トルストイの『人生論』(3)

人生/一般 宗教/倫理

(2)のつづき

第十八章、幸福の条件

私(個我)の幸福を不可能にするのは、第一に「個我同士の闘争」、第二に「倦怠と苦痛に終わる個人的快楽の虚構(欺瞞)性」、第三に「個我の有限性、いわゆる老いと死」と最初に述べました。
こういう世界において、人間の幸福が可能なのは、ただ個我を捨て、あらゆる存在が自己よりも他者を愛し、他者の幸福のために生きるような状態においてのみです。
私は他者のために生き、同時に他者は私のために生きることによって、人は幸福を可能にします。

これにより、第一に他者との闘争は止み、第二に穴の開いた酒樽を満たそうとする徒労(プラトンの言う快楽のこと)は終わり、第三に生存の死への恐怖ではなく生命の永遠(無時間制)の充足の中で生きることになります。

第十九章、一人一人が皆のために、皆が一人一人のため

重要なことは、人間は直接自分の幸福を自分で手に入れようとすると、それは必然的に苦しみを招来するということです。
個我に固執すればするほど、他者は敵対的なものになり、自然(老いや死など)は恐怖と苦悩の対象となり、私は四面楚歌の状態で孤独な戦いを強いられることになります。
闘争によって得られる幸福は、何ものかの否定によって得られるネガティブな幸福であり、それは常に穏やかならぬ反動的な要素を隠し持っています。

幸福は自分でつかむのではなく、他者から与えられることによってのみ可能なのです。
奪うのではなく与えるという肯定的な行為によって、むしろ相互奉仕的に与え、与えられるのです。
一人一人が皆のために、皆が一人一人のために生きることによって、人間の幸福は可能になります。

「他人のために生きることが幸福などと、想像することもできない」と言う人がいます。
それは同情や共感の力を未だ持っていないからです。
個我の殻の中にいるからであって、理性的意識の立場に立ち、他の個我を想像する力や、個我(自他の意識)を相対化できる立場に立つと、可能になります。
むしろ必然的に転回せずにはいられなくなります。

個我の幸福から他者の幸福へと志向を向け変えることによって、苦悩と不条理と冷酷と孤独に変わり、喜びと意味と温かさと仲間に満ちた生命(理性的な幸福への志向)となるのです。
意味のない場当たり的な幸福から、意味のある明晰な幸福へと変化します。
これは、人間あるいは人類の前進を意味し、奪い合い殺し合うこの混沌と憎しみに満ちた世界を、理性的で調和した新しい世界へと作り変えることです。

第二十章、知識人の持つ歪んだ人間観

注目すべきことは、個我の欲求に固執し、その充足を強く主張するのは、知性を発達させたインテリや裕福な人々であって、知性を磨いていない素朴な労働者ではないという事実です。
インテリが粗野で動物に近いと考えている肉体労働者の方が、むしろ自然に助け合ったり、分け与えたり、弱い者に手を貸したりしている、いわば理性の法則に無意識に従っています。
労働者が無意識的に、動物的個我の法則と理性的意識の法則の混交の中で生きているのに対し、インテリは誤り歪んだ知性を発達させてしまったため、動物的個我の法則(競争と排他性)に固執し、原理主義者のように理性的意識の法則(調和と同一性)を徹底的に排除してしまうのです。

そもそも人間の生存上の欲求の種類は無数にあり、程度においても異なっています。
運動、芸術、学問、宗教、年齢、性別、人種、社会環境、身体の健康等、様々なコンプレックス(複合関係)において、その人の個的生存の欲求において主となるものは違います。
インテリが述べる弱肉強食の動物的個我のイメージは、ある特殊な一面のみを取り上げ一般(普遍)化させたいびつな人間観です。
[人間はチンパンジーから進化したのであって、オオカミではない、とは心理学者のマズローの言葉です。]

