トルストイの『人生論』(かんたん版)

人生/一般 宗教/倫理

『人生論』とは

トルストイの著作は明確に前期と後期に分けられます。
前期は純粋に芸術家としての文学作品が中心であり、有名な小説『戦争と平和』がこれにあたります。
後期は思想家(あるいは宗教家)としての文学作品が中心であり、有名な『復活(カチューシャ物語)』や人生論、宗教論などが主な仕事です。

後期の思想は、当時、世界中の知識人たちに強い影響を与えました。
東洋で言えば、マハトマ・ガンジーの非暴力運動の基礎となったのがトルストイの宗教論文であり、日本の近代思想を生み出した世代(西田幾多郎など)にとってトルストイは非常に大きな存在であり、その道徳観の形成に寄与しました。
現在は完全に逆転してドストエフスキーが流行りですので、当時のトルストイに対しての熱狂は、考えにくいかもしれません。

その後期トルストイの思想を明確にあらわした著作が、今回紹介する『人生論(生命論)』です。

私たちの生きる世界

私たちが一般的に持つ人間社会の世界観は、だいたい以下のようなものになります。
人間一人一人がエゴ(個我)を持ち、各々がその欲望の充足のために活動し、世の中は個々のエゴのぶつかり合いの利益の争奪戦であり、強い者は多く持ち、弱い者には与えられず、自然淘汰的に消えてゆきます。
現代社会を形容する際に、よく「適者生存」「弱肉強食」などと言われますし、実際、多くの人がそれを原理に動いているようにも見えます。
どれだけ多くの土地を持ち、金を持ち、権力を持ち、良いものを食べ、性を充足させ、快楽を得、余分に生きるかが、要するに動物としての生存を有利にするモノへの飽くなき欲求の活動が人生であり、その獲得が幸福だということです。

しかし、これら地上の幸福なるモノをすべて手に入れた前期トルストイは、それらは結局幸福を約束するものではなく、むしろ不幸を招来するものであることに気付きます。
それは、プラトンの言う「穴の開いた酒樽を満たそうとする徒労(快楽のこと)」であり、幸福の争奪戦で無数の敵と闘い多くの犠牲を払いながらやっと手にした幸福も、泡のように消え去るはかないモノだったのです。
そうすると、人は「幸福になりたい」という思い(希望)と「幸福になれない」という現実に引き裂かれ、人生とはただの逃げることのできない苦しみの煉獄となってしまいます。

世俗の世界観に対する批判

しかし、こういう既存の世界観は、ある特定の視点(思考の枠組み)から見られた、偏ったものでしかないとトルストイは言います。
その原因となっているものは、いわゆる「科学」と言われる近代特有の思想の傾向です。

科学のベースとなるのはモノであり、人間や精神ではありません。
世界は物理的なモノを基礎として成立し、そのモノの特殊な配列が有機物を生み、さらにその有機物の特殊なものが動物(生物)であり、さらにその動物の特殊なものが人間です。
自然科学の発展と共に、ある時期を境にして、人間を「言語を持った猿」「理性を持った動物」などと形容し、捉えられるようになります。
現在の私たちを取り巻くメディアでも、進化心理学的な言説や脳科学的な言説に溢れ、人間の心や行動はモノあるいは動物(モノの特殊形)を中心とした視点で語られます。

しかし、トルストイはこれを「ひっくり返った遠近法(世界観)」だと批判します。
科学は、「1.モノ→2.動物→3.人間」の優先順に世界を定義付けますが、正確には「1.人間→2.動物→3.モノ」のはずだと言うのです。

ひっくり返った遠近法

先ず、人間がはじめに手に入れるのは人間の観念です。
自己の内感と五官を通して得られる外部のデータとのつながりを通し、かつ私が何らかの目的に向かって志向し動くという意志の感覚を通し、自己(人間)というものを知ります。
そこからの類推として他者の観念を得、さらにその人間(自己+他者)からの類推として動物(生物)の観念を得、さらにその生物の構成要素としてモノの観念を得ます。

