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トルストイの『人生論』(2)

人生/一般 宗教/倫理

(1)のつづき

第十章、理性は人間にとっての自然の摂理

魚がその本性に従い泳ぎ、鳥がその本性に従い飛ぶように、人間はその本性である理性の法則に従い生きることが自然なのです。
勿論、人間の本質は「理性」によって規定されると同時に、私たちは動物です。
だから、理性の法則に動物的法則を従属させるのは、人間を全うするということ、完成するということです。
なかば無意識的な動物的法則に従ううちは動物として「生存」しているだけであり、人間として「生命」を得るには意識的な理性の努力によって個我を脱し、他者とつながる必要があるのです。
理性は人間(生命)を結びつける唯一の基盤です。

第十一章、誤った知識

動物的な個我が従うべき理性の法則を研究した上で、その他の諸々の研究を進めることが、幸福の達成のために必要不可欠です。
しかし、私たちはもっぱら動物的個我の生存と幸福のための研究に終始し、理性的でない知性(例えばアリストテレスの言うテクネー“技術知”)しか働かせていません。

例えば、どうすればこのリンゴの木により多くの実がなるかと樹木の構造を研究する前に、このリンゴの実をいかに利用すべきか、私が全部食べてしまうのか、村人と分け合うのか、売って金にするのか、貧しい人に贈るのか、と考えることが理性的であるということです。
知や研究が本当の意味で合理的で、人間にとって幸福を約束する有益なものになるために決して欠かすことができないのが、理性の法則を第一に探究するということです。

第十二章、ひっくり返った遠近法

過去の賢人の言うように、真の知とは自分の知っていることを知っているとし、知らないことは知らないとすることです。
反対に無知とは、知らないことを知っていると思い込み、知っていることを知らないとすることにあります。
知が誤る原因は、対象を捉える際の遠近法的な倒錯です。
この倒錯は、私にとって最も近く分明であるはずの理性や意識を不分明なものとし、私にとって遠い外部の物体を分明なものと勘違いし、遠いものを視点とした逆遠近法的な歪んだ世界観を構築してしまうのです。

本来は先ず、時間や空間というパースペクティブ(物体)を超越した幸福への志向である理性と意識が中心としてあり、その後その内感と外的な物体的自己の観察を結びつけ、「人間」という観念を構成的に獲得し、今度はその観念によって他者というものを構成し、そこからさらに動物、植物、物体へと想像を広げていきます。
しかし、科学者はこれと逆のことを言います。
構成(想像)の構成の構成であるはずの物体を最も分明なものとし、最も明瞭なはずの意識を不分明なものとするのです。

第十三章、取り違えられた明らかさ

[議論が込み入っているので、ざっくりと解説します。例えば、学者が「人間」を規定する時、よく「意識を持った猿」だとが「理性を持った猿」などという観方(視点)をとりますが、これをトルストイは転倒した遠近法だと批判します。人間にとって最も分明なのは内にある人間の観念であり、外にある動物や物はそこからの構成物でしかありません。例えば「猿(動物)」とは「意識あるいは理性を持たない人間」であり、「物」とは「脳や心臓を持たない動物(あるいは意識、理性、脳、心臓を持たない人間の観念)」です。人間にとっては人間の内にある観念が全部であり、外部の対象はその欠如体として、その特殊(個別)性が規定されています。例えば私が「文系」の人間であるのは、人間という全的な可能性から体育系という可能性を欠如、消失させることによって生じた特殊性(限定)であるように、人間の外部の存在は人間の限定(欠如)の限定の限定として規定されるものでしかなく、パースの視点になるのはあくまでも私の意識です。しかし、科学のヒエラルキーでは物体が基本とされ、その特殊としての動物、さらにその特殊としての人間と、さかさまに捉えられてしまっているのです。]

正確な遠近法で世界の位相を基礎となる順で描くなら、1.理性的な存在者→2.理性的なものに従属する動物(植物)→3.動物的なものに従属する物質、となります。
科学者の言うように、物質の法則が有機体の法則を規定し、有機体の法則が人間の理性(意識)の法則を規定するのではなく、物質の法則は人間の内にあるもの(理性の法則)の反映のまた反映のようなものでしかありません。

物質の法則が人間にとって明快に見えるのは、それが明らか(正確、真実)なものであるからではなく、人間によって構成された単純で分かりやすいものだからです。
遠くのものは複雑さが捨象されて単純化した形態に見えるように、科学(物質)の法則の明快さとは、対象の明らか(正確、真実、複雑)さを犠牲した上に成り立っています。
簡単で分かりやすい「明快さ」と、正確で真実である「明らか」さ(覆いの無さ)を、混同してしまっているのです。
「単純明快」の「明」と、「真実の解明」の「明」は、本質的に意味が異なっていますが、それを取り違え、遠くで正確に見えていないものを単純な形態だから「明快」だと言って、それを「明らかな(正確な)」ものだと思い込んでいるのです。

理性的な意識に従属するものとして有機体(動物的個我)があり、有機体に従属するものとして物質があります。
人間の真の「生命」においては、有機体や物質の法則は、仕事の道具や材料は提供してくれても、仕事そのものは提供してくれません。
うまく仕事をこなすための技術として、その研究は非常に重要ですが、それはそれらが理性の法則に従う時のみです。

