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アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(かんたん版)

人生/一般 宗教/倫理

幸福とは人間行動の究極目的となるもの

行動というものには、基本的にある目的があります。
そして、その目的というものは、もっと大きな目的のための手段になっています。
さらに、その大きな目的は、もっと大きな目的のための手段になっており、この階段を昇っていくと、最終的にすべての目的を包摂する究極目的にたどり着きます。
その究極目的が「幸福」と呼ばれるものです。

具体例を挙げます。
今わたしが勉強という行動を為すのは、医大に合格するという目的のためです。
この医大に行くという目的は、医者になるという目的のための手段です。
この医者になるという目的は、社会的な地位や経済的な裕福さを得るという目的のための手段です。
さらに、この地位や裕福さを得るという目的は、快い人生を得るための手段です。
ではこの快い人生は一体何を目指しているのかと言うと、もう「幸福」と述べるしかなくなります。

人間は、ある欠如を感じるからこそ、その欠如を埋めようと、その望み(目的)を叶えるために行動を起こします。
目的を叶えようとするこの行動が止むのは、もう何の欠如も感じることのない完全に充足した状態になった時です。
「幸福」とは、この終極的で完全に充足した状態のことであり、人間のあらゆる営みの最終目的となるものです。
何か別のもののために必要とされる手段的なものではなく、それ自体が目的であるものです。

ただ生きることではなく、よく生きること

だから、「金」や「名誉」や「愛」など、一般的に幸福と言われているようなものは、幸福ではないのです。
なぜなら、それらは別のもののための手段であり、最終目的ではなく、真に求めているものはその先に在るからです。
例えば、「金」は何か別の目的物を買うための手段であったり、自分の職能を証すための手段(年収=優秀さ)であったりしますし、「名誉」は自尊心を得るための手段であったり、権力を得るための手段であったりしますし、愛は快楽や安心を得るための手段であったりします。

では、人間にとって、手段となりえないそれ自体が目的の究極目的である「幸福」とは、一体どういう状態を指すものなのでしょうか。
例えば、動物の場合、その行動の最終目的は生存です。
動物はただ、必死に生き、生存のために最後まで行動し続けます。
どんな過酷な状況でも、人間のように諦めたり、自殺したりすることなく、最後の瞬間まで必死に生きようとします。
人間も動物である限り、「ただ生きること」が究極目的(幸福)であってもおかしくはないのですが、人間は純粋な動物ではなく、良くも悪くも「理性(心)」を持ってしまった動物なので、そう単純な話ではなくなってきます。

例えば、ライオンであれば、腹が減れば相手が子鹿であろうが関係なく、容赦なく殺して食べて、「生」を充たし満足します。
しかし、人間の場合、ここで理性の機能が働き、つぶらな瞳で見つめる子鹿に向けていた銃口を下げ、別の獲物を探す可能性があります。
ライオン(動物)にとっては、「ただ生きること」が目的であり幸福であったわけですが、人間にとってはただ生きるだけでは満足できない、別の要素が付け加わってしまっているのです。

人間は、「ただ生きること」ではなく、「よく生きること」によって、はじめて充足した幸福な状態に成れるということです。
ただ生きるだけではなく、生のその質(善さ)が問われるということです。

自然本性に基づき生きること

あらゆるものは、与えられた自然本性に従い存在(あるいは生存)することが「善い」状態にあると言えます。
だから、鳥にしても、ただ生きるだけでなく、その自然本性である「飛ぶこと」を充たし生きる方が幸せであるように見えます。
全身をタコ糸で縛りつけられた鳥は、いくら長生きしたとしても、その幸福が充たされているかどうかは疑問です。
中国の古典に「鳶飛魚躍」という言葉がありますが、生き生きと鳥が飛び、魚が跳ね、馬が駆けるように、与えられた自然本性に基づきそれを発揮し生きることが、「善く生きること」であるのです。
基本的に、自然の中で生きる動物においては、「ただ生きること」と「善く生きること」は結びついているので(飛べない鳥は死ぬ)、あまり問題になりませんが、人間においてはかなり厄介です。
ちなみに「ただ生きること(生存)」と「善く生きること(自然本性の発揮)」が、動物においてイコールで結びつくことを証示したのがダーウィンです。

