サルトルの『存在と無』(2)第一部、無の問題

哲学/思想

(1)のつづき

<第一部、無の問題>

世界に無をもたらす者としての人間

世界というもの自体には、「無」などというものの余地はなく、存在に満ち、完全に充足しています(即自存在)。
「無」というものを生じさせるのは、人間の意識(対自存在)であり、それ以外ではありえません。
例えば、大地震で山一つが崩れ、無くなったとしても、世界にとってはただの変化であり、何が無くなったわけでもなく、相変わらず存在で充満し続けています。

人間が「山」というものを限定付け存在として認識する際に、既に「山で無いもの」との比較を前提していますし、山の在る世界と無い世界を可能性として把握できるからこそ、今、山が無くなったことを認知することができます。
当然そこには(現在で無い)過去の山、あろうはずであった(現在で無い)未来の山も前提とされています。
物の把握、時間や空間、可能世界、比較や問いや反省など、人間の意識の働きはすべて、充足した存在の世界(即自存在)から分離する否定と無化の働きそのものによって成立しているのです。

充足した完全な存在の世界に、「無」を到来させるものこそが人間であり、ある種余計な、存在世界の部外者、異邦人なのです。
しかし、この存在の局外に自己を置き、存在と自分との関係性を持てるということが、人間の本質と言えます。
無を分泌し、存在(世界)から自己を孤立させられるこの可能性を、デカルトは「自由」と名付けました。
人間は先ず存在しその後に自由であるのではなく、人間存在と自由(さらに言えば無)はイコールで結ばれるものなのです。

人間存在、あるいは意識の本質構造とは、「自己(世界の一部としての自己、即自存在、存在充実としての自己のこと)からの離脱」です。
先立つ意識と後続の意識との間を常に無によって切り離し、絶えることなく自らの過去存在の無化としてあるものが人間存在、意識なのです。

自由の意識としての不安

いわゆる「恐怖」は世界の諸存在(対象、オバケや病気など)についてのものですが、「不安」とは自己におけるもの、自己の自由の意識を前にして生ずるものです。

例えば、断崖の細い道を歩く時、私は小石につまづいたり足場が崩れたりして私は崖の下に落ちるのではないかと想像します。
その時私はひとつの事物(即自存在)となり、可能性に対して受動的になります。
しかし、これは私の可能性ではなく、私の範疇にない外部の可能性です(足場が脆いか偶然転ぶかなど知ったことではない)。
私の可能性とは、無事にたどり着くための未来の行為を企て、それに従い、ただ、慎重に足元に気を付け、できるだけ崖から離れて歩みを進めるという行為のみです。
これらは私の可能性であるがゆえに、私次第であり、この行為をなすための拠り所など他にないことを了解しています。
未来の私(あるであろう私)と現在の私(いまはそれであらぬ私)との間には無の間隙が入り込みます。
この未来と現在のつながりをまったく保証しない「無(あるいは自由)」の認識が、不安の正体です。
私の「それであらぬというしかたで、あるであろうところのものである」「あらぬというしかたで自己自身の未来である」という意識こそが「不安」と呼ばれるものです。

これは過去においても同様です。
例えば、私が昨日、「もう決してパチンコはしない」と強い決意をもって心に誓ったとします。
しかし、いつもの時間、行きつけのパチンコ屋の前を通る時、不安が訪れます。
昨日決心した時の私の意識と、今日この瞬間における私の意識は「無」によって切り離されており、昨日の私の意識は今の私の意識を助けにきてはくれません。
私はまたまっさらな状態でパチンコ店に入るかどうかの決断を迫られており、無から自由にやり直さねばなりません。
このより所なき無(自由)の意識が「不安」です。

過去の自分、今まではこうであった自分、今まで自分はどういう人間であったか、いわば自分という人間の本質「何(者)であるか」と、今この現在の自分は無によって切り離されているのです。
人間(その人)の本質とは、その人が過去に「あったところのもの」としてとらえられるものすべてを指します。
不安とは、意識が自己の本質から切り離されていることの自覚によって成立するものです。
それは、未来からも切り離されていること(未来が約束されていない、未来が確定されていない、要するに自由)における不安と同じものです。
不安とは自由の反省的な把握のことです。

倫理的不安とそこからの逃避

私は今この瞬間における行為選択において、何の拠り所も与えられていません。
私は無によって、世界(即自存在)からも自己の本質(過去の私、即自存在としての私)からも切り離されているので、世界と自分の本質の意味や価値を、言い訳なしに自分で決定し、実現していかねばなりません。
この自由の不安、倫理的不安(決断と責任の重圧)から逃れるために、人は多くの場合、自己欺瞞的に自分を物体のような即自存在(あるところのものである)とみなし、「私はこういう人間(本質)だからこうする」「世界はこういうものだと決まっているからこうする」と言って、既成の意味や価値に丸ごと身を預けて安住するのです。
その典型が決定論です。
自己をまるで外的対象、他人や事物のようにとらえることによって、不安から逃れようとします。

 

第二部、対自存在へつづく