人間には、他者を攻撃する欲求もあれば、他者を助ける欲求もあり、決して後者は前者の変形(ルサンチマンや心理学的防衛機制)としてあるのではありません。
個我の生存を強く望む者も居れば、欲求をほとんど持たず息をするのも面倒くさいと言う者もおり、決して後者は前者の失敗や否定や諦めとしてあるのではありません。

このインテリの偏った人間観(世界観、価値観)によって作られる歪んだ社会が、自然本性的な全体(数ではなく質のこと)としての人間を苦しめることになるのです。

第二十一章、個我が悪いのではなく、理性の誤用が問題

個我の欲求は決して悪いという訳ではなく、否定されるべきものでもありません。
それが自然な在り方であれば、人が息を吸うように必要不可欠な生存の条件です。

問題は誤った理性の使用によって、個人の動物的欲求を歪なほど強化し、煽り立て、病的にし、最終的に不幸を帰結するようなものとすることです。
正しい理性の使用による生命に従い生きていれば、空の鳥や野の花のように、生存は自然と保証されているはずなのです。

人間の不幸は、個我によるものではなく、動物的生存(手段)を理性的生命や幸福(目的)と混同してしまうことから生ずる矛盾や分裂が生じさせる苦悩によるものです。

第二十二章、究極的な理性的活動「愛」

個我の欲求がすべてを覆い尽くすほど拡大されているので、理性に従うことはすべてを失い、自己を全否定するようなものと見えてしまいます。
しかし、人はちいさな子供の頃から、個我(生存)の幸福以外のもう一つ別の幸福(生命の)が存在していることに気付いています。
それは個我の幸福のように刹那的で欺瞞的で不確実なものではなく、確実で明晰で探し求めずともいつも自分のそばにあるものです。
人はそれを「愛」と呼びます。

それは情動に引きずり回されるような動物的個我としてのそれではなく、愛とは人間にとって究極的な理性的活動です。
多くの場合人は、性欲や所有欲などの個我の欲求を、愛と誤認(自己欺瞞)しています。
理性は個我の幸福などあり得ないこと、それは結局不幸へとつながる幻惑でしかないことを教えてくれます。
そして人間の本当の幸福は、個我の幸福のように、他者との戦いの内にも、幸福の飽満の内にも、現れては消える泡のような幸福の内にも、不安や恐怖の内にもないことを示します。

冒頭に挙げた人間の生の矛盾を解決するものが、この愛という理性的活動なのです。
動物的個我は幸福を志向しつつ、一歩ごとに不幸に向かって突き進みます。
この矛盾と苦しみを解除することが、この愛というものの内にある主要なひとつの仕事なのです。

第二十三章、一般的に愛と言われるもの

世間一般で愛と言われるものは、たまに起こる感情、ある特定の者のために行われる行為、であり、それは偶然的で刹那的な気分(気まぐれ)や恣意的感情だと思われています。
飢えた自分の子供のために他人のパンを盗む母親、愛する異性のためにむしろ自分と相手共々破滅に導く人々、愛する祖国のために互いに殺し合い死者の山を築き上げる者たち。

理性的な生命を理解せず動物的生存に生きる人々が「愛」と呼ぶものは、個我の幸福のためのある特定の条件を選り好みして尊んでいるだけにすぎません。
生命を理解せずに生存を生命と勘違いしているように、愛を理解せずに個我の欲望を愛と勘違いしているのです。
愛に偽装された個人の欲望は歯止めが効かず、人間社会における悪の大半は、この愛と称され賛美された個我の激情なのです。
世界を震撼させる巨悪は多くの場合「愛」の名において行われます。