だから、人間が「言語を持った猿」や「理性を持った動物」なのではなく、猿が「言語を持たない人間」であり動物が「理性を持たない人間」なのです。
さらに言えば、モノとは「脳や心臓を持たない動物(あるいは言語、理性、脳、心臓を持たない人間)」の観念です。
動物は人間の反映(似姿)、モノはそのまた反映の反映のような構成物でしかなく、正確には世界の遠近法を構成する視点は人間なのであり、モノなのではありません。
人間は事物を自分(人間)の目に見えるようにしか見られませんし、自分の内に持つものの範囲内でしか物事を定義(意味)付けられません。
客観(客体)的なモノとは、主観(主体)的な構成物でしかないというその出自を、自己欺瞞的に忘却することによって、生ずるものでしかありません(フッサールの項を参照)。

知(科学)の誤り

モノ(物質)の法則が人間にとって明快に(まるで正しいかのように)見えてしまうのは、それが明らか(正確、真実)なものであるからではなく、人間によって構成された単純で分かりやすいものだからです。
遠くのものは複雑さが捨象されて単純化した形態に見えるように、科学(物質)の法則の明快さとは、対象の明らか(正確、真実、複雑)さを犠牲した上に成り立っています。
簡単で分かりやすい「明快さ」と、正確で真実である「明らかさ(覆いの無さ)」を、混同してしまっているのです。
遠くで正確に見えていないものを単純な形態だから「明快」だと言って、それを「明らかな(正確な)」ものだと思い込んでいるのです。

そうしたモノや動物を視点とした世界観で人間を見ると、必然的に人間とはただモノに生き、ただ動物的欲望の充足を求める存在であり、理性や心とはその活動の際に生じる脳内の火花(幻)のようなものでしかない、となります。

だからトルストイはこの奇妙な倒錯した世界観を、正確な遠近法によってとらえ返さねばならない、と言うのです。
それは人間の理性を中心にして、世界を再構成し直すということです。
モノや動物で人間を定義づけるのではなく、理性によって動物やモノを定義付けなければなりません。

理性的調和を実現すること

理性の主な機能とは、物事を分別し、その分別した物事の間につながりを見出すことです。
理性によってものを見れば見るほど、世界の事物のつながり、いわば必然性が見えてきます。
ある物事がどうつながり発生したか、ある物事を成立させている条件とは何か、というようにモノの世界を構成する時間的関係性、空間的関係性が把握されます。

そうすると、モノ(時間空間)を中心として世界を見ていた時に生じていた人間の苦しみ(精神的および肉体的)というものが、解除されることになります。
エゴ(個我)というものが実体として存在しているのではなく、あくまでも関係性(つながり)の中にのみ存在するものでしかないと知った時、人は個我の執着から離れ、闘争の世界から調和の世界へ、さなぎの殻を破り蝶になるように、飛躍的な成長を遂げます。
エゴ(個我)とは関係性の忘却によって生ずるひとつの幻(抽象観念の実体化)のようなものです。
例えば、有名なだまし絵「ルビンの壺」は、壺を忘れることによって顔が実体化し、顔を忘れることによって壺が実体化するように、関係性を忘れることが個我の成立条件なのです。

関係性(つながり)を見ない個我への執着が、個我同士の闘争を生み、本来苦しみでないことを苦しみと勘違いさせ、死への恐怖や虚無への不安という幻影を生み出します。
人生を責め苦にしていたのは、世界なのではなく、理性(目的)とモノ(手段)を転倒してとらえていた私自身なのです。
そうして、動物的欲望やモノは、あくまでも理性的調和という目的を実現するための手段であり、脱皮前の私は手段を目的化するという転倒した生き方をしていたことに気付くのです。
私たちは、理性を取り戻し、つながりを認識し、その世界というつながりの大きな流れ中で生きることが必要です。
そして、それが、人間が幸福を実現するための唯一の道なのです。

人々は世俗の転倒した世界に生きながらも、時折そのつながりの世界を、知らず知らずのうちに体験しています。
それが、いわゆる「愛」と呼ばれるものです。

 

おわり

 

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