ロックの『市民政府論(統治論後編)』

哲学/思想 社会/政治

はじめに

本書『統治論』は前後編の二論に分かれており、前編では聖書解釈についてのフェルマーへの反論がなされ、後編では具体的な政治的統治について語られます。
『市民政府論』とは、主にこの後編を指しています。

第一章、序論

[統治論前編の簡単なおさらい]

第二章、自然状態について

政治権力を正しく理解するために、まずその起源である人間の始まりの状態を考察する必要があります。
自然本来の状態においては、人間は完全に自由であり、他人の許可や他人の意志に依ることなく、自分の行動を決定し、思い通りに財産を扱うことができます。
同一種、同一クラスの被造物(人類)である人間は、万人が平等な権力、権限を持ち、主従の関係のない状態にあります。

しかし、これは単なる粗野な「放縦」ではありません。
自然状態も、ある種の法(理性=自然法=神の法)に基づいており、それに従うことにおいて「自由」を有するのです。
自然法(理性)は、「すべての人間は平等かつ独立した存在であり、何人も他人の生命、健康、自由、財産を侵害してはならない」と、命ずるのです。

実利的な面で言えば、人間は共通の性質と共通の欲求をもっているので、私が自らの欲求を満たし可能な限りの利益を得るためには、他者の協力が必要不可欠です。
もし、私が他者に害を及ぼすなら、協力を得るどころか、その対価として害を被ります。
他者から大切に扱われたいと願うなら、必然的に他者を大切にしなければなりません。
理性(自然法)は、自分と同様に他者を扱うことが必要であるという平等の規則を、導き出さずにはいません。

理念的に言えば、全ての人間は、同じ級(クラス)にあり、人間が他の人間を神様のように扱ったり、家畜のようなものとして扱ったりするような、上下の服従関係は許されていません。
全ての人間は、自分自身を害さず生存を保つ義務があり、それと競合しない限り、できるだけ他者を害さず生存を保つ義務をもちます。
勿論、侵害者(犯罪者)に対しての報復(刑罰)は除きます。
[人間は等しく神の作品(所有物)なので、それを人間自身が勝手に、自己や他者の生存を破壊することは許されていない、という理屈です。]

人間同士が危害を加え合うことを抑止し、平和と人類の繁栄をもたらす自然法を守るためには、これに違反する者を処罰する権利が必要になります(違反を防止する程度の厳しさの罰)。
自然状態における人間の人間に対する権力は、絶対的なものや恣意的なものであってはならず、理性と良心に則ったものでなければなりません。
違反(犯罪)に応じた量刑による、賠償と抑制の効果を生じさせる酬い(釣り合い)のみが、刑罰という名の人間による人間への危害を合法的に加える根拠となるのです。

自然法(理性の法、神の法)を犯す者は、人類の平和と安全を侵害する者であるので、自然法を遵守する各人は、その防止や矯正のために、彼ら犯罪者を処罰する権利と、自然法の執行者となる権利を有します。
さらに被害者当人の場合、この万人共通の処罰の権利に加えて、賠償を求める権利が与えられます。
為政者は公益を加味して処罰を減免することは出来ても、賠償を減免することは出来ず、被害者本人以外は賠償を受け取る権利や免除する権利を持ち得ません。
また、自然法を遵守する人々には、殺人のように償うことのできない危害を加えた人間を、殺す権利が与えられています。
再発防止を目的とした見せつけのため、そして、神の法(人類維持)の破壊を企て全人類へ宣戦布告した者への応戦として。

自然状態においては、各人が自然法の執行権力をもつといっても、当事者が事件を裁くことには弊害が生じます。
違反に釣り合う理性的な量刑が秩序の維持のために必要ですが、個人がこれを為す場合、復讐心や嗜虐性などの主観的な要素が入り込み、行き過ぎた処罰によって、むしろ無秩序を生じさせるからです。
絶対君主のような、一人の人間が全ての裁きを為す場合も同様に、感情や錯誤による偏向が生じ、なおかつそれを修正する力を誰も持たず、絶対的な服従を強いられるため、それは自然状態よりも劣るものとなります。

これを避ける最も有効な方法は、市民政府(市民的統治)による法的(実定法)統治体制によって、これらの不都合を解決することです。
裁かれる者は、他人の不正(主観的)な裁きに服することなく、裁く者には人類全体に対しての責任を負うような正しい(客観的)裁きが求められます。
自然状態が必然的に市民政府を求めることが、神の法(自然法)の延長として定められているのです。

第三章、戦争状態について

この自然状態(平和、善意、相互扶助、生存維持)の対極にあるものが、戦争状態(敵対、悪意、暴力、相互破壊)となりますが、これらは混同して考えられてしまうことがよくあります(例、ホッブズ)。

