トルストイの『人生論』(4)

人生/一般 宗教/倫理

(3)のつづき

第二十八章~三十三章、生命とは何か

【解説】
長いので適当にまとめます。

ここにきてようやく今まで具体的に語られなかった「生命」というものが定義付けられます。
まず、生き死にに関わる自己というものが何なのかの考察から入ります。

古代から問われ続けてきた自己同一性の問題があります。
例えば、母の形見の大切なハンカチを肌身離さずに持ち、穴が開いても継ぎを当てずっと使い続けたとします。
当然、継ぎを当て続ければ元にあったハンカチの生地は徐々に少なくなっていき、最終的にはゼロになり、 すべて他の生地によって置き換えられます。
そうなった時、それは母のハンカチと言えるかどうかという問題、いわば「母のハンカチ」の自己同一性はどこにあるかという問題が生じます。

これは代謝によって古い細胞が死に、新しい細胞にとって代られていく生物の身体とのアナロジーとして考えることもできます(勿論人間の短い一生のうちでは、最後まで残る細胞もあります)。
また、心の問題にしても、私が幼年時代に持っていた心の中のものと、大人になって持っているものでも同じように入れ替わり、当時とはまったく別の考えで占められていることが分かります。
私の意識(心)も私の肉体も変化し続けるものであり、その変化の中でそれを一連の一貫した「同一のもの」と保証するためには、何か別の基準が必要になります。

ここでトルストイは人間の自己(自我)を保証するもの、つなぎまとめうるものは、身体にも心にもあるのではなく、その人が世界と取り結ぶ関係性の中そのものにあると言います。
幸福への志向によって何に向かい何を避け、どうその人が世界と関り、その関係の網を形成しているかというその網目こそが、その人の自己であり、生命であると言うのです。
外面的特徴ではなく、ある個体が世界とどういう関係を取っているかの独自性が、そのものの同一性を規定しているのであり、ライオンはライオン固有のものを志向するがゆえにライオンであり、蜘蛛は蜘蛛固有のものを志向するがゆえに蜘蛛なのです。
自分自身に関しても同様に、自分が世界に対し持っている独自の関係性(志向性)から、私自身を理解しています。
意識や肉体は時間的に滅んでも、その関係性は永遠に続きます。

だから、死んだトルストイの兄は、身体(生存)としては消失したとしても、生命として生き続けていると言います。
亡き兄の姿はいまも自分に影響を与え続け、むしろ今のほうが兄は私に強く関係付けられており、だから兄はいまも生き続けているというわけです。
例えば、キリストは身体として死んだ後も、二千年もの間、世界と強く関係の網を持ち、今なお生命として生き続けているのです。
段々と切り離されていく宇宙ロケットのエンジンのように、過去に消失した人間(身体)も、いま現在のロケットの軌道の中にその関係性の独自性を影響として与え続けており、決して消えることはないのです。
空間時間における肉体(生存)の死は生命の終わりではなく、地を這うイモムシが蝶になり飛び立つメタモルフォーゼ(変身)のように、それは新しい世界との関係性に入る成長なのです。

偉人たちが動物的個我を理性に従属させ、愛のうちに生き、永遠の生命というものを信じていたのは、肉体的生存という狭隘な世界から、真の生命の領域に踏み込んでいたからです。
個我というものの虚構性と、その外にある広大な生命の世界を知った時、生命とはその実この世界全体の流れのことであり、私というものはその関係性の網目のひとつの結節点(結び目)であるということに気付きます。
切っても切れない部分と全体のように、私と世界は互いに愛(関係)によって結ばれつつ、生命は流れていくのです。

いわゆる科学的な知識を前提としてものを見る現代の私たちからすれば、笑い話のように感じるかもしれません。
しかし、トルストイからすれば、そういうものは近代的自我(いわゆる主体)と客体的物体という思考の枠組み(パラダイム)で世界を見るある特定の文化圏にだけに通用する相対的なひとつの死生観(ひっくり返った遠近法)でしかないわけです。

例えば、私的な自我(主体)よりむしろ公的な自我(社会役割)そのものが生命でありその人の自己同一性を保証するような文化にある人にとっては、共同体のために自分の身体を捧げることこそが生きるということなのです。
そういう人々にとっては自分の欲求を共同体の欲求より優先させることは、身体から剥離され垢となってしまう死んだ細胞のように、それこそが死の恐怖となるわけです。
共同体における生を信じながら献身し、全体のうちの個として幸せに死んでいく人を、私たちは私たちの色眼鏡(主体の論理)によって馬鹿にする訳ですが、その人が本気でそれを信じてしまってる以上、それは確実な存在でしかないのです。

理性を徹底すると、結局のところ個物や実体の虚構性(相対性)というものが嫌でも見えてきてしまい、真理や存在とはただその人の信念でしかないことが分かります。
あの世なんて信じない人も、生まれ変わりを本気で信じる人も、その実、大差はないのです。
根本的に生命の定義が異なってしまっており、お互い全く別の通約不可能な世界観に生きているだけです。
死生観というものは、決して一つではなく、死を恐れることも恐れぬことも、その人がどういう信念体系を採用しているかの問題でしかありません。

