サルトルの『実存主義とは何か』(1)

哲学/思想

実存主義はヒューマニズムである

実存主義は、諸方からこのように非難されています。
「現実の不条理性や不可能性を説く、現状肯定(保守)のブルジョワ哲学」「人間の孤独や虚無や醜悪な部分のみにスポットを当て、デカルト的な独我論(我思うゆえに我あり)に閉じこもる、反人間主義」「普遍的な価値を否定し、万人に好き勝手なことをさせようとする自己中心主義」と。

それに対して私(サルトル)は答えます。
実存主義とはひとつのヒューマニズムであると。
人間に可能性を与えるものであると。
実存主義を悲観論だと非難する彼らは、実のところ、実存主義が人間の可能性を確保するものであり、むしろ楽観論であることに対して憤慨しているのではないでしょうか。
それを明らかにする前に、そもそも実存主義とは何なのかを定義づける必要があります。

実存は本質に先立つ

実存主義には二種類あり、第一に有神論的実存主義、ヤスパースやマルセルなどであり、第二は無神論的実存主義、ハイデガーや私を含むフランス実存主義などです。
両者が共通して考えていることは、「実存は本質に先立つ」ということです。

例えば、ペーパーナイフという物は、それを頭の中に理念(イデア、アイデア)として描いた鍛冶屋(製作者)が作ったものです。
そのペーパーナイフの理念は、同時に材料や製造法のような既存の理念を含んでおり、また、それはつねに何らかの用途を持ったものとして規定されています。
ですから、ペーパーナイフはそれが現実に存在、いわば実存(現実存在の略)する前に、鍛冶屋の頭の中で理念として、その本質(それが「何であるか」という固有の本質、定義のこと)が先立って存在しているのです。
こういう技術(道具)的世界観において、事物というものは、生産的本質が実存に先立っているのです。

本質が実存に先立っていた頃

十七世紀思想までは、神は人間の製作者であり、人間の本質は現実の存在(実存)に先立って、神の中に理念(本質)として在りました。
十八世紀の無神論の流れの中で、神という製作者は捨てられましたが、「本質は実存に先立つ」という思考は捨てることができませんでした。
人間は人間の現実の存在(実存)に先立つ普遍的な本質を持ち、現実の個々の人間というものは、「人間」という普遍的概念の特殊なあらわれであると考えていたのです。
カント的道徳観は、この普遍的人間という概念の強制によって成立するものです。

これに対し、無神論的実存主義は、神という製作者を否定し、なおかつ「本質は実存に先立つ」ことをも否定する、いわば「実存が本質に先立つ」存在が、少なくとも一つあると主張します。
それがすなわち、人間であると。

人間の本質は本質がないこと

人間は先ず現実に存在し、そのあとで定義付けられるものです。
人間は最初、なにものでもないからです。
人間は後になって人間になるのであり、人間は自らの製作者として、自ら作った人間に“成る”のです。
神が存在しない以上、人間に本質(本性)は存在せず、人間というものは、現在および未来において、自ら考えつつ、望みつつ、飛躍的に生成していく(作られていく)ものでしかありえません。
人間は人間として生まれるのではなく、自ら人間に成っていくのです。
これが実存主義の第一の原理です。
いわゆる主体性です。

実存するとは投企によって存在の本質を規定すること

人間は先ず、自らを未来に向かって投企(プロジェクト)し、その投企に従って、自らの世界の本質をデザインし、事物を存在させるのです。
実存する、とはまさにこのことであり、人間とは自らが生ける投企(要は主体)なのです。
この投企に先立ついかなるものも存在せず、人間も自ら投企したところのものになるのです。
これはいわゆる意志(意識的な決定)ではなく、より根源的で自発的な未来への志向性を指しています。
【解説】
非常に分かりにくい箇所ですが、フッサール、ユクスキュルハイデガーの項をご覧いただいた上で再読していただければ、多分わかります。
一応、簡単な例を挙げておきます。
人間の目の前のT字形の鉄塊がハンマーとして存在するのは、「ハンマーは釘を打つためのものであり、釘打ちは家を作るためのものであり、家は安定した寝食のためのものであり、その生活は私が快適に生きるためのもの」という未来(目的)によってです。
そういう未来に向けての志向、目的、プロジェクトが、事物に先立って人間によって投げられているからこそ、その投企(プロジェクト)に照らされデザインされ本質を規定された事物(ハンマー=釘を打つための大工道具)が存在しうるのです。
人間を取り巻く事物の世界は、事前に神意やイデア(普遍的な理念的本質)によって決定されているものではなく、人間の投企(プロジェクト)に従いデザインされたものでしかありえないのです。
例えば、物体に“硬度”が存在するのは、モノの固さを物理的に有効利用しようという投企によるものであって、投企以前に存在する本質ではないということです。
勿論、道具的存在だけでなく、私という人間自身の本質も、私自身の投企(いわば実存)によって生み出された事後的なものでしかありません。
【解説おわり】