地上には、人間相互の間を裁く権限を持つ上位クラスの優越者がおらず、その為、人々は理性(自然の法)に従い、人間同士の共同の生活を円滑に進めるのが「自然状態」です。
その反対に、地上には人間を裁く優越者が居ないことに乗じて、暴力により他人を侵害しようとる加害者がおり、かつ被害者は救済のための訴えを聴いてくれる上位者が居ない為に、暴力によって応戦するしかないという暴力のぶつかり合いが「戦争状態」です。
[「自然法」は、事物(ここでは人間)の本性に基づく普遍的な法。「実定法」は、特定の社会において人為的に定められた特定の法のことです。]

法や裁きの審級のない戦争状態では、被害者は侵害者に対し暴力によって戦う権利、および状況により(生命に関わるような場合)殺す権利が与えられます。
法(実定法)の介入する余地のない緊急時においては、自衛的に暴力を発動する権利が、生存維持を定める自然法によって保障されるのです。
法(実定法)に訴える時間がないということは、上位の審級のない一時的な戦争状態となり、戦う権利が与えられます。
緊急でなく法に訴える時間がある場合は、被害者は侵害者に危害を加える権利はありません。
例えば、強盗に襲われるというような緊急の場合は、暴力によって応戦することは許されますが、昔殴られたことの復讐として、法を介さずに暴力を使うすこと(私刑)は許されません。

自然状態からひとたび戦争状態へと移行すると、争いは際限のないものとなります。
法の審級のない場では、侵害者と被害者の関係は、永遠に釣り合わないシーソーのように、暴力の応酬として駆動し続けます。
この不安定な戦争状態を終らせることができるのは、両者の上位に立ち裁定する権威の存在によって、過去の被害が賠償され、未来の安全が保障され、平らかにされる時です。
その為に実定法および裁判官のような、制度化された上位の権威を政治社会的に作る必要があるのです。
勿論、この権威が公正でなく、法や裁きが私的に決定されるようなら、その社会において戦争状態は止むことはなく、不安定であり続けます。

戦争状態を避けようとする動機が政治社会を形成し、それと同時に人間は自然状態を脱することになるのです。

第四章、隷属状態について

自由にも種類があります。
人間が生来的にもつ「自然的自由」は、地上においていかなる上位の権力にも拘束されず、ただ自然法だけに則った上での自由です。
社会的な同意によって作られた政治的共同体の中で生じる「社会的自由」は、当該の立法権力以外のいかなる立法権力にも拘束されず、当該の実定法だけに則った上での自由です。

いかなる法にも拘束されない勝手気ままな自由などなく、人と人の間に生じる自由は、ある共通の規則(法)に則った上で、その規則に定められていない部分で、あらゆることを為せる自由です。
共通の規則に則らない場合、絶対的、恣意的な権力が生じ、人間は安全と生命を失うという不自由を被ります。
その不自由を防ぐために、共通の法に則った上での自由が必要となります。
[人間は何の拘束もない絶対的自由を求めがちですが、それは原理的に不可能です。もし本当にその自由を与えれば、私の絶対的自由と他者の絶対的自由が競合し、陣取り合戦のパワーゲームとなり、結局自分の限られた非常に狭い領地内での自由が保証されるだけとなり、むしろより不自由となります。]

そもそも、人間は生来的に、自分の生命そのものに対する権力をもっておらず(第二章の最初の[]内を参照)、契約や自らの同意によって奴隷(生殺与奪の権利を持つ絶対的、恣意的権力としての他者に隷属すること)になることはできません。
自らが持たない権力を、他人に与えることは不可能だからです。

第五章、所有権について

人間は、自然の法、理性の法によって、自己保全の権利が与えられており、それに伴い、飲食物など自然が人間の生存のために与えてくれるものに対する権利をも有します。
大地の恵みは人類皆の共有物であり、人は他人を排除することで生ずるような類の私的支配権をもちえません。

しかし、共有財産として与えられた自然物が、個別的、私的なある特定の人間にとって、有益なものとなるためには、それに先立ち何らかの方法(有するに相応しいような形)で占有されなければなりません。
そして、この共有物を私固有のものとする根拠が「労働」です。
その人にとって、最も固有のもの(property)とは、自らの身体とその動き(労働)です。
自然が準備した素の共有財産の状態に、ある特定の人間がその人固有のものである労働によって手を加え、己の固有性を混合した時、自然物に私的所有権が付与されるのです。
川を泳ぐ魚は、自然的には誰のものでもなく誰のものでもある共有財ですが、そこに釣るという「労働」が加わると、自然物に価値と所有権が生ずるのです。