また、このトルストイの言う個人を超えた生命を生きるということは、普通言われる全体主義とは異なります。
先にも述べたように(第二十三章)、国家や民族や家族などのある特定の共同体の利益を、個人の生命より重視するのは、愛に偽装された個我の欲求(エゴイズム)でしかありません。
トスルトイが言うのは普遍的な世界に対する愛であり、それは世界市民(コスモポリタン)の一員として、自分の役割において、貢献するということです。

トルストイの採用する生命観というものが、極めて文学的であり、まるで無数の個人という糸が巨大な叙事詩を紡ぎ出す小説『戦争と平和』のようです。
神話を信じ神話の中で個人を生きたプリミティブな人々の生き方を、理性を徹底することを通して復興しようとしているようにも思えます。

第三十四章、精神的苦しみ(苦悩)からの解放

生きるということは、不条理な苦しみの連続です。
可愛いわが子を目の前で事故で失ったり、何の罪もない多くの人々が地震で死んでしまったり、ある日突然私は不治の病に倒れたりします。
何のために私たちは日々、そんな苦しみに晒されなければならないのでしょうか。

しかし、こんな残酷で不条理な苦しみに充ちた世界であっても、多くの人は決してそこから離脱しようとせず(要は自殺のこと)、泣きごとをこぼしながらも懸命に生きています。
それは、人間が心の奥底で、苦しみというものが人生において必要不可欠なものであると、うすうす感じているからです。

その感じを、深く考え顧みれば、苦しみと快楽が切っても切れない同じひとつのものの両面であり、互いが互いの存在条件であるということに気付くことができます。
「なぜ苦しみがあるのか」と問うのなら、「なぜ快楽があるのか」と同時に問わねば正確ではありませんが、誰もそれを考えようとしません。
苦しみとは動物、あるいは動物としての人間を動かす原動力であり、それは快の希求とその状態へ向かう活動を生じさせます。
絶え間ない苦しみが、動物の全活動を支える基盤であり、人間の生命は苦しみによって損なわれることはなく、むしろ活かされるのです。

飢餓の苦しみによってオオカミはヒツジを求め駆け出し、ヒツジは殺される苦しみから逃れるためにさらに駆け出し、そうして苦しみは動物の生の活動を駆動していくのです。
人間であれば、病気の苦しみが学問(医学)への扉を開き、戦争の苦しみが平和への活動を生じさせます。

動物はそういう必然を当然のこととし、何の懸念ももたずただその苦しみの中を生きています。
しかし、人間はさんざん敵兵を攻撃しておいて、いざ自分が反撃によって脚を失えば悲劇だと叫び、さんざん動物を狩り屠殺し食べ尽くしてきたくせに、いざ山で熊に遭遇し食い殺される番になると泣き喚きます。
そういう苦悩は、人間が誤った理性によって、自分の個我の生存(部分)のみを見てそれに固執し、関係性という生命(全体)を見ないことから生ずるのです。
正しい理性によって必然(関係性)を認識し、それを当然とみなすことが必要なのです。
それは言葉を変えれば、罪(業)の自覚(反省)であり、真実の認識であるということです。

動物にとって「苦しみ(肉体的)」とは、動物の生存の掟(調和)への侵犯であり、それにより苦痛の感覚が生じます。
当然、動物はその生存の調和を壊す苦痛を除去するために活動を開始します。
飢餓の苦しみ→生存の調和の崩壊(死)の危機→飢えの苦しみの除去のため食べ物を探す、というように。

人間の場合、理性的な意識にとっての「苦しみ(精神的)」とは、人間の生命の掟(調和)への侵犯であり、それにより苦悩というものが意識されます。
この苦悩を除去するためには、正しい理性によって必然(関係性)を認識し、生命の掟(調和)を回復する必要があります。
重要なことは、苦痛と苦悩は別の位相にあり、苦悩の除去のためには理性的意識の活動が必要なのであり、動物的(空間時間的)活動によっては根本的には解決しないということです。

例えば、私が死に至る大病にかかった時に生ずる苦悩は、身体、物理的に治療に成功することによって解決するのではなく(それはただ問題自体をなくすだけのことです)、その病と私と世界の関係性(必然)を知ることによってしか解決しないのです。
医者自身が死に至る病気になったことを自ら知っても、一般人より淡々とある程度平然として受け容れられるのは、彼らが病気にかかるというプロセスをよく知っており、毎日病人を診て、死を見て、人間にとって病や老いや死が必然のものであることを、普通の人々より多く理解しているからです。

当然、視野が狭くなり、事物の関係性が理性によって観られなくなればなるほど、苦悩は大きくなります。
自分の個我しか見えない者にとっての苦悩は、手に負えなくなるほど肥大化していきます。
世界は何のためにあるのかも分からぬ苦しみに満ち、それは生きながらの拷問のようになるのです。

