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プラトンのイデア論

哲学/思想

注、本項を読まれる前に必ずプラトンの弁証法の項をお読みになってください。

 

イデアと現象

「イデア(idea)」とは観念、理念、本質、理想などの意味をもつ語で、現在の「アイデア」の語源にもなっています。
それの対となるものが、目の前に現実にあらわれる象(かたち、ありさま)としての「現象(phainomenon)」です。
「イデア(idea)」も元は「見る(idein)」という動詞から生じたもので、「見られたもの」という意味を持ちますが、それは肉体の目で見られた「現象」のことではなく、魂(精神)の目で見られた理念的な「真の姿形」を指しています。
[魂の目で見られた姿形などと言うと、馬鹿にする人もいるかもしれませんが、これは極めて正確なものです。私は、心の中の姿形(本質的特徴)に照らして、知人の一卵性双生児を容易に見分け、街で30年前の同級生に気付き、数ミリ小さくなった長方形のチョコバー(ステルス値上げ)に憤慨します。]

肉体の目の前の現実に現れた「現象」から、精神によって本質や類型や理念を抽出し、魂(精神)の目で見られた事物の真の姿が、「イデア」です。
イデア論において重要になるのは、このイデアが現実から離れ独立して存在するものであり、むしろイデアこそが真の実在であるという主張です。
先ず、イデアという真実在の世界があって、それが私たちの前に現象としてあらわれる、というのがイデア論の構図です。
現実の現象の世界から分離された、理念としてのイデアの世界、そしてそのイデアを現実より優位に置くという立場の転倒が、イデア論の本質的な構造です。

 

イデアとその分有

例えば、チワワとドーベルマンとチャウチャウでは、形も大きさもかなり違う生き物です。
しかし、私たちはそれを同じ「犬」として認識します。
その時、頭の中にある犬のイメージや参照枠のようなものが、犬のイデアです。
分かりやすくいうと、動物ビスケットのような、犬すべてに共通する原型のようなものが頭の中になければ、これら形の違う生物を同じものだと認識できません。

例えば、現象としてあらわれる現実の円は、すべて違う形をしています。
地球の円は赤道方向に伸びた楕円ですし、コンパスで描く円は近くで見ると画用紙の凸部についた不定形の黒鉛の帯状の集積です。
原理的に真の円は現実には存在できません。
現実には幅のない線は存在しえず、面でない点は存在できないように。
だから私たちは様々な円に似た物体を見て、頭の中にある真円「円のイデア」という参照枠に照らして、それら現実のものを「円」と呼んでいるのです。

お月様を見て、モグラの巣穴を見て、黒目を見て、そこに共通する「円」というイデアを抽出した瞬間から、その後世界の事物は、その円のイデアに照らされるようにして、世界に「円いもの」が存在しはじめるのです。
そして、この各々のイデアというものは、元から思惟の世界(イデア界)に存在して、人はただそれを想起するだけ、引き出してくるだけだと、プラトンは考えます。
だから、円の性質を持った事物は、円のイデア(本質)を分有したもの(似姿、不完全な劣化コピー)であり、先に在るのは現象ではなく、イデアの方なのです。

 

イデアの先行

人間が事物の存在を認識する際にも、先行して常にそういうイデア(理念、本質)が参照されています。
一般的には、まず世界に犬という存在物があってそれを私たちは見ていると思っていますが、実際は、先ず頭の中にある「犬のイデア」に照らしてどれだけ目の前の対象(存在物)がそれに似ているかでその存在を「犬」として認識するのです。
例えば、私たち一般人は、ダイヤモンドのイデア(理念、本質)「透明、キラキラ輝く、ダイヤモンドカット等」に照らして、目の前の物体をダイヤモンドとして存在させるわけですが、ダイヤのイデアをより正確に把握している宝石商からすればそれはダイヤのイデア(理念、本質)「モース硬度10、比重3.52」ではなく、ガラスのイデア(理念、本質)「モース硬度5、比重2.5」であり、ただのガラス玉として存在させています。

伝統的な「存在論」の言葉で言うなら、現実の存在物である眼前の「犬」(現実存在“~がある”)は、本質的で理念的な存在である「犬そのもの(犬のイデア)」(本質存在“~である”)に規定されてしか、存在を許されないということです。
本質規定「何であるか、“~である”」の与えられない事物は、「何でもないもの」にすぎず、喩えるなら、それは、図形化されないただの背景(地)、組み立てられない素の材料、動く抽象絵画のような混沌、のようなものとなってしまいます。
[現実存在、本質存在に関しては、『存在と無』の項を参考にしてください。]

