サルトルの『存在と無』(3)第二部、対自存在

哲学/思想

(2)のつづき

<第二部、対自存在>

対自の事実性

即自存在はそれ自体で完全に充実しており、空虚や無が入り込む余地は一切ありません。
それに対し、意識(対自存在)は存在に裂け目を入れ、距離を置き、自ら(即自としての自己)に対峙し、存在の無(否定)という特異なありかたでのみ成り立つものです。
現実のある特定の状況および世界の中に置かれた即自存在としての自己は、対自へと転落すること、対自のうちに自己を失うために存在します。
対自とは、自己を意識として根拠づけるために即自としての自己を失うものです。

「無」であるはずの対自が、「対自はある」「私(意識)はここにいる」などと言えるのは、対自(無、否定)の地盤となっているこの存在(失われる即自存在、無化される即自)の具体的な事実性によるものです。
対自はつねにこの「対自の事実性」を意識しており、何の理由もなく投げ出されたこの時この場所この世界(被投性)における自己の偶然性と無償性を感じています。

[イメージで喩えると、対自存在は、ドラクエのモンスターのマドハンドやドロヌーバ(下図)のようなものです。下半身は事物世界(即自)に溶け込んでいますが、対自は泥面上に飛び出した上半身としてあります。対自(上半身)は泥面下に溶け込んで、即自と合一したいのですが、決して許されません。まるで眠ることを許されない刑罰のように、対自は泥面上にあり続けることを強制された存在なのです。]

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対自存在(人間)の構造

存在充実が即自のあり方であり、存在欠如が対自のあり方です。
つねに欠如を伴った「あらぬところのもの」であり、先に述べたように、この欠如(無、否定)は、人間存在の出現と共に世界に到来するものです。

例えば、私が半月を認識する際、暗黙理にその全体である満月をその前提として捉えています。
欠如を被るものである全体(存在充実である満月)に向かって、現実の存在(半月)から超出し、再び戻ってくることによって、半月を欠如者である半月と規定できるのです。
人間存在(対自)とは、この半月にあたり、人間は常に欠如を抱えながら、未来の存在に満ちた即自存在(満月)へいたろうと行動する存在なのです。
これがいわゆる「欲望(あるいは欲求)」です。

もちろん、この欠如を被る全体としての即自は、そうあるべきだと現実(現在)の存在が思う、未だない不在の未来の即自です。
「あらぬところのものである」現在の私(対自)が、もし、あるところのものであるならばそうあるであろうような、未来の「即自としての自己」に向かって、自己を超出するのです。
人間存在とは、未来の完全な自己との一致(即自と対自がハイフンで結ばれ合致する「即自-対自」)へ向かう絶えざる超出なのですが、欠如存在であることそのものが人間の原理であるがゆえに、この一致は永久に与えられることはないのです。
人間存在は、対自としての自己を失うことなしには、即自に達することはできません。
この絶対的な不在、不可能な全体を、世界のかなたの超越者として人が想う時、それは「神」として実体化されます。
人間存在とは、神(「即自-対自」、いわば自己原因存在者)の在り様を理想としながらも、決してそこにたどり着くことは許されない虚しい徒労なのです。

可能性と世界の構造

対自存在につきまとう、この不在の即自が、いわゆる「価値」であり、対自のあらゆる超出のかなたにある「全体的自己(即自-対自)」が、対自(私)の諸価値を規定しているのです。
価値は、対自の自由な超出の彼方にしか存在しえず、はじめから与えられているようなものではありません。

「欠如を被るもの(全体)」が「価値」であるのに対し、「欠如した部分」は「可能(性)」と呼ばれるものです。
例えば、目の前の「雲」は、私(対自)が雨へ向かって超出することなしに「雨雲」に変わる可能性はありません。
【解説】
例えば、サイコロの出目の可能性(欠如した部分)をうんぬん言えるのは、出た後の世界(全体)を前提にして、出ていない現在(欠如者)から見るからです。
もし、サイコロの目が出た後の世界を前提にしていなければ、どんなサイコロの目が出ようが、授業中に置いた鉛筆の六面のどの面が天を向いているかなどまったく意識されないのと同じように、どうでもいいものとして世界に現れることすらありません。
【解説おわり】
当然、即自はあるところのものであり続ける存在充実であるため、可能性を持つことができません。

対自は未来の「即自-対自(あるであろう私)」に向かって、自己を超出した上で、「対自(あらぬところのものである現在の私)」に還ってくることによって、この二つの自己(未来と現在)の間に欠如である「可能性」を生じさせます。
この全体的自己(理想)へ向かって自己(現実存在者)を超出し、今度は全体的自己から自己へ帰還し、自分を欠如者として規定するサイクルを「自己性の回路」と呼びます。
この欠如分(可能性)によって現在の自己が限定(自分がいかなるものであるかの境界の確定)され、対自はこの欠如(可能性)に向かって自己(現在)から脱出していくわけです。
この運動が人間の行動(生)であり、この私独自の可能性に限定されたサイクルにおける存在の全体が「世界」です。