第二十四章、人間(普遍)において誰か(特殊)を愛する

真の愛とは、理性によって個我の幸福の不可能性、ひいてはその存在そのものの虚構性を知ることからはじまります。
それは自己の動物的個我を否定し、普遍において他の存在を愛することです。
この個我の否定(いわば普遍)を通らない、誰か特定の人に対する愛は、いかに無私な行為に見えても、それは迂回した個我の欲求の充足でしかありません。
普遍において特殊(特定の人)を愛することにのみが、動物的個我と理性的意識の矛盾を解決し、生命の幸福を達成することができるのです。
[普遍において特殊とは、要するに人間において誰かを愛するということです。博愛や人権の概念に近く、例えば医者はその倫理観として命に優劣を付けず病気の極悪人をも治療しますが、それはその悪人を人間において治療するからです。]

まさに「汝の隣人を愛する」ことであり、選り好みするのではなく、いま自分に可能な、自分の目の前にある愛に自分の生存を捧げるということです。

第二十七章、死は存在しない

「死」というものは時間と空間の概念が生じさせるひとつの幻想(例えば幅のない線のような抽象観念)に過ぎず、存在ではありません。

例えば、動物の場合、時間と空間の概念を持たないため、死の恐怖などというものがありません。
動物が炎やライオンを恐れて逃げるように見えるのは、人間の感情的なイメージを動物に投射しているだけです。
動物は死を時間的に想像しそれをひき起こす対象(危険)から逃げているのではなく、ただ本能に従い反射的に避けているだけです。

明晰な理性においても、時間と空間は人間が現象をとらえるための概念形式(文法のようなもの)に過ぎないことを理解しているため、動物とは反対の意味で死を恐れることはありません。
時間や空間がそもそもひとつの幻であり、そこから生じる死の観念もひとつの幻想に過ぎないということです。
明晰に見て「死」とは、ただ、有機的な物質が分解していく変化の様(現象)があるだけです。
それに対し勝手に感情的な色付けをして、勝手に妄想したその幻影に恐れることが、死への恐怖です。

問題は空間時間という、動物的個我の領域にのみ機能する概念枠組みでもって、その他その外(上位のクラス)にあるもの(理性)にまで越境し、そのパースペクティブで全てを理解しようとする際に生じる矛盾や歪みが、「死の恐怖」というものを引き起こすのです。
死の恐怖とは、その歪みが本当の生命のあり方を開示する際の、不安や怖れのことです(いわゆるハイデガーの良心の呼び声としての不安)。
それは、私の両親が本当の親ではなく、真の親が別に居ることを知り、住み慣れた世界を離れ新しい世界へ飛び込む時の恐怖や抵抗に似ています。

死に対する恐怖は、偽りの生命が崩壊する際の戦慄であり、死という観念が、生命(生存の意)の終わりだから恐いのではなく、別の生命の可能性を開いてしまうからこそ、これほど人は死の観念を忌み嫌い避けようとするのです。
この歪みの割れ目から見える新しい可能性を人は時に「虚無」と呼ぶのです。
転倒したパースペクティブから見る者にとっては、当然、最も充実した世界(有)は、最も空っぽの世界(無)に見えてしまうのです。
生命(はじまり)と死(おわり)を取り違えてしまうのです。

[例えば、私たちは幼児の頃、「死」を恐れていたでしょうか。人間が死(および個我)を理解するのは、発達心理学的に言ってもある程度抽象的な概念を扱えるようになってからです。それまでは「死」などというものは存在せず、ただ今を一生懸命に生きていただけです。抽象概念を実体化してしまうある種の倒錯が死への恐怖を生じさせるのであり、実のところその恐怖とは、知らず知らずのうちに実体化してしまっていた幻想が、ただの幻想でしかないことを知ってしまう際の世界の崩壊(虚無)との邂逅のことなのです。よく言われる自分が居なくなってしまうことが想像できない、という恐怖は、自分(個我)という者、存在(生存)というものが、ただの幻想でしかないことの逆照射的な自覚であり、未来に自分が居なくなってしまうのが怖いのではなく、いまこの自分(個我)という幻想が崩壊してしまうことが怖いのです。勿論、この幻想を生みだす原因は先に挙げた科学者のひっくり返った遠近法です。]

 

(4)へつづく