イデア(理念、本質)が先行しない事物など原理的に存在しません。
存在物というものは先行する本質規定(要は定義)次第で、存在したり、存在しなかったり、別の存在になったりするものなのです。
イルカが魚ではなく人間の仲間になったのは、生物学分類における本質規定(定義)の刷新のためであり、花に命が在るとされたり無いとされたりするのも、その時代その文化における「植物」や「生命」のイデア(本質規定)いかんにかかっています。
プラトンが対話、問答(弁証法)にこだわったのは、それがイデアを正確に把握するための唯一の方法だからです。
イデアの把握が不正確で、ダイヤとガラス玉を見誤る程度なら構いませんが、正義のイデアを捉え違えて、人殺しを正義だと思ってしまえば、ジェノサイド(大量殺戮)に結びつきます。

このように、プラトンにとって現実にあるもの「現象」は、「イデア」という本物をコピー(分有)する不完全な似姿・模像・仮象でしかなく、イデアこそが真の実在となります。
現象として現れる「○○」(例、円)は、生成消滅流転する儚いものですが、イデアとしての「○○そのもの」(例、円そのもの)は、不滅不変のものです。
それは形而上学的な理念の世界(イデア界)にあり、現実の物理的な制約を超えた永久で普遍の完全な実在であり、それを捉えることができるのは私たちの思惟のみであるというわけです。
魂(精神)が先天的に持っている無意識の底のイデアの記憶を、現実の個物という模像を通して思い出す「想起(アナムネーシス)」が、すなわち真理の認識です。
プラトンをキリスト教化したアウグスティヌスに言わせれば、物理的な外部世界の解明は、実のところ、内部世界、人間精神の解明に他ならず、例えば、数学的真理は物の関係を扱うものではなく、人間が物を把握する時の精神の構造を解明しているにすぎないのです。

 

<善>のイデア

ここで一つの疑問が生じます。
では、個々の犬の本質から「犬のイデア」を抽出したように、個々のイデアからさらに普遍的なイデアの本質、いわば「イデアのイデア」が抽出できるのではないかということです。
そして、プラトンはこれを「<善>のイデア」と呼びます。
普通にいう相対的な善悪の善のことではなく、普遍的で比較を超越した概念のことで、便宜的に<善>と名付けています。

とらえがたい「<善>のイデア」を類比的に表現するなら、それは私たち感覚世界の「太陽」に似ています。
現象の世界、感覚の世界のすべての物は、一つの「太陽」に照らされて、初めて見ることができるようになります。
太陽の光のない闇は不可視であり、事物の存在可能性は、太陽の要素を分与されることにおいて成り立っています。
それと似たように、イデアの世界(思惟の世界)のすべてのもの(個々のイデア)は、一つの「<善>のイデア」に照らされ、イデアの要素を分与されることにおいて成り立っています。
個々のイデアをイデアとして評価し認定する基準が、この「<善>のイデア」であり、個々のイデアがイデアたりうるのは、この「<善>のイデア」の本質特性を分有することにおいてなのです。
イデアは事物の「何であるか」を規定し限定づける認識根拠(可視可能化の条件)であると同時に、その存在根拠(存在として世界に居場所を与えられる資格)でもあるのです。

この究極的な普遍にある「<善>のイデア」への憧れが、愛知(フィロソフィア)の動因です。
そして、愛知者(哲学者)は、弁証法(ディアレクティケー)の限りを尽くして、この純粋観念、純粋理想である「<善>のイデア」へたどり着こうとします。
これは、魂の純化の過程であるイデアの道の先にある消失点、終極点としての存在(最終目標、憧れ)です。
個々の事物を、諸々のイデア(類、本質)によって分割し、その関係性を見定め、「<善>のイデア」を頂点とする全体的構造(類-種関係のヒエラルキー構造)へと収めたものが、イデア界です。
感覚世界の万物自然は、このイデア界を原範型とする似像(似姿)の関係としてあります。
思惟の旅を経て「<善>のイデア」をとらえた時、ようやく人は世界の本当の姿を理解することができるのです。

 