人類に対する責任

と、いうことは、つまり、人間は存在するところのものすべてに対して全責任を負っているということです。
それは自業自得というような個人の責任ではなく、全世界、全人類に対して持つ責任です。
私が自らを選択していくと言う時、それは同時に人類の在り方を選択するということです。
私が何かを選び取るということは、それが価値あるもの、そうあるべきだと望むものです。
現実の個々のリンゴが、リンゴという類一般の本質を常に実現しているように、私という個別的な人間が選び取る人間の姿は、同時に人間一般の本質を規定することになるのです。
私という責任主体は、意識せずとも社会参画しているのであり、そのひとつひとつの行為によって、人類全体を拘束(アンガジェ)することになるのです。
例えば、ある者が現実の改革運動を諦め宗教に回心するという行為選択を為す時、人間の本質は諦めであり人間にとっての本質的な幸福は地上に無いと、人類の本質を拘束、規定しようとすることと同義なのです。
私は私を選ぶことによって、同時に人類を選び、私の行為選択は、私自身だけでなく万人に対しての責任をも負っているのです。

不安

実存主義が「不安」を強く押し出すのは、不安というものが、この全面的な責任感の重圧によるものだからです。
不安とは選択(自由)と責任に伴う情動であり、安心とは何の責任も負わず選択もせずにいられる状態です(母に抱かれる赤子のように)。
実存主義の言う不安とは、行動そのものの一部なのであり、行動を阻害するものではありません。
多くの人々が、この全面的な責任を自己欺瞞によって回避しようとしているため、不安というものが自分の行動を阻害するもののように感じてしまうのです。
[ハイデガー的に言えば、不安というものを、自分の嘘(欺瞞的行動)を告発し反省を促そうとする監視人のように感じている。]

孤独

実存主義の言う「孤独」とは、神が存在しないこと及びそれによって生じる全ての結果を意味します。
世俗の実利主義的な道徳屋のように、神なんてバカらしいと否定しつつ、先験的な(経験に先立つ)道徳的価値や普遍的な人間本性を語るヒューマニストの欺瞞とは正反対に、実存主義は神がいなくなることは極めて重要で厄介な問題であると考えます。
神がいないということは、つまり、先験的な善や、普遍的な意味や本質、完全性、絶対性などというものが存在せず、ただ、裸で置き去りにされた人間のみが存在する、ということだからです。
「もし神が存在しないとしたら全てが許される」というドストエフスキーの問題設定が、実存主義の基点です。
人間は孤独であり、頼るべきものを今やもたず、決定論や本質のようないかなる言い訳も通用しない、逃げ場のない自由の中におり、人間とはつまり自由そのものなのです。
「孤独」とは、この自由の刑に処せられた人間の別表現です。
なぜ、刑かというと、人間はこの全責任を負う自由の状況を、自分で作ったわけでも選び取ったわけもではなく、一方的に投げ出されているからです。
何の助けも標識もない状態で、刻々と人間を作り出していくという刑の中で生きていかなければならないのです。
「人間」は現在にも過去にも居らず、未だない来るべき未来に存在するものです。
いかなる人間が到来するかは分からないままに。

【解説】
ここで、戦地に赴こうとする青年が具体例として挙げられますが、長くなるので簡単に解説します。
私という人間の本質(何であるか)は、私の実存、現実の行為によって作られます。
人は端的に、善い行動をするからこそ善い人間なのであり、悪い行動をするからこそ、悪い人間なのです。
例えば、今まで善良だった人間が急に人を殺した場合、世間の人々なら「元々悪人の本質を持っていた人が今まで善良なふりをしていてだけ」あるいは「善良な本質を持っていた人に魔が差しただけ」と言いますが、実存主義はこう考えます。
彼は殺人という、自分の主体的な選択、現実行動によって、善人という本質を捨て、悪人という本質を選び取ったのだ、と。
実存、いわば現実の行為選択によって、おのれという人間の本質を規定し直したのだ、と。
(人間の心や本質のような見えないものが、原理的に外面的な行動によってしか判断しえないことは、プラグマティズムとは何かの項を参照してください。)
【解説おわり】

絶望

実存主義にとって「絶望」とは、自分の意志選択のコントロール内にあるもの、あるいは現実的な可能性の全体のみを頼りにする、ということです。
要は「希望なく行動する」ということです。
夢や希望や期待のような現実的可能性を土台としない志向ではなく、ただ現実的可能性の中で、最善の行為選択を、可能な限り為す、ということです。
古い格言にあるように、そもそも物事を企て成し遂げるのに、希望など必要ないのです。

絶望とは希望の無くなった状態を指しますが、実存主義はむしろ希望を自ら捨てるのです。
なぜなら、希望や夢や期待などというものは、人間の本当の生を、挫折した希望、破れた夢、裏切られる期待として定義づける、極めてネガティブな概念だからです。
それは現実行動以外の場所に人間の生を見出そうという、虚しい当為です。
人間の本当の生とは、現実行動の中にしかありません。
行動によって形成されつつある恋愛の中にしか恋愛はないのであり、その恋愛の中にあらわれる現実的な可能性の中にしか恋愛の可能性はないのです。
実存主義は現実行動の中に見出される可能性以外にはそもそも無関心なのです。
なぜなら、それ以外のものは可能性の体裁をとった不可能性にすぎないからです。

 

(2)へつづく