定後には解散し、自らもその法に服する国民の一人になるというのが、最も公益と秩序に配慮された方法です。
法の効力は恒常的で、それを常に参照し執行することは絶え間なく行われるため、執行権力の方は常設である必要があります。

常設の執行権力と非常設の立法権力として、二者を分離することが有効です。
もし、立法部が常時存在し、執行権力と併存するなら、立法権力は執行権力を握る誘惑に勝てず、この両権力を握った者は非常に強い権力をもち、法が乱用される可能性とそれが実現してしまった際の危険度が極めて高くなります。

国民主権

統治が正しく行われている場合は、常に立法権力が最高の権力です。
成員のために法を作り、公益を保全するために規則を設け、法を破る行為を正す執行権力を与える立場にあるものは、必然的に全てを従属させる位置になければなりません。
しかし、立法権力は、国民および共同体の保全という目的のために信託された力によって成り立っています。
ですので、立法権力がその目的と約束を守らず、恣意的に振舞い、国民の所有権を害するなら、その主権性は与えた者(共同体の成員)に取り上げられ、改めて相応しい者に信託され直すことになります。
究極的には、共同体自体が最高の権力(要は国民主権)であるということです。

立法権力を持つ者や執行権力を持つ者が人々を従属させる権利は、あくまで法を介して成り立つものです。
人々の恭順は法に服する義務によって生じているにすぎず、人々が従うのは法権力および政治的共同体の代表(表象)である公的人格としての権力者に対してであり、彼という私人にではありません。
権力を持つ者が法を逸脱したり、公的目的ではなく私的目的によって行動した場合は、その権力と地位を失い、いち私人に戻り、共同体の成員は彼に対し何ら服従の義務を負わなくなるのです。

万物は流転し、状況は刻々と変化していきます。
立法部も時とともに、状況に対し不釣り合いで不合理なものとなり、反省と修正を必要とすることがあります。
立法部の発足当初の原初的根拠(公益の実現を目的とする統治)に照らせば、公益のため現状に合ったものとして立法部を是正することが、本質に立ち返る復活と再生、真の意味での立法部の保持ということになります。

大権

法の不備を補うために、時に法の定めに反し、公益という基本原理に基づいて、執行権力自らの思慮分別により行動する権力が「大権」と呼ばれるものです。
法が予見できない事例、法に記載のない事例、立法部の招集が間に合わない事例、厳格な法の尊守が反って公益を害する事例(例-延焼拡大を防ぐために隣家を潰せない)、法の無差別(普遍)性により現実の内容と著しい齟齬が生じる事例(例-公共善の為に法を犯した人が罪人になる)など、様々な事例において、「成員の保全」という統治の基本原理、目的に適うよう、法と現実を上手く取り成す必要が生じます。

共同体の利益という統治の目的に正しく向けられる限り、人民は大権を咎めることはありません。
しかし、愚かな統治者によって、大権が公益でなく私的目的の為に用いられると、人民は抗議し大権に制限を設けようとします
この制限は、人民による大権そものへの侵害ではなく、統治者が大権の根拠であり統治の目的てある「公益」を逸脱したため、大権から別物に成り下がった権力に制限を加えているにすぎません。
大権の無制限性は、共同体の利益という目的を有する時にのみ発生するのであり、権力がそれを外れる場合は、むしろ共同体に対する侵害行為となるのです。
大権は、あくまで公益を慮り権力の範囲を理解する善き統治者だからこそ、人民に容認され、黙従されるにすぎません。

征服

人々は、武力による征服を人民の同意による統治と混同し、征服を統治の一つの起源だと勘違いしています。

しかし、非合法で不正な戦争を開始し、他者を不当に侵害する侵略者が勝利しようと、決して被征服者の権利を手に入れることは出来ません。
強盗に入った泥棒がナイフを突きつけ、財産の譲渡証書にサインさせたとしても無効であるように、王冠をかぶった大泥棒による大規模な強盗(侵略)も無効です。
問題は、この大泥棒(征服者)自身が犯罪者を処罰する権力を有しており、さらに損傷と強奪により正義を回復する力を奪われた被害者(被征服者)に比べ、圧倒的な力を持っていることです。
そのため、被征服者は、ただ忍従し、権利を取り戻すまで、子孫の代になってでも、繰り返し法に訴え続けるしかありません。
被征服者とその子孫に、その訴えを聞いてくれる地上の裁判官がいないのであれば、天に訴え(実力による抵抗のこと)、地上に公正な立法部が打ち立てられるまで、争わねばなりません。

合法的で正当な戦争における征服者の権力関係についてはどうでしょうか。
征服者の得る権力は、征服者に対する暴力の行使に加担、協力、同意をした被征服者に関してのみです。
多くの場合、実際の征服者は、戦争に加担した者としなかった者を区別することなく扱いますが、権利関係として、征服者の被征服者の生命に対する支配の権力の根拠は、相手の暴力に対してであり、それ以外の者に対してはいかなる権原もありません。

正当な戦争において敗者に対する征服者の権力は、完全に専制的なものです。
相手は人間の掟である理性の法を放棄し、野獣の方法である暴力を選んだ以上、命の危険を及ぼす野獣として殺されて当然です。
生命の保持を命ずる自然法(理性の法)を放棄することによって戦争状態に入ることで、同時に、生命に対する権利をも自ら捨てることになり、勝者は敗者に対し絶対的権力をつことになるのです。