洞窟の比喩

洞窟の比喩とは、この現象とイデアの関係性を比喩的に述べたものです。
私たち人間は、生まれたときから洞窟の奥の行き止まりの壁面に対し向かい合うようにして杭に縛りつけられた囚人です。
背後(入り口側)にある光(真実在・イデア界)を直接見ることができないようにされています。
だから、私たちは背後の光によって照らされた背後の事物の影絵が壁面に映った姿しか、見ることができません。
囚人はその目の前の影(現象)のみを実在と思い込み、背後の真の実在(イデア)の存在を想像することすらできません。

仮に縄を解かれ、振り返り、光を直接見たとしても、目が光に慣れていないため苦痛であり、よく見えず、結局見慣れた影絵に戻ってそちらを実在だと思いたがります。
だから、真実在(イデア)を観るためには、そのための訓練が必要であり、徐々に目を慣らしていかなければならないというわけです。
知や教育とは、影絵の世界から光の世界へ転回させることであり、知識の量を増やす(影絵の畜集)という下らないことではありません。

影絵の感覚の世界、現象の世界のみを実在だと信じる一般人や、影絵の世界の知識のみを集めた自称知者の元に、外の光の世界から真の知者がやってきて彼ら囚人たちを洞窟から連れ出そうとすれば、彼らはその救いの主を殺してしまうだろう、とプラトンは述べます。
この囚人たちに殺された救世主とは、勿論、ソクラテスのことを指しています。

 

イデア論の思想史的意義

プラトンのすごさを簡単にまとめるなら、相対的な混沌にあった粗野な人間の世界に、「普遍」を導入してしまったということです。
代表的なソフィストであるプロタゴラスは、「人間は万物の尺度」であり、人間社会の真理の基準は個々人の主観による相対的なものに過ぎないと考えます。
そういう世界にあって必要なことは、相手を言い負かし、自己の真理を採用させる強い説得の術、弁論術(詭弁術)の力です。
真理が勝つのではなく、勝った者が真理になる時、必然的に善も正義も社会的強者の利益に準ずるものとなり、社会は粗野なエゴのぶつかり合い、真理と権力の争奪戦のパワーゲーム、自然的闘争の世界になってしまいます。[カリクレスの項を参照]
そういう時代の「知」のあり方を、ソクラテスが「無知」によって徹底的に破壊し、ゼロにしたところで、プラトンが普遍的な真理である「イデア」を導入したということです。

現代哲学の道を開いた哲学者のニーチェは、プラトンにおいて前代未聞のとてつもないことが行われたと語ります。
それは人間と世界の本質の大転換であり、それ以降、人間観および世界観というものが大きく変わり、今なお私達はその中で生き続けているのです(ニーチェはこれを呪縛とみなし、自身の哲学において解放を試みます)。
身体よりも心を大切にする人間、感性よりも理性を大切にする人間、現実よりも理想のために生きる人間、それらは決して始めからある当たり前のものなのではなく、プラトンの発明品だと言っても過言ではありません。

 

善く生きること

主観的価値観や利己利益を正当化するための処世術の一種に過ぎなかったソフィスト的な「知」を、個人の利益を離れた純粋な探求の対象「知そのもの」として扱い、プラトンは万人共通の「普遍的な知」を模索したということです。

元々、プラトンは知と善が一致すると考えており(悪とは誤った知が生じさせるもの)、事物のイデア(本質、何であるか)の認識には、必然的に価値判断(善)が含まれていると考えています。
[ハイデガーやサルトルが、人間が未来に投げかけるプロジェクト以前に、事物が存在できないと言うのは、このことです。]
その個々のイデアの根源にある知の究極的な根拠が「<善>のイデア」と名付けられるのは、プラトンがあらゆる「知」の先に、人間の理想的な<善>のあり方を見据えているからです。

プラトンは、あまりにも酷い状態の現実政治の世界をどうにかしたくて、哲学(理論)の道に入った人です。
その視線の先には、常に、人々皆がより善く生きられる社会の理想が見据えられています。
誤った知(主観的信念-ドクサ-)に従い、短絡的に、自己にとって善いと思われている価値を合理化するための自己欺瞞と言い訳の技術が、ソフィスト的な知です。
そういう相対的な知のあり方、個々の主観的な善いと善いの対立を総合し、人々を知的に進歩させ、お互いを共により善い状態へといたらせようとするのが、プラトン的な知です。
それは、独り善がりの自分だけの正しさの思いこみ(ドクサ)を、皆の心を納得させる共通(普遍)の理(ロゴス)へと高めると同時に、万華鏡のように変化する儚い影像の世界(現象界)から、永遠不変の光の世界(イデア界)へと転回させるものです。

 

おわり

アリストテレスの形而上学へつづく