この私的所有権は、労働を際限なく行うことで無限に独占できるというものではありません。
所有権は自然法を前提とした権利であるため、自然法に則った制限(理性的制限)があります。
他人の生存を害さず、自身の生存を維持する程度が、その制限となります。
物(共有財)が損なわれず利用可能な限度内において、私有が認められます。
個人が利用可能な限界がその人の分け前であり、無駄を生じさせるような過剰は、他者の分け前に属するものを害することになります(例-食べきれず腐らせるほどの食物の私有は駄目)。

勤勉で理性的な人間が利用するための共有財(自然物)であり、気まぐれで野蛮で貪欲な人間のためのものではありません。
勤勉な労働こそが所有の権利の源泉であり、自らは労働せず他人の労働が加わったものに手を出すことは、侵害行為に他なりません。
それは二重の誤りを犯すことになります。
自らの手(労働)で開拓可能なはずの共有財を活かさず、何の権利もない他人の所有物を収奪しようとするからです。

しかし、自然法に則った理性的制限による秩序が機能するのは社会の初期においてであり、人口の増加に伴い貨幣の使用が開始されると、この制限は解除され、状況は一変します。
過剰な私的所有物(私有された自然物)は腐敗しない貨幣に交換可能となり、無限の貯蓄可能性が開かれます。
そして、財の価値は、生活に直結する実用性から、人々の嗜好や合意に基づくものへと変化します。
人口の増加と貨幣の使用により、自然物(財)の基礎となる土地が不足してくると、共同体(国家)は領土の境界を定め、その内部では法によって私的所有権を規制するようになり、労働と勤勉により保証されていた所有権は、契約と合意によって制度的に定められるものとなります。

自然の法における私有財産は、労働の程度に比例し増加しますが(ある限度内で)、貨幣の出現によりこの傾向は無限に拡大することになります。
貨幣が存在せず、一定限度以上の蓄えは腐り、他者との交換の範囲が狭ければ、人は自分の家族の必要に足る分以上の所有物を得ようとする動機は生じません。
貨幣によって、所有物が永続性を獲得し、自分の家族の必要分を超えた財産を貯蔵するだけの価値を備えた希少性を獲得するのでなければ、どれだけ豊かな土地(共有財)があろうとも、人は決してそれを勤労によって開墾し新たな財産を得ようとはしないでしょう。
貨幣の力が無ければ、個人的な必要によって囲われた部分以上の自然の恵み(共有財)は、その可能性を放棄され、荒れ野として放置されることとなります。
貨幣の出現は、その個人的制限を開放し、所有物を無限に拡大する可能性と動機を、人間に与えるのです。

さらにここで考えなければならないことは、労働によってある土地が占有されると、その部分が減少するというより、むしろ増加するということです。
労働によって開墾、改良された土地(占有地)がもたらす自然の恵み(食料など)と、荒れるがままにされた共有地における自然の恵みとでは、数十倍の違いが出ます。
例えば、ある人間が10エーカーの土地を占有すると、人類から10エーカーの土地の恵みを奪ったと考えられそうですが、実際は数百エーカーの土地の恵みを追加してくれることになります。
この事実が、共有のものに対し、なぜ労働によって私的所有の権利が与えられるかということを説明します。
物の価値を決定する要因は、労働だからです。
荒地で採れた1kgの食物(純粋な自然のもたらす価値)と、同面積の労働による耕地で採れた100kgの食料(労働がもたらす価値)と比較した場合、いかにその土地の価値が労働に依っているかが分かります。

私が今着ている暖かく着心地の良い毛織物の洋服は、無数の過程と無数の労働と無数の物品(羊毛、石鹸、染料、薪、織機、馬車等)を幾重にも重ねた上で供されており、木の葉や獣皮の粗末な服に比べ、労働によってどれだけの価値が付加されているかを考えてみて欲しいのです。
そうすれば、この世で享受されるものの価値の大部分が、労働によって生み出されたものであるということが分かります。
共有財(自然物や土地)それ自体はほとんど価値を有さないものであり、その単なる物体を資源に変え、さらにそれに無数の価値を付加していくのは、人間の労働なのです。
自身の内にある所有権の偉大な根拠(労働)が、他者との共有物に改良を加えた時、価値が生じ、共有から私有を分ける分割線が引かれるのです。

統治において重要なことは、領土の大きさではなくその価値、人口の多さ、耕地の増加と適切な利用、そして、権力による抑圧や党派の狭隘さではなく、自由の法により保護され推奨される人間のひたむきな勤労です。

 

(2)へつづく