才能とは何か

人生/一般

才能と努力

ここで言う「才能」とは、辞書を引いて一番最初に出てくる意味、“生まれ持った能力”のことを指します。
これと対比的によく使われるのは「努力」です。
才能は先天的なものであり、努力は後天的なものです。
自己意識(主体)が芽生える前の幼少期に、特殊な教育などによって獲得した能力も一応、後天的なものですが、基本的には才能の範疇に入れられます。

ある優れた成果をあげる人の能力が、才能によるものか努力によるものかということへの関心を、多くの人が持ちます。
「あの人の能力や成果は才能によるものだ」とか「努力によるものだ」とか、分けたがります。
多くの場合、努力型より才能型の方に魅力や憧れを感じることが多いようです。

才能はすごい?

しかし、少し考えてほしいのですが、才能を作るのは誰でしょうか。
第一は両親の遺伝子および幼少期の教育や環境であり、才能をもった張本人ではないということです。
優秀な人に対して「あなたは天才だ」と言うことは、実のところ本人の力を褒めているのではなく、両親や環境や幸運を、要するに生まれと育ちの良さを褒めているにすぎません。
また、「僕はすごい才能を持っているんだ」と嬉しそうに自慢する人は、自分のすごさではなく、むしろ親のすごさを褒めていることになります。
それは親の財産を自慢するスネ夫君に似ています。

才能と努力の区別は単なる主観

物理学であれば、或る運動の複数の要因を、ある程度正確に影響力の大きさの順に並べることは可能ですが、人間の能力や成果に対して、どこまでが才能(先天的)でどこまでが努力(後天的)かを確定することなど、よほど単純なものでない限り不可能です。

専門の学者でも不可能なことに対して、私たちは普段偉そうに、やれ「才能」だ「努力」だと決めつけたがります。
しかし、それは基本的にそれを語る本人の心的傾向にすぎず、能力や成果の原因を、才能か努力かのどちらに帰属させるかは、ただ語る本人の所有している世界観や価値観や生き方の表明にすぎません。
その人個人がただそう思いたいから思っているだけ(主観)、あるいは周りがそう思ってるからそう思っているだけ(慣習)であり、多くの場合、何の検討もされていない素朴な思い込みです。

なぜ凡人は才能にあこがれるか

なぜ人はこれほどまでに「才能」を語りたがり、憧れる傾向があるかというと、単純にそれが生き方として楽だからです。
何でも能力や成果の原因を「才能」に帰属させる世界観を採用する人は、「努力」に対する忌避をもった人が多いようです。

例えば、皆、「お金持ちになりたい」とは言いますが、多くの場合、それは親の財産を相続することや宝くじに当たることなど、楽して結果を得たがっているだけであり、自分の実力や努力によってたたき上げの金持ちになることではありません。
それと同様、人間としての財産である能力も、可能な限り楽して手に入るものであって欲しいという願望が、「才能」への憧れを生むのです。

物事の原因を「才能」のせいにしていれば、私は永遠に努力から逃げ続けることができます。
ただ勉強しないから勉強できないだけなのに、「私は生まれつきのバカだから勉強ができない」と才能の有無のせいにしていれば、私は勉強せずにすみます。
「あいつは才能がすごいから良い成績を出せるんだ」と思っていれば、他人の努力を無視し、勉強の圧力から逃げることができます。
指導者や管理者にしても、成果が出ないことを生徒や部下の才能のせいにしていれば、自らの教育力や指導力の無さを見ずに済み、責任が回避ができます。

才能は責任回避のための言い訳

凡人ほど「才能」に憧れる傾向にあるのは、単に自分のもっていないものを羨ましがっているのではなく、自らの無能な状況を、才能と言う先天的なもの、親の教育、環境の当たり外れなど、他人の所為にでき、自らの責任を問わずに済むからです。
才能への憧れは、要するに主体性からの逃避であり、主体性(いわば実力と努力)への忌避と恨み(ルサンチマン)がその根にあります。
ユダヤ人の実力に嫉妬したドイツ人が、「血統」を持ち出すことによって、それを努力なしに上回ろうとしたのも同じ原理です。

要するに、物事の原因を才能(持って生まれたもの)に帰属すればするほど、主体の責任は回避できるのです。
なぜ法治国家において、犯罪者は逮捕された時、精神病者のフリや主張をなすのでしょうか。
それは自分の犯罪が、自分と言う主体的責任においてなされた行為ではなく、元々あった精神的機能が生じさせたものであると主張すれば、法的責任を免れることができるからです。
自分の行為を、境遇のせい、才能のせい、他人のせい、いわば主体の外部のもののせいにすることに成功すればするほど、責任は軽くなっていきます。

なぜ優秀な人は努力を選ぶか

まず、ここで言う「努力」というものは、日本の文脈によくある根性論や無意味に汗をかくだけの自己満足を指すのではなく、あくまで実利的なもの、効果的な取り組み実践の積み重ねのことを指しています。
有能な人たちは多くの場合、成果の原因を、「才能」でも「運」でも「環境」でもなく、「努力」に帰すというのは、心理学において有名な説です(原因帰属理論を参照)。