人間が自然に与えられた特性である「理性」を充たしつつ生きることで、生物としての本性である「ただ生きること」だけででなく、人間として「善く生きること」が実現されるわけです。

幸福の階梯(普遍的と個別的)

理性を発揮しつつ生きることが、人間にとっての卓越性や徳の実現になり、それが幸福を生じさせるわけですが、それには二種類あります。

ひとつは、諸々の個別的な事柄における、理性に基づく活動です。
それは個々人の具体的、実利的な事柄に関わる人間的なもので、それは二次的な徳、二次的な幸福です。

もうひとつは、実利を離れ、純粋に普遍的な知のために思いをはせる「観想活動」です。
完全にそれ自体が目的の理性的活動であり、幸福の定義(自足的、理性的)を十全に満たしている、一次的な幸福です。
生活(実利)に追われるような世俗の煩いを離れた天上の神々の生活のようなものがイメージされています。
ただ、これについては、あまり考察しても意味がないので(アリストテレスの別の主著『形而上学』がそれにあたります)、実践倫理の考察を為す本書『ニコマコス倫理学』の大半は、私たちにとって具体的な幸福である、二次的な幸福について述べられます。

では、私たちの生活実践の中で発揮される理性的活動の「理性」なるものとは一体何なのか、という原理的な問題になってきます。

理性は物事を分別し調和をはかる機能

世界という混沌に、調和をもたらすのが理性の機能です。
とらえ難い世界を合理的に扱うために、人は世界を分割し、個物としてとらえ、その個物同士を理由(理・ことわり)によってつなぎます。

例えば、私が、寝ている間に、物の区別の記憶をすべて失ってしまったとします。
目覚めた時、部屋は動く抽象絵画のような色と形の暴力のような混沌があり、激しいめまいと吐き気を引き起こします。
その混沌の世界を安定させるために、理性によって物を「区別(分節)」し、区別した個々のものを「理(ことわり)、理由」によってつなぎ止め、調和ある世界を作り出します。
「分別」と「理由」の二つのよって、世界には事物(個)が生じ、かつその統合(全)がはかられ、個と全の調和した世界が成立します。

生における理性の仕事は両極の中間(中庸)を見出すこと

このように、人間は分別によって事物を捉えます。
「それは○○ですか?」「はいorいいえ」でおなじみのイエスノーゲームの二分割で、あらゆる事物が言い当てられるのは、その所以です。
0と1の二進法で、世界のあらゆる事物が記述可能なのもその働きです。

私が世界の事物を認識する際、つねに両極(二つの極)と、その中間物というものが意識されています。
「白・黒・白と黒の間」「良い子・悪い子・良い悪いの間の子」などというように。
三つ以上の極に見えるものも、よく見ると二極に還元できます。
例えば、モノは固体・液体・気体の三極じゃないか、と思われるかもしれませんが、厳密に言うと固体の反対の極は、固体でないもの(流体、流動体?)であり、液体と気体は同じ極に入ります。
ただ、この二つの極というものは、理性による人間の抽象化作用によって種ずる理念なので、完全な極というものは自然には存在せず、すべてはその幅の間のどこかにあります。

理性によって的(中庸)を射る

例えば、人は、運動の過剰も欠乏も健康を損ね、栄養摂取の過剰も欠乏も健康を損ね、これらは過剰でも欠乏でもない中間の適度な状態にある時、健康を生じさせます。

理性は、人間の諸々の事柄において両極の間のバランスの取れた中間点(真ん中のことではなく、最適点のこと)を見出す機能を持っています。
勇気の場合、欠乏であれば臆病となり、過剰であれば無謀となり、その中間の適度において「勇気」となります。
節制の場合、快楽が欠乏していれば無感覚となり、快楽が過剰であれば放埓となり、その中間の適度において「節制」となります。