第十四章、人間の真の生命は、時間と空間とは別の位相にある

人間にとって「生命」とは、動物的な個我を理性に従わせることにおいてある幸福への志向としてのみ、認識します。
人が昏睡状態や狂乱状態にあり、理性を失っている時、「生存」はしていても、人間としての本質的な「生命」は喪失しているように思えます。
私が生きていることを実感するのは、理性的に何かを志向している時であり、例えば、怒りに駆られて理性を喪失し誰かにとびかかる時などは、生を喪失し自分がまるで自動機械になったように感じます。

動物的個我や「生存」というものは、時間的、空間的条件に制約されますが、理性的な意識が有する「生命」は無時間的無空間的でありその影響を受けません。
人は時間と空間から超越した理性に上昇し、自らの動物的個我の有限性を眺める時、そのはかなさに恐れを抱き、それを見まいとまた動物的個我へと戻ろうと下降しはじめます。
しかし、無時間的無空間的な「生命」においては、その命の大きさは時間と空間によって測られるのではなく、その上昇の度合い(理性に従い動物的個我を従属させる度合い)いわば質によって測られるのです。

[例えば、何を志向することもなくただダラダラ生きるだけの長寿と、幸福を志向し毎日を精いっぱい生きて早く死ぬ人生、一体どちらが人間としての生命を多く持ったと言えるでしょうか。動物的生存をそのまま人間の生命ととらえる人は前者を選ぶでしょうし、理性的な志向を生命ととらえるトルストイは後者と言うでしょう。作家の三島由紀夫は、生きることを強制される現代社会においては、人間が死ぬ機会を失ったことにより、むしろ人間としての生の可能性をも失ってしまったことを嘆きます。動物的生存をイコール人間の生命と捉える世界観にある限り、量的な寿命が人間の生の価値となってしまうのは必然です。]

第十五章、幸福以上の幸福を目指す旅

以上のように、人間の生命とは、人間的な幸福への志向のことです。
しかし、物事をあまり考えずに生きる一般人や、反対に誤って考えすぎた科学者は、動物的個我の生存において幸福を理解してしまっています。

先にも述べたように(第十三章参照)、理性的な意識が動物的な個我を内包しているのであり、動物的な個我は理性的な意識を含むことができません。
人間は理性を持った動物(類が動物、種が人間)ではなく、動物が理性を持たない人間(類が人間、種が動物)なのであり、いわば動物は人間の欠如概念としてのみ存在しうるのです。

動物はただ無意識に、己の個我のためにのみ生き自己充足する存在であり、己の個我など知る由もありません。
しかし、動物的個我の一段階上のクラス(類)からそれを眺めることのできる理性的意識は、己のの個我を知ることができます(いわゆる反省の機能)。
そして、それは同時に他の動物も個我を持つという意識、知識を生じさせ、個我と個我との関係性(間主観性)、いわば社会性を獲得することになります。

もし、人が己の個我の幸福のみを志向するとしたら、その人の内に他の個我(他者)の意識や社会感覚は生じることがありません。
人間が理性的な意識によって、他の個我を意識する時、はじめて倫理的な意識が生じるのです。
それを知った以上、私の生命は、もう己の個我のみに従って生きることの内に留まっていることは、できなくなるのです。
理性的な意識は、動物的個我の欲求に基づく幸福をはみ出す幸福が存在することを私たちに教示します。

動物にとって個我の幸福を否定することは、即、生命(生存の意)の否定ですが、人間においては反対に個我の幸福のみの追求こそが生命の否定なのです。
個我の幸福「生存」は人間の含有するひとつの下層段階でしかなく、その境界線の終わるところから外に人間の幸福「生命」のはじまりの層が存在するのです。
動物的個我の欲求は自動的に遂行されるのに対し、理性的意識の欲求は自らの意志によって遂行せねばなりません。
自動的に保護される古郷から、新たな世界に旅立つ時のような、不安や労苦がそこにはあります。
しかし、その故郷が私の本当の故郷でないと知ってしまった以上、私は旅立つより他ないのです。

第十六章、生存は生命のための手段である

動物にとっては動物的個我およびその法則が目的であり、その内(下位)に含む物質とその法則はその達成のための手段となります。
それと同様、人間にとっては理性的意識およびその法則が目的であり、その内(下位)に含む動物的個我および法則はその達成のための手段となります。
人は本来手段であるはずの動物的個我を目的ととらえることを止める時、はじめて人間としての生命をえることができます。
パン(生存)のためのみに生きるのは動物であり、人間はパンのみによって生きるのではありません。
時間と空間の内にある動物的個我の生存は、滅びつつあり、いずれ滅ぶことが必然ですが、理性的意識の生命は、時間と空間の範疇になく、滅ぶことのない永遠のいのちです。

[時間と空間という観念は、事後的に構成されたものでしかなく、時間という枠組みを知る前の人間には死は存在せず、ただ一生懸命に今を生きているだけです。死への恐怖というものはある特定の時間の枠組みが生じさせる相対的なものでしかありません。真木『時間の比較社会学』参照]

第十七章、再生

キリストが私たちに対し、新しく生まれ変わり、新たな生命の中で生きなければならない、という時、これは動物的「生存」から人間的「生命」への転回を指しています。
勿論、個我の生存=人間の生命、ととらえている人達は、そもそもこの言説の意味していることを理解できず、意味のない言葉、詩的で非論理的な言葉と考えてしまいます。

 

(3)へつづく