なぜ優秀な人たちが、物事の原因を「努力」という主体内の因子に帰す世界観や価値観を採用する(多くの場合無意識のうちに)かと言うと、単純にそれが最も効率的な生き方だからです。
むしろそれ以外の因子(才能、運、環境など)に帰すことは、成果を上げるためにはまったく無意味だからです。
なぜなら、才能や運や環境は自分の外部にあるもので、私には直接制御することが不可能なものであり、私にコントロール可能なものは努力のみだからです。

喩え話

分かりやすく喩えてみます。
私の敷地のリンゴの木は高く、私は身長が低い(環境が悪く、リンゴを採る才能がない)。
隣の敷地のリンゴの木は低く、隣人は身長が高い(環境が良く、リンゴを採る才能がある)。
私は毎年リンゴを少ししか収穫できず、たくさん採れる隣人を羨ましがります。

ここでもし私が少ない収穫の原因を「環境が悪い」「才能がない」などと与えられた外的な要因のせいにすれば、制御不能であり、その時点で改善の余地は潰えてしまいます。
しかし、成果の原因を自分の内的な因子、努力や取り組み方などを原因と考えれば、成果へとつながります。
「身長が足りないならハシゴを作って上ろう」とか、「しかしハシゴだと収穫に時間がかかるから、長い二叉槍の柄の先にカゴを付けて採ろう」などと試行錯誤(挑戦と失敗と反省)しているうちに、隣人より多くの収穫を得られるようになります。
自分以外の因子(才能、運、環境)は、現実認識、いわば努力のため(作戦を練るため)の情報としてしか意味のない二次的なものでしかない訳です。

現実逃避

ここで問題になるのは、なぜ人は無意味なこと(外的因子を主な原因とすること)をなすのかということです。
行動には当然、何らかの目的があるはずです。
無意味なことをなすのは、そのこと自体に何らかの意味があるはずです。
それが先に述べた努力からの逃避、いわば現実逃避です。
私は低い成果の原因を、隣人の恵まれた環境と私の不遇のせいにしていれば、試行錯誤する労力、挑戦し一生懸命に動くことや知恵を絞って考えることや失敗によって傷付くことなど、しんどいことを全て避けられるからです。

「家が貧乏だったから大学に行けなかった」という人がよくいますが、多くの場合「行かなかった」人です。
ノーベル賞作家のアルベール・カミュのように夜中道路工事の仕事をしながら大学に通い続けるような努力から逃げるために、環境のせいにしているだけにすぎません。
自分の原因と考えて努力するより、貧乏が原因と考えて何もしないでいる(諦める)方が楽であると考え、「行けなかった」のではなく、自ら「行かなかった」のです。

才能も努力も本来どうでもいいもの

考えてほしいのですが、私がもし極度の飢餓状態にあり、どうしてもリンゴが必要な場合、才能だとか努力だとか言っている暇はなく、目的の実現のためにひたすら試行錯誤するだけです。
才能だ環境だ運だ努力だと言っていられるのは、目的の実現に向けて真剣に向き合っていない暇な人だけです。
「才能の人」vs「努力の人」という対立構造は、誇張によってキャラを立てようとする、見え透いたドラマのモチーフでしかありません。
自分の才能のなさに苦悩している人は、単にドラマの悲劇のヒーローの真似事をしている有閑人にすぎません。

考えることと悩むことの違い

普通、他より不利な状況にあれば、そのぶん必死で考え、活動し、不利な分を挽回しようとするものです。
ですので、もし不利な状況にあるにもかかわらず、悩み、頭を抱え停止している者がいれば、それはただ悩んでいる間は何もしないでいられるという利得を選んでいるにすぎません。

何らかの問題を前にして解決策を深く考えることと、思い悩むことは、似ているようですが、その意味するところは真逆です。
前者「考える」は問題解決(外)に向けてベクトルが向いており、後者「悩む」は問題を引き留め味わい尽くせるよう内にベクトルが向いています。
「悩む」という言葉は、考えることそのものが自己目的化した、とぐろを巻いたような閉鎖的な意味を含んでいるのです。
だから先ず、「進路について悩む」とか「才能について悩む」などという言葉を使うことを止め、「進路について考える」「才能について考える」と言うべきであり、思考を感情のための言い訳でなく、正しい役割(理性のためのもの)の中で使用すべきなのです。

才能はあくまで努力のための素材

必要なのは現実認識と試行錯誤のみであり、それらは切り離せないひとつのものです。
才能の見極めとは現実認識の一部であり、その現実認識は試行錯誤の一部(材料)でしかありません。
羽のない人間は、鳥と違って飛ぶ才能がありません。
その現実認識によって人間は飛行機を作り、鳥よりも高く速く空を飛ぶことができるようになります。
才能も環境も運も、すべては試行錯誤(いわば努力)のための素材にすぎず、そもそも才能は努力の下位クラスにあり、対立的にとらえられるものではないのです。

要するに、才能だ努力だ無意味なことを言っている暇があるのなら、いま少しでも前に進めるように具体的に努力した方がいいよ、という当たり前のことを言っているだけです。

 

おわり

 

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