苦しみに対し、人間に可能なことは二つしかありません。
個我に固執し世界を理由なき拷問としてにない続けるか、あるいは理性によって自分あるいは他者の苦しみの原因(関係性、業、罪)を認識し、それを償いとして受容し、救い(苦しみからの解放)とするか。
後者の場合、苦しみは真の生命への扉を開き、幸福へ向かう活動力となるのです。

要は、動物的個我に固執し、必然を理性によって認識しないことが罪を生じさせ、その罪から生ずる罰が苦しみだということです。
その罰である苦しみを償いとして受容(それは同時に罪の悔悟として必然を認識することを含みます)することで、人は苦しみから解放され、幸福な生を実現します。
罪とは必然(業)を理性によって認識できていないことの別名です。

例えば、私が貧困によっていま苦しむ場合、若いころ勉強もせず職業訓練もせず遊び惚けていたという必然(業)を自身が認識していないことが「罪」であり、それが貧困という「罰(苦しみ)」を生じさせています。
その必然を理性的に認識することが「悔悟」であり、その悔悟によって、貧困という罰を「償い」として受容することにより、苦しみは洗い流され(罪は許され)、安心の境地へと至ることができるということです。

人は苦しみを通して罪を自覚し、そこから自己を開放することによって、幸福を達成していきます。
人が苦しみの牢獄に閉じ込められるのは、世界の生命から自分のみを切り離し、苦しみを生じさせている自分自身の罪に気付かずにおり、罪なき者として自己を偽っている時です。

言葉を変えればそれは「愛」の欠如だということです。
事物の関係性を認識するということ、個我を脱し他者とつながるということ、必然を理解するということは、世界を結びつける愛の鎖に自分を結びつけることであり、反対にその鎖を断ち切るということは、愛を失い個我の苦しみの世界に堕ちていくということなのです。
愛(つながり)を知れば知るほど、人は苦しみから解放され、いずれ幸福とみなしうる状態へといたるのです。

第三十五章、肉体的苦しみ(苦痛)からの解放

動物にとって肉体的苦しみは、身体(生存)を保護するために必須の機能です。
人は呼吸が苦しいから水中での活動の限界点を知り、一定以上関節を曲げると痛いから身体の可動域を知り、耐えられない熱さや寒さを感じるからこそ、身体の最適温が保たれます。
もし、痛覚のない赤子がいれば、面白半分に自分の身体を傷付け、自分で自分を殺してしまうことになってしまいます。
苦しみは、動物の肉体的生存の調和を外れた時に生ずるシグナルと、身体を健やかな状態へ戻すための動因(苦痛の除去=調和を取り戻すこと)という、ふたつの機能を持っています。
また、苦痛というものがあまりにも強くなると、さらなる保護機能として、人は失神します。
肉体的苦痛というものにも限界があるということです。

肉体的苦しみは必要なものであり、かつある程度限界があります。
動物の場合、ただ今この瞬間に必要な分だけの苦痛をあるがままに当然のものとして耐えているだけです。
個我の保護機能としての苦痛、あるがままのこの刹那に耐えるだけの苦痛に関しては、動物としての人間は恐れることなく耐えられるようにできているのです。

しかし、理性を持った人間の場合、この苦痛というものを、誤った理性の用い方によって無限に大きくしたり、正しい用い方によって無限に小さくすることが出来ます。
人間は、この苦痛がいつまで続くのかという不安や、この苦痛を生じさせた過去の出来事への恨みや、同じ苦痛を持つ他者ののたうちまわる姿など、様々な要素を思考や想像力によって苦しみに付加し、自ら耐えきれないものにします。
反対に、苦痛を自らの理性的意志によって受容することにより、痛みをやわらげる人もいます。
例えば、赤子を抱く喜びが産みの苦しみを耐えやすいものにし、大切な人のために身代わりとしてムチを打たれる人は痛みを愛の喜びへと還元します。

以上のような苦しみ(精神的、および肉体的)を減少させることが、「生命」の主な仕事です。
苦労して畑を耕す農夫のように、苦労を通して実りを得ることが仕事なのであり、苦しむ者に対する愛の奉仕と、苦しみの原因である迷妄の根絶こそが、その活動内容です。
ひいてはそれが、人間の生命における奪われることなき幸福を与えてくれるのです。

最終章、むすび

最後はトルストイ自身の文章で締めます。

人間の生命は幸福への志向であり、その志向するものは人間に与えられているのである。
死や苦しみという形であらわれる悪が人間に見えるのは、人間が自分の肉体的な動物的生存を自己の生命の法則と思いこむ場合だけである。人間が、人間でありながら、 動物のレベルまで身をおとす時だけ、死と苦しみが見えるのである。死と苦しみは案山子のように四方八方から人間をおびえさせ、前にひらかれているただ一つの、理性の法則に従い、愛の中に表現される人間の生命の道にかりたてる。死と苦しみは、人間による生命の法則の侵犯にほかならない。自己の法則に従って生きる人間にとっては、死も存在せず、苦しみも存在しないのである。
~人間の生命は幸福への志向である。人間の志向するものは与えられている。死となりえない生命と、悪となりえない幸福がそれである。
(トルストイ著、原卓也訳『人生論』新潮文庫より)

 

おわり