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トルストイの『人生論』(1)

人生/一般 宗教/倫理

序章

一般に科学的思考というものは、合理的なものと考えられています。
しかし、実際にはそれは非常に不合理なものであり、現代において科学と言うものはある種の宗教のようなものとなっています。
ドグマ(教義)がためのドグマであり、科学の御名において私たちはそれを手放しで信じなければなりません。

なぜそう言うかというと、本来、真に合理的であるためには、ある考察が人間においてどういう位置を占めるかということが重要なはずだからです。
人間とって実り多い知恵を得るためには、何を先に考え、何を後にするかという重要さに従う順位を付ける必要があります。

合理的なものとは、目的に対する手段の明確な配置と順序立てと一貫性であり、科学はこれを忘却してしまっています。
考察がための考察であり、むしろ人間的なものを排除し、本来目的であるはずの対象(人間)を捨て去ってしまいました。
科学はその考察そのものの中においていかに論理的であっても、全体として見た時、不合理なものとなるのです。

そして、これは人間の生に関する学問においても同様であり、私はこれを主題とした諸々の学説に対し満足することはできません。

[基礎研究は無意味で応用研究が大事、というようなことを言っているのではなく、科学は抽象化しすぎて現実から遊離した空中楼閣のようになってしまっている、と言っているようです。→フッサールの『危機』の項を参照]

第一章、人間の生の矛盾と逆説

人間誰しも自らの幸福のために生きています。
幸福になるためのものを望み、それを獲得することの連続が生きるということです(例、空腹という不幸を、食べ物の獲得において幸福にする)。

人間が生を感じるのは、自分の個我においてのみであり、他者の生命はただ観察によって間接的に類推することができるだけです。
真の生命は私においてしか感じることができず、他の生命は自己の存在のいち条件(環境)としてあるだけです。
他人の不幸を私が望まないとしても、それは私が不快(不幸)な思いをしたくないからであり、他人の幸福を私が望むとしても、それが私を快く幸福にするからであり、結局、人は自分の内の生の幸福を第一に考えざるをえないのです。

しかし、これは裏を返せば、私以外の人間も、みな同じように自己の生命と幸福のみを感じ生きているということです。
自己の生と幸福を第一のものとみなし、他者の生はそのための手段であり、全人類がそれぞれ自分の目的のために他者を手段にしようとしあっています。
そう考えると、私の個人的な幸福はそう簡単に獲得できるものではなく、獲得したとしてもすぐに奪い去られるだろうと気付きます。
この世界は幸福の奪い合いの闘争の場であり、その参加者であるわたしには幸福ではなくただ災厄が約束されているだけです。

いかに有利な闘争の条件を与えられ、他人よりも余分に幸福に与ったとしても、今度はそれを時間というものが奪い去り、倦怠や飽きや老いによる生の衰えが、それ(幸福)を滅ぼしていきます。
全世界と戦い獲得した幸福は、常に苦悩に終わる仮初のものです。
私の個我が望む生も幸福も、結局は所有することができないのです。

幸福のみならず、私の個我や生命は、すぐに滅び消え去ります。
残り続け、生き続けるものは、むしろ私が生を感じていなかった外部の「世界」のみです。
個我の闘争と生死による世代交代(新陳代謝)の中で存在しつづける「世界」のみが本当の生命として生き続けます。
私の個我が内に感じている生命とは何か幻にも似た自己欺瞞的なものであり、むしろ普段は感じも知りも愛そうともしない外の「世界」にこそ、本当の生命があります。
私の個我が望んでいたものは、私の外の世界にあるのです。

[全体主義の押しつけの思想というより、個人主義を徹底したらそうなっちゃったという感じです。トルストイ個人の経験として、「個人の幸福を徹底的に追求したとしても、結局それは徒労と苦悩に終わり実現しない。だから発想をコペルニクス的に転換する必要がある」ということで、他者(世界)へと転回します。]

第二章、人間の生の矛盾を解決する新たな生命の定義

個我は滅ぼし合いながら、結局は時と共に自ら滅びゆく虚しいものであり、個人の幸福も生命も瞬く間に流れ去ります。
少しものを考えることのできる人なら、誰もが気付くことであり、それは紀元前の大昔から言われ続けていることです。
孔子、仏陀、キリスト、ユダヤや古代ギリシャの賢人まで、この人間の生の矛盾(不可能なものを求めざるを得ない人の“さが”)をよく理解し、それを解決するための真の生命、真の幸福の定義を明らかにしてきました。
それは達しえぬ幸福への志向を滅びえぬ幸福へと向け変え、生命というものに新たな意味を与えたのです。

第四章、転倒された生の概念

一般に「生命」とは、生誕から死までの期間、心肺機能(個体維持機能)などの停止によって肉体の腐敗(個体の分解)が始まるまでの期間を指しています。
この定義がどこからくるかというと、外的事物の科学的な観察においてです。
科学にとっての生命の定義は、私が先に述べた「幸福の志向」などという自己意識の中の主観的な概念で規定することはできず、物理(客観)的なものの観察によってのみ可能であると言います。

しかし、本来専門的な学問は、その基礎となる前提そのものは既存のものから公理として借り受け、その上に個々の学問体系を築き上げます。
物理学は「物とは何か」、生物学は「生命とは何か」という哲学的な問題に深入りすることはなく、ただ既存の概念を基礎としてその形態や関係性について語りうるだけです。
問題は一部の科学者がこの事実をわきまえず、越境し、借り受けた公理そのものまで自ら解明しうると全知全能なる者としてふるまうことです。