しかし、父が不正な暴力を行使するために生命の権利を捨てたとしても、その暴力に加担していない子供は生命保全の権利を有しています。
子は親の財産なしには生きていけないので、この権利に照らせば、親の財産は子に帰属します。
従って、征服者は被征服者(敗者、侵害者)である父の生命(身体)に関しての権利を完全に得たとしても、財産の権利に関しては限られています。
征服者の財産に対する権原は、相手から受けた損害と戦費の賠償としてあります。
もし、被征服者が、賠償と扶養を両立させる財産を持っていなかった場合、自然法(可能な限りの生命の保全)に照らし、財産に余裕のある方が、死の危険にある緊急性の高い方に対して譲歩する必要があります。
公正な戦争であったとしても、征服者は、対抗しなかった被征服者および対抗した被征服者の子孫に対しては支配する権利を持たず、これらの者は既存の統治の解体後、自ら自由に新たな統治体を創ってもよいのです。

もし征服者が、この権力外のもの(戦争に同意しなかった人々や捕虜の子孫)に手を出せば、正当な征服者自身が不正な暴力による侵略者となってしまいます。
この不正な侵略者と化した征服者に対し、人民が剣を持って戦うことは、反逆ではなく、神によって容認、推奨された正義を回復する行動であり、これにより暴力的に結ばされた隷属的な契約は解消されます。

暴政

正当な統治とは、法に基づく権力の限界の中で公益を目的とするものですが、暴政とは、最上位の為政者(ここでは君主)が権利を超えて権力を行使すること、いわば権力を公益でなく私益(貪欲、野心、復讐などの私的情念の満足)の為に利用し、万人の権利を己の為に譲歩させるものです。

恣意的に法外のこと(法の限界を超えた事)を人民に強制する者は、その時点で為政者としての資格を失い、権限なく他人の権利を侵害する加害者と成り、抵抗されます。
例えば、下位の行政官が法的権限を超え、非合法に容疑者の家へ無理に押し入れば、強盗とみなされ、抵抗を受けます。
それが最上位の為政者であっても、規模は違いますが同じことです。

基本的に、君主は神聖な特権者として暴力や危害から特別に守られることで、国家は安定します。
しかし、君主の法外な命令によって臣民に対する過度な侵害が為される時、人々は自然法に基づく自己防衛として、実力で抵抗することが許され、事実上の戦争状態に入ります。
部分的な侵害であれば人民(被害者)の数も少なく、抵抗は生じませんが、為政者の不法行為が大多数の人々に及ぶ場合、あるいは少数でもそれが全体の脅威の可能性を示している場合、人民の抵抗は避けられません。
抵抗は普通に回避、予防できることであり、抵抗される統治者は自業自得と言えます。

統治の解体と抵抗権

統治の解体には、外国からの侵略によって外部から社会が根こそぎにされ統治が解体する場合と、国内の為政者によって内部から統治のみが解体される場合の、二つの途があります。
ここで述べる統治の解体とは、後者についてです。

立法部は政治的共同体の一つの意志、基点として、人々を仲裁し結び付けるものであるため、立法部の崩壊は必然的に統治も解体します。
立法部の権威は、人民の同意と任命というものをその存在根拠とするものなので、立法部がそれを逸脱した時(恣意的な立法部の改変)、法は拘束力を失い、人々は法への服従から脱します。

単独の人間を統治者とした政体の場合、立法部の改変とは、1.公益ではなく君主の恣意的な意志が法の中心におかれる場合、2.立法部の適切な活動が君主に妨害される場合、3.有権者の資格や選挙の方法などが君主によって恣意的に変更される場合、4.君主によって外国権力の支配下に国民が引き渡される場合、などです。
君主のみが権威を盾にして立法部の改変を主導することができるため、立法部の改変による統治の解体は、君主の責任によるものです。

君主ではなく、立法部そのものの暴走というパターンもあります。
立法部が信任に背き、約束を守らないどころか、人民に託された権力で、むしろ人民の所有権を侵害し、恣意的に彼らの生命と自由と財産を扱うようになった時です。
立法権力ではなく、執行権力の機能停止によって統治が解体するパターンもあります。
執行権力を持つ者の怠慢や責務の放棄などにより、法が執行されない状態に陥った時、事実上の統治の解体、無政府状態になります。
法と執行は一対でその存在を保証されているため、執行無き所には法も無い、ということです。
また、買収や脅迫などの不正な方法で、代議員、候補者、有権者を操作し、選挙方法を作り替えることも、信託に背く政府転覆の試みです。

これらのような形で統治が解体した場合、人民は根源的自由を回復し、生来的な自己保存の権利に従い、人民の安全と公益のために新たな成員、構成、形態において、立法権力や執行権力を新設することができます。
しかし、これは手遅れになっていない状態で可能な治療であり、極度の圧政や外国権力への引き渡しなどによって、立法部の自力更生が不可能になってしまっいた場合は、意味を持ちません。
ですので、人民には現に存在する暴政から逃れる権利と同時に、暴政を予防する権利も与えられているのです。

反逆者とは、暴政に抵抗する市民ではなく、法外のものに逸脱する支配者の方なのです。
反逆者とは、社会の基礎である統治の基本法と法律を蹂躙し、再び戦争状態に戻ろうとする者のことだからです。
市民の抵抗の可能性こそが、この反逆を抑止する防壁になるのです。
統治の目的を逸脱し信託を裏切った時、権力者は権力の権原を失い、人民に戻り、単なる侵害者として、被害を受けた人民との戦争状態に突入するのです。

 

おわり

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