この中心点が善き状態であり、この的の中心から外れるほど悪い状態になります。
人間の諸々の事柄において、この中心を射る時、人はそれを「徳」と呼びます。
「勇気」は人間の意志に関わる事柄における徳であり、無謀や臆病は不徳となります。

理性の働きや知識は、この中間(最適)点を目指して行為を導き、もう付け加えたり取り除いたりすることのない完成品のような状態(いわば不足なく過剰ない最適な状態)にするものです。
人間は、しかるべき時に、しかるべきことに、しかるべき人々に対し、しかるべき目的のために、しかるべき仕方で、要はしかるべき最適なあり様(中間)で、行為をなすことです。
もう何の欠如も感じることのない完全に充足した状態を、幸福の定義のひとつと述べましたが、ここにおいて、先に述べた幸福(二次的幸福のこと)が実現されています。

「幸福とは、徳に基づく活動である」とアリストテレスが言うのは、そういう理由からです。

中庸(徳)の具体例

最後に、中庸(徳)の具体例のいくつかを挙げます。

勇気(中庸)、無謀(過剰)、臆病(不足)
節制(中庸)、放埓(過剰)、無感覚(不足)
気前良さ(中庸)、浪費(過剰)、ケチ(不足)
高邁(中庸)、虚栄(過剰)、卑下(不足)
温和(中庸)、怒りっぽい(過剰)、腑抜け(不足)
正直(中庸)、ハッタリ(過剰)、トボケ-知らぬふり-(不足)
機知(中庸)、悪ふざけ(過剰)、野暮(不足)
友愛(中庸)、へつらい(過剰)、愛想なし(不足)
慎み(中庸)、恥知らず(過剰)、引っ込み思案(不足)

まとめ

活動するものは常に欠如を抱えており、完全に向けて満たそうとします。
ガリレオ温度計の中間に浮かぶ玉のように、下にありすぎると上に行こうとし、上にありすぎると下に行こうとし、ちょうどよい釣り合いの場所に至った時、欠如は充たされ静止します。
子犬は飢えれば餌を探し回り、凍えれば暖かい場所を探し回り、母犬の場所にたどり着き、乳で空腹が満たされ、体温で温められると、静止し、安らかな眠りにつきます。
勿論、子犬は暑すぎれば、母の懐を離れ涼しい場所を探すでしょうし、お腹が膨れすぎれば嘔吐して、ちょうどよい中間状態を得ようとします。
あらゆる事物は、欠如のない最適の中間状態、もう駆られることのない完全な状態である「幸福」を目指すのです。

最適点を外れ、両極へ偏った欠如状態が、不幸をもたらすので、それを看破した一部の賢人たち(ストア哲学や仏教の一派など)は、その両極を捨てることによって、静止状態を作り出そうとします(いわゆる涅槃-通俗的な意味で-)。
快楽は多すぎても少なすぎても人に不幸と苦しみをもたらすので、そもそも快楽を求めることを止めてしまえとか、勇気だの臆病などと煩わされるくらいなら、そもそも意志など捨ててしまえとか、希望と絶望の間で苦悩するなら、希望を持つことを止めればいいというような感じです。

アリストテレスもその気持ちはよく理解するのですが、では何のために人間には理性があるんだよ、と彼は言う訳です。
神様が人間にだけ与えてくれた、この理性という天賦の才を使って両極への偏りを修正する中間点を見出し、最適点を実現することによって、人は本当の意味で幸福になれるはずだと言うのです。
そのために人は、よく考え、よく活動する、努力の積み重ねが必要なのです。
結局、理性も最適(中庸)である必要があるのです。
理性的でありすぎれば、人は人を辞め、ロボットのようになりますし、非理性的でありすぎれば、人は人を辞め、動物のようになってしまいます。

鳥は自然本性的に羽を持った動物であり、大空を飛びながら生きることによって、その自性(アイデンティティー)を発揮し、幸福に生きられるように、自然本性的に理性的動物である人間は、考えながら生きることによって、人間としての幸福を満たしながら生きることができるのです。

 

おわり

 

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