私は自らの内に生命を「幸福への志向」と捉えているからこそ、他の生命を認知し、観察することができます。
もし、これがなければ、私は風景の内から一匹の馬を生命を持つ生物として分節することが出きません。
「馬に乗る人」をひとつの生物ではなく二つの生物であると認知するのは、それらの内に二つの個別の幸福への志向を見出すからです。
人間は事物を自分の目に見えるようにしか見れませんし(カント参照)、自分の内に知っている様にしか定義(意味)付けられません。
自分というものを何も知らずに他の存在を語ろうとすることは、中心を持たない円を描こうとするような徒労に終わるだけです。

本来、人間の内にあるものによって規定されたはずの外部の存在者の観察によって、反対に内部を規定しようという転倒したものの見方をするのが偽の科学です(科学の皮をかぶった一部の疑似科学を指しています)。
自分の影をいつの間にか本物だと勘違いしてしまった洞窟の囚人のように。
彼らは、外部の観察によって得られた生命の定義「個体の保存、種の保存、生殖(再生産)、生存競争」などを人間の内部に投映し、人間の生命(幸福への志向)も、個我や種の生存競争の闘いのために存在していると仮想するのです。

[進化心理学などがこの典型例ですが、こういう学問が何かしら疑似科学的な目で見られるのは、それが絵(仮説)の絵(仮説)だからです。専門の学問領域がその専門内で研究している場合は非常に有益であり、その存在価値をトルストイも認めるわけですが、それが他分野にまで越境し、自分の学説(仮説)のパース(視点)にすべてを回収しはじめようとする時に問題が起こってきます。例えば、ニーチェが人間の本質を生物学的な視点から規定するのも、これと同様であり、時代の流行(模範、図式)に則したひとつの転倒したものの見方です。]

第五章、考えることを止め、惰性に生きる人々

多くの人はそういった誤った教えに疑問を抱かず、生命とは、幸福とは何かという問いを発することもなく、ただ流されるように生きています。
人生の目的とは、ただ個我を維持し、快や楽を人より少しでも余計に得ることにあると盲従し、他人との闘争は激しくなります。
動物的な人間こそが真の人間の姿であり、闘争のひしめき合いにある無意味な雑踏こそが人生であり、それ以外いかなるものも存在しないと決めてかかります。
学問も芸術も経済活動も戦争も、人間活動の大半は、自ら考えることを止めてしまった群衆のひしめき合いにすぎず、彼らはただ生命の入り口の外で、生きていると思いこみながら死んでゆくのです。

第六章、意識の分裂

個我の生存という動物的な作業のみを生命全体の仕事であるとする科学的欺瞞や、その反対に、現世の仕事は来世の生命の準備のための作業であると現在の生命を否定するような宗教的な欺瞞に、私たちは気付く時が来ています。

一方の私(個我)は幸福と生命を欲し理性的な意味を求めつつ、もう一方の私(理性)はそれが苦悩と死と無意味しか帰結しないと告げます。
「生きろ」と命じられつつ「不可能だ」と告知される分裂状態の中で、私は引き裂かれ、孤独と不安の中に落ちていきます。

この分裂と苦悩の原因は理性であるように思えてきます。
それぞれの生物固有の能力は、それぞれの種が健やかに生きるためにあるはずであったものが、人間においては苦しみの種になります。
自然界において身体的には無能力な人間を、理性(知恵)は強力な生存のための能力として機能しますが、まさにその能力が人間自体を毒し破滅に導きます。

第七章、「生存」と「生命」の誤認

しかし、この分裂は理性のせいではなく、先に述べた転倒された生命の概念「生命とは、個体の自己保存、生誕から死までの期間」が生じさせる疑似的な苦悩です。
動物的な生存を人間の生命のすべてだと観る偏見の箱の中に、生命に関するあらるものを詰め込もうとする不可能な徒労が、苦悩を引き起こすのです。

人は夢から覚めるまでは、それが虚構であったことに気付くことができません。
それと同様、理性的に覚めて既存の生命という概念に対し批判的にならなければ、この事実に気付くことができません。

忘れてはならないのは、人間は幼児の頃や原始人の時には、動物のように純粋に生きていて、「生命」などという概念は持っていなかったということです。
理性的な意識の発生において、はじめてそれは生じます。
意識によって自他を明確に区別することによって個我が生成し、私以外の個我(他者)にも幸福への志向があると判断することによって、「生命」が成立するのです。
個我というものは理性によって構成されたひとつの概念(というより幻想)であり、それは空間的な区別においてだけでなく、時間的な区別においても同様です。
記憶の中に意識の始まりを見出すことはできず、最初期の早期記憶も事後的な知識によって構成された想像の産物でしかありません。

極度に覚めた理性的な意識においては、個我というものは消失し、自-他や空間-時間の融合した、超越的な目で世界を見ることになります。
この覚めた意識が、「生存=生命」と断定する既存の生命観に「否」をつきつけ、転回(第一章参照)することになります。

第八章、矛盾からの解放

個人的な幸福と生命、いわば動物的な生存の欲求の充足のみを幸福、その営みのみが生命だ、という教えそのものが誤りであり、不自然で病的なものと考えられます。
人間の理性にとっては、むしろ個人の幸福と生命の否定が自然で本質的なものであり、私たちはそれに従い真の生命の道へと入ってゆかねばなりません。
先に挙げた分裂や矛盾の懊悩は、この理性の呼び声から生ずる新たな生への生まれ変わりの産みの苦しみであり、この苦悩を梃子にして、私たちは転回し、個我を脱するのです。

 

(2)へつづく