世界とは、人間存在が「自己」へ向かって超出するときにのりこえられるべき諸存在の全体であり、「そこから出発して、人間存在が自分の何であるかを自分に告げ知らせるところのもの」である。世界はもともと私の世界である。世界がなければ、自己性もなく、人格もない。また、自己性がなく、人格がなければ、世界もない。世界に、世界としての統一と意味を与えるのは、対自の諸可能性である。(松浪信三郎訳)

時間性(過去、現在、未来)

可能性に向かって対自が自己を超出していけるのは、時間(現象学的な意味での)においてです。

A.過去
過去「あった」は、私(対自)の背後から、私のあるところのもの(即自)であるように迫ってくるものです。
過去は可能性に向かって超出された後の事実性、いわば対自の軌跡のように積み重なっていく即自としての自己です。
これは未来向けて思われる、不在の、即自としての自己(先ほどの例でいう満月、雨)ではなく、反対に事実性として即自化した自己のことです。
過去とは事実性、即自によって取り戻され凝固した対自であり、人間が過去に戻れないのは、私が対自であるからです。
対自とは、過去という背後から迫る即自の鳥もちに捕まらないようにするための絶えざる逃亡です。
この即自は最後の勝利の瞬間(私の死)まで対自(現在)をおびやかし続けます。
死とは、時間性の根本的な停止によって私の可能性が失われ、逃亡が終わりすべてが過去化する瞬間であり、それは即自による人生全体の奪回です。
また、過去は、未来への企て(新たな決断)のための出発点であると同時に、未来への超出によってしか存在として成立しえないものです。
過去は記念碑のように石化していく私の歴史でありながら、同時に猶予状態にあり、それは私の未来によって形作られ意味付けられるものです。

B.現在
即自である過去に対し、現在は対自です。
対自は存在(~である)の否定として即自存在に対し(現前)、即自存在と言うひとつの全体を存在させます。
存在はそれを問うもの(対自)がいなければ成立しません(基礎用語編を参照)。
対自は存在からの絶えざる脱出であり、現在は瞬間と言う形で存在するのではなく、逃亡という形で成立するものです。
対自(現在)は自己の前と後ろに、自己の存在(即自存在)をもっています。
後ろは自己の過去(~であった)、前は自己の未来(~であろう)、です。
対自(現在)とは、自己が~であった存在(過去)から、自己が~であるであろう存在(未来)へ向けての逃亡(超出)のことです。
だからこそ対自の定義は、「自分がそれであるところのもの(過去)であらず、自分がそれであらぬところのもの(未来)である」となるのです。

C.未来
対自はその脱自的な構造によって、自ら世界の地平に描いた将来の形に向かって超出します。
これは単純な未来の夢や目的、それに向けての明確な表象や意志に従う手段などを指すのではありません。
今と未来を直線的な連続として捉える即自化された時間概念によるものではなく、対自の逃亡、脱自の構造そのものである根源的な時間によるものです(フッサールの項を参照)。
意志するにせよせざるにせよ、私の行動のすべては、かなたにおいてある全体(将来)に対する欠如に従い、その未来の状態に私を合致させるために、その過程としてアクションを起こしていきます。
スポーツで瞬時に動くにしろ、休息するにしろ、私の意味は、つねに外(かなた)に距離を置いてあります。
未来は、対自が「未だそれであらぬもの」、欠如である自己が全体に一致した際に「あるであろうところの自己(不在の即自存在としての自己)」として示されるものです。
私(対自)は、未来の地平へ、自己を投げ企てる(投企)ことによって、全体と融合しようとする欠如です。
未来と言う理想点において、過去(事実性)と現在(対自)と将来(可能)は凝結し、ついに自己はそれ自身における存在(即自)となるはずなのですが、これは永遠に実現しません。
永遠に逃げ去る地平線のように、未来のかなた(地平)に追いつくことはできず、今見る未来はかつての未来として過去へと滑っていくだけです。
未来は決して私に約束も保証も与えず、ただ、可能性を与えるのみです。
先にも述べたように、対自は無によって未来から(過去からも)切り離されています。
いわば対自は自由であり、自由そのものであり、自由であるよう呪われた存在なのです。

根源的時間

この根源的な意味での時間は、対自の内部構造の時間性として存在するものです。
人間の意識の脱自的な構造が、自己を時間化するのであり、時間というものが端から存在して、その上に人間が生きているわけではありません。
科学の対象となる相互主観的(共通認識される)実在としての時間、私たちが一般的に言う「時間」は、この根源的な時間性が即自に投影された、派生的なものでしかありません。

 

第三部、